十月初旬のある日、日本人がノーベル生理学・医学賞を受賞したというグッドニュースが列島を駆け巡った。しかしマスコミ各社とも大げさに扱ってはいるが情報は少なく、「謎の学者」ということでごまかしていた。何より本人が行方不明でどのプレスも、本人の居住地であるアメリカのプレスすらも受賞者本人のコメントを取ることができなかった。それはそうだ。受賞するご本人、裕ちゃんの元カレ黒田潔博士は碑文谷の僕のところに来ていたのだ。
僕と五年ぶりの再会を果たした博士は、僕が貸していた留学資金を三十三倍にして返済し、裕ちゃんが預けていた「天使の翼」の楽譜も返してくれたが、「妹さんと会ってください」という僕の願いは聞き入れず、さっさとアメリカに戻ろうとした。しかし、チャコの機転で無事、博士と妹の聡美さんを再会させることができた。
博士は聡美さんの所属するテレビ局と系列の新聞社の単独インタビューに応じ、今日の夕方、そのテレビ局で記者会見が開かれる予定になっている。そしてマコちゃんと僕がその記者会見に同席することになっているのだ。
僕がいつものように早く起きて新聞を読んでいるとチャコが僕に起こされることなく起きてきたのでビックリした。昨日、帰りの遅かったマコちゃんはまだ寝ている。
「おはよう。今日は早いね。まだ寝てていいのに。」
「おはようございます。昨日はお疲れさまでした。」
チャコが眠そうにダイニングテーブルの僕の横に座った。
「僕の方こそ昨日はありがとう。」
「単独インタビュー載ってる?」
「うん。載ってるよ。」
僕はそう言って聡美さんが勤めているテレビ局の系列の新聞をチャコに見せた。大きな活字で「本紙、黒田博士に単独インタビュー」と書いてある。インタビューは兄妹で受けていて博士はもっぱら学術的な話しかしていない。私生活にわたることは聡美さんが回答し、それも幾重にもオブラートにつつんである。
「啓一さんのことも書いてあるでしょ?」
チャコが聞いた。
「うん。社会面に出てるよ。」
そういうとチャコは新聞をひっくり返し、一枚めくって社会面を出した。社会面には「ノーベル賞支えた友情」というタイトルで記事が載っていた。チャコはニコニコしながら記事を読んだ。他の新聞も博士の日本滞在と聡美さんやマコちゃんや僕とのかかわりを少し大きめに扱っている。
「ねえ、今日はあたしも記者会見、見に行っていいかな?」
「チャコも?」
「うん。啓一さんの雄姿見たいから。」
「雄姿って言っても僕は脇役だよ。」
「準主役だよ。マスコミも啓一さんのこと絶賛してるじゃん。だって日本では見向きもされなかった天才医師の才能を見出して、アメリカに送り込んでノーベル賞とらせたんだからそれだけでもすごいよ。ハルナちゃんのシンデレラストーリーみたい。」
「でもそれは裕ちゃんがやったことだよ。僕は裕ちゃんの言われたとおりに動いただけさ。」
そんなことを言いながら新聞を読んだが、チャコが言ったことと同じことをある新聞のコラムが載せていた。「千里眼を持つ男」というタイトルのそのコラムはメイド喫茶で働いていたハルナの発掘に続き、今度はノーベル賞受賞者を誕生させたと僕を絶賛していた。チャコもそのコラムを読んで「ほらね」と言った。
「僕は何もしてないんだけどなあ。」
「ねえ、啓一さん。博士、記者会見で裕ちゃんのこと話すと思う?」
「単独インタビューでは話していないようだね。」
「あたしは何も言わないと思うな。裕ちゃんのことはそっとしておくと思う。」
そのうちマコちゃんも起きてきて三人で朝ご飯を食べ、二人は学校に、僕は国会に出かけた。国会では普段声をかけてこないような人からも「おめでとう」と声をかけられ、握手を求められた。まるで僕が受賞したかのような雰囲気だった。
午後四時四十五分頃、僕は目指すテレビ局に入った。記者会見は午後五時から予定されている。僕がテレビ局の中に入るとちょうど、玄関の端の方に自由が丘女子高等学校のセーラー服を着た少女が立っていた。どこから見てもチャコだったが、僕は一目でそれがマコちゃんだと分かった。少女は僕の方に近付いてきた。
「お兄ちゃん。」
少女は周囲に聞こえないように小声でささやいた。
「マコちゃん。……そうか。記者会見はチャコが出るんだね?」
「うん。あたしも大体は聞いてるんだけど細かいとこが分かんないから。ねえ、腕組んでもいい?」
「いいけど、恥ずかしくない?」
「何言ってんの。今はあたしがチャコちゃんなんだから夫婦らしく見えないとかえっておかしいよ。みんなもう楽屋にいるから。お兄ちゃんのこと迎えに来たの。局内広いからね。迷子になるといけないから。」
マコちゃんはそう言って僕の腕に絡みついた。
「楽屋に入る前に野島さんのところに案内してもらってもいいかな?」
「野島先生?」
「うん。渡すものがあるんだ。」
「ああ、昨日言ってた『天使の翼』の楽譜だね。チャコちゃんに聞いたけど、裕子叔母さんとお兄ちゃんの最初の作品なんだってね。」
「うん。……マコちゃん、色々ありがとね。マコちゃんのお陰で博士と聡美さんを会わせることができたよ。」
「あたしは何もしてないけどなあ。でもあたしに何かお礼がしたいっていうなら遠慮なく受け取りますけど。」
「お礼か。いいよ。何か僕にできることあるのかな?」
「あたしお兄ちゃんとデートがしたいなあ。それもチャコちゃんには内緒で。」
「チャコには内緒で?」
「うん。最近、チャコちゃんガードが固いから。」
「まあ福岡で大変な思いしたからね。でもチャコに内緒っていってもマコちゃんがしゃべっちゃうんだろ?」
「ああそうか。」
そういう会話をしているうちに音楽情報番組「スタジオL」の制作ルームに到着した。野島慎一プロデューサーの姿が見える。十五人くらいいるスタッフは僕に気付くと次々と「先生、おはようございます」とドミノ倒しのようにあいさつし、僕の方が恐縮した。やがて野島氏がチャコ役のマコちゃんと僕に気付き、笑顔で右手を上げ僕たちの方に来た。
「やあ。相変わらずアツアツだね。局の中だっていうのに。」
チャコ役のマコちゃんと僕が腕を組んでいるのを見て野島氏が冷やかした。
「そりゃ二人は世界で一番ラブラブですからね。」
腕を組んだままチャコ役のマコちゃんがチャコのように言った。
「啓ちゃん。この度はおめでとう。ノーベル賞をもらう偉い先生が君の親友だったなんてビックリだよ。君と友達で僕も鼻が高いよ。」
いつの間にか僕は野島氏の友達になっている。
「楽譜持ってきましたよ。」
そう言って僕は上着の内ポケットから楽譜を出し、広げて野島氏に渡した。野島氏はそれを受け取りしげしげと見つめる。
「今回は随分汚いね。」
「ええ。今までは裕ちゃんの書いたやつを僕が綺麗に写符して渡していたんです。今回は裕ちゃんのオリジナル、それも十年以上前のものですから。」
野島氏はしばらく曲の感触を確かめてから近くにいたスタッフに「これコピー」と言ってその楽譜を渡した。
「いや、素晴らしい。こんなのよく隠してたね。まああの偉い先生が持ってたんだろうけど。で、ハルナが一人で歌うんだね。」
「よく分かりましたね。」
僕はビックリした。
「楽譜見れば分かるよ。僕もこの仕事もう何十年もやってるからね。楽譜を追いながら裕ちゃんが歌ってる姿が目に浮かんだよ。そして裕ちゃんが段々ハルナに変わっていった。」
「僕としてはチャコにも歌ってもらいたいんですけどね。」
僕はそう言ってチャコ役のマコちゃんを見た。
「ねえ、それってありなの?」
野島氏がそう言ってやはりチャコ役のマコちゃんを見た。チャコ役のマコちゃんは野島氏と僕を交互に見てから
「あたしは無理だよ。ハルナちゃんにはかなわないから。」
そう言った。スタッフが楽譜のコピーとオリジナルを持って戻ってきて、野島氏に渡した。野島氏は僕に楽譜のオリジナルを返し、僕はそれを上着の内ポケットにしまった。
「ありがとう。いいCDができそうだ。僕の音楽人生の中でも傑作の中に入るだろう。」
野島氏が満足そうな笑顔で言った。
「編曲はお任せします。じゃあこれから会見がありますので。」
「ああ、テレビで見てるよ。マコちゃんにもよろしくね。」
そう言われてチャコ役のマコちゃんと僕は腕を組んだまま製作ルームを後にし、楽屋に向かった。
「マコちゃんさすがだね。」
僕はマコちゃんに声をかけた。
「何?」
「さっき僕が『チャコにも歌ってもらいたい』って言ったときの反応。よくチャコの気持ちを代弁できたね。僕はマコちゃんが本当にチャコに見えたよ。」
「まあね。チャコちゃんの格好してると本当に自分はチャコちゃんなんじゃないかっていう気分になるの。だから自然に出るんだよ。ハルナちゃんが一人で歌うんだね。」
「うん。……でもこれは裕ちゃんと僕の忘れていた思い出だから本当はチャコにも歌ってもらいたいんだけどね。」
「なるほど、デュオでなくダブルで『ア・グッド・イヤー・フォー・ユー』の裏面を飾るってわけだ。贅沢だね。」
「でもチャコには全然その気がないけどね。」
「ねえ、お兄ちゃん。『スタジオL』で『卒業』歌ったときも『チャコ&チームスタジオL』のときもそうだったけどチャコちゃん絶対に嫌だっていうわけじゃないと思うんだよね。」
「うん。」
「ただあたしみたいに芸能界に興味あるわけじゃないっていうだけだと思うの。だからお兄ちゃんが強く背中を押せばチャコちゃん『うん』と言うんじゃないかな。」
「そうかなあ。」
「そうだよ。だから『今回はチャコちゃんが歌います』ってみんなの前で一方的に発表しちゃえばいいんじゃないかな。」
「うん。」
そんなことを話しているうちに会見場の楽屋に到着した。既に黒田兄妹とマコちゃん役のチャコはいて、チャコはマコちゃんの通う都立高校のブレザーを着ていた。チャコ役のマコちゃんと僕は腕を組んだまま楽屋に入った。
「啓一さんが来たよ。」
マコちゃんはチャコのように言った。すると「まあまあ、まだ宵の口だっていうのにラブラブだこと。ねえ、お兄ちゃん。チャコちゃんもいいけどたまにはこのかわいそうな独り身の妹にも構ってね」とマコちゃん役のチャコがマコちゃんのように言った。
その一瞬の隙をチャコ役のマコちゃんは見逃さなかった。
「そうだよ。啓一さんたまにはマコちゃんとデートしてきなよ。なんなら二人で旅行してくるでもいいよ。」
チャコ役のマコちゃんが言った。マコちゃん役のチャコは「しまった」というような顔をした。
「今のは冗談だよ。冗談!お兄ちゃんが忙しいのは分かってるから。国会もあるし、選挙も近いしね。それに、第一、チャコちゃんの大切な旦那様とお泊りなんてチャコちゃんに申し訳ないよ。」
そう言ったがチャコ役のマコちゃんは攻撃の手を緩めなかった。
「二、三日なら大丈夫だよ。ねえマコちゃん。この前、芸能人水泳大会の女子百メートル個人メドレーで優勝したときの賞品の『伊豆箱根二泊三日』があったじゃない。あれまだ行ってないよね。啓一さんと二人で行ってきなよ。それで一緒に露天風呂にでも入ってくれば?」
「ああ、あれね。あれはもう友美ちゃんと行く約束しちゃったから。」
「友美ちゃんだったらあたしが断ってあげるからさ。」
そんな美しい譲り合いの応酬が姉妹の間で展開されていたが僕は無視して黒田兄妹の傍に行った。
「どうです。少しは落ち着きましたか?」
僕は猿顔の天才医師に声をかけた。
「ああ。落ち着いたよ。やっぱり俺にはこの国の空気は合わない。アメリカに帰るよ。」
天才は静かに言った。この天才にとってアメリカはもはや行くところではなく、帰るべき場所なのだ。
「そうですか。」
僕は少し残念そうな表情を見せた。そして聡美さんの方を見た。
「石水君。でもね、お兄ちゃん、『アメリカで会おう』って言ってくれたの。家族にも会わせてくれるって。私に初めて家族が増えるの。」
聡美さんがうれしそうにそう言ったので僕も笑顔になった。
午後五時少し前に、スタッフが僕たちを呼びに来た。記者会見が始まるのだ。
四人で記者会見場に入場し、記者の皆さんに向かって左からマコちゃん役のチャコ、聡美さん、博士、僕の順番に座った。記者は二百人くらいはいるだろうか。奥の方に目をやると自由が丘女子高等学校の制服を着たマコちゃんがポツリと座っていた。
「では定刻になりましたのでただいまからノーベル生理学・医学賞を受賞された黒田潔博士の共同記者会見を始めさせていただきます。まず博士から少しお話いただきます。」
司会者がそう言って会見が始まり、最初に博士に振った。
「黒田です。俺はどうもこういうのっていうのは苦手でね。で、石水君と彼の妹さんにも同席してもらってるんだ。しゃべるのは苦手なんでね。だから聡美にしゃべってもらうよ。」
相変わらずのふてぶてしい態度でそう言い聡美さんに振った。最初からそういう段取りだったのだろう。この人に腰の低さを求めるのは無理だ。聡美さんはこれまでの経過を分かりやすく説明した。一通りのことは今朝、報道された単独インタビューにも載っている。説明が終わると司会者が「ではこれから質疑応答に移らせていただきます。ご質問のある方は挙手をお願いします」と言って質疑応答に移行した。
「白石さんとのご関係についてご質問させていただきます。今回、どうして白石さんのところにいらっしゃったんですか?」
最初に通信社の記者が質問した。
「こいつ……恩人にこいつは失礼か。彼に借りたものを返しに来たのさ。」
「それはなんですか?」
僕は一億円の話をするのだと思った。
「一枚の紙切れさ。俺にはどの程度の価値があるのか分からなかったけど、大事なものだというのでね。」
「その紙切れというのは……今、ここにございますか?」
記者はさらに突っ込んだ。博士は左隣に座っている僕を見た。
「ああ、僕が持ってますよ。」
僕はそう言って上着のポケットから楽譜を出し、広げて記者たちに見せた。フラッシュが一層光り、記者たちがのぞきこんだ。
「『天使の翼』という曲の楽譜です。後でコピー配りますね。」
僕が付け加えた。
「その楽譜にまつわるエピソードを聞かせていただきたいのですが?」
記者が質問した。僕は博士を見た。楽譜を預けていたのは僕ではない。裕ちゃんだ。そうすると博士は裕ちゃんとの関係を話さなければならない。これは僕が代わりに説明できることではない。博士はしばらく沈黙し、やがて口を開いた。
「俺がこの国を離れるとき、彼、……石水君だけが見送りに来てくれた。そのときこの紙切れを渡されたのさ。封筒の中に封緘して入っていた。『お守り代わりだ』って言われてね。『なるべく開けないでほしいけどピンチのときには開けてほしい』と言われた。アメリカに着いたらしばらくは無我夢中でそんなことは忘れていた。しかしどうしてもピンチに陥ってね。……確かにアメリカは自由な空気で日本よりもはるかに過ごしやすかったよ。でも世界中から優秀な人材が集ってくる。俺は日本では勉強という面で行き詰ったことはなかったけど、研究に行き詰ってしまったんだ。落ち込んでね。そんなとき彼に渡された封筒のことを思い出したのさ。」
僕はビックリしながら博士を見ていた。封筒を直接渡したのは確かに僕だが名義人は裕ちゃんだったはずだ。博士は続けた。
「何が入っているんだろうと思ったけどなんのことはない、紙切れ一枚だった。『なーんだ』と思って下の方を見るとラインマーカーが引かれているところがあった。ここだ。ここに『あなたのどりょく、てんしはみている』と書いてある。」
博士はそう言って僕が記者に見せている楽譜の黄色い部分を指でさした。
「ああ、これがこいつの言いたかったことだったんだなと思ってね。」
博士の声が段々涙声に変わっていく。
「それから日本のことを思い出したよ。つらかったこと、惨めだったこと。でも彼のことも思い出したんだ。誰一人、この国では認めてくれなかった俺の実力を彼だけは認めてくれた。アメリカ行きにも力を貸してくれた。たった一人だけど日本で俺のことを応援してくれる人がいることを思い出したよ。それからこいつの期待に応えなきゃならないのになんで俺はこんなところでへたれてるんだと思ってね……。目が覚めた俺は研究を再開、三日後に世紀の大発見となった。」
博士はハンカチで目頭をぬぐった。聡美さんも泣いている。
「だからこの賞を取れたのはこいつの、……彼のお陰なんだ。だから、……この賞は彼のものだ。」
博士はもう限界だった。こんなに大泣きする男だとは思わなかった。フラッシュが一斉に光った。
「白石さん!」
博士が答えられなくなったので質問が僕の方に飛んだ。芸能記者のようだ。
「その曲、『天使の翼』なんですけど、発表の予定はあるんですか?」
「ああ、はい。僕としてもなるべく早く発表したいのでチームの新曲、十二月二十一日発売予定の『ア・グッド・イヤー・フォー・ユー』のカップリング曲で行く予定です。今、プロデューサーに楽譜を渡してきたところです。」
そう言うと別の記者から「ではチームの皆さんで歌うんですね?フロントメンバーは決まっているんですか?」と質問が飛んだ。
僕が答えようとするとその前に聡美さんの右隣に座っているマコちゃん役のチャコが「ハルナちゃん一人で歌ってもらう予定で~す」とマコちゃんのように言った。
そのとき僕は誰かの強い視線を感じた。そして引っ張られるように記者会見場の一番後ろを見るとチャコ役のマコちゃんと目が合った。
僕はこのできの悪い妹とは全然趣味が合わないと思ってきたが、この瞬間は初めて目と目で会話をすることができたと思った。マコちゃんはニコッと笑いながら「うん」とうなずいた。僕も小さくうなづき、口を開いた。
「はい。もちろんハルナにも歌ってもらいますが、この歌は白石裕子と僕の忘れていた思い出なので妻の朝子にも歌ってもらいたいと思っています。いいよね!チャコ!」
僕はチャコ役のマコちゃんに振った。
「がってんだあ!望むところだよ!」
チャコ役のマコちゃんは立ち上がり、親指を上に向けたまま右手を突き出し、満面の笑顔でそう言った。会見場の記者たちが一斉に後ろを振り返りチャコ役のマコちゃんに注目した。フラッシュが炊かれた。
博士が号泣してしまってそこで記者会見はお開きとなってしまった。もうそれ以上、聞くこともなかったのかもしれない。それから黒田兄妹、マコちゃん役のチャコ、僕にチャコ役のマコちゃんも加わって握手しながら何ショットも記念撮影に応じた。晴れやかな時間だった。
記者会見が完全に終わると黒田兄妹と僕達三人は局の入口でタクシーを待った。三人の女子はガールズトークに夢中だった。とても幸せそうで僕もうれしかった。
「博士。どうして本当のことを言わなかったんですか?」
僕は博士に話しかけた。
「本当のことって?」
「裕ちゃんのことですよ。」
「俺と裕子ができてたってことか?」
「ええ。」
「そんな戯言誰も信じないだろ?」
「戯言ですか?」
「そうだよ。俺はヒヒの心臓を人間に移植するような男だよ。その俺と永遠の歌姫とはどう考えたって似合わないじゃないか?裕子は君と最初から最後まで純愛だったんだよ。途中で聡美が参加してきたかもしれないけどそれはちょっとしたスパイスでね。それでいいじゃないか。裕子もそれを望んでるよ。」
「本当は、『この賞は彼女のものだ』と言いたかったんじゃないですか?」
「さあな。俺と君と裕子は色々あったけどそれは楽しかったはずの思い出として三人の心の中にしまっておけばいい。……せっかくだから君にだけ本当のことを言っておくよ。」
「本当のこと?」
「ああ。今回の俺の来日の目的さ。」
「はい。」
「本当は、君に借りたものを返しに来たのでもなく、聡美に会いに来たのでもない。裕子の最期を確かめたかったんだ。」
「博士……」
「君が一緒にいて彼女も幸せだったと聞いて安心したよ。それが俺の心の中でつっかえていた部分だったんだと思う。柄じゃないんだけどな。石水君。ありがとう。」
そんな話をしているうちにタクシーが来て、まず僕たち三人が乗り込み、黒田兄妹と別れた。タクシーのリアシートに三人で、僕がサンドイッチされる形で座った。チャコはマコちゃん役のまま、マコちゃんはチャコ役のままだったが二人は饒舌でチャコはマコちゃんとして、マコちゃんはチャコとして会話を成立させていた。僕は何度か突っ込んだが二人は動じなかった。
帰宅すると早起きのスーパーアイドルは早々に寝てしまい、チャコと僕がダイニングでコーヒーを挟んで向かい合った。チャコはまだマコちゃんの制服を着ている。
「チャコ。」
「ん?」
「さっきはゴメンね。一方的に『チャコが歌います』とか言っちゃって。しかもマコちゃんに『望むところだよ』とか言わせちゃって。」
「あれってマコちゃんと仕組んだことじゃないよね?」
「うん。たまたまだよ。たまたまあの瞬間にマコちゃんと目が合ってさ。マコちゃんがチャコに見えて、『歌うよ!』って言ってるような気がしたんだよ。」
「じゃあ、それがあたしの素直な気持ちだったんじゃないかな。」
「どういうこと?」
「あのときの、『がってんだあ』って言ったときのマコちゃん、あれが自分の本当に素直な気持ちなんだと思う。」
「ホントに?」
「うん。啓一さんは信じられないかもしれないけど、あたしとマコちゃんて本当に一心同体なの。あたしはマコちゃんの気持ちが全部分かるし、マコちゃんはあたしの気持ちが全部分かるの。自分達でも不思議なんだけどね。だからあのときのマコちゃん見ててあたしは遠くからもう一人の自分を見ているような気持ちだった。本当はあたしもああ言いたかったんだよ。ただ自信がなかっただけ。あたしは裕ちゃんみたいになりたいけど、裕ちゃんやハルナちゃんみたいに才能ないし。……啓一さん、ありがとう。背中押してくれて。……自分なりに頑張ってみます。」
「無理しないでいいよ。チャコはチャコのままでいいよ。チャコのままがいい。」
「ありがとう。そうするね。なんだか裕ちゃんに少し近付けそう。……ねえ、啓一さん。話変わるけど、来月の二回の連休、何か予定入ってる?」
チャコは急に話題を変えた。
「文化の日の方はチャコの学校の文化祭があるよね?」
「ああ、そうだね。でも去年みたいに勝負はしないから。今年もバトルはあるんだけど、今年は最初からあたしのクラスはシードされてるの。」
「シード?」
「そう。チャコちゃん有名になりすぎたでしょ?だから今年は最初からあたしのクラスが圧勝すると予想されてるの。勝負にならないって。だから今年はあたしのクラスはオープン参加でトトカルチョの対象からも外されてるの。まあ今年も餃子で行くとは思うけどね。だから今年は一日だけ来てくれればいいや。」
「じゃあ後、僕は何をしてればいいの?」
「あたしは文化祭にかかりきりで啓一さんの面倒見てあげられないからさ。啓一さんはマコちゃんと温泉でも行ってきなよ。さっき言ってた『伊豆箱根二泊三日』。」
「チャコ。」
「言ったでしょ。あたしとマコちゃんは一心同体なんだって。あたしはマコちゃんの気持ちが全部分かるの。だからマコちゃんに優しくしてあげてね。」
チャコはニッコリ笑ってそう言った。
次の日、チャコと僕は聡美さんと一緒に成田空港で博士を見送った。マコちゃんは仕事があって来られなかった。成田空港で博士を見送るのはこれが二度目だ。
「石水君。本当に色々ありがとう。」
博士は満足そうな笑顔だった。
「いえ、僕の方こそ、日本に来てくださいましてありがとうございました。」
そう言って博士と僕は固く握手した。プレスが何社か来ていてフラッシュが光った。博士はチャコとも握手をした。そして聡美さんの方にチラッと目をやり「聡美のことよろしくな」と言った。
僕も聡美さんの方を向き、聡美さんと目を合わせ微笑んだ。そして博士に視線を戻し「はい」と静かに言った。
「もうこの国に来ることはないだろう。今度はアメリカで会おう。歓迎するよ。」
「はい。楽しみにしてますね。」
「じゃあ。」
博士は左手を軽く上げて回れ右をし、数歩歩いたが、ふと立ち止まり、再び回れ右をして僕の目の前に戻ってきた。
「さっき、もう二度と日本には来ないと言ったけどもう一度だけ来ることにするよ。」
「はい?」
「文化勲章をもらいに来る。ノーベル賞受賞者は文化勲章をもらえるのが慣例だよね?」
「ええ。じゃあ来月、またいらっしゃるんですね?」
「いや、……石水君。君が総理大臣になったとき、君の手からもらいたい。そのとき、もう一回握手しよう。」
博士がニッコリ笑ってそう言った。僕には政治的な野心などはまったくなく、総理大臣になる気などサラサラなかったけれども、なぜかこの時だけは、ニッコリ笑って素直に「はい」と答えることができた。