思ひ出   作:山田甲八

1 / 12
For me at the time of “The boyfriend of celery”

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。

思い出というものは
作られるものなのだろうか?
それとも
作るものなのだろうか?

 プロローグ

 ある年の春分の日の午後の風景。僕は自宅の庭で草花に水をやっている。春分の日のことを英語では「スプリング・ハズ・カム・デー」というそうだ。「春が到来した日」、なるほどありがたみがある言葉だ。高緯度に住む英語圏の住民はそれほどまでにこの季節の分岐点を待ちわびるのだろう。
 春分の日は通常、三月二十一日だが、三月二十日という年もある。この年もまさにそうで、その日の午後、僕は草花に水を飲ませながら、僕の二十五年という短い人生の中で経験した不思議な出来事を振り返っていた。
 今から四年前、僕は故郷の幼なじみと七年ぶりの再会を果たした。その半年後、僕はその幼なじみと婚約をした。そして昨日はその彼女の一周忌だった。



一 再会

 ジリリリリ~ン、ジリリリリ~ン

 

 目覚まし時計の音がする。

いや、何か変だ。目覚まし時計は電子音のはずだ。それに僕の部屋に目覚まし時計はあるにはあるが、僕は生まれてこの方そういう道具の世話になったことはない。朝は自然に目が覚める。というより目が覚めたときが朝なのだ。

 しばらくまどろみがあって理解できてきた。電話の着信音なのだ。もっとうっとりするようなムードのある音楽、例えば「G線上のアリア」なんかを着信音にすれば気分も良くなるのかもしれないが、面倒な設定の嫌いな僕は黒電話のベルの音を携帯の着信音にしている。当然のことながら僕はこの音が好きではない。はっきり言って大嫌いだ。かかってきた電話がグッドニュースという経験はほとんどない。通常、電話の後には何か厄介な事件に巻き込まれるのがオチなのだ。

 僕はつい先月、父親を亡くしたばかりで物心ともにまいっていた。そんなときに限って不躾なセールスの電話がかかってきたりして僕を一層イライラさせていた。電話の着信音は、十数回は鳴っただろうか。携帯を不携帯だと諦めたのか、一度は切れた。

(「やれやれ、スッカリ目を覚ましてしまったよ。」)

 僕は仕方なく畳の上に敷かれた薄っぺらい布団から起き上がった。まくらもとの時計は午前九時ちょうどを指している。九時ちょうどに電話する約束でもあったのだろうか。時計の隣には読みかけの税務会計の教科書とエマニュエル・カント著「道徳形而上学原論」の文庫本が無造作に置かれていた。昨日の夜、読みながら眠ってしまったのだ。

 雨戸がしまっていて部屋の中は暗かったが天気はよさそうだ。鳥の鳴き声がする。まだ眠い。季節は初夏、雨戸を開けると気持ちのいい五月の日差しが飛び込んでくることだろう。何もかもが平和な平日の朝だ。社会人はこういう朝でも律儀に決められた時間に目を覚まし、職場へと出かけて行くのだろう。僕はまだ学生であることを素直に感謝した。

 

 ジリリリリ~ン、ジリリリリ~ン・・・・・・

 

 再び、重い電話の着信音がけたたましく鳴った。さっきと同じ人からであろうか。僕は安アパートに一人暮らしなので僕が電話に出ない限りこの着信音は永遠に鳴り続けるのかもしれない。もちろん防音工事など施されていないし、居留守は近所迷惑だ。僕は観念し、布団から出て一メートルほど離れた机の上の携帯を握った。

「もしもし。」

 僕は寝起きの思い切り不機嫌な声で電話に応えた。電話の向こうからはそんな陰鬱な雰囲気を一発で木っ端微塵に吹き飛ばすエネルギーが飛び込んできた。

「もっしもーし!おっはよー!あたしが誰か分かりますかあ?」

 元気な若い女性の声だった。聞いたことがあるような気もするがすぐには思い出せない。間違い電話かもしれないと思った。

「どちらにお掛けですか?僕は石水啓一といいますけど。」

 僕はもう一度、不機嫌な声で電話の主に答えた。

「啓ちゃん?すっご~くお久しぶり。あたしだよ!白石裕子。もう忘れちゃったかな?」

「えっ?」

 僕は思わず聞き返した。忘れかけていた少年の頃の記憶が蘇った。

 

 白石裕子、通称「裕ちゃん」は僕の幼なじみだ。裕ちゃんと僕は新潟県南西部の街、柏崎の生まれだ。裕ちゃんが五歳のとき、三歳だった僕が裕ちゃんの通っていたピアノ教室に通うようになったことがきっかけで二人は知り合い、純粋に幼なじみになった。一緒にピアノを弾き、お手てつないで学校に行き、僕が学校でおしっこをもらしたときはパンツも貸してくれた。

 裕ちゃんの父親は白石権蔵という名の政治家で、身体もでかいが態度もでかい参議院の大物だ。元々は衆議院議員だったが落選を機に参議院に転進、当選回数を重ね大物にのし上がった。しかし地元での人気はあまり高くはなく、衆議院の柏崎選挙区では子分の県議会議員や秘書を擁立するのだが対立陣営に負け続けている。この原因を本人は白石の血がないからだと考えていて、二人娘の長女で幸子という名の裕ちゃんの七歳年上の姉を柏崎選挙区の候補者にしようと徹底的にスパルタ教育したことがある。しかし過ぎたるは及ばざるがごとし、この作戦は失敗した。幸子さんはスパルタ教育に耐えられなくなって高校三年生のときに地元でも有名な悪ガキと駆け落ちしたのだ。

 幸子さんがその後、どうしているのか僕は知らされていない。知っているのは幸子さんがいなくなってから今度は裕ちゃんが柏崎選挙区の候補者候補となり、スパルタ教育が再開、裕ちゃんは中学卒業と同時に東京のお嬢様学校に通うため柏崎を出て行ったということだけだ。

 柏崎を去るその日、僕は裕ちゃんを長岡駅の新幹線ホームで見送った。それが最後だった。それから裕ちゃんは何度か柏崎に帰省することもあったようだけど僕と会うことはなかった。裕ちゃんの声を聞くのは七年ぶりだった。

 

「ねえ、昨日、柏崎の啓ちゃんのおうちに電話したんだけど、啓ちゃん東京に出てきてるんだって?ビックリしちゃった。連絡くれればよかったのに。ねえ、会わない?会おうよ?」

 裕ちゃんの声が僕を回想シーンから現実に引き戻した。僕は高校卒業後、一年の浪人生活の末、東京の大学に通うため上京してきた。確かに上京の際、裕ちゃんに連絡してもよかったのかもしれない。でも裕ちゃんそのものがもう僕にとっては忘れかけていた少年の日の思い出になってしまっているのだ。

「今日、暇?」

僕が絶句していると裕ちゃんが初球からいきなり直球、ストライクを投げてきた。

「午前中は講義があるけど。・・・・・・おふくろに聞いたかな?今、大学二年生やってるんだ。」

「午後は暇なのかな?」

「まあね。」

「じゃあ決まりだね。午後、会おうよ。銀座辺りなんかどう?遠いかな?」

「まあいいけど。」

 僕に考える暇を与えない。

「じゃあ午後二時に銀座四丁目の和光の前で待ってるね。場所、分かるよね?」

 裕ちゃんのマシンガンが僕を撃ちぬいた。昔と変わっていない。恐ろしくマイペースだ。僕の話はあまり聞いていないようで、これだけ自分本位だとかえって気持ちがいい。

「午後二時って、裕ちゃんはもう社会人でしょ?仕事大丈夫なの?」

 僕の計算に間違いがなければ裕ちゃんは社会人一年生のはずだ。裕ちゃんは元々僕より二学年お姉さんだが、僕は大学入学にもたもたして一年ダブってしまったので今では三学年離れている。

「ああ、仕事ね。そんなこともあるにはあるけど、あたし、マスコミだから時間の融通は結構つくのよ。じゃあ午後二時に銀座ね。バイバ~イ。」

 そう言うと電話は一方的に切れた。電話を切るのも裕ちゃんのペースだ。

 僕は少し不思議な気持ちがしていた。着信履歴には残っているから今すぐ、あるいは土壇場でキャンセルすることも不可能ではない。しかし、消極的であったとはいえ、一度約束した以上、約束の不履行は僕の性分に合わない。あるいは下心もあったかもしれない。若い女性と銀座で二人きりで会うなんて東京に来て初めてではないだろうか。僕の心は少しときめいていた。しかし、それでも僕は意外にしっかりしていて、宗教やマルチ商法の勧誘ではないかという疑問も感じた。裕ちゃんはお嬢様であり、お金には不自由していないはずだからマルチ商法に引っかかることはないかもしれない。しかし、宗教の勧誘は十分にありうる話だ。

 結局、僕は出て行くことにしたが、出かけるときはお守り代わりに「人間が神を作ったのであり、神が人間を創ったのではない」というくだりがある文庫本の哲学書を学ラン、つまり詰襟の男子学生服のズボンのポケットに隠していった。

 

 午前の講義が終わると、僕は約束どおり、銀座に向かった。銀座は夜だけでなく、昼間も忙しい街だ。昭和二十九年にゴジラによって破壊されたはずの和光ビルは何事もなかったかのように健在で、待ち合わせ場所のチャンピオンとして君臨していた。

 和光ビルの前で裕ちゃんは、約束の十分前だったのにもう僕のことを待っていて、学ラン姿の僕に気付くと笑顔で手を振ってくれた。これにはいささか驚いた。僕は時間厳守の性格でいつも約束の時間には遅れたことがない。ときには一時間くらい前に待ち合わせ場所に到着し、本でも読んで相手を待つということもある。それゆえ、待ち合わせをする場合、僕が相手を待たせるということは通常ない。いつも待たされるのは僕の役割だったので待っている人がいるというのは妙な気持ちだった。

(「何かある。」)

 僕は非日常の予感を感じ始めていた。お互いに大人になっていたが裕ちゃんは一目で僕が分かったようだった。裕ちゃんはイエローのツーピースを着ていた。イエローのスーツ姿の裕ちゃんは七年前、長岡駅の新幹線ホームで見送った裕ちゃんとはまるで違っていた。別人のようであった。

(「あれっ?こうだったかな?」)

 それが二度目の第一印象だった。

「待ったぁ?」

 僕はなんとなくそんな挨拶から始めた。

「やあ、啓ちゃんお久しぶり。あんまり変わんないね。学ラン着てるんだ。体育会?」

 裕ちゃんは満面の笑みで応えた。本当に嬉しそうだった。何時間もそこで待ち続けていたようだった。

「いや、別に体育会じゃないけどこれが好きなんだよ。それに今はこれしか着るものがないし。学ランは嫌いかな?」

 僕は体育会系の学生ではなかったが普段は学ランを着ている珍しい大学生だった。着る物に無頓着ということもあるし、学ランが好きだということもある。他に着るものはなかったからどこへ行くにも学ランだった。

「ううん。似合ってる。それにあたし学ラン好きだから大丈夫だよ……。飲みに行く?」

「昼間から?まあ、裕ちゃんがどうしてもって言うのなら付き合うけど、僕はあんまり酒が好きじゃないんだよ。というよりも苦手だと言った方がいいのかもしれない。…」

「そっか。お父さんは大好きだったけどね。まあ、今のは冗談。どうせ今日はあたしもお酒飲めないから。…甘いものはどう?ケーキとか、パフェとか?」

「ああ。そっちの方がありがたいや。」

「じゃあケーキ食べに行こうか。いい店知ってるんだ。」

 そう言って僕の腕をつかむと、裕ちゃんは有楽町の方向に向かって歩き出した。裕ちゃんが案内してくれたのはケーキバイキングが呼び物のお洒落なカフェだった。裕ちゃんはウエイターに案内されテーブルに落ち着き、「ケーキの食べ放題でいいね」と一言言うと、僕の承諾を待つまでもなく、僕の分までウエイターに注文してしまっていた。そのスピード、強引さに僕はただ呆気にとられるばかりだった。

「なかなかいいお店でしょ。」

「いい店だけど、システムがよく分からないな。」

 僕はやや難しい口調で言った。

「そんなに難しくないよ。あそこのテーブルにあるケーキを好きなだけ食べられるの。あたし先にとってくるから待っててね。」

 そういうと裕ちゃんは席を立ち、ケーキの並べてあるテーブルに向かった。僕は少し変な気持ちだった。七年ぶりに再会した幼なじみの、今ではすっかり大人になってしまった女性にケーキバイキングにまで、まったく向こうのペースで連れてこられてしまった自分に少々酔っていたのかもしれない。もちろん、どんな気持ちだったかと聞かれれば幸せな気持ちだったと答えるに違いない。しかし、裕ちゃんの意図がどこにあるのかよく分からないというのは不安ではあった。

(「わなにかけられているのかもしれない。」)

 そんなことを考えているうちに裕ちゃんはケーキとコーヒーをお盆に載せて戻ってきた。

「お父さん亡くなったんだって。ちっとも知らなかった。」

 ケーキとコーヒーを僕の前に並べながら裕ちゃんが言った。

「ああ。急だったんだ。元々親父は健康診断なんか受けことがない人で、それでいて大酒飲みで、健康には根拠のない自信を持ってた人だったからね。倒れたその日もお店の予約が入ってたんだ。」

 僕の実家は柏崎の駅の近くでちょっとした小料理屋をやっていた。親父は料理人で、おふくろと二人で何十年も小さな店を切盛りしながら一人っ子の僕を育てた。

「ごめんなさい。何も知らなくて。」

「まあしょうがないよ。音信不通だったんだから。で、裕ちゃんは今、何やってるの?僕のことはおふくろに聞いてるんでしょ?」

「うん。東京に出てきてるって聞いてビックリしちゃった。こんなことならもっと早く連絡すればよかったよ。あたしのことは何か聞いてる?」

「う~ん、僕も最近は柏崎にあまり帰らなくなったからなあ。裕ちゃんのことといえば、東大に入ったってことくらいかな。それももう四年前の話だよね。・・・・・・後、何かの機会にお医者さんと付き合ってるってことは聞いたことがある。」

「ははん。噂って怖いねえ。」

「幸子さん、・・・・・・お姉さんとは会ったりするの?」

「たまにね。あたしも東京出てきてようやく会ったんだけど、家出して一年くらいして子供産んでたの。女の子の双子。もう小学生だね。」

「へえ~っ。それは初耳だ。」

「そんなこと表には出てこないよ。お父さんも自分にとってマイナスになることは隠してるからね。今、品川の戸越でラーメン屋さんやってるよ。お父さんとは相変わらず絶縁状態。」

「ふ~ん。お父さん、権蔵先生のことはよく新聞で拝見するよ。出世したね。」

「そうだね。娘のあたしが言うのもおかしいけどもう参議院のドンだよね。まあ、地元じゃそれほど人気ないけど。衆議院の議席は取り返せないし。」

「でもそれも時間の問題でしょ?もうすぐ裕ちゃんが出馬するんじゃないの?そうすれば議席は取り返せるでしょ?」

「ところがそうもいかなくなってきたんだなあ。それで今日、啓ちゃんに来てもらったの。相談というか、お願いしたいことがあって。」

 それを聞いて僕は少しドキッとした。昔からそうだがこの人のお願いというとろくなことがない。何か嫌なことを押し付けられるのだ。

「お願いって何?」

 相手のペースに乗せられてしまうかなとも思ったが、僕は自分から相手の懐に入った。

「その前にケーキ食べてもいい?」

「ああ、そうだね、僕も食べよう。」

 ケーキとは都合がいい。僕は元来、甘党だ。酒よりはこっちの方が余程よかった。

 そこからが少しおかしかった。裕ちゃんは僕にフォークを一本渡し「では、いただきます」と言うと、僕と同時に、同じモンブランをつついたのだ。フォークがモンブランに突き刺さるのが同時だった。裕ちゃんと僕は目を合わせ、僕は一瞬ぞくっとしたが構わずケーキを削り取ると、裕ちゃんと同じタイミングで口の中に持っていった。そして裕ちゃんと僕はフォークを口にくわえたまましばらく目を合わせた。見詰め合ったと言った方が正確かもしれない。まるで打ち合わせでもしたかのようなコンマ一秒の狂いもない息の合った動きだった。シンクロナイズドスイミングのようだった。

 しばらくしておかしさがこみ上げてきて二人でげらげらと声を上げて笑った。裕ちゃんはしばらく腹を押さえて笑っていた。

「あー、おかしー。ねえ、どうしてモンブランに行ったの?」

 裕ちゃんはまだおかしさがこらえきれないようだった。テーブルの上には定番のイチゴショートやガトーショコラ、紅茶のケーキやチーズケーキなどが並んでいる。僕は元々モンブランが好きで、好きなケーキを一つ選べと言われればモンブランになる。

「どうしてって、一番おいしそうだったから。裕ちゃんは?」

「あたしも。・・・二人の相性って実は最高かもね。」

 なるほど、ケーキ占いは成功のようだ。

「おっかしー。・・・で、なんの話してたんだっけ?」

 話が元に戻った。

「僕にお願いしたいことだよ。」

「あっそうだった、そうだった。実はね、啓ちゃんにあたしの彼氏になって欲しいのよ。」

 僕は(「はあ?」)と思ったが冷静さを取り戻すのに時間はかからなかった。昔からこの人といるとこういう状況に巻き込まれるということは分かっているのだ。僕は裕ちゃんにもはっきり分かるように一度、大きく深呼吸した。

「ねえ、裕ちゃん。そういう話はなしにしようよ。そんなことのために七年ぶりに再会したんだったら僕は悲しいよ。誰かにふられた腹いせに僕を利用するんだったら柏崎の頃と全然変わらないじゃない。あの時も僕は裕ちゃんの執事みたいなもんだったんだから。」

 僕がそういうと裕ちゃんはニタッと不気味に微笑んだ。

「なるほど執事かあ~。うまこと言うね。まあ中々の名推理だけど、残念ながらあたしはふられてなんかいないのよ。言葉が足りなかったかもしれない。彼氏になって欲しいじゃなくて、正確には啓ちゃんがあたしの彼氏だってことにして欲しいの。お芝居に付き合って欲しいってこと。」

「どういうこと?」

「あたしねえ、この四月からテレビ局に入社したの。放送協会。女子アナとしてね。」

「ああ、そうだったんだ。それはすごいね。まあ東大出身の才女だっていえばそれまでだけど、それにしてもすごい競争を潜り抜けたんじゃない?」

「まあ、お父さんの政治力も使ったしね。アナウンサーとして全国に顔を売ってから選挙に出るという作戦だったし。」

「ああ、そういうことか。やっぱり選挙に出るんだ。衆議院。」

「でもね、いいことが続いちゃったの。ついこないだ、ポップスコンクールに出てね、優勝しちゃったの。」

「そうなんだ。それは良かったね。長年の夢がかなったんだ。」

 裕ちゃんは柏崎にいる頃から歌が大好きで将来の夢は政治家ではなく、歌手として、音楽家として成功することだった。同じピアノ教室に通っていた僕は誰よりもそのことをよく知っていた。

「ありがとう。啓ちゃん、やっぱり柏崎のときからあたしの理解者だったよね。そう、それはとってもいいニュースでデビューのスケジュールも具体化されてきたの。でもこのことをお父さんがどう思うか分かるよね?」

「うん。」

 裕ちゃんを衆議院の柏崎選挙区に立てることしか考えていない権蔵議員にとってはそれがたとえ愛する娘の悲願だったとしても歌手デビューなどとうてい受け入れられないだろう。

「お父さんには政治家になるのは止めたと言った。音楽を続けたいとね。もちろんお父さんは怒ったけど、姉のことがあるからお父さんもそうそう強いことは言えないの。あたしにも家出されたら跡継ぎがいなくなっちゃうからね。お父さんは『それなら自分の薦める男と結婚しろ』と言ってきた。まあお婿さんを跡継ぎにしようという作戦ね。でもあたしはそれも断ったの。やっぱり自分の結婚相手は自分で見つけたいからね。」

「だったら裕ちゃんも家出しちゃえばいいんじゃない?」

「確かに音楽は夢だったし、一生、続けて行きたいと思ってはいるんだけど親孝行もしたいのよ。まあ親孝行っていうのもおこがましいかもしれないけど、親を裏切りたくないっていうのかな。お父さん、お姉ちゃんに逃げられちゃったでしょ?その上、あたしにも逃げられちゃったらかわいそう過ぎるじゃない。だからお父さんにはいい顔したいの。それに白石の財産がなくなっちゃうのも惜しいしね。今までさんざん贅沢してきたから贅沢に慣れちゃったし、明日からいきなり一文無しっていうのも厳しいしね。」

「でもポップスコンクールで優勝したんでしょ?」

「それはデビューするきっかけにすぎないでしょ?音楽界で成功したわけじゃないし、毎年、デビューするアーティストなんてたくさんいるんだし。その中で本当に成功できるのは片手で数えられるくらい。」

「で、どうするの?」

「要は音楽に打ち込めてそれでいてお父さんも裏切らない魔法のようなロジックがあればいいのよ。」

「そんな上手い話あるか?」

「それがあるんだな。お父さんには『それより今、付き合ってる彼氏がいるから、将来、結婚するつもりだし、彼氏を衆議院に立てたらどうだ』って持ちかけたの。」

「はあ?」

「そういう事情で啓ちゃんの登場というわけよ。どう?お願いできないかなあ?」

「だって、それって、・・・・・・僕が衆議院議員に立候補するっていうの?無茶苦茶だと思うけど。僕はまだ学生だよ。」

「学生だからいいんだよ。衆議院議員の被選挙権は何歳からか知ってるよね?」

「ああ。二十五歳だよね。『公民』で習ったと思う。」

「啓ちゃん、今、何歳?」

「二十一だけど。」

「そうでしょ。立候補は一番早くても四年後になる。それまで時間稼ぎできるじゃない。いざ、立候補という段になったら『あの人とはもう別れたから』ってことにすればいいし。それに啓ちゃん柏崎の出身だし、柏崎の選挙区に立てるには都合がいい。幼なじみだから昔から何か引かれるものがあったってことにすれば話の辻褄も合わせやすいし。お願い!迷惑はかけないから。」

 裕ちゃんはそう言って僕の前で手を合わせた。昔から裕ちゃんにはこういう無理なお願いをされてきた。しかし、少年の頃のお願いとはレベルが違う。

「僕は嫌だよ。第一、権蔵先生に嘘をつくってことになるんでしょ。」

「そうだけど音楽は続けたいし、お父さんの夢もかなえてあげたいのよ。」

「他の人をあたってよ。別に僕じゃなくても裕ちゃんだったら彼氏もどきになる人はいくらでもいるでしょ?」

「ねえ、啓ちゃん。昔、啓ちゃんが小学校でおしっこもらしたときあたしがパンツ貸してあげたの覚えてる?」

 裕ちゃんが急に昔話を持ち出した。それは忘れるわけがない。僕の少年時代の最も悲惨な記憶だ。小学校一年生だったとき、僕は学校でおしっこをもらし、悪友たちにさんざんからかわれた。僕はただめそめそと泣くことしかできなかった。そこに三年生だった裕ちゃんがやってきて悪友を追い払い、自分のはいているパンツをその場で脱いで僕に貸してくれたのだ。それ以来、僕は裕ちゃんに逆らえなくなってしまった。

「そんなことまだ覚えてるんだ。」

「そう。あのときの貸しがあると思うけど。」

 裕ちゃんは自信に満ちた表情でそう言った。そう言われると僕はもう何も言えない。僕があの時、人生で最悪の経験をし、裕ちゃんがその最悪の経験から僕を救ってくれた永遠のヒロインであることは事実なのだ。

「・・・・・・分かったよ。本当に僕に迷惑はかからないんだろうね?」

「大丈夫だよ。啓ちゃんは名前貸してくれるだけでいい。じゃあ、決まりだね。やっぱり啓ちゃんなら引き受けてくれると思ったよ。さあさあ、じゃんじゃん食べてね。今日はぜ~んぶあたしがおごっちゃうからね~。」

 裕ちゃんはそう言って笑い、休ませていた手と口を再開させた。それから二人はこの七年間の出来事や近況を話し合った。裕ちゃんは社会人になって、研修終了後、埼玉の放送局に配属になったがテレビ局ゆえに勤務時間は不規則で、平日の昼間でもこうして学生と付き合えるそうだ。やはりお芝居とはいえ彼氏のことは良く知っていないといけないのだろう、僕はプライベートを根掘り葉掘り聞かれた。

 

 七年ぶりの幼なじみとの再会で話すことはいっぱいあった。そしていつの間にかウエイターが「そろそろお時間です」と言ってくる時間になっていた。ケーキバイキングには時間制限があり、それが終了したのだ。一時間半はいただろうか。

 裕ちゃんは「今日はあたしが強引に誘ったんだから」と僕の財布を下げさせ、さっさと一人で勘定を済ませた。そして店を出るとすぐに次の提案を切り出した。

「ではこれから横浜に移動しますね。」

 裕ちゃんは当たり前のようにさらりと言った。

「横浜?なんでまた?それも随分急なんだけど。」

「まあいいじゃない。」

 そう言うと裕ちゃんは、一人でどんどん歩き出した。やっと裕ちゃんに追いついたとき、裕ちゃんは路上の白いクルマに手をかけていた。

「乗って。」

 当時の僕は、クルマはおろか免許も持っておらず、自動車に関しては皆目分からない素人であったが、それが左ハンドルの超高級車であることはすぐに分かった。

「これ裕ちゃんのクルマ?」

「うん、びっくりした?」

 裕ちゃんは超高級車の助手席を開け、もう片方の手で乗るよう合図した。公共放送のアナウンサーといってもやはりお嬢様だ。持ち物が違う。僕とは別世界の人であることをあらためて感じさせられた。裕ちゃんは僕を助手席に押し込むと自分は運転席に座り、ダッシュボードの上のサングラスをかけた。

「どうして横浜なの?」

「そこでお父さんに会ってもらいます。彼氏として紹介するから。」

 それを聞いて僕は再び強い衝撃を受けた。あまりにも展開が急すぎる。

「ええっ!ちょっと待ってよ。心の準備ができてないよ。いや心の準備だけじゃない。着るモノだって。僕は学ランだよ。これで彼女の親御さんに会うなんて非常識だよ。」

「別にいいよ。その方が今どきいない気骨のある若者だっていってお父さん喜ぶと思うけど。大丈夫だよ。お父さん、啓ちゃんのこと絶対に気に入るから。まあ、床屋さんくらいは行った方がいいかな。現地に着いたらどっか探そうね。」

「ねえ裕ちゃん。真剣に言うね。ちょっとというか随分ひどいと思うけど。僕の気持ち全然考えてないよね?」

 僕が少し真面目にそう言うとイグニッションにキーを差し込み、エンジンをふかした裕ちゃんは僕の方を見た。サングラスをしているので瞳は見えない。

「じゃああたしも真剣に言うね。あたし今までめっちゃ頑張ってきたの。めっちゃ頑張ってきたあたしの夢が実現しようとしてるの。これをどうしても逃したくないの。だから・・・・・・分かってね。」

 そう言ってニタッとすると、僕の慌てようは黙殺し、裕ちゃんはクルマを発進させた。初夏の太陽がまぶしかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。