僕がこの碑文谷の家に来るとき、僕は裕ちゃんに「もう執事は卒業だ」と言った。でも僕はまだ若かったというか、認識が甘かった。執事は卒業しなかった、というより僕はこの碑文谷の家に来てようやく正式に執事に就任したといった方が正しかったのだ。裕ちゃんと出会ってからこれまで、僕は裕ちゃんの執事みたいな役回りを演じてきたと思っていたが、今思えば本当にそれは執事「みたいなもの」に過ぎなかった。
裕ちゃんの告知から早、四ヶ月が経過している。この間、僕は間違いなく裕ちゃんの忠実な執事だった。裕ちゃんは色々な要求をし、僕はそれに全て応えてきた。そんな僕の経験から一つはっきりいえることがあるとすればそれは「この世の中には二種類の人しか存在しない」ということである。「尽くされる人」と「尽くす人」である。
そんなことを考えながらダイニングで書き物をしていると不意にダイニングの扉が開き、裕ちゃんが顔を覗かせて「えっ!」だか「げっ!」だかとにかく一言、大きな声を出した。とにかく大きな声だったので一瞬、身震いした。
「ああ、おはよう。今朝は随分早いね。」
僕はすぐに気を取り直し、裕ちゃんに朝のあいさつをした。時計は午前七時頃を指している。このところ裕ちゃんはこの碑文谷の自宅に留まってレコーディングに明け暮れる毎日を送っている。完全に昼夜逆転でこの時間に起きてくることは普通ない。
「どーしたの?その格好!」
裕ちゃんがもう一度ビックリした声で言った。今日は大学のある日なので僕は外出着に着替えている。大学は四年生に進級したが、ゼミと外国書購読だけなので大学に行くのは週に一日だけ、それも出席さえしていれば単位はくれるだろうからただ座っているだけだ。
「『どうしたの?』って出かけるんだよ。今日は大学のある日なんだ。」
僕は少し手を休めてそう答えた。
「学ランは?」
「ああ、そういうことね。今日から六月で衣替えだよ。今日から夏服なんだ。」
僕は、下はホワイトジーンズ、上は白のサファリジャケットに黒のTシャツを着ていて、胸のポケットにはサングラスがレンズを外側に向けて刺さっている。
「そんな格好するんだ。夏服って制服の夏服じゃないの?」
「ああ。高校生じゃないからね。」
「いや~、学ランとあまりにも落差があったんで泥棒かと思ったよ。初めてだよね。啓ちゃんがそんな格好するの見るの。」
確かに去年も一昨年も僕は夏場、この格好をしている。裕ちゃんに見られなかったのは、夏の間、裕ちゃんと会っていないからだ。
「そう言われれば、夏場に裕ちゃんと過ごすのは柏崎以来だね。」
「じゃああたしもビキニとか披露しないといけないね。・・・・・・ところで話、変わるんだけど、言い忘れてたんだけど、こないだヤマザキさんから電話あってね、柏崎に行く日程を調整して欲しいんだって。」
「ヤマザキさん?」
「お父さんの秘書のね。」
「ああ、山崎さんか。・・・・・・柏崎でまたなんかやるの?」
「そろそろ解散なんだって。衆議院のね。で、選挙の準備のために啓ちゃんには早めに柏崎に帰って欲しいんだって。もちろんあたしのことがあるからなかなか厳しいけど、それでも解散してからじゃ遅いので早めにねってこと。」
「はあ。・・・それで、僕はどうすればいいのかな?」
「今まで通りでいいよ。柏崎行きの話は断っといたから。啓ちゃん、あたしの世話でそれどころじゃないって。」
裕ちゃんはそう言ってニッコリ微笑んだ。お芝居の世界での話だが、僕は次の次の衆議院議員選挙に柏崎から立候補することになっているようだ。次の選挙は被選挙権がまだないので間に合わない。柏崎に行くとなると次の次の衆議院議員候補予定者として次の立候補予定者と一緒に支援者をまわらなければならず、それはそれでやっかいだ。
「ありがとう。その方が僕としてもありがたいや。」
「でもここでの生活も柏崎とそんなに変わらないと思うよ。」
裕ちゃんがそう言ったので「その通り!」と言ってやりたかったが、その言葉は飲み込んだ。
「ねえ、何、書いてるの?」
裕ちゃんの注意がようやく僕の書き物に移った。
「ああ。裕ちゃんに頼まれてたやつだよ?」
「あたしが頼んだもの?」
「うん。作詞しろって言ってたじゃない。」
僕はこの碑文谷の裕ちゃんの自宅で裕ちゃんの音楽にも付き合っている。裕ちゃんからは最後の思い出に僕と一緒に曲作りもしたいというのだ。僕は柏崎にいた頃、裕ちゃんと一緒にピアノ教室に通っていたから音符くらいは読めるがもう何年もピアノからは遠ざかっているし、作曲は無理だ。幸い、作詞くらいなら日本語をつなぐだけなので真似事くらいはできる。それで作詞を引き受けたのだ。でもそんな才能もないので本当に日本語をつなぐだけだ。
「ああ、あれか。ねえ、見せてもらってもいい?」
「まあ、いいけど。・・・はい。」
僕はそう言って書きかけの韻文を裕ちゃんに渡した。裕ちゃんはしばらく読んでいたがすぐにゲラゲラと笑い出した。
「何がおかしいんだよ?」
僕は怒った口調で言った。事実、温和な僕にしては珍しく怒っていた。
「ごめんなさい・・・啓ちゃん、こんなの書くんだ。」
「別に、そんなに笑わなくったっていいじゃないか。僕は結構、真面目に書いてるつもりなんだけど。」
「それは分かってるんだけど、・・・なんていうか・・・、う~ん、誉め言葉が見つからないなあ。」
裕ちゃんは相変わらず人をバカにした口調だ。
「もういいよ。バカにされるくらいなら作詞なんかやらないよ。」
「ごめんなさい。別にバカにしてるつもりはないの。ただ啓ちゃんとのギャップがあまりにも激しいもんだから。これ、女の子の心情を歌った詞だよね?」
「だって裕ちゃんが歌うんだろ?男の歌じゃそっちの方がおかしいんじゃない?」
「それはそうだけどこれって何かモデルでもあるの。」
「まあ、裕ちゃんが柏崎を出て行ったときの風景だよ。」
「それってあたしが中学を卒業したとき?」
「そう。長岡の新幹線ホームで見送る僕を見ながら裕ちゃんはこんなこと考えてたんじゃないかなって勝手に想像した詞だよ。」
「そっか~。中々の想像力だね。」
「茶化さないでよ。僕は結構真面目に取り組んだつもりなんだけど。」
「それは分かってる。いつもありがとう。あたしの我がままを聞いてくれて。これは預ってもいいかな?」
「いいけど、まだ途中だよ。」
「これで十分だよ。じゃあ、あたしは二度寝しますので。大学、頑張ってね。」
裕ちゃんはそう言うと僕が渡した紙を持ってそのままダイニングを出て行った。裕ちゃんはそのまま二度寝したようで、僕はそれから大学に向かった。
週一回の大学を終えると、僕は真っ直ぐに碑文谷の裕ちゃんの自宅に帰宅した。この碑文谷での生活が始まってからというものの僕はほとんど外出することはない。外に出かけるといったら大学と買い物くらいのものだ。
家の外には黒塗りの高級車が止まっていて嫌な予感がした。「ただいま~」と言って玄関のドアを開けるとリビングのドアが開き、裕ちゃんが現われた。玄関に見慣れない男物の靴が置いてあったので客が来ていることがそれとなく分かった。
「お帰りなさい。お疲れ様でした。」
裕ちゃんがややよそ行きの顔で言った。
「お客さん?」
「そう招かれざる客よ。」
「誰?」と僕は裕ちゃんに聞いたが、裕ちゃんはそれには答えず、リビングに向かい、僕もその後を追った。リビングに入ると、巨漢の男がソファに座っていて「やあ!」と大声で声をかけた。
「ああ、先生。お久し振りです。ご用があれば僕の方から永田町の方にお伺いしましたのに。」
僕は招かれざる客、裕ちゃんの父親、巨漢の白石権蔵参議院議員にあいさつをした。この巨漢の政治家に会うのも僕の安アパートで土下座されて以来だ。
「裕子にも話したいことがあったからな。今日は学ランじゃないのか?そんな格好をしている君を見るのは初めてだが。」
「はい。六月に入りましたので衣替えです。」
「そうか。君も今どきの若者のような格好をするんだな。まあ、かけたまえ。」
巨漢はそう言って右手を動かし、僕に席を勧めた。僕は「失礼します」と言って巨漢の参議院議員の対面やや右側に座り、裕ちゃんが僕の左に座った。
「なあ、啓一君。」
気を使っているのだろう。形相は険しいが言葉遣いは穏やかだ。
「はい。」
「まずは、裕子のこと、いつもありがとう。本当に君には感謝しているし、すまないと思っているよ。」
「いいえ、そんな。僕はただ、できることをしているだけです。」
「いや、そんなことはない。裕子は本当にいい伴侶に恵まれたと思っている。」
「ありがとうございます。そんなにおっしゃっていただいて。」
「裕子のことは本当に感謝している。だがな、選挙のことも考えて欲しいんだ。」
「はあ、選挙ですか?」
やはり僕がいずれは衆議院議員選挙に出馬するシナリオになっているのだ。僕にはその気がまったくないので芝居とはいえ、本気になれない。演技にも臨場感が出ない。
「もうすぐ総選挙が始まる。君は被選挙権がないから今度の選挙に出るのは無理だが、選挙の応援には行って欲しいんだ。」
巨漢がそう言うと「だからそれは無理だってこの前、山崎さんに言ったけど」と裕ちゃんが横から突っ込んだ。
「だから私が今日、こうやってここまで出向いてきたんじゃないか。啓一君。君が裕子のことを思ってくれている気持ちは痛いほど分かるよ。とても選挙と天秤にかけられる問題じゃない。それは分かっている。でも選挙は選挙だ。どうか考えて欲しい。」
巨漢が懇願の眼差しで僕を見つめるとまた裕ちゃんが口を開いた。
「説得しても無駄だよ。選挙はお父さんで勝手にやって欲しい。お父さんには悪いけど、啓ちゃんは柏崎には帰らないよ。選挙期間中も啓ちゃんはあたしとここで音楽をやるの。」
「何バカなことを言ってるんだ。そんなことで選挙に勝てると思ってるのか?まだ時間があると思っているかもしれないが、次の次の選挙なんてあっという間だぞ。」
「お言葉を返すようですが、あたし予言するよ。今度の選挙、白石陣営は惜敗かもしれないけど、その次の選挙は啓ちゃんが圧勝するよ。賭けてもいい。」
裕ちゃんが自信たっぷりにそう言うと巨漢の参議院議員は大きくため息をついた。
「あのなあ、裕子。この私ですら落選してるんだぞ。」
「それはお父さんだったからでしょ。お父さんと啓ちゃんは全然違うよ。言っちゃ悪いけど、啓ちゃんはお父さんよりもはるかに優秀。」
「なんだと!」
「だからあたしは啓ちゃんを選んだんだよ。」
裕ちゃんがまた自信たっぷりに言うと巨漢はまたため息をついた。
「分かった。啓一君が優秀であることは認めよう。しかしだな、いかんせん経験が足りないじゃないか。選挙は経験もモノを言うぞ。それと年齢だ。啓一君は若すぎる。まあそれも武器にはなるが地元でもまだ名前は売れてないじゃないか。まあ、私の娘婿ということを前面に出せばそこそこ票は入るかもしれないが、それも決定打にはならない。」
「お父さんの顔で当選できるくらいだったら別に啓ちゃんじゃなくてもいいんじゃないの?・・・・・・ごめんね。別にあたしはお父さんとケンカをするつもりはないの。ただお父さんに啓ちゃんのことを理解してもらいたいだけなの。啓ちゃんに任せておけば大丈夫だって。」
「どう理解しろって言うんだ?所詮は政治の素人じゃないか。」
「じゃあ聞くけど、お父さんは啓ちゃんに何を期待してるの?」
「そりゃ、柏崎の議席奪還に決まってるだろう。」
「それだけ?」
「とりあえず当選だ。それから先のことは当選してから考えていくことだ。まだ若いし、当選を重ねていけば大臣にだってなれるだろう。」
「そんなんだから落選するんだよ。」
「何!」
「まあ、そんなに興奮しないで。啓ちゃんはね、もっと大きなこと考えてるの。この白石家から総理大臣を出そうとしているの。」
裕ちゃんがそう言うとまた巨漢は大きくため息をついた。僕が巨漢でも同じことをしただろう。学生の分際で総理大臣なんて子どもの考えることだ。
「私は子どもを相手にしている暇はないんだよ。とにかく柏崎行きの日程は組ませてもらうからな。啓一君がいない間、裕子の身の回りの世話をする人は誰か探しておくよ。」
巨漢が幕引きをはかろうとするが裕ちゃんは応じない。
「じゃあ話変えるけどお父さんは政治ってなんだと思う?」
「何って?」
「政治を一言で表すと?」
「そりゃ、力だろう。」
「そうだね。じゃあ力って何?」
「数だ。」
「数は?」
「金だよ。そんなことは私でなくても誰でも分かっていることじゃないか。まあ、表にははっきり出さないかもしれないが。」
「そうだね。それでお父さん。政治資金は潤沢かな?」
「なわけないだろう。『政治資金は潤沢です』なんて政治家、この世にはいないよ。政治には無限にお金がかかるんだ。」
「あたし、今、すごく稼いでるの。それはお父さんも知ってるでしょ?」
「ああ。随分、売れているようだな。」
「随分なんてもんじゃない。お父さんより二桁くらい多いと思うよ。」
「・・・そうか。」
「それを全部、政治資金に使えるとしたらどう思う?」
「・・・・・・」
巨漢は固まった。巨漢と裕ちゃんの立場が逆転したようだった。
「すごい話になるでしょ?それこそ総理大臣の一人くらい出せるよ。」
「・・・・・・そうかもしれないな。」
「これからもうしばらく、もうしばらくっていっても後、半年くらいの話だけど、とにかくあたしは稼げるだけ稼いで啓ちゃんに完全にバトンタッチするつもり。今は二人三脚だけどね。もう時間がないの。確かにここで柏崎の応援に行けば次の次の当選は確実かもしれない。しかしその先の話がないでしょ。啓ちゃんはもっと先のことを考えているの。政治資金が潤沢にあれば、白石家のためにも、柏崎のためにもなるってね。」
「そうか。まあ啓一君が優秀で随分先のことまで考えているのは分かった。でも、別にここを仕切るのは啓一君じゃなくてもいいんじゃないのか?代わりは効かないのか?」
「効かないね。世間はあたしがメインで啓ちゃんは黒子の一人と思ってるかもしれないけど本当は逆だよ。あたしをプロデュースしたのは啓ちゃん。啓ちゃんがいなければあたしはとてもここまでは来られなかった。逆に歌うのはあたしでなくても良かったのかもしれない。あたしくらいの実力の歌手はいくらでもいるよ。啓ちゃんほどの実力者なら誰をプロデュースしてもこれくらいはできたってこと。」
裕ちゃんはそう言いながら視線を僕に向け、ニッコリ微笑んだ。
「啓一君はどうなんだ?」
巨漢が鬼の形相で僕に発言を求めた。
「はあ・・・・・・」と僕は何か言おうとしたが裕ちゃんがそれを遮った。
「啓ちゃんは何も言わないよ。啓ちゃんは身内にも決して手の内を明かさないの。」
しばらく間があった。重い空気がリビングにただよった。
「・・・・・・次の次の選挙には絶対に当選できるんだな?」
巨漢がより一層、低い声で言った。
「あたしが保証するよ。次点に法定得票数も与えないと思うよ。たとえあたしが天国からその次点候補を応援したとしてもね。」
裕ちゃんが毅然とそう言うと、再び父子はにらみ合った。そのうち、にらめっこに負けた巨漢の父がやれやれという表情になった。
「分かったよ。地元には啓一君は裕子のことがあって来られないと言っておくよ。・・・・・・とんだ無駄足だったようだな。私はこれで失礼する。」
巨漢は振り上げたこぶしを打ち下ろす場所を失ったのか、やや早口でそう言うと席を立った。僕も「クルマまでお送りします」と言って席を立ち、リビングのドアを開けた。巨漢がリビングから出て行こうとすると「お父さん!」と裕ちゃんが巨漢を呼び止める声が聞こえ、巨漢と僕が裕ちゃんの方を振り返った。
「ありがとう。」
裕ちゃんはそう言ったが巨漢はそれには応えず、黙ったまま、リビングを出て行き、僕は後を追った。
「スミマセン。何か僕のせいでご面倒をお掛けしているようで。」
僕はそう声をかけたが巨漢は黙ったまま外に出た。外には黒塗りのクルマが置いてあり、助手席に座っていた秘書と思われる男が慌てて外に出て、後ろのドアを開けた。巨漢はドアの前で一度立ち止まり、僕の方に振り向いた。
「啓一君。本当は間違っているのは私で君達の方が正しいのかもしれない。」
「はあ?」
「私も本当は裕子の傍にいてやりたいんだ。娘のことを思わない親なんかいないよ。そのことはどうか理解して欲しい。」
そう言って遠くを見ていた視線が僕の視線を捉えた。
「もちろんです。」
僕がそう言うと巨漢は後ろの座席に乗り込み、秘書がドアを閉めた。秘書が助手席に回りこむと巨漢はパワーウインドウを開けた。
「残念だが、今度の選挙でも柏崎の議席は奪還できないだろうな。」
巨漢が遠くを見つめるようにポツリと言った。
「苦戦されているんですか?」
「ああ。秘書のうち二人が脱落して相手陣営に渡ってしまったよ。政治とはそういう血も涙もない世界だ。」
「はい。」
「次の次の選挙には期待しているよ。君ならなんとかしてくれそうだ。」
「いえいえ、僕なんかとても・・・」
そもそも僕には政治的な野心はないし、立候補するつもりもないのだ。
「啓一君。あの我がままな娘が父親の私に向って『ありがとう』と言ったのは初めてかもしれない。裕子のことどうかよろしく頼むよ。」
巨漢はパワーウインドウを閉め、黒塗りは走り出した。僕はそのクルマが見えなくなるまで最敬礼を続けた。
クルマが見えなくなったことを確認し、リビングに戻ると裕ちゃんはまだソファに座ったままだった。
「お疲れ様でした。なんとか撃退できたね。」
裕ちゃんはまるで他人事のようにしれっと言ったので僕は大きなため息をつき、さっきまで巨漢が座っていた対面のソファにドカッと座った。
「あのねえ、裕ちゃん。あのままじゃ本当に僕が柏崎から立候補しなきゃいけなくなっちゃうんじゃないの?」
「それもいいんじゃない?議員バッチなんて誰だって簡単につけられるもんじゃないよ。」
「僕はそんなもの欲しくないし、そもそも力量もないよ。」
「あたしは啓ちゃんの力量で十分だと思うけどなあ~。権蔵より啓ちゃんの方が、実力が上だというのは嘘ではないよ。」
「裕ちゃん。僕の気持ち、あんまり考えてないよね?」
僕が怒った口調で言うと裕ちゃんは下を向いた。
「そうかもしれないね。ごめんなさいね。いつも我がままばかり言って。」
裕ちゃんが急にトーンダウンしたので僕もトーンダウンした。裕ちゃんは重い病気にかかっているのだ。
「ごめん。別に問い詰めるつもりはないんだ。ただ、このままだと僕が本当に政治家にさせられちゃうんじゃないかなって、・・・ちょっと心配になってるだけだよ。次の次の総選挙のときには裕ちゃんは僕の傍にいてはくれないんだろうし、あの権蔵先生のパワーを僕一人でしのぐのは無理だよ。」
「そうだね。まあ用心棒は誰か考えておくよ。それともいっそのこと海外にでも逃亡したら?あたしの版権収入で食べられるようにしておくから。」
「年老いていくおふくろを一人残して逃亡はできないよ。まあ~、・・・・・・」
「どうしたの?」
「うん。」
「何?」
「実は、・・・その~・・・博士のことを思い出したんだ。博士にもそんなことを言われたことがあるなあと思って。」
「おお、博士か。懐かしいねえ。」
「何、元カレみたいなこと言ってるんだよ。博士とは・・・その後、どうなんだよ。ここにきてからそのことには触れないできたけど。」
「もう遠い思い出だよ。」
「連絡は取れてないの?」
「そう。アメリカで行方不明。」
「裕ちゃんはそれでいいの?」
「いいよ。それもかっこいいじゃない。博士は天才。きっと世界が認める日が来るよ。それに今はこんな近くに啓ちゃんがいてくれるし。案外、博士といた頃より幸せかもしれない。あたしは博士のことが大好きだと思ってたけど、あたしが愛していたのは博士自身じゃなくて、博士の抱いていた大きな夢の方だったのかもしれない。」
裕ちゃんがニッコリ笑ってそう言ったので僕は言葉に詰まった。なんと言い返そうかと思っているとちょうどいいタイミングで「ピンポ~ン」と玄関のチャイムが鳴り僕はそのままリビングにあるインターフォンに出た。この家はダイニング、リビング、書斎、寝室の各部屋にインターフォンが付いているので少し豪華だ。僕が出るとモニターには若者のグループが映っていて帽子にひげ面の青年が「おはようございます。野島事務所です」と言ったので「は~い」ともう一度返事をして玄関に向かった。玄関を開けると機材を持った四、五人のクルーが「お邪魔しま~す」と言ってぞろぞろと家の中に入ってきた。最後尾には野島社長ご自身の姿も見える。裕ちゃんの病気が発覚してからレコーディングはすべてこの碑文谷の書斎兼スタジオで行われている。午後には野島事務所のクルーがやってきてレコーディングをするのが日課になっていた。
レコーディングがスタジオで始まると野島プロデューサーが僕のところに寄ってきた。
「啓ちゃん、ちょっといいかな?」
野島氏は相変わらずキザな格好で、フレンドリーだ。
「はい。」
「二人だけで話したいことがあるんだけど。」
「はあ。じゃあ、こちらへどうぞ。」
僕はそう言ってスタジオ兼書斎を出て、野島氏をリビングに案内し、ソファに座らせた。僕は野島氏の対面に座った。
「なんでしょう?」
僕が先に声を掛けた。
「さっき、裕ちゃんにこれを渡されたんだけど、これなんだ?」
そう言ってキザ男は一枚の紙をテーブルの上に置いた。楽譜だ。一番上には「卒業」と書いてあり、右やや下には作詞石水啓一、作曲白石裕子と書いてある。詞を見ると今朝、僕が裕ちゃんに渡した韻文が書かれていた。
「これは、・・・ああ。今朝、僕が裕ちゃんに渡した詞ですね。・・・裕ちゃん、もう曲をつけたんだ。何時間もたってないのに。」
「裕ちゃん、次のシングルはこれで行くって言ってるんだ。どういうことだ?」
「さあ、僕も承知していません。裕ちゃんにはただ作詞してくれって言われていただけですから。その、・・・最後に僕と思い出作りをしたいと。」
「そういうことか。まあ、思い出作りの邪魔をするつもりはないけど、残念ながらこれはボツだ。」
「はあ。」
「こんなダッサダサの詞じゃダメだということだ。裕ちゃんのイメージにも合わない。」
僕は別にヒットを狙ってやっているわけではないので、そう言われてカチンと来るものはあったのだが怒っても仕方ないので大人の対応をした。
「スミマセン。まだ作詞は下書きの段階で、途中で裕ちゃんに取り上げられただけですから。」
「分かっているんだったらいいよ。・・・今日話したいことはそんなことじゃない。親父が来てたんだな?」
「ああ、権蔵先生ですね?ご存知でしたか?」
「ああ。門の前に黒塗りのクルマが止まってたんで、あのでかい親父が来てるんじゃないかと思って出て行くまで外で待機してたんだ。」
「そうだったんですか。ごあいさつされればよかったのに。」
「何言ってるんだ。あの親父の顔なんか二度と見たくないよ。」
「そうですか。」
「・・・啓ちゃん。・・・何をもたもたしているんだ。本当にもう時間がないんだぞ。」
キザ男がイライラした口調でそう言った。
「はあ?なんの話でしょう?」
「その~、裕ちゃんがいなくなってしまった後の話だよ。」
「はい?」
「結婚はしないのかな?」
「結婚・・・・・・ですか?」
「何、他人事みたいに言ってるんだ。君達は婚約しているんだろ?」
「ああ、そうですね。・・・でも、それは裕ちゃんと僕のとてもプライベートなことですから。もちろん野島さんは裕ちゃんの使用者の立場の方ですからまるで無関係ではないかもしれませんけど。」
「僕じゃないよ。裕ちゃんのまだ世に出ていない作品は膨大にあるんだ。それは君が一番良く知ってるだろう?」
「それは理解しているつもりです。」
「もし今のまま裕ちゃんが死んでしまったら裕ちゃんの作品は全部あのでかい親父が相続するんだぞ。あのバカ親父に裕ちゃんの才能が理解できると思うか?」
「それは・・・・・・」
「だろ?残された方法は一つだけだ。君が裕ちゃんと結婚する。そして裕ちゃんの残していくものを整理するんだ。もちろん僕も手伝えることがあれば全力で手伝うよ。」
なるほど、このキザ男が言いたかったことはそういうことなのだ。裕ちゃんの楽曲はまだ発表されていないものも膨大にある。それが自分の手の届かないところに行ってしまうのが惜しいのだろう。実はこのキザ男は僕の最も苦手とするタイプなのかもしれない。僕は言葉を選んだ。
「申し訳ありませんが、今はとてもそんな気分にはなれません。裕ちゃんとの思い出作りに精一杯ですので・・・・・・」
そう言って僕は席を立ち、リビングを出て行こうとした。
「まあ、君も辛い立場だろうから僕も強くは言えないけど、裕ちゃんには僕の口からも言っておくよ。啓ちゃんが裕ちゃんの版権を管理することには裕ちゃんも異論はないはずだからね。少なくともバカ親父よりははるかにいい。」
野島プロデューサーがそう言うのを背中で聞いて僕はその場を離れた。