年が明け、大学は後期試験の季節を迎えた。この一年間、ほとんど大学には行っていなかったけれども三年までに卒業に必要な単位はほとんど取ってしまっていたので受ける試験は外国書購読一科目だけだ。僕は、そこそこ英語力はあるし、米国公認会計士の受験勉強もしていたので、まるで勉強していなかったものの合格点くらいは取れる。一時間の試験を三十分で切り上げ、僕は早々に大学を後にした。卒業式には来ないだろうから大学生活もこれでお仕舞いだ。最後の一年は本当にあっけなかったが、僕は後悔していなかった。級友や公認会計士の受験仲間は不意に遠くなっていったものの、彼らも僕にそれほど強い関心を示していたわけではない。裕ちゃんのことがあるのでもちろん僕は就職活動もしていない。裕ちゃんは「謎の歌姫」で私生活は完全に遮断されていたから僕がマスコミ関係者に追い回されることもなかった。ただ、病気の婚約者を看病する一学生に過ぎなかった。
裕ちゃんは年末恒例の大型歌謡番組には出演したが、公の前に出たのはそれが最後だった。年が明けてからは余程、体調が悪くなったのだろう、外に出ることはなく、レコーディングをすることもなくなった。もうプロとしては歌えないというのだ。それでも入院することはなく、碑文谷の自宅で一日中パジャマ姿のままゆっくりと静養しながら、作詞と作曲に全生命をつぎ込んでいた。
そんな状況だったので僕が大学から碑文谷の家に帰宅したとき、リビングの電気がついていて、さらに裕ちゃんが外出着を着てソファに座っているのを見たときには少し驚いた。裕ちゃんはイエローのスーツをパリッと着こなしている。
「お帰りなさい。試験どうだった?うまくいった?」
イエローのスーツ姿の裕ちゃんはニッコリ笑って僕を迎えた。そのスーツ姿には少し見覚えがあった。銀座の和光の前で七年ぶりの再会を果たしたときに着ていたのと同じスーツだった。
「裕ちゃん!どうしたのそんな格好して。」
「あんまり気分がいいもんだから・・・・・・ねえ、啓ちゃん。座ってもらえる?」
裕ちゃんは応接に座ったままニッコリ笑って僕に話しかけた。
「うん。」
僕はそう言って裕ちゃんの対面のソファに座った。
「話があるの。・・・・・・あたしの遺言だと思って聞いて欲しい。」
僕はハッとしたが裕ちゃんはニコニコしたままだ。笑顔がかえって悲壮感を漂わせる。
「遺言だなんて・・・・・・」
「でも、もうどうなるか分からないし、あたしの気持ちをちゃんと伝えておきたいから。」
僕は黙って頷いた。
「あたしがいなくなったら啓ちゃんはどうしたい?」
「まだそんな先のこと考えてないよ。」
「今はあたしと婚約しているけど、あたしがいなくなったら啓ちゃんはフリーだよね?」
「それはそうだけど。」
「特に付き合ってる彼女とかもいないし、結婚の予定もないよね?」
「当たり前じゃないか。僕は裕ちゃんと婚約してるんだよ。婚約中にもう別の結婚が決まってるなんておかしいじゃないか。」
「好きな人もいないよね?」
「うん。」
「あたしがいなくなったら・・・・・・どうか啓ちゃんにはお父さんの勧める人と結婚して欲しいの。」
「選挙に出ろってこと?」
「そこまでは言ってない。もちろんあたしの代わりに選挙には出て欲しいけど、それは啓ちゃんが判断すること。でもこれだけはどうか聞いて欲しいの。啓ちゃんはお父さんの勧める人と結婚する。」
「それって、結局、選挙に出ろってこととイコールなんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、本当は選挙なんてあたしにはどうでもいいことなの。それは啓ちゃんも分かってくれてるでしょ?」
「うん。」
「啓ちゃんはお父さんと繋がっていて欲しいの。いつまでも。」
「どうしてそこまで。」
「理由は二つあるの。まず一つ目は、親孝行がしたいということ。・・・・・・あたし、本当に親不孝な娘なの。姉の幸子が家出して、あたしは、お姉ちゃんは親不孝な娘だってずっと思ってたんだけど、でも本当はあたしの方がずっと親不孝だった。・・・・・・あたしは親よりも先に死んでしまうの。これ以上の親不孝はない。」
「裕ちゃん・・・・・・」
「だからあたしはせめてお父さんの喜ぶことをしてから旅立ちたいの。それが啓ちゃん。」
「それは僕を過大評価しすぎだよ。本当の僕は裕ちゃんが一番良く知っているはずだ。」
「そう。一番良く知ってる。お父さんも啓ちゃんのことを良く知ってる。この一年、あたしと一緒に暮らしてくれたことをお父さんは誰よりも、あたし自身よりも啓ちゃんに感謝してる。お父さんは啓ちゃんのことを本当に信頼してるの。姉が家出してしまってからお父さんは本当にあたし頼みだった。あたしだけがお父さんにとって希望の星だった。お父さんはそのあたしも失ってしまうの。だからお父さんにはどうしてもあたしの代わりになる人が必要なの。お願い。どうかこれをあたしの最後の最後の、本当に最後の我がままだと思って聞いて欲しい。・・・・・・その代わり、啓ちゃんには全財産譲るから。」
「ええっ?」
「ここの土地も家も、版権も、これまでの印税収入も、全部、啓ちゃんに譲る。お父さんもそれがいいって言ってる。」
「そんなの、僕には荷が重過ぎるよ。」
「こんなんじゃすまないとは思ってる。啓ちゃんは本当にあたしのために色々してくれた。でもあたしにできることはこのくらい。せめて、啓ちゃんの子どもでも産んであげられれば良かったけどね・・・・・・」
裕ちゃんはニッコリ笑ったままそう言った。
「ねえ、裕ちゃん?」
「何?」
「僕は、結婚してもいいんだよ。」
「・・・・・・ありがとう。それってプロポーズかな?」
「何言ってるんだよ。僕達は元々婚約してるんじゃないか。」
「ああ、そうか。籍を入れるってことね?」
「うん。」
「ありがとう。でもそれはいいや。啓ちゃんの籍は今度、正式に結婚するまで、大切な人のためにとっておいてあげてね。」
「裕ちゃんはそれでいいの?」
「うん。もう死んでしまう人間よりもこれから生きていく人を大切にして欲しいから。」
「選挙には出ないかもしれないよ。」
「それでもいい。でもどうか結婚だけは。」
「分かったよ。これからの人生、何が起こるかは分からないから約束はできないけど、裕ちゃんがそういう希望を持っているということは覚えておくよ。」
「ありがとう。これであたしはいつでも旅立てる。」
裕ちゃんはそう言ってニッコリ微笑んだ。裕ちゃんは重い病気にかかっているが僕が碑文谷のこの家に来てから僕に涙を見せたことは一度もない。どこかで涙を流しているのかもしれないが僕の前ではいつも笑顔だった。だから僕は変に落ち込まずに済んでいるのだ。
「ねえ啓ちゃん。」
「ん?」
「一つお願いがあるんだけど。」
「いいよ。なんでも言ってごらん。」
「久し振りに外の空気が吸いたいんだけどいいかな?」
「いいけど、・・・寒いよ。」
「近場でいいから。日差しも浴びてみたいし。」
「分かった。じゃあ、碑文谷公園でも行こうか。」
「わ~い。啓ちゃんとデートなんて久し振りだね。」
裕ちゃんはまるで少女のように喜んだ。僕は裕ちゃんを車椅子に乗せ、携帯用のキーボードを持って外に出た。
天気は良かったが、大寒の頃だ。いかんせん寒く、季節風が容赦なく二人を襲う。僕は何度となく裕ちゃんをかばおうとしたが、裕ちゃんは平然とキーボートに向かい、曲作りの続きに夢中だった。もうすぐ消えてしまう命、そのことが裕ちゃんを一層、光り輝かせていた。僕はそんな裕ちゃんと池に反射する日光を交互に見ていたが、そのうち妙な気配を感じて慌てて裕ちゃんを振り返ると裕ちゃんが動かなくなっている。
「裕ちゃん!」
呼びかけたが気を失っているようで、反応がない。僕は携帯を操作してすぐに救急車を呼んだ。
裕ちゃんはそのまま主治医のいる大学病院に入院した。主治医からは「もう家に帰ることはできないだろう」と言われている。入院した大学病院は完全看護なので付き添いはできない。僕は二月に入ってからこの大学病院に通う毎日をスタートさせ、裕ちゃんのデビュー二周年は病室で迎えることになった。さすがにもうレコーディングはできなくなってしまったが、才能の方は健在で、最上級の個室に入院した裕ちゃんは携帯用のキーボードをそのまま持ち込み、最後の最後まで曲作りに取り組んでいた。
そんな碑文谷の裕ちゃんの自宅と病院を往復する毎日にも慣れてきた三月のある日、病室のドアを開けるとベッドで横になっている裕ちゃんの前に見慣れたキザな男が座っているのが見えた。
「あっ、こんにちは。お見舞いにいらしてくれたんですね。」
僕は裕ちゃんの所属事務所の社長、野島慎一プロデューサーにあいさつした。野島プロデューサーが自らお見舞いに来るのは珍しい。忙しいのだろうし、苦手な裕ちゃんの父親、白石権蔵参議院議員と鉢合わせするのが嫌なのかもしれない。
「やあ、啓ちゃん。久し振りに来てみたけど、思ったよりも元気そうだったんで少し安心したよ。本当に最後の最後まで音楽をやってるんだね。」
「これが本当にあたしの人生だからね。」
裕ちゃんは、本当は辛いのだろうがニッコリして言った。
「そうだね。僕は裕ちゃんのような歌手をプロデュースできたことが誇りだよ。僕の音楽人生の金字塔だ。じゃあ僕はこれで失礼するよ。」
キザ男はそう言うと僕の方を向き「啓ちゃん、ちょっと二人だけで話したいことがあるんだけどいいかな?」と言ったので僕は「はい」と答え、キザ男は「じゃあまた来るよ」と裕ちゃんに向って軽く右手を挙げてから病室を出て行き、僕はその後を追った。
「ねえ啓ちゃん、つかぬこと聞くけど、大学は卒業できるの?」
病院の長い廊下を歩きながらキザ男が言った。
「ええ、卒業式は二十六日ですけど、卒業通知はもうもらいましたので。」
「そっか。こんな状況でよく頑張ったね。」
「別に頑張ってませんよ。必要な単位はほとんど三年までに取りましたから。四年はゼミと外書購読だけでしたからほとんど勉強していません。」
「それにしてもすごいよ。」
僕の作詞大賞受賞をさんざんバカにしていたこの人が僕をこんなに持ち上げるとは何か裏があるような気がした。
「いいえ、ゼミにもあまり顔を出しませんでしたから。」
「それで就職はするの?」
「それは無理ですよ。就職活動なんてまるでしていなかったんですから。」
「でも留年はしないんでしょ?」
「ええ、卒業はします。その後は、引き続き裕ちゃんの傍にいますよ。」
「裕ちゃんが逝ってしまったら?」
「・・・・・・そんな先のことは考えていません。」
「そうか。それなら一つ考えて欲しいことがあるんだけど。」
そう言うとキザ男は不意に立ち止まり僕の方に身体を向けた。
「なんでしょう?」
「僕の事務所に入らないか?」
「野島事務所・・・・・・にですか?」
「そうだ。啓ちゃんならいいプロデューサーになれると思うよ。いや、もう立派なプロデューサーだ。裕ちゃんをここまで育てたんだから。」
「僕は何もしてませんよ。ただ裕ちゃんの傍にいただけです。」
「さっき、裕ちゃんに聞いたんだけど、裕ちゃんの版権は全部、君が相続するそうじゃないか。」
「・・・・・・」
「それを聞いてちょっと安心したよ。相続するのがあのでかい親父だったらどうしようと思っていたんだ。なあ、啓ちゃん。裕ちゃんの残していくものを世に出したいと思うだろ?」
「それはそうですけど。」
「一緒にやろうよ。啓ちゃんとなら上手くやれそうな気がするんだ。」
なるほど、このキザ男はこれが言いたかったのだ。何か寂しいような、疲れがどっと出るようなそんな気分だ。
「今はそんな気分にはとてもなれません。」
「それはそうだろう。すぐでなくてもちろんいいよ。考えてくれるね?僕にできることならなんでもするから。」
「じゃあ一つお願いしてもいいですか?」
僕はやや疲れた表情で言った。
「もちろんだよ。」
「僕をしばらくそっとしておいてください。」
僕はそう静かに言うと、それ以上は野島氏と目を合わせず、背中を向けてそのままカツカツとその場を離れた。
病室に戻るとベッドに横になっていた裕ちゃんがニッコリ笑って僕を迎えた。僕は少し険しい表情だったと思う。
「野島さんなんだって?」
裕ちゃんがいつもの笑顔で聞いた。
「・・・就職先が決まってないなら野島事務所に入らないかって。」
「そう。で、啓ちゃんは?」
「しばらく僕をそっとしておいて欲しいって言ったよ。」
「そっか。そんな気分じゃないか。」
「そりゃそうだよ。野島さん、僕じゃなくて裕ちゃんが残していくものが欲しいだけだもん。」
「啓ちゃんはどうしたいの?」
「そんなのまだ分からないよ。分かるわけないじゃないか。」
「でも、あたしはもうすぐ旅立ってしまうんだよ。これだけは確実にやってくることだから。もうすぐね。」
「それは分かってる。多分、僕の人生も完全にリセットされるんだろうね。」
「野島さんは苦手かな?」
「そうだね。ハッキリ言って苦手だよ。権蔵先生や博士も苦手なタイプだけど、野島さんよりはいいかな。」
「まあ、そんな感じだね。グイグイくるもんね。・・・分かった。野島さんの方はあたしがなんとかするよ。」
「なんとかするって?」
「あたしがいなくなった後、啓ちゃんにはおいそれとは近付けないように魔法をかけるね。まあここはあたしに任せてよ。」
裕ちゃんはそう言ってニタッとした。何かをたくらんでいるときの表情だ。僕が裕ちゃんと一緒に暮らし始めてもう一年になる。僕も裕ちゃんの腹の中が少しは読めるようになってきた。
次の日も野島プロデューサーは病院にやってきた。もう時間がないと思っているのだろう。夕方遅く、僕が裕ちゃんの食事の後片付けをしていると不意にドアがノックされ、キザ男が現われた。今日は手に果物を持ってきている。
「で、昨日の話の続きなんだけど。」
キザ男はあいさつを済ませるとベットの脇に座り、早速、裕ちゃんに本題を切り出した。あせっているようだ。
「昨日の話って?」
「裕ちゃんの残していくものの管理だよ。昨日は啓ちゃんが全部相続するって話を聞いたけど。」
「ああ、あれね。」
「実はね、昨日、啓ちゃんにはちょろっと話したんだけど、啓ちゃんに僕の事務所に入ってもらったらどうかと思うんだ。どうだろうか?」
「野島事務所に?」
「ああ。啓ちゃんは、もちろん作詞大賞受賞者だからもう既に重鎮かもしれないけど、まだ若いし、業界のことはよく知らないだろうから僕の事務所に入れば色々と都合がいいんじゃないかと思ってね。」
裕ちゃんを説得しようとしているのだろう。野島氏は少し早口でしゃべった。裕ちゃんは一瞬、僕と顔を合わせるとニコッとし、一呼吸置いて話を続けた。
「その話なんだけど、実はね、あたしの版権を管理する会社を作る話が出てきてるの。」
そんな話は僕には初耳だ。
「あっ、そうなんだ。そんなことちっとも聞いてなかったけど。」
キザ男も初耳だったようだ。
「うん。昨日、降って湧いて出てきた話だからね。でも悪い話じゃないでしょ?」
「もちろんだよ。で、啓ちゃんが経営するんだね?」
キザ男は僕の方をチラッと見て言った。
「もちろん啓ちゃんには役員になってもらう予定だけど。」
「じゃあさ、僕にも出資させてよ。なんなら非常勤でもいいから僕も役員に入れてもらえないかなあ?啓ちゃんの実力は百も承知だけど、業界のツテはまだそんなにないだろうから僕のツテを使ってもらっていいよ。」
「そうだね。野島さんが入ってくれるとあたしも安心かな。」
裕ちゃんが昨日言ったことと真逆のことを言ったので僕は裕ちゃんを不機嫌そうに見た。そんな僕と目を合わせ裕ちゃんはニコッとした。
「それで、僕はどうすればいいかな?」
喜色満面の野島氏が裕ちゃんに聞いた。
「父と話をしていただけます?色々なしがらみがあって、本社は柏崎に置くことになってるの。そして代表者は白石権蔵。」
「ええっ?啓ちゃんが社長になるんじゃないの?」
「まあ政治的な事情があると思って下さいよ。」
「なんで柏崎なの?」
「啓ちゃん、次の衆議院議員選挙に出るんだし、地元で顔を売っておかないと。地元の商工会議所や法人会のメンバーにもならないと駄目だからね。こればっかりは東京じゃできないから。」
「そうなんだ・・・・・・」
キザ男は一気にトーンダウンした。裕ちゃんはしたり顔だ。
「野島さんが管理会社の経営に参加してくださるのは大歓迎です。ただ父も忙しいので早めにアポイントメントとって下さいね。啓ちゃんは私を見送ったら柏崎に帰ってしまうのでもうそんなに時間もないから。」
「啓ちゃん、柏崎に帰っちゃうの?」
キザ男が今度は僕に聞いた。でも僕に答えられる質問ではない。
「だから選挙に出るんだってば。地元にいないとダメでしょ。新人なんだし。」
僕が黙っていると裕ちゃんが代わりに答えた。
「・・・・・・分かった。・・・お父さんとのことは考えておくよ。・・・・・・じゃあ僕はこれで失礼する。」
そう言うとキザ男は僕に軽く会釈し、裕ちゃんと僕の視界から消えて行ったが、その後姿には英気がまるで感じられなかった。
「裕ちゃん。」
僕は裕ちゃんに声をかけた。
「うまくいったね。ああ言っとけば野島さん、もう啓ちゃんには近付けないと思うよ。」
「柏崎に版権の管理会社を作るって言ってたけど。」
「う~ん。ハッタリだったんだけど、言ってみたらそれもいいかなって思っちゃった。権蔵が社長なら番犬代わりに使えるし、啓ちゃんが好きなようにやれるかもしれない。」
「裕ちゃんはそんなんでいいの?」
「それがいいよ。こないだ『全財産を啓ちゃんに譲る』って言ったけど、それは今までのお礼なんかじゃなくて、本当はあたしが残していくものを啓ちゃんに管理して欲しいから。啓ちゃんならあたしが残していくものを本当に大切に守ってくれると思うから。」
「そんなこと僕にできるかな。なんだか荷が重いんだけど。」
「啓ちゃんにしかできないよ。ホントのこと言うとそれは最初から分かってたんだ。」
「最初から?」
「そう。一番最初から。」
「どういうこと?」
「この前、『お父さんの勧める人と結婚して』ってお願いしたとき、『理由は二つある』って言ったよね?」
「ああ。二つ目は聞きはぐったけど。」
「二つ目の理由はそれだよ。あたしが啓ちゃんのことを離したくないの。啓ちゃんにはあたしの残していくものをずっと大切に守って欲しいから。」
「守るって。」
「ホントはね、あたし、分かってたの。自分の命がそう長くないってこと。啓ちゃんと銀座の和光の前で待ち合わせをする前から。博士にそう言われてたの。」
「博士に?」
「そう。さすがは天才医師だね。博士のところで血液検査とかもやった。で、博士には早急に専門的な治療をするように勧められたんだけど、あたしは断ったの。今まで自分が夢見てきたことがまさに実現しようとしているところだったからね。あたしは本当に命を賭けてもいいと思ってた。ヘタに長生きするよりずっといいとね。博士は『病気を治してからでもいいんじゃないのか』って言ってくれたけど、あたしにはそれは受け入れられなかった。こんなチャンス、本当に一生に一度来るか来ないか。来ない可能性の方がはるかに大きい。でもあたしのところには来た。これは逃せなかった。博士も最初はあたしを説得しようとしてくれてたけど、あたしの熱意に負けたのか、最後はあたしに協力してくれるようになった。」
「そうだったんだ。」
「博士からはいざというときのための準備をしておくように言われてた。いつ旅立ってもいいようにって。それであたしが残していく愛する楽譜たちを管理してくれる人がどうしても必要になったの。事務所の野島社長は、もちろん音楽プロデューサーだから才能もツテもあるけど啓ちゃん知っての通り自分の利益優先。とても残していくものを託すことはできない。お父さんは実の父親だから信頼はできるけど音楽の素養がまるでないし、そもそもあたしの音楽活動に理解がない。博士はあたしの音楽活動は理解してくれるけど、音楽の素養はないし、そもそも自分の管理もろくにできない人だからあたしの大切なものが管理できるはずがない。どうしようかなと思ってたら、ちょうどその頃『天使の翼』の楽譜が出てきて、柏崎市民音楽祭の思い出が甦って、啓ちゃんのことが頭に浮かんだの。」
「市民音楽祭の思い出?」
そう言われて紫色のドレスを来た少女がピアノを弾く姿が微かに脳裏に浮かんだ。
「お父さんに政界進出断念の言い訳もしないといけないと思ってた頃だったから一石二鳥にもなると思ったしね。あたしの記憶では啓ちゃんは堅物で、几帳面で、財布の中身を円単位まで合わせられる少年だった。それに何より柏崎市民音楽祭のときもそうだったけど、あたしの音楽活動を一番理解してくれていた人だった。それで柏崎のお母さんに電話したら経営学部の学生で真面目に勉強してるっていうじゃない。じゃあ、残していくものの管理もお願いできるかなあとか考えて銀座に呼び出したら学ランは着てくるわ、約束の時間よりも前に来るわ、床屋さんの領収証は持ってくるわ、やることなすことことごとく大当たり。挙句の果てにはお父さんの面接にまで合格しちゃったもんね。たった一日で。ホントにビックリした。」
「あれは全部テストだったんだ。」
「まあね。ゴメンね。黙ってて。」
「僕のアパートにモンブラン持って来たのもテストの続きだったのかな?」
「そうだね。啓ちゃん、堅物だから大丈夫だとは思ったけど、万一、女の人と一緒に暮らしてたりしたらやっかいなことになると思ったからね。だから無予告で急襲したの。でもそれは本当に取り越し苦労で、部屋の中は綺麗に整理整頓されていた。あたしが人生を託すのはこの人しかいないと確信したのはあの時かな。」
「クリスマスイブの夜もシナリオ通りだったんだね?」
「お父さんが二人の仲を怪しみ始めたのは事実だよ。それで、『そんなに心配ならクリスマスイブの夜には会うから直接会って、プレゼントの中身でも確認したら?』っ言ってお父さんをけしかけたのはあたし。」
「僕がプレゼントを準備してこなかったらどうするつもりだったの?」
「啓ちゃんはそんな人じゃないよ。だってその前の年は彼女でもなんでもないマルチの女の子のためにプレゼントを準備したんでしょ?騙し取られたって言ってたじゃない。」
「それはそうだけど。まさか、僕が三百万円用立てしたのも計算通りって訳じゃないよね?」
「実はね、結納の時に啓ちゃんのお母さんとちょっと内緒話したの。」
「内緒話?」
「お母さん、『うちは貧乏だけど、お父さんがコツコツ貯めたお金が一千万くらいある』って言ってた。」
「そんな話したんだ。」
「お母さん、『白石家に比べればちっぽけなものだけど、啓一が管理してるから、もし、何か緊急な物入りがあったら使ってもらっても構わない』って言ってた。だから申し訳なかったけど、緊急な物入りだったんで使わせていただきました。本当はあたしが売れてから、あたしが稼いだお金にこれまでの感謝の気持ちを込めて、それと愛情も少し込めて、博士に渡して、それで博士とは永遠にバイバイするつもりだったの。だから博士を送り出すためになんとしても売れなきゃって思って頑張ってたんだけど、中々デビューできなくて、デビューしたらしたで中々売れなくて。あのときは正直、あせったなあ。せっかく博士の論文が認められたのに時機を逸しちゃうって。」
「計算ずくだったってことだね?」
「それから啓ちゃんの快進撃はすごかったね。あたしの体調不良を見破って、野島さんにメディカルチェックを進言したのは啓ちゃんでしょ?」
「そうだけど・・・分かってたの?」
「分かるよ。野島さんが啓ちゃんをクルマで送っていった次の日にいきなり言われたんだもん。それまであたしの健康なんかちっとも関心のなかった人にだよ。で、啓ちゃんに気付かれたなと思って、これ以上、啓ちゃんはごまかせないと思ったし、一応の成功は納めたし、正確なタイムリミットをそろそろ知らなきゃいけないなと思ってね。それでメディカルチェックは受けたの。余命を宣告されることは分かってたから、それを啓ちゃんに聞きに行ってもらうように仕向けたのもあたし。お父さん、国会で忙しいし、『何かあったら婚約者である啓ちゃんに』ってことは病院にも秘書の山崎さんにも伝えておいた。それから啓ちゃんは碑文谷のおうちに押しかけてきてくれた。」
「碑文谷の家でレコーディングするのも計画通りだったんだ?」
「そう。だからスタジオもあの家の中に作ったんだよ。入院しないで音楽活動に余命をつぎ込めるようにね。啓ちゃんは絶対に来てくれると思ってたから啓ちゃんの部屋も準備しておいた。啓ちゃんは頼みもしないのにあたしのマネージャー、いや失礼、プロデューサーとして音楽家白石裕子を思う存分、機能させてくれたよ。」
「聡美さんと僕をくっつけるって言ってたのも嘘だったんだね。」
「聡美と啓ちゃんがくっつかないことは最初から分かってた。二人とも生真面目だからね。まあ、あたしと聡美の友情復活のために啓ちゃんに一肌脱いでもらおうと思っただけ。でも聡美と啓ちゃんが将来助け合う関係になると思っているのは嘘ではないよ。近いうちにね。啓ちゃんには申し訳ないけど、そのとき誤解は解いて欲しいからよろしくね。」
「権蔵先生とのことも計算づくだったのか?」
「そうだね。なんと言ってもお父さんとの防波堤になってくれたのが一番だった。私立探偵を雇って啓ちゃんの素行調査をするようにお父さんにけしかけたのもあたしだったんだけど、あれでお父さんの啓ちゃんに対する印象が俄然良くなったよ。市民音楽祭のときもそうだったけど、啓ちゃんはいつもあたしの味方だった。まあ、自分で言うのもおこがましいけど、あたしは人を見る目があったね。啓ちゃんに白羽の矢を立てて正解だったよ。短かったけど、本当に素晴らしい音楽ライフでしたよ。あたしの音楽人生、もう悔いはない。やりたいことは全部やった。残していくものはたくさんあるけど、あたしの愛する楽譜たちは啓ちゃんがきっと最高のプロデュースをしてくれるはず。これからあたしの残していくものをどうやって世に出していくのか、天国から楽しみに見てますからね。」
「・・・・・・僕は裕ちゃんの手のひらで泳いでいただけだったのかな?」
「最初はそのつもりだったけど結果は逆だった。あたしが啓ちゃんの大きな手の中でクルクル遊んでただけだったよ。啓ちゃんはあたしのことをこの世で一番理解してくれている名プロデューサー。啓ちゃんにだったらあたしは全てを託すことができる。お金も、音楽も、人生も。だから、啓ちゃんにお父さんの勧める人と結婚して欲しいのはあたしが啓ちゃんのことを離したくないからなの。いつまでもあたしのことを大切に守って欲しいから。だから・・・・・・」
裕ちゃんはそう言って布団の中から左手を出し、僕の前に差し出した。僕は黙ってその左手を両手でしっかり握り締めた。
「ありがとう。すごく安心する。」
裕ちゃんはそう言って瞳を閉じた。満足そうな笑顔だった。
あらかじめ分かっていたとしても本当の別れの瞬間は突然に訪れる。裕ちゃんとのそんなやりとりのあった二週間後の三月十九日、裕ちゃんの心拍数や呼吸はにわかに弱くなり、血圧が下がり始めた。医師や看護師が多数ベッドを取り囲み、蘇生を試みるが反応は鈍い。僕はただ裕ちゃんの左手をしっかりと握り締めることしかできなかった。
そして裕ちゃんは僕の手を握ったまま、静かに、安らかに、眠るように天国への階段を昇っていった。
エピローグ
それから一年がたち、裕ちゃんの一周忌も終わった。裕ちゃんが逝ってしまった後、僕は柏崎に帰ることなく、そのまま裕ちゃんの碑文谷の家に留まることになった。大学は卒業できたが就職活動をまるでしていない僕は就職できるわけもなく、今は権蔵先生の助けもあり、裕ちゃんの版権を管理する会社を設立して、裕ちゃんの残してきたものを整理する毎日を送っている。そしていつの日か、裕ちゃんの残した膨大な楽曲を、裕ちゃんと同等あるいはそれ以上の実力を持った歌手の歌声で世に送り出すことを夢見ている。
博士は相変わらず行方不明で何をしているのか分からない。裕ちゃんが逝ってしまったことを知っているのだろうか。今度会ったらネチネチ文句を言ってやろうと思っている。
聡美さんとも音信不通だが、ご本人はテレビでよく見かけるようになった。ミス東大の看板を背負っているためか、バラエティーへの出演がほとんど全部だ。もっともバラエティーは苦手なようで、出演者からはいじられまくっている。本人の生真面目な性格が災いしている結果でもあるのだが。
権蔵先生は相変わらず忙しい身なものの、時々は僕と会うようになり、会うたびに選挙の話をされる。結局、結婚はできなかったけれども、婚約は解消されていないので今でも裕ちゃんと僕は婚約しているといえるのかもしれない。先生はそんな僕を娘の婚約者として選挙に出すつもりなのだろうか。・・・・・・でも残念ながら僕にはそんな野心はない。
裕ちゃんが逝ってしまってから一年がたち、また新しい季節がやってきた。裕ちゃんと過ごした日々は僕の中ではもう遠い日の思い出となっている。
天気の良い春の日の午後、庭の草花に水をやりながらそんなことを考えていると、ふと玄関先で「ごめんください」という声が聞こえたような気がした。
(『JK妻』に続く)