思ひ出   作:山田甲八

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二 面接

 首都高速横羽線を横浜方面に向かう間、裕ちゃんは饒舌だった。これまでどれだけ苦労してポップスコンクール優勝を勝ち得たかを自慢げに話していた。僕はどちらかというとどっちらけだった。所詮は左ハンドルの超高級車を乗り回すお嬢様。苦労話にも説得力はない。ケーキの食べすぎでお腹はパンパン。高速を走るクルマの揺れも心地よい。僕は何度となくウトウトした。三十分くらいで高速のランプを降りるとしばらく市街をグルグルし、白と青と赤の帯がグルグル回っている床屋さんのトレードマークの前でクルマを止め、降りるよう僕に親指で合図した。

「よかったあ~。ここにしよう。」

 裕ちゃんは独り言のようにそう言うと僕の承諾を求めるまでもなく、クルマのキーはイグニッションに差し込んだままクルマを降りて一人でずんずん床屋の中に入っていった。僕はあっけに取られた。クルマからは降りたものの一人でぽかんと立ち尽くしていると床屋のドアが開き、裕ちゃんが顔だけ覗かせた。

「ちょっと、なにぼんやりしてるの?主役が来なきゃ始まらないでしょ。」

 そう言って手招きしたので僕は仕方なく店の中に入った。

「ちょうど良かったよ。すぐにやってくれるって。」

 裕ちゃんはそう言って、僕の腕をつかみ、床屋の椅子に座らせた。上着はクルマの中なので僕はワイシャツ姿だ。

「スミマセン。この人、床屋さんが嫌いなものだから。」

 裕ちゃんが姉のような口調でそう言うと、僕のボサボサの頭を見た店主はさもありなんという表情を見せた。

「短めにしてください。後ろとサイドはバリカン入れて刈り上げてくださいね。」

 裕ちゃんが勝手に注文を出したので僕は慌てた。

「ちょっと待ってよ。勝手に決めないでよ。」

「彼女の言うことは聞くものよ。刈り上げた方が啓ちゃん、男前になると思うよ。じゃあ、あたしは色々、準備があるから。終わったらインターコンチの一階のロビーで待ち合わせということにしてね。」

 裕ちゃんはそう言うとお店の人に「お代です」と言って慶応義塾の創始者、福沢諭吉先生のブロマイドを一枚渡した。

「ねえ、裕ちゃん。」

 僕は鏡の中の裕ちゃんを呼び止めた。

「もし僕がこのままずらかったらどうするの?」

「啓ちゃんはそんな人じゃないよ。それはあたしが一番良く知ってる。なんてったってあたしは啓ちゃんの彼女なんだから~。」

 裕ちゃんはおどけた口調でそういうと「じゃあ、またね~」と鏡越しに明るく手を振って僕の視界から消えて行った。

 

 それから一時間後、翼賛型ともいうべき後ろと両サイド刈り上げの髪型にチェンジした僕は床屋の近くにあるヨット型のホテルのロビーの喫茶店で裕ちゃんの到着を待った。暇だったのでお尻のポケットに隠してあった文庫本の哲学書を読んだ。

 本を読んでいると背後に人の気配を感じたので振り返ると目の前に裕ちゃんの顔があり、ビックリした。本を後ろから覗き読みしていたのだ。

「わっ、ビックリした。」

「随分、硬いの読んでるんだね。」

 哲学書だから硬いのは当たり前だ。

「まあ、お守り代わりに持ってきたんだよ。裕ちゃんが急に呼び出したから宗教とかマルチの勧誘かと思ったんだ。」

「そっか。まあ、似たようなもんだったけどね。」

 裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言うと僕の対面の椅子に座った。

「随分、男前になったね。やっぱり啓ちゃんは刈り上げの方が似合うよ。」

 裕ちゃんはそう言うと僕の目の前にあるレモンスカッシュに手を伸ばし、ストローで一すすりすると「いらっしゃいませ~」とメニューを持ってきたウェイトレスにグラスを掲げて「これと同じもの」と注文した。

「マルチとかにひっかかったことがあるんだ?」

「引っかかったことはないけど引っかかりそうになったことはあるよ。」

「へ~、啓ちゃんらしくないね。」

「まったくだね。去年のクリスマスイブだよ。クラスの女の子から朝、電話があってさ。『今晩会えないか?』って言うんだよ。そう言われるとこっちも期待するじゃない。で、プレゼントも準備して出かけていったら男が何人も集ってるわけ。それでその子が登場してマルチの説明が始まったのさ。」

「ハハハ、それは災難だったね。でもそれって既に引っかかったっていえると思うけど。プレゼント、騙し取られたんでしょ?」

「まあそうともいえるけど、それにしてもひどいと思わない?クリスマスイブだよ?」

「それであたしもマルチかと思ったんだ?」

「まあ、マルチとは思わなかったけど、宗教の勧誘かなと。裕ちゃん、お嬢様だし、さすがにマルチには手を出さないかなあと。」

「そっか。それでその本がお守りなの?それって哲学書?革命本?書いたのは革命家だよね?」

「まあ両方かな。『人間が神を作ったのであり、神が人間を創ったのではない』というくだりがあるんだ。だから裕ちゃんに何か言われたら『この本にこう書いてある』って言ってさっさとサヨナラしようかと思ってたんだ。」

「そっか。でもその本、今日、これからの展開でちょっとお役立ちになるかも。」

 そう言って裕ちゃんは既に手元に寄せてある僕のレモンスカッシュをもう一度すすった。

「ねえ、裕ちゃん、それ僕のなんだけど。」

「ああ、ゴメン。喉かわいちゃったから。甘いの食べ過ぎたし、コーヒーと紅茶も飲みすぎたからやっぱり炭酸がいいよね。」

「よく人の飲んだもの平気で飲めるよね。」

「何言ってんの。あたしと啓ちゃんの仲じゃない。間接キッスくらいでガタガタ言わないでよ。あたしと啓ちゃん、直接キスもしてるんだよ。」

「はあ?」

「忘れちゃったかな?保育園の頃。あたしの家だったか、啓ちゃんの家だったか、それは思い出せないんだけど、おままごとしてて、あたしが啓ちゃんに『ねえ、キスってしたことある?』って聞いて、啓ちゃんが『ない』って答えて、『じゃあ、やってみようか』ってことになってやったんだよ。軽いフレンチキスだったけど。」

「僕が三歳くらいのときかな?」

「そんくらいだね。」

「全然、覚えてないや。」

「あたしは時間や場所はもうあやふやだけどファーストキスの相手が啓ちゃんだったことは鮮明に記憶してるの。」

「でもものごごろつく前の話だよね?」

「ものごころついてたらそんなことするわけないでしょ。」

「そりゃそうだ。」

「・・・・・・よく逃げなかったね。」

「逃げるって。」

「さっき、ずらかるとか言ってたじゃない?」

「逃げられるわけないよ。僕の大切なものを質に取ってるでしょ?」

「えっ、なんだろう?」

「学ランだよ。僕の上着。クルマの中でしょ?」

「ああ、そうだったんだ。そっか。それは気付かなかった。」

「携帯もポケットの中だしね。」

「そっか。さっきから啓ちゃんの携帯に何度か電話したんだけど出なかったから怒って帰っちゃったのかと思った。それはゴメンね。気が付かなかった。」

「そうだったんだ。それで、これがおつりと領収証ね。」

 僕はそう言ってさっきの床屋のおつりと領収証をテーブルに並べた。

「へ~、律儀というか生真面目だね。ピンはねしないんだ。」

「する方がどうかしてると思うけど。」

「いや~久し振りに感動しました。領収証までついてくるとは。啓ちゃん、税務署の人みたい。」

「茶化さないでよ。」

「そっか。啓ちゃんて財布の中身、円単位まで合わせられる人だったよね?」

「はあ?どういう意味?」

「あたしが中学三年のときかな、啓ちゃんに『今、いくら持ってる?』って聞いたら啓ちゃんが円単位まで答えてさ、財布の中身確認したら本当に円単位までピッタリでビックリしたことがあるの。それを思い出してさ。」

「まあ、僕は昔から几帳面な性格だからね。特にお金は裕福な方じゃないし、僕にとっては貴重な資源だから当然、管理は厳格になるよ。」

「あたしはいっつもアバウトだけどなあ。」

「それは裕ちゃんがお嬢様でお金に苦労してないからでしょ?僕はどんぶり勘定というわけにはいかないよ。」

「で、ちなみに今はいくら持ってるの?」

「今?今、財布の中には四千八十四円入ってるけど。まあ裕ちゃんに会うっていうんで僕としては入れてきた方だよ。」

「悪趣味で申し訳ないけど、お財布の中身確認してもらってもいい?」

「ああ、まあいいけど。」

 キャッチセールスでは「今、いくら持ってる?」という問いは常套手段だが、裕ちゃんは別に詐欺師でもないので財布を取り出し、テーブルの上に四千八十四円を並べて見せた。裕ちゃんは慎重にお金をカウントしていた。

「ホントだ。ピッタリだ。あの頃と変わってないね。」

「まあ、これは習慣だからそう簡単には変われるもんじゃないと思うよ。……それでこれからどうなるの?」

「ハイハイ、これからね。お腹はこなれてきたかな?」

「まあ空いてはきたけどケーキはしばらく勘弁してほしいな。」

「あたしも同感。半年くらい勘弁してほしいね。でも大丈夫。今度はフレンチのコースだから。このホテルの上のレストランで豪華ディナーになります。」

「権蔵先生はもう来てるの?」

「まだまだ。お父さん忙しいからね。今日も鎌倉の方で会合があって、夜はまた東京で会合があるんだけどその合間をぬってちょっと顔出すだけだから。だからあたしと啓ちゃんがディナーデートをしている最中にちょっと臨席するっていうのが正確なところかな。」

「なんの話すればいいのかな?」

「啓ちゃんはあまり話さなくていいよ。お父さんはいくつか質問してくると思うけど、適当に答えてくれればあたしが助け舟出すから。」

「ふん。」

「ただ一つ覚えておいてほしいのはあたしが言うことには逆らわないでほしいの。」

「どういうこと?」

「つまりね、あたしが言うことに『それは違う』というようなことは言わないでほしいの。事実と違うのは当たり前なんだから。所詮はフィクション、お芝居の世界なんだから。」

「つまり、僕に政治家になる意欲があるようなことを言うんだね。」

「まあ、そういうことだね。」

「分かった。頑張ってはみるよ。乗りかかった船だし。」

「もう、乗っちゃってるけどね。まあそんなに心配しないでよ。就職の面接の練習だと思えばいいじゃない。どうせ就活するんでしょ?」

 裕ちゃんがそう言うと、ちょうどその時、ウェイトレスが「お待たせしました」と言って、レモンスカッシュの入ったグラスを持ってきた。もう一つのグラスは裕ちゃんの手前にあるのでウェイトレスは持ってきたグラスを僕の目の前に置き、「ごゆっくりどうぞ」と言って下がった。裕ちゃんは今、置かれたグラスに手を伸ばし、今まで使っていたストローを中に入れ、再び一すすりし、「おいし~」と言って僕と目を合わせニッコリした。

 

 それから二人は地下の駐車場に行って、僕の学ランを取ってから最上階のフレンチレストランに移動した。奥の個室が用意されていて、円卓に三つの椅子が置かれている。窓際の一番奥の椅子に主賓が座るようで、裕ちゃんと僕は下座の方に腰掛けた。七時頃から晩餐が始まった。

 コースが始まるとさすがにこれから起こる出来事に緊張しているのだろう、僕は無口になった。今日会う参議院議員とは幼少の頃、何度か会っているのだが、良い印象は持っていない。威圧的で暴力的で、始終、怒鳴り散らしている、そんな印象しか持っていないのだ。それでも裕ちゃんは饒舌に喋りまくり、ずっとニコニコしていた。

 メインディッシュが到着し、数分が経過すると、ギャルソンが「お連れ様がお見えになりました」と言って巨漢の男を個室に招きいれた。今日の主賓が到着したのだ。裕ちゃんと僕は立ち上がってその巨漢を迎えた。巨漢は僕の目の前に立った。

 なるほど新聞やテレビではよく見かけるようになったが、実物にこれだけの至近距離で会うのは本当に久しぶりだ。身長百八十五センチはあるだろうか。恰幅もよく、見上げる大男だ。一方の僕は百六十五センチしかなく、体重も六十キロに満たない。これからリング場で戦うとなると一発でノックアウトされるのがオチだろう。年齢は忘れてしまったが裕ちゃんの父親なのだから六十は超えているに違いない。しかし黒髪が保たれていて実年齢よりもかなり若く見える。

「やあ、待たせたな。」

 巨漢の大きい声に僕は思わず身震いした。誰かが「鬼の権蔵」と言っていたのも分かるような気がする。

「柏崎では何度かお会いさせていただきましたが石水です。いつも裕子さんにはお世話になっています。」

 僕は巨漢の十分の一にも満たない小さな声でそう言い、深々と頭を下げた。巨漢の政治家は一瞬、キョトンとした表情で僕を見た。それから僕の目の前を通り過ぎ、円卓の奥の窓際の椅子にドスンと腰掛けた。傍にいたギャルソンがグラスにワインを注いだ。

「そうだったか。初めてではなかったか。すまないが君の事は思い出せないよ。」

 巨漢はあまりすまなくはなさそうに言った。

「いえいえ、僕なんかただ裕子さんと同じピアノ教室に通い、小学校と中学校が同じだったっていうだけですから。」

「そう。そのときは別になんとも思ってなかったんだけど、あたし、こっちでちょっとつらいことがあってね。そんなときに久しぶりに再会して色々と元気づけられたの。そうするうちになんかこの人がいいんじゃないかって思って。お父さんもいいでしょ?柏崎の人だし。」

 裕ちゃんが僕の後に続いてそう言った。

「まあ、座りなさい。まずは乾杯だ。」

 巨漢はやや退屈そうな表情でそう言い、裕ちゃんと僕は椅子に座った。巨漢はたった今、ワインが注がれたばかりのグラスを右手で持ち上げ、裕ちゃんと僕もそれに倣った。

「遅れてすまなかったな。じゃあ、乾杯!」

 巨漢が相変わらずの大きな声でそう言うと、裕ちゃんと僕も「乾杯」と唱和し、僕は飲まずに口だけをつけ、グラスをテーブルに戻した。

「体育会か?」

 学ラン姿の僕を見た巨漢のそんな質問から始まった。

「いいえ。」

「なんで学生服を着ている?」

「いや、その~、この格好が好きなものですから。」

「今どき珍しいでしょ?気骨があるよね。」

 僕がしどろもどろにしていると裕ちゃんが横からフォローした。

「そうか。確かにチャラチャラはしていないようだな。申し訳ないが私は忙しい身でね。あまりのんびりはしていられないんだ。少し君に質問させてもらうよ。」

 巨漢はそう言って僕をにらみつけた。僕は「はい」と言ってあらためてかしこまった。

「最近、どんな本を読んだ?」

 読書なんか最近はしてはいない。しかし、哲学の宿題でカントの『道徳形而上学原論』を読んでいたはずだ。

「カントの『道徳形而上学原論』を読みました。」

「随分、硬いな。どう思った?」

「はい。人間、必要なのは善意思だと思いました。どんなに頭が良くてもそれがいいことに使われなければ価値がないと思います。」

「政治はそんなに甘くはないけどな。政治の本とかは読まないのか?」

「はあ。」

「啓ちゃん、今、読んでる本があるんじゃないの。ズボンのポケットに入ってるでしょ?」

 裕ちゃんがまたフォローした。

「なんだ。じゃあ見せなさい。読んでいる途中のものでもいいよ。」

「はい。」

 僕はそう言って仕方なく、お尻のポケットからさっき読んでいた文庫本の革命書を取り出して巨漢に差し出した。巨漢は黙ってそれを受け取り、タイトルを見てから中身をパラパラとめくった。

「君はまさかこっちの思想の人間じゃないだろうな?」

 行間を視線で追いながら巨漢はドスの効いた声で言った。

「そんな人、あたしが選ぶわけないじゃない。むしろ逆よ。こないだも二人で靖国神社に参拝してきたんだから。それにもしそっちの思想だったら学生服とは真逆だと思うけど。」

 裕ちゃんが再びフォローを入れた。「二人で靖国神社に参拝」はまるで嘘だ。

「なるほど。敵を知るということか。」

 そう独り言のように呟き、巨漢はサイドラインやラインマーカーの引いてある箇所をチェックしているようだった。

「ありがとう。良く勉強しているようだな。で、政治についてはどう考えている?」

 文庫本を僕に返しながら巨漢が質問した。

「・・・・・・」

「そんな抽象的な質問じゃ啓ちゃん答えられないよ。もっと具体的に聞かないと。」

 僕が答えられないでいると裕ちゃんが救いの手を差し伸べた。

「そうか。じゃあ例えば税制なんかどうだ。日本の税制はどうあるべきだと思う?」

 それも難しい質問だが、今、税務会計のテキストを読んでいる最中で、少しは知識がある。

「そうですね。僭越ですが直間比率を是正すべきかと・・・・・・」

「消費税率を上げろというのだな?」

 「思います」まで言うのをさえぎって巨漢が言った。

「はい。」

「そんなことで選挙に勝てるか?」

「お言葉を返すようで恐縮ですが、今のままでは富裕層は海外に逃げてしまうでしょうし、国債を国内で消化できなくなるのも時間の問題ではないでしょうか。確かに選挙は大切かもしれませんがそもそも政治家の志は・・・・・・」

「なるほど、まだ若いな。まあいいよ。若いということはそういうことだ。私も昔はそうだったからな。」

 また僕の発言を遮って巨漢が言った。すると開いているドアがノックされ「失礼します」と言って中年の男性が個室に入ってきた。

「先生。ご歓談中、恐縮ですが、そろそろお時間です。」

「ああ、十分という約束だったな。」

 巨漢はそう言うとワイングラスを持ち、口をつけ、三分の一くらいを飲んだ。

「石水君とかいったかな?」

「はい。」

「すまないが今日はこの後、別の会合が東京であるんだ。それに出席しなければいけないのでね。私はこれで失礼するよ。君達はゆっくりしていってくれ。今度、また別の機会にゆっくり君の話を聞こう。じゃあ。」

 巨漢はそう言うと立ち上がり、ドスドスと個室から消えて行った。裕ちゃんが「クルマまで送るよ~」と言いながら後を追い、僕は個室に一人取り残され、ワインを一口、口に含んで喉の渇きを潤した。

 

 しばらくするとクルマを見送ってきたくらいのタイミングで裕ちゃんが戻ってきた。

「お疲れ様でした。これで今日の気を使う行事はおしまい。後はのんびりディナーを楽しもうね。」

 裕ちゃんはそう言ってハンドバックの中から何やらタブレットを取り出し、口に放り込むとテーブルに置いてあるグラスに入った水で身体の中に流し込んだ。運転があるので裕ちゃんはワインを飲んでいない。

「何それ?」

「ん?」

「胃薬?」

「ああ。もちろん胃は痛いからね。お父さんと会って胃の痛くならない人はいないと思うよ。娘ですら胃が痛くなるんだから。」

 裕ちゃんはもう一度グラスに口をつけた。

「あんなんで良かったのかなあ?」

「百点満点だよ。ここまでうまく行くとはあたしも思わなかった。さすがは啓ちゃんだね。」

 裕ちゃんはニッコリ笑って言った。

「権蔵先生何か言ってた?」

「うん。『今までの男の中では一番いい』って言ってた。」

「今までもこういうことやってたんだ。」

「まあ、お見合いとかも含めてね。」

「お見合いしたこともあるの?」

「お見合いっていったって政略結婚だよ。上場会社の創業者一族とかさ。お父さんも結局、お金が欲しいからね。」

「政治家の娘にはそれなりの苦労があるってわけか。」

「それで、交際は父のオーケーが出ました。おめでとうございます。あなたは合格です。」

「気に入ってもらえたんだ。」

「良く勉強している真面目な青年と見たようだね。まあ実際、そうなんだろうけど。」

「そんなに勉強もしてないけどね。あんなんで僕の人となりとか分かるのかなあ?」

「『読んでいる本を見ればその人物が分かる』っていうのがお父さんの持論でね。さっきロビーで啓ちゃんあの本、読んでたでしょ?であたしこれは使えるって思ったの。」

「だからあんなこと言ったんだ。」

「そう。うまくいったでしょ。ということで、啓ちゃん、今日からあたしの、お父さん公認の彼氏になりましたからそのつもりでね。」

「でもダミーなんでしょ?」

「ダミーの方が幸せだと思うよ。啓ちゃん、こんな我がまま女を本物の彼女にしたくはないでしょ?」

 「そりゃそうだ」と言ってやりたかったがその言葉は飲み込み、下を向き、メインディッシュの続きにフォークを刺した。

 

 デザートにはさすがに手が出ず、そそくさとディナーを済ませると二人は再び夜のドライブのため高速に乗った。みなとみらいのランプから第三京浜に向かった。

「ありがとう。やっぱり啓ちゃんなら引き受けてくれると思ったよ。」

 左ハンドルを握りながら裕ちゃんがさらりと言った。

「本当に僕には迷惑はかからないんだろうね?」

「うん。まあ、しばらくは何もないと思う。でもこれだけはどうか忘れないでね。あたしの彼氏はあなた。そしてあなたの彼女はあたしだってこと。」

「でもそれはお芝居なんでしょ?」

「でも真実を知っているのはあたしと啓ちゃんの二人だけ。この秘密は絶対に誰にも喋っちゃいけないからね。親兄弟にも。」

「親兄弟って言っても、僕は一人っ子だし、裕ちゃんはお姉さんが一人いるだけでしょ?兄弟はいないと思うけど。」

「ああ、そうとも言うか。とにかく言いたいことは大親友にも秘密を漏らさないでねってこと。もしパーティーとかで『彼女を連れて来い』って言われたらあたし付き合うから。」

「よくそこまでできるね。」

「それだけあたしは自分の夢の実現に真剣だってこと。だから啓ちゃんも理解してね。」

「はいはい。それでその逆もまた真なんだね。僕も裕ちゃんのパーティーとかには付き合わなきゃいけないってことだね。」

「その通り。とにかく相手が誰であれ、『彼女はいるか?』って聞かれたら『いる』って答えといてね。」

「もし秘密をばらしたらどうなるの?」

「そしたらあたしは雪女になってしまいます。『とうとう本当のことを言ってしまいましたね』とか言って。そして口から冷凍光線を吐いて啓ちゃんは凍死。」

「じゃあ、僕は恋愛禁止なんだ。なんか芸能人みたいだね。」

「どうせ大学は男子の方が圧倒的に多いんでしょ?それに啓ちゃん、真面目だし、おくてだし、彼女なしでもしばらく大丈夫じゃない?」

「勝手に決めないでよ。」

 僕はため息をついたが裕ちゃんの言うことも的を射ている。

「・・・・・・ごめんなさい。今のは言い過ぎでした。」

 裕ちゃんがおどけた調子で謝った。本当に反省はしていないようだ。

「・・・・・・いいよ。僕は別にモテる方じゃないし、女好きというわけでもない。形だけの彼女でも僕には贅沢なくらいだよ。」

 僕はしんみり言った。裕ちゃんは相変わらずニタニタしている。

「でもモテるより、モテない方が案外、幸せかもよ。」

「どういうこと?」

「つまりね、モテモテより、一人の女性から強烈に愛される方がきっと幸せになれると思うってこと。」

「なるほどね。でも今の僕にはその強烈に愛してくれる一人もいないんだけどね。」

「ゴメンゴメン。でももし本当の彼女が欲しくなったらそのときは言ってね。まあこのお芝居が結末を迎えてからということになるけど。誰か紹介しますから。啓ちゃんにピッタリの女性をね。」

 それから左ハンドルの超高級車は第三京浜を終点で降り、環八経由で裕ちゃんは僕を仙川の安アパートまで送ってくれた。

「ここでいいよ。」

 僕がそう言うと裕ちゃんはクルマを止めた。

「そこが僕の今、住んでるアパートだよ。二階の一番左が僕の部屋だ。」

 アパートを指差して裕ちゃんに説明した。

「本当に安そうなアパートだね。」

「学生はこんなもんだよ。裕ちゃんが特殊なんだから。」

「そっか~。そうだよね。でもどうする、ここから未来の総理大臣が生まれたら。今太閤だよね?」

「・・・・・・今日はごちそうさまでした。しばらくはパンと牛乳だけで暮らしていけそうだ。じゃあ。」

 裕ちゃんのチャチャは無視してお礼だけ言うと、僕はクルマから降りた。パワーウィンドウの開く音がして

「啓ちゃん!」

 裕ちゃんがクルマのドア越しに僕の名前を呼んだ。

「ん?」

「今日はありがとう。正直、啓ちゃんにまた会えたのはうれしかった。元気に頑張ってるみたいで。これからまた色々とご面倒をお掛けするかもしれないけどよろしくね。」

 裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言うとパワーウィンドウを閉め、エンジン音を立てながら夜の闇に消えていった。

 

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