裕ちゃんと七年ぶりの再会をしてから既に半年が経過しようとしている。日も随分と短くなり、学生野球も秋のシーズンを終えた。
昨日、柏崎のおふくろから久し振りの仕送りが届いた。親父が帰天してからおふくろは仕事を探していたのだがようやく、柏崎市内の清掃会社に就職が決まったのだ。初めての給料をもらったそうで僕に仕送りしてくれた。そのお陰で昨日は久し振りに豪華なディナーにありつくことができた。もっとも豪華ディナーといっても牛丼の特盛りに卵がつくレベルなので、「廉価な贅沢」といった方がふさわしいのかもしれない。
あれから裕ちゃんは本当に約束を果たし、僕に迷惑はかかっていない。というよりもあれから裕ちゃんとは音信不通なのだ。ただ、裕ちゃんと僕が付き合っているということは本当の話として噂になっているようではあった。
仕送りに同封されていた手紙には「白石先生のお嬢様とお付き合いしていると聞いてびっくりした」と書いてあった。柏崎は東京に比べると狭く、人のつながりも濃い。噂が広がるのも速くて正確なのだろう。もっとも僕の携帯の電話番号を裕ちゃんに教えたのはおふくろだし、東京で裕ちゃんと僕がなんらかの接点を持ったことは理解しているはずだ。
そんなことを考えながら仙川のアパートで簿記の勉強をしていると部屋のドアがノックされ「お届けもので~す」という若い女性の声がした。
「はい~。」
僕はそう言ってハンコを持ち、ドアをあけるとそこには招かれざる客が立っていた。手に何か持っている。
「裕ちゃん!」
「お久し振り。元気だった?」
半年振りの裕ちゃんだ。
「ねえ。なんで嘘つくの?お届け物だなんて。」
「だってそう言わないと居留守使われるかもしれないと思ったから。それにケーキ持ってきたから嘘ではないよ。はいお届け物。」
裕ちゃんはそう言ってケーキの入っているであろう箱を僕に渡した。自分が招かれざる客だという認識はあるようだ。
「来るなら来るで電話くれればよかったのに。」
「電話したら逃げられちゃうかもしれないでしょ?」
「逃げられるかもしれないような用で来たんだ。」
「まあね。奇襲攻撃というのは無予告でやるもんだよ。で、上がってもいいかな?」
「まあいいけど。」
「じゃあ、お邪魔しま~す。」
裕ちゃんはニコニコしながら、靴を脱いで僕の四畳半に上がりこんだ。
「随分綺麗に整頓されてるね。あたし、男の一人暮らしってもっとごちゃごちゃしてるのかと思った。」
「僕は几帳面な性格だからね。」
「そうだね。ねえ、ケーキ食べようよ。啓ちゃんの大好きなモンブラン買ってきたんだから。」
「うん。」
「コーヒー入れてもらえる?」
「ゴメン。コーヒーとかそういう高価なものはないんだ。僕は貧乏学生だから。裕ちゃんとは違うよ。」
「そっか~。ゴメンね。じゃあ、買ってきてもらってもいい?お金出すから。」
裕ちゃんはそう言うとハンドバックの中から財布を出し、僕に日本が誇る細菌学者のブロマイドを一枚渡した。
「ああ、いいけど。」
「お膳とかあるかな?」
「お膳?」
「ちゃぶ台みたいなの。」
「ちゃぶ台はないけどコタツは押入れの中にある。」
「じゃあ、後のことはあたしがやっとくから。」
「近くの自動販売機でいいかな?」
「自動販売機って?」
「コーヒーだよ。何かリクエストある?缶コーヒーにも色々種類があるでしょ?無糖とか微糖とか。」
僕はややぶっきらぼうに答えた。それはそうだ。裕ちゃんは平和なこの空間に突然侵入してきたのだ。当然、ぶっきらぼうにはなる。
「ゴメン。あたし缶コーヒーってダメなの。てか、あれはそもそもコーヒーではないよね。日本特有の不思議な飲み物だよね。」
「・・・・・・」
僕は深呼吸というかため息をついた。
「ここは田舎だけど、駅前まで行けばファーストフードの一軒くらいはあるよね?」
「まあそうだけど。」
僕の下宿先の調布市は確かに東京郊外には違いないが二十三区に一番近い自治体だし、そもそも生まれ故郷の柏崎に比べればはるかに大都会だ。田舎呼ばわりは失礼な話だ。
「じゃあブレンドでいいからよろしくね。」
「はい。」
僕のぶっきらぼうをよそに、裕ちゃんは相変わらず、ニコニコだ。僕は仕方なく駅前まで買い物に出かけた。
二十分ほどでアパートに戻り、ドアを開けると僕はビックリした。四畳半の畳の上にコタツが置かれ、コタツの上にはケーキの箱が開けられた状態で放置されていた。箱の中には手付かずのモンブランが二個残っていたがコタツの上には既に食べたと思われるモンブランを支えるカップが二個、無造作に置かれていた。裕ちゃんは僕の布団を押入れから引っ張り出したようで布団にくるまって口を開けて寝ていた。僕は買ってきたコーヒーをコタツの上に置き、裕ちゃんの傍に寄った。
「裕ちゃん。・・・・・・何、勝手に人の部屋に上がりこんで寝てんの!」
裕ちゃんを揺り動かすと、裕ちゃんはパッと目を覚ました。
「ゴメン、ここどこ?どうして啓ちゃんがいるの?」
「どうしてって、裕ちゃんが僕のアパートに押しかけてきたんだろ?」
「ああ、そうだった。啓ちゃん遅いよ。先にモンブラン食べちゃったよ。」
「食べるのはいいけど寝ちゃうのはちょっとひどくない?」
「ゴメンゴメン。最近、あまり寝てないんで。」
「忙しいんだ。」
「そうだね。あたし達、彼氏と彼女になったけどあれっきりだもんね。」
「コーヒー買ってきたよ。」
「ああ、サンキュー。」
そう言うと、裕ちゃんはむんずと起き上がり、コーヒーの入っているファーストフードのふくろを引き寄せると自分の分と僕の分を取り出し、カップのふたの上に砂糖とミルクとマドラーを置いた。そして僕に「どうぞ」と言うわけでもなく、自分の分のふたを開け、砂糖とミルクを入れてマドラーでかき混ぜ、一口、ごくりと飲んだ。
「あ~、生き返る~。」
裕ちゃんが上を向いてしみじみと言った。
「僕もいただいていいかな?」
「あっ、ゴメンゴメン。先いただいちゃって。モンブランもどうぞ。」
「モンブランなんて半年振りだよ。」
そう言って僕もコーヒーに砂糖とミルクを入れた。
「半年振りって、あのケーキの食べ放題以来?」
「そうだね。僕はこんな贅沢できないから。」
そう言って僕は裕ちゃんが持ってきた使い捨てのフォークでモンブランにパクついた。
「そっか。」
「で、今度はなんの用なの?」
僕は少し不機嫌そうに聞いた。もっとも僕の気持ちが裕ちゃんに伝わるわけもない。
「今度はねえ~、婚約してもらいます。」
「はあ!・・・・・・婚約?」
今度も展開が急激だ。
「そう。柏崎で結納するの。」
「結納って?」
「そんなに難しい話じゃないよ。結納は結婚披露宴と違って大袈裟なものじゃないから。ただうちの両親と啓ちゃんのお母さんとがあたし達二人と一緒に柏崎でご飯食べればいいだけ。」
「それだけじゃ済まないでしょ?」
「もちろんあたしは四月生まれだから誕生石のダイヤモンドの指輪とか必要になるけど、準備は全部こっちでするからさ。だから啓ちゃんは柏崎に来て、ご飯一緒に食べてくれるだけでいいよ。夏休みも帰省してないんでしょ?」
「まあ、帰省してもゴロゴロするだけだし。夏休みはこっちで勉強とバイトしてたよ。僕は裕ちゃんと違って学費も自分で稼がなきゃならないんだ。」
「お母さんも、『夏休みも帰ってこない』って言ってたよ」
「おふくろに会ったんだ?僕は聞いてなかったけど。」
「ホント久し振りにね。それで『お付き合いさせていただいています』って言っておきました。」
なるほど、情報源は本人だったのだ。手紙には情報源は書いていなかったが。
「なんで急に結納なの?早すぎない?僕はまだ学生だよ。」
「まあ政治的な理由だと思ってよ。啓ちゃんを今度の、まあ今度の次かもしれないんだけど選挙に立てるには啓ちゃんが白石の娘婿だってことを早めに公表しなければならないんだって。だから結婚はともかく結納は早くして欲しいんだって。」
「もし僕が拒否ったらどうするの?」
「大丈夫。啓ちゃんは絶対に拒否らないから。」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「ねえ、啓ちゃん。最近、何かいいことなかった?」
「いいことって?」
「例えば何か美味しいもの食べたとか。」
「ああ、まあ、牛丼の特盛り食べたけど。・・・・・・それがどうかしたの?」
「久しぶりに贅沢しちゃったんだ。」
「まあそうだけど、裕ちゃんには関係ないでしょ。」
「臨時収入でもあったの?」
「おふくろから仕送りがあったんだ。久し振りにね。」
「お仕事でも始めたのかなあ?」
「うん。市内で清掃員の仕事を始めたそうだよ。親父が死んで、店はやめちゃったからね。仕事探してたんだけどなかなかなくてね。ようやく見つかったそうだ。」
「この前、柏崎で啓ちゃんのお母さんに会ったとき、お仕事を探しているようだったのね。」
「うん。」
「だからあたしの父の支援者の人に頼んでお母さんの希望にかなう仕事を見つけてあげたの。」
「・・・・・・」
僕は絶句した。おふくろに仕事を紹介したのは裕ちゃんだったのだ。そしてその稼ぎのおすそ分けで僕は牛丼特盛りを食べてしまったのだ。もう特盛りは胃袋の中だ。
「もちろんあたしが絡んでることをお母さんは知らないはず。あたしは奥ゆかしいから黒子に徹したからね。」
「・・・・・・そうだったんだ。・・・ありがとう。」
僕はかなりトーンダウンした。
「どういたしまして。こんなこと啓ちゃんがあたしにしてくれることに比べればなんでもないよ。」
裕ちゃんは自信満々の笑みでそう言った。少し間があった。
「大丈夫だよ。結納っていったって所詮はお芝居だよ。」
僕が考えていると裕ちゃんがダメを押した。
「権蔵先生はともかく、おふくろとか地元の人を騙すのは心苦しいなあ。」
「それもあたしの夢の実現のためだと思ってよ。」
「それでデビューの方はどうなの?僕はその~、芸能界は疎いんでよく分からないんだけど。」
「芸能界じゃなくて音楽界って言って欲しいね。デビュー計画の方は着々よ。まあ、あたしも絶対に失敗したくないんでじっくりやってるから遅いように見えるかもしれないけど。」
「いつ頃の予定なの?」
「来年早々だね。二月の初めを予定してる。」
「僕は何もやらなくていいんだね?ただ柏崎に帰りさえすれば。」
「うん。段取りはこっちで全部やっとく。切符とかもこっちで手配するから。」
「僕が白石家の婿になるんだよね?」
「まあそういうことになるね。」
「おふくろ大丈夫かなあ?僕は一人っ子だよ。」
「お母さん気の強い方じゃないし、いざとなったら鬼の権蔵が自ら説得にあたるから大丈夫だと思う。」
なんかよく分からない理屈だ。
「で、その結納はいつやる予定なのかな?」
「今度の勤労感謝の日を含む連休のときを予定してる。ごめんなさい。臨時国会中だし、父の予定が最優先になっちゃうんだけど。」
「はあ?」
それも急な話だ。
「とにかく、何はともあれ、勤労感謝の日の週の連休は空けといて欲しいんだ。もう何か予定入ってる?」
「別にないよ。ここで勉強する予定だったから。」
「勉強って何、勉強しているの?」
「ああ、そこにも出してるけど簿記だよ。来年、公認会計士を受けるつもりなんだ。」
「ほう。それはいいね。まあ、勉強の邪魔して申し訳ないけど、どうかご協力お願いします。」
裕ちゃんはニッコリ笑って僕の前で手を合わせた。僕は相変わらずムッとした表情でコーヒーをゴクリと飲んだ。
勤労感謝の日の連休とは言われたものの、勤労感謝の日は水曜日なので結局、前の週の金曜日の夜に慌しく帰郷し、土曜日に準備、そして日曜日に本番を迎えるという強行スケジュールとなった。もっとも僕の役回りは本当にご飯を食べるだけで、言われたことをハイハイとこなせばよかった。きっと秘書に操られる政治家やマネージャーの管理下にある芸能人もこういうことを日々やっているのだろう。
政治日程が厳しい権蔵先生は、最優先にスケジュールされていたはずだったが、結局、来ることはできず、結納は、儀式的なものはあったものの裕ちゃんのお母さんと僕のおふくろを囲んでの四人の食事会という性格のものとなった。元々家が近く、裕ちゃんと僕がお互いの家を行き来していたこともあり、裕ちゃんのお母さんと僕のおふくろは知らない間柄ではない。おふくろは「お父さんが生きていたらどんなに喜ぶか」と涙を流して喜んでいた。騙すのはなんだか可哀想な気がしたが、それよりも膝を痛がっていたことの方が僕には気がかりだった。慣れない外での仕事で痛めたのかもしれない。
結局、結納はなんの滞りもなく無事に終了し、裕ちゃんと僕は恋人でもなんでもなかったが、婚約が正式に成立した。僕は不思議な気持ちだった。
次の日、裕ちゃんと僕は午前中に権蔵先生の地元秘書が運転するワンボックスで柏崎を発ち、長岡に向かった。裕ちゃんはこれから仕事なのか、パリッとしたスーツで社会人風に着こなしているが、僕は相変わらず一張羅の学ラン姿だ。ワンボックスの中でも裕ちゃんは良く喋り、僕はそれに合わせた。
長岡でワンボックスを降りると、裕ちゃんと僕は上越新幹線の上りホームに向かった。このホームに二人で立つのは七年前、裕ちゃんが上京するのを見送って以来だ。
「裕ちゃんと二人でここに来るのも七年ぶりだよね。正確には七年半かな。」
僕はポツリと言った。
「え~っ、あたし、啓ちゃんと二人で上京なんかしたことあったっけ!」
裕ちゃんがビックリした。
「そんなにビックリしなくてもいいじゃない。二人で上京なんかしてないよ。僕が上京する裕ちゃんを見送ったのさ。この新幹線ホームで。」
「ああ、中学卒業したときか。啓ちゃん、見送りに来てくれたんだっけ?あんまり覚えてないや。」
「そう。・・・・・・僕は思い出せるような、思い出せないような、少年の日の記憶だね。」
「そう言われるとなんとなく思い出してきたぞ。そうだ、啓ちゃんだけが長岡までついてきたんだよね。」
「なんかコバンザメみたいな言い方だね。」
「うん。このままこの人、東京までついて来ちゃうんじゃないのかなあと、心配したのは覚えてる。」
「もういいよ。」
どうせその頃の僕は裕ちゃんの執事に過ぎなかった。共有したはずの思い出でも、受け止め方はまるで違うのだろう。一人っ子の僕にとって裕ちゃんは姉のような存在だった。その姉が僕を置いて一人、東京に行ってしまうのだ。僕は寂しかった。でも裕ちゃんにとってはいつまでもついてくるうるさい存在だったのかもしれない。
しばらくすると上りの新幹線が入線してきて裕ちゃんと僕はグリーン車に並んで座った。当然、裕ちゃんは上座の窓際で僕が通路側だ。
「啓ちゃん、今日は特に予定ないよね。東京に帰るだけだよね?」
新幹線がホームを離れると裕ちゃんが言った。
「ああ、これがあったから特に予定は入れてないよ。てか、予定は入れるなっていう指示だったと思うけど。」
「じゃあ、お疲れのところ申し訳ないんだけど、もう一つお願いしていいかなあ?」
「はあ?まだ何かあるの?」
僕は嫌な顔をした。
「今度はそんなに面倒じゃないよ。会って欲しい人がいるの。」
「会って欲しい人?」
「うん。黒田聡美っていうあたしの親友。東大の同級生で一緒にアナウンサー目指して頑張った仲間。今は新日本放送の女子アナ一年生。名前くらいは聞いたことあるかな?」
「さあ。うちにはテレビもないし、僕は業界には疎いから。」
「そっか。」
「で、次は婚約者として親友に紹介ってこと?」
「ううん。あたしは同席しない。聡美と二人で会って欲しいの。聡美が啓ちゃんに話したいことがあるっていうから。二人きりでね。」
「なんだろう?」
「聡美はね、ただ一人あたしと啓ちゃんの結婚に反対してる人なの。」
「なんでまた?親友だったら祝福してくれてもよさそうじゃない?僕の知らない人だし、僕に恨みがあるわけでもないよね?」
「さあ、啓ちゃん、自分の知らないところで人のことを傷つけてるかもよ。」
「へんな冗談やめてよ。」
「まあ、理由は本人から直接聞いてよ。」
「ヒントくらいくれてもいいでしょ?」
「ヒントもダメだなあ。啓ちゃんはあたしから何も聞いてないってことにした方がいいと思うから。とにかく、啓ちゃんは聡美に会って、啓ちゃんの知らないあたしを知って動揺して欲しいのよ。」
「僕の知らない裕ちゃん?」
「ドラマとかでもよくあるじゃない。自分の知らない妻や恋人の一面を知ってしまって激しく動揺する男。」
「僕が動揺するような秘密があるの?」
「そう。」
「まあ、話したくないのであれば聞かなくてもいいんだけど、その後はどうすればいいのかな?」
「まずは激しく動揺して欲しいの。『知らなかった~』って言ってね。それで動揺はするんだけど、『それでも僕は裕ちゃんと結婚する。そんなんで僕達の愛は壊れない』っていうようなことを言ってくれればいいや。いいでしょ。どうせお芝居なんだし、あたしの事情がどうあれ啓ちゃんには迷惑かけないと思うけど。」
なんだか利用されているような、遊ばれているような気分で面白くない。
「僕が動揺するような秘密ってなんなの?例えばそのお友達と・・・・・・同性愛とか?」
「は~ん、答えはブブーだけどそのくらいのインパクトはあるかもしれない。」
「親友なんだったら本当のことを打ち明けてもいいんじゃないの?この婚約がお芝居だってことも。」
「親友だからなおさらダメなんじゃない。この前も言ったけど、この秘密はあたしと啓ちゃん二人だけのもの。他の人には絶対に知られちゃダメだからね。」
「そう。で、今回も僕が拒否れない状況ができてるんだね。」
「お母さん、膝が痛いとか言ってたね。」
「ああ。辛そうだった。」
「お父さんの支援者で柏崎一の整形外科の先生がいるの。その先生、開業するときお父さんのお父さん、つまりあたしのおじいちゃんなんだけど、そのおじいちゃんの世話を随分受けていて白石家には逆らえない人なの。」
「うん。」
「結構、偉そうな先生なんだけど、あたしが頼んだら『裕子お嬢様の義理のお母様になられる方でしたら是非、往診させていただきます』って言ってた。だから一週間もすれば膝の痛みは取れると思う。診療代も請求されないよ。」
裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言った。
「はいはい。で、僕はどうすればいいの?」
僕は半ば呆れ顔でそう言った。いつものことだが、この人の要求は不思議に拒否することができない。
「今、神宮球場で学生野球やってるよね?」
「そう?もう早慶戦も終わったはずだけど。」
「秋の全国大会だよ。」
「ああ、そんなの確かあったね。」
「で、それを観戦して欲しいの。バックネット裏でね。」
「見てればいいの?」
「うん。啓ちゃんは聡美を知らないけど、聡美には啓ちゃんの顔、教えてあるからあっちから声をかけてくると思う。」
「は~い。」
僕は面倒くさそうに返事をしたが裕ちゃんは何かをたくらんでいるようでニタニタしていた。それから裕ちゃんとは終点の東京駅で別れ、一度、仙川のおんぼろアパートに立ち寄って、昼食を済ませてから裕ちゃんの指示通り、神宮球場に向かった。
その日の午後、僕は約束どおり、明治神宮野球場、通称「神宮球場」と呼ばれている屋外施設のバックネット裏スタンドに一人座り、学生野球を見た。秋の全国大会が開催されていて、グラウンドでは近畿代表と九州代表が対戦していたが、スタンドはガラガラで、バックネット裏は数えられるほどしか人が入っていなかった。
野球は僕にとって元来、好きなスポーツだ。全然、興味のないカードでもなんとなく見ていられる。もっともゲームは投手戦の様相を呈していて、スコアボードにはゼロが並び、見ていて面白い試合では決してなかった。むしろスタンドの応援合戦の方が見ごたえがあったほどだ。
「スミマセン。取材させていただいてよろしいでしょうか?」
ゲームが終盤に差し掛かった頃、マイクを持った若い女性が僕に声をかけてきた。ラジオの取材だろうか、テレビカメラの姿はなく、女性一人だ。放送機器のようなものを肩からぶら下げている。
「はあ、別に構いませんが。」
人を待っている身ではあるが、短時間の取材に応じるくらいは構わない。
「はい。では失礼します。」
そう言って、マイクの女性は僕の隣に座った。相当の美形だ。絶世の美女といっても的外れではないだろう。僕がこれまで出会った女性の中で案外、ナンバーワンかもしれない。
「では、まずお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
美形が言った。
「はあ。石水といいますが。」
「石水啓一君ですね?」
そこまで言われて僕はこの目の前の女性が裕ちゃんの言っていた盟友の女子アナであることを理解した。少し間をおいた。
「・・・・・・あなたが黒田聡美さんですね?」
「ええ。」
「今日はお仕事なんですか?」
「仕事というか、研修かな?神宮で取材してレポートをまとめるの。アナウンサーっていってもまだペーペーだからね。」
女子アナは砕けた表情で言った。
「裕ちゃんにはあなたの話を聞くようにって言われてるんだけど。」
「なんの話をするかは聞いてないの?」
「うん。」
「そう。それで、・・・・・・裕ちゃんと結納はしたの?」
「ああ。さっき柏崎から戻ったところだよ。」
「やっぱり結婚するんだ?」
「何が言いたいの?裕ちゃんにはあなたが二人の結婚に反対してるってことしか聞いてないんだけど。何が気に入らないの?」
「じゃあ、率直に言うね。裕ちゃんを返して欲しいの。」
「返す?どういうこと?さっぱりわかんないんだけど。」
「そっか。何も知らないんだ。」
「うん、何も聞いてない。」
「じゃあ教えてあげるね。裕ちゃんはね、私の兄の彼女だったの。いやそうじゃないね。彼女なの。今でもね。」
「はあ?」
「裕ちゃんの男関係は何も知らないの?」
「まあ、お医者さんと付き合ってるっていう噂は聞いたことあるけど。」
「なんだ。知ってるじゃない。その医者が私の兄だよ。」
「ああ、そうなんだ。」
「あんまりビックリしないんだね。」
裕ちゃんとの婚約はお芝居なのだからビックリする理由はない。しかし裕ちゃんに言われていることもあり、少しは演技をした方がいいのかもしれない。
「いや、・・・その・・・冷静に受け止めてるだけだよ。」
「そう?・・・・・・兄は人間嫌いで、ひねくれ者で、人を愛したり、人から愛されたりしたことのない人だった。でも裕ちゃんと出会ってから本当に変わったの。今まで苦労ばかりだったけど、ようやく人生に明るい日差しが見えてきたの。」
「うん。」
「でもそれを邪魔したのが石水啓一。あなたよ。」
聡美さんはそう言って僕をにらみつけた。僕は一瞬、たじろいだ。
「待ってよ。それは言いがかりだと思うけど。」
「言いがかりじゃない。私は知ってるの、兄と裕ちゃんがとっても愛し合ってるってこと。でも兄はそういう性格だから裕ちゃんのお父さんが好きになるタイプじゃない。その隙を突いてあなたは裕ちゃんのお父さんを丸め込んで無理矢理、裕ちゃんと婚約したんでしょ?裕ちゃんと結婚しちゃえば柏崎から衆議院議員になれるもんね。あなたってホントに恐ろしいほどの野心家だね。どうせ政治家になるのが目的で裕ちゃんはその手段なんでしょ。」
そうまで言われてしまうとさすがの僕もカチンときた。裕ちゃんとのことはボランティアのつもりなのだ。
「たとえそれが事実だったとしてもこれは僕と裕ちゃんとあなたのお兄さんの三人の問題でしょ。あなたが干渉してくる問題じゃないと思うけど。もし異議を申し立てるならお兄さん本人が直接来るべきじゃないのかなあ。」
「兄はまだ何も知らないの。教えないし教えられない。そんなことしたら兄はあなたのことを殺してしまうかもしれない。もちろん兄は何も言わないかもしれない。兄はいつだって賢くて我慢強いから。でも私は許せない。だから絶対に裕ちゃんを返して欲しいの。」
この女性は最初から真剣だ。何か事情があるのかもしれない。
「・・・・・・何か事情があるんだね?」
少し間を置いて僕がそう聞くと女子アナは静かにうなずいた。
「聞かせてもらってもいいかな?」
そう言うと女子アナはもう一度小さくうなずいた。
「じゃあ話すね。私達にはね・・・・・・両親がいないの。そのことで私達はとっても苦労した。それでも私は兄に随分とかわいがってもらったし、面倒も見てもらったからそうでもなかったけど、兄の苦労はとても想像できないと思う。いじめや偏見、差別、そして貧乏、色々なことを経験してきた。友達もできなかった。でも兄は決してぐれたりせず、自分は絶対に成功して世間を見返してやるといってものすごく努力したの。そして東大医学部を卒業して医者になった。私も東大に入れてくれた。」
もしそれが事実だとしたらそれだけでまるで信じられない、奇跡のような出来事だ。
「でも、人を愛するということについてはまったく縁がなかったの。二十年以上生きてきていいことなんか一つもなかったというのが兄の口癖だった。でも四年前、裕ちゃんが入学してきてから兄は変わったの。本当に変わったの。私は生まれて初めて兄の本当の笑顔を見た。兄は初めて人生を前向きに評価できたんだと思う。裕ちゃんは元々私のクラスメートで私も大好きだった。明るくて、天真爛漫で、本当に自分もこうなりたいと思えるような女性だった。兄と付き合い始めてからこの人が兄とずっと一緒にいてくれたらどんなに素晴らしいだろうと思ってた。でも、兄はもともと素直な性格ではないから裕ちゃんの前では好きなくせにわざと冷たいふりをしたりして、傍で見ていてじれったいくらいだった。私がこう思うくらいだから裕ちゃんにとっても兄の優柔不断な態度は我慢できなかったと思う。裕ちゃんは兄から離れていった。それから兄はまた、元の兄に戻ってしまった。」
なるほど、頑固者には裕ちゃんのわがままはコントロール困難だろう。
「でも裕ちゃんのことは忘れられなかったみたい。この前、久し振りに裕ちゃんに会ったらしくてその日は一日中ご機嫌だった。そのとき私は思ったの。兄は本当に裕ちゃんのことを愛しているんだなって。」
そこまで話すと女子アナは大きく深呼吸した。そして続けた。
「それで、私は決心して裕ちゃんに話したの。兄のところに戻ってくれって。裕ちゃんは躊躇していた。そしてあなたの話をしてくれた。あなたの話を初めて聞いたとき、はっきり言ってあなたが憎かった。兄の幸せを邪魔するなんて許せない、そう思った。でも裕ちゃんはあなたのことを愛しているようで、それで、私自身ジレンマで、……、きっと裕ちゃんはもっと悩んでいるんだろうけど。」
それを聞いて僕は複雑な気持ちになった。なるほど今も彼女だと言われれば僕はダミーなのだから正しいのだろう。裕ちゃんがこの人のお兄さんと疎遠になった原因は音楽のはずであり、僕ではない。裕ちゃんが僕のことを愛していると言ったのもお芝居に違いない。
僕は話を聞いていて女子アナが少しかわいそうになった。本当の話をしてあげたくなったが、本当の話をしてしまうと裕ちゃんは雪女になってしまう。あるいは案外、目の前の女性が急に雪女に変身し「しゃべってしまいましたね」と言って冷凍光線を口から発射するのかもしれない。怪談とはそういうものだ。
「確かに男関係のことは裕ちゃんからは全然、聞いてない。でも、今、裕ちゃんと僕が愛し合っていて、たった今、柏崎で結納をしてきたのは事実なんだ。それに僕にはそもそも政治的な野心なんかないよ。ただ裕ちゃんとは幼なじみで、久し振りに東京で再会して付き合うようになっただけだよ。もしそのことがあなたのお兄さんをひどく傷つけたというんだったら原因は僕にあるんだから謝るけど。」
「謝ってもらわなくてもいい。裕ちゃんを返してくれさえすればいい。」
女子アナは相変わらず真剣だ。ここまで来ると僕も自分自身が演技なのか本気なのか分からなくなる。僕は右手で頭を抱え悩ましいポーズをとった。
「それは無理だよ。裕ちゃんのお父さん、権蔵先生もこの結婚には賛成なんだ。今すぐ婚約解消なんてできないよ。」
「お願い。兄が私を施設から引き取ってくれたとき、兄はまだ寒さに震える新聞奨学生だった。その後も医学生だというのに塾の教壇に立ったり、家庭教師を掛け持ちしたり。今まで兄が私にしてきてくれたことを思うとほうってはおけないの。」
「無理だ。相手のある話だよ。僕一人では決められない。」
「今すぐでなくてもいい。とにかく、石水君が裕ちゃんとの結婚を諦めてくれさえすればいいの。その代わり、私にできることならなんでもする。あなたの奴隷になってもいい。私はどうなっても構わないからどうか、兄から裕ちゃんを奪わないで。」
女子アナは泣いていた。僕ももらい泣きしそうな気分になってきた。こういう話には僕は弱い。どの道、僕には裕ちゃんと結婚する意思などないのだ。僕は考えるふりをした。
「・・・・・・分かったよ。お望みどおりにするよ。裕ちゃんとの結婚を諦めればいいんだね?」
「石水君・・・・・・」
「でも相手のある話だから婚約解消は少し待ってよ。僕一人でできることでもないし。」
「分かった。ありがとう。」
「じゃあ、もういいね?」
「はい。失礼します。」
そう言って、女子アナは席を立ち、涙を隠すように、足早に僕のところから去っていった。その後、僕は結局、試合を最後まで見ながら今日のことをどうやって裕ちゃんに報告するか考えていた。「何がなんでも二人は結婚する」ということは言わなかったのだから裕ちゃんとの約束は守っていない。もっとも僕から積極的に連絡する義務はないわけだから裕ちゃんから何も言ってこなければまた半年くらいこの問題からは離れることができるかもしれない。
試合は九州代表が僅差を制し、僕は家路に着いた。