僕は色々なことを考えながら仙川の商店街を歩いていた。このところ一日の時間が長く感じる。日は短くなってきていて、安アパートの前に着く頃にはまだ午後五時前だというのに暗くなっていた。
アパートの前にはクルマが一台止まっていて、僕に気付いたのか突然ヘッドライトを点灯させた。僕が一瞬たじろぐと向かって右側のパワーウィンドウが開いた。左ハンドルの高級車だ。
「お疲れ様~!」
裕ちゃんが元気にそう言って僕に左手を振った。僕はやや疲れ気味に手を振って応えた。
「待ってたんだ。」
「今来たとこだよ。聡美からメールもらって、そろそろかなって思ってたところだった。」
「報告があったの?」
「ううん。『私が勝ちました』って一言だけ。訳がわからないから聡美は刺激しない方がいいかなあと思ってまだ返信もしてない。啓ちゃんに確認してからと思って。」
「そう。」
「まあ、立ち話もなんだからさ、乗ってよ。ドライブしよう。」
「ああ。」
僕は疲れていたが、いずれ報告はしないといけないのだし、いいタイミングだと思って超高級車の助手席に座った。
「シートベルト締めて。」
裕ちゃんはそう言うとエンジンをふかし、夜の街へと出発した。
「聡美どうだった?」
「どうって?」
「美人でしょ?」
「ああ、それは認めるよ。さすがは女子アナだね。」
「あたしも女子アナだったんだけどね。でも聡美は別格。なんてったってミス東大だもん。」
「ああ、そうだったんだ。」
「ホントはあたしが無理矢理、聡美をミスコンに引き込んだんだけどあたしは予選落ち。世の中ってこんなもんだよね。」
「裕ちゃん、お医者さんと付き合ってるのに僕と婚約したんだ?」
「そう。だから啓ちゃんとは本当にお芝居なの。分かってもらえたかな?」
裕ちゃんがストレートに肯定したので僕は肩の荷が下りたような、寂しいような、なんだか複雑な気持ちになった。
「でも、聡美が勝ったっていうのはどういうことなの?まさかホントのことは言ってないよね?」
「言ってないよ。でも『裕ちゃんを返して』って言われて、『それは構わないけど相手のあることだからちょっと待って』って答えた。」
「・・・・・・そうなんだ。あれほど『何があっても結婚するって言って』って頼んだのに。」
「ごめん。だって、元カレっていうより、今の彼氏でしょ?」
「まあ、そうだけどせっかく婚約までしたのにあたしを返しちゃうんだ?」
「元々そういう約束でしょ。それに彼女の身の上話を聞かされたらそれしか答えようがないよ。」
「話、全部聞いたんだ?」
「うん。」
「そっか・・・・・・啓ちゃん、やっぱりやさしいね。昔からそうだったけど。」
「で、これからどうするの?」
「どうするって?」
「婚約は解消するでいいのかな?」
「今はまだダメだよ。デビューは来年になるし、しばらくは父のご機嫌をとらないといけないから。」
「彼は知らないの?この婚約のこと。」
「うん、知らない。案外、興味もないかもしれない。」
「どういうこと?」
「研究命の人だから。あたしのことは結構、どうでもいいの。そこに惚れたようなもんだけどね。・・・・・・だから啓ちゃんには申し訳ないんだけど、今のまま、しばらく婚約者でいてほしいんだ。聡美には話は分かったけどこの婚約には何百人っていう人が関わってるから婚約解消はすぐにはできないって言って、啓ちゃんと合わせとくから。」
「僕の質問に答えてないよ。彼氏との関係はどうなってるの?なれそめとか。」
「なれそめか~。話さないとダメかな?」
「どうしても話したくないなら無理にとは言わないけど、僕は今、裕ちゃんの婚約者なんだし、これからどうするかにあたって聞いておく必要があると思うけど。」
「なるほどね。展開としては柏崎で結納を済ませた啓ちゃんはこの結婚に唯一反対しているという裕子の親友聡美と会い、衝撃の事実を告げられる。そして裕子を問い詰める。そんなとこかな?」
裕ちゃんはおどけた口調でそう言った。
「ねえ、裕ちゃん。僕は結構真面目なんだけど。」
「そんなに真面目にならなくていいよ。どうせお芝居なんだから。」
「でも聡美さんだっけ?さっきの女子アナ、ものすごく真剣だったよ。」
「そう。彼女はホントにお兄ちゃん子だからね。いいよ、話すよ。・・・・・・彼の名前は黒田潔。啓ちゃんが噂で聞いたっていうお医者さんだね。そういう噂になってるってことはまずまず有名な話なんだね。出会ったのは大学に入ってすぐ。それが聡美と博士、まあ医学博士で研究ばかりしている人なんであたしは彼のことを『博士』と呼ぶんだけど、その博士と聡美は兄と妹だけどあたしとは別々に出会ったの。聡美は東大に入ってすぐ。同じ文三でクラスも一緒、同じアナウンサー志望ということですぐに仲良くなった。博士もあたしが東大に入ってすぐ。ある詩人の勉強会があって、席が隣同士になって、なんとなく意気投合。博士とはそれから付き合い始めた。付き合うっていっても研究最優先の人だったし、お金もそんなにある人じゃなかったからそんな贅沢なデートはできなかったけど。」
「どこに惚れたの?」
「頑張ってるところかな。あたしって今まで何不自由なく暮らしてきたでしょ?だからそういう頑張ってる人を見ると応援したくなっちゃうの。そのうち彼のことを愛していることに気付いた。彼もあたしの愛を受け入れてくれた。付き合い始めて半年くらいたってからかな。だから入学した年の十月頃だよね。彼のアパートに初めて行ったの。そしたら聡美がいてこれまたビックリ。『聡美と同棲してるんだ~』と思ったら兄と妹だっていうじゃない。あれは人生の中で一番、ビックリした出来事だったな~。」
「聡美さん、裕ちゃんがその博士から離れていったって言ってたけど。」
「別に離れたわけじゃないよ。ただ、音楽の方が忙しくなっちゃったから前みたいには会えなくなっちゃったっていうだけ。それにあたしは博士のことが大好きだけど、博士の方はそうでもないのかもしれない。」
「どういうこと?」
「ハートのバランスはあたしの方が重いってこと。一度っていうか、啓ちゃんと再会したころかもしれないんだけど、博士があまりにも冷たいんで聞いたことがあるの。『あたしと研究とどっちが大事か』って。そしたら博士『一番が研究で二番目が妹だ』って言ったの。笑っちゃうでしょ?あたしは二番目にもなれなかったの。」
「それでもその博士とやらがいいんだ。」
「そうだね。不思議だね。こんなに冷たくされてるのに。でも、彼は天才だよ。絶対にいつかは世間に認められるときが来る。天才にして努力家だからね。・・・・・・『二番目が妹だ』って言われたっていう話は聡美にもした。あたしは冗談のつもりだったけど、聡美は真に受けたんだね。」
「そっか。そこでタイミングよく僕との婚約が出てきたから聡美さん、僕が裕ちゃんを奪ったって思ったんだ。」
「まあ、博士はあたしが婚約したくらいで嫉妬する人間ではないよ。でも聡美は本気でお兄ちゃんとあたしを結婚させようと思ってるかも。」
「ああ、そんなことも言ってたよ。裕ちゃんが兄を人間らしい人間にしてくれたってね。」
「そうでもなかったけどそう言ってくれるのはうれしいかな。」
クルマは永福の入口から首都高速四号線に乗った。
「ねえ、どこに行くの?」
「東大に行くね。」
「東大?」
「そう、医学部。」
「なんでまた?」
「その、噂の彼氏に会わせるよ。」
「はあ?どうするの?『これが婚約者です』って僕を紹介するの?」
「それでもいいよ。」
「でも裕ちゃんが婚約したことを知ったら博士は僕を殺すかもしれないって聡美さんは言ってたよ。」
「あたしはそんなに深くは愛されていないんだけどなあ。まあ、大切なのは真実だよ。真実が何かっていうこと。」
「真実?」
「そう。あたしと啓ちゃんが婚約したのは真実。それがお芝居であることも真実。」
「で、どうするの?」
「申し訳ないけど、啓ちゃんにはまたお願いかな。」
「お願い?」
「まあ、着いたら話すよ。」
クルマは環状線合流点の渋滞につかまり減速した。
クルマが東京大学の構内に入ると裕ちゃんはクルマを駐車場に入れ、僕を医学部の研究棟に案内した。医学部の研究棟は随分と時代を感じさせる建物だ。エレベーターもなく、裕ちゃんと僕は学園紛争の頃の落書きが消えない階段を三階まで上り、「黒田研究室」と書いてある一番奥の部屋の前に来た。扉や壁には中にいるであろう研究者を非難、中傷する文章が落書きされたり、メモが張られたりしていた。裕ちゃんは慣れているのだろう、ノックもせずにドアを開け、僕に中に入るよう促した。
「こんばんは~」
裕ちゃんはそう言って研究室の中に入り、僕が続いた。部屋の中は廊下に比べると格段に明るかったので眩しさで目が少ししょぼしょぼした。研究室は広く十五~二十畳くらいだった。部屋の隅にはモルモットなのだろう、小動物が飼育されている籠が置かれていた。真ん中やや左寄りに大きなテーブルがあり、白衣を着た、動物に例えると百人中百人が「猿」と答えると思われる男がノートパソコンを見つめながらマウスを操作していた。男は僕達に気が付くとその猿顔を上げた。
「お疲れ様。噂の彼氏、連れてきたよ。」
裕ちゃんはそう言って左手の手のひらで僕を示し、紹介した。
「ああ、裕子の幼なじみか。」
僕が二十一年間の短い人生経験の中で見た最も類人猿に近い顔を持つ男は事務的にそう言うとパソコンを操作し、立ち上がった。
「では早速ですまないがそこにある白衣を着てくれないか。」
猿顔はそう言って僕の目の前にある椅子にかけられている白衣を指差した。
「はあ?白衣ですか?」
「ゴメンなさい。まだ啓ちゃんには何も説明してないの。」
僕がキョトンとしていると裕ちゃんが猿顔にそう言い、僕の方を向いた。
「啓ちゃん。急な話で申し訳ないんだけど、博士の研究を少し手伝って欲しいの。」
「研究?」
「実は、博士は今、ある研究をしていて、年末までに論文を完成させないといけないの。」
「うん。」
「今まではあたしや聡美がお手伝いしていたんだけど、二人とも社会人になっちゃったでしょ。それに今、あたしは音楽の方で忙しくなっちゃったし。」
「お手伝いっていってもそもそも僕は医学のことなんか分からないよ。」
「そんなに難しくはないよ。とりあえず洗い物をしてくれると助かるんだが。ビーカーや試験官を洗うくらいだったら君でもできるだろ?」
僕がモジモジしていると猿顔が初対面とは思えないずうずうしさでそう言った。裕ちゃんは目の前の白衣を取り、僕に着せようとする。
「啓ちゃん、お願い。もうあんまり時間がないの。お母さんのことは私が責任を持って対応させていただきますから。ねっ。」
裕ちゃんは耳元で僕にそうささやくと半ば強引に白衣を着せ、僕の手を取って部屋の隅の方に誘導した。研究室の端にはシンクがあり、シンクの中には使用済みの試験官やビーカーやシャーレなどが無造作に積まれていた。
「これを僕が洗うの?」
「ごめんなさい。どうかお願い。」
裕ちゃんが僕の前ですまなさそうに手を合わせると「くれぐれも手袋をするのを忘れないでくれよ」という猿顔の事務的な声が聞こえた。
「じゃあ、啓ちゃん。あたしは博士とちょっとお出かけしてくるから洗い物お願いね。」
裕ちゃんは本当にすまなさそうな顔をしてそう言うと猿顔を促し、二人で部屋を出て行った。僕は膨大な実験器具を前に初めてきた研究室に一人取り残された。
僕は何がなんだか分からなかったが、とにかく洗い物はした。洗い終わると白衣を脱ぎ、シンクと反対側にある長いソファに座って少し休憩した。あちこちがガムテープで修繕されている黒いソファは、この研究室には不釣合いだったが恐らく仮眠用のベッド代わりなのだろう。しばらくすると猿顔と裕ちゃんが戻ってきた。
「ただいま~。啓ちゃん、ありがとう~。で、どんな感じ?」
無愛想な猿顔をよそに、裕ちゃんが作り笑いで僕に話しかける。
「こんな感じだけどいかが?」
僕は洗い終わった実験器具を二人に見せた。
「随分几帳面だな。」
上から目線の猿顔は相変わらず無愛想に言った。
「そう。啓ちゃんはとても几帳面な人だからね。」
「それで明日も来てくれるのかな?」
猿顔がそう言うと裕ちゃんは慌てて僕の腕をつかみ「それは、これから啓ちゃんと相談するから。じゃあ研究、頑張ってね」と早口に言うと「じゃあね~」と軽く猿顔にあいさつして研究室を後にした。
裕ちゃんは腕をつかんで離さないまま僕を駐車場まで誘導し、そのまま高級車の助手席に押し込み、クルマを発進させた。
「ねえ裕ちゃん・・・」
「ごめんなさい。今回のことは本当にあたしが悪かったと思ってる。」
クルマが出発すると僕は裕ちゃんに話しかけたが僕が何も言わないうちに裕ちゃんは大きな声を出して謝った。
「僕にどうしろって言うの?」
「さっき言ったとおりだよ。研究を手伝って欲しいの。アメリカの科学雑誌に今、執筆中の論文を投稿したいの。」
「それも随分、急な話なんだけど。」
「十二月二十二日が締め切りなの。あたしも最近は音楽の方が忙しくなっちゃってなかなか博士の方を見てあげられないの。こないだ久し振りに研究室のぞいたら随分滞っているみたいで、やっぱり人手が欲しいみたいで・・・・・・」
「それは分かったけどなんで僕なの?」
「研究室の入口の落書きとかビラ、見たでしょ。」
「ああ。随分ひどいことが書かれていたね。」
「博士、大学の中で孤立してるの。常識に囚われない真の天才だからね。周りの人が非難するようなことでも平気でやるの。まああたしはその天才肌に惚れたんだけどね。で、博士が信頼してるのは妹の聡美とあたしだけ。でも二人とも社会人になってしまった。それで博士は自分一人でなんでもやろうとしてるんだけどもう時間があまりないの。だから論文ができるまででいいから助手になって欲しいの。」
「そんなにあの男のことが好きなんだ。」
僕は嫉妬していたのかもしれない。少し意地悪く言った。
「うん。」
裕ちゃんは力なくうなづいた。昔から僕はこういう裕ちゃんの表情にとても弱い。普段強いはずの人が突然弱くなる瞬間がある。それはその人の真実の姿であり、真実の姿を見せられると人はもろいものだ。
「・・・・・・分かったよ。まあ、前向きに考えてみるよ。」
ここで後ろ向きに考えても裕ちゃんはあらゆる手を使って僕を説得にかかるだろう。それも面倒くさい。
「ありがとう。やっぱり啓ちゃんやさしいね。柏崎の頃とちっとも変わってない。」
やさしいというより僕は気が弱いだけだ。
「・・・・・・ところで話し変わるんだけど、啓ちゃんの英語のスコアってどのくらい?」
「英語のスコアって?」
「Tから始まる世界統一試験だよ。まだ受けてないのかな?」
「ああ、あれね。まあ七百六十五だけど。」
「そんなにあるの?」
「別にびっくりすることでもないんじゃないの?裕ちゃんは八百をはるかに超えてるでしょ?マスコミ志望だったんだし。」
「それはそうだけど、でも啓ちゃんはまだ大学二年生でしょ?」
「そうだけど、八百超えくらいもう珍しくないと思うけどなあ。」
「よく勉強したね。」
「まあ、僕は日本とアメリカ両方の公認会計士を取るのが目標だから。」
「ホントに努力家だね。」
裕ちゃんはそう言ってクスッと笑った。
「何がおかしいの?」
「いや、なんか博士と啓ちゃん似てるかなあって思って。」
「僕ってそんなにサルに似てる?」
「ええっ?・・・違う、外見じゃなくて中身だよ。」
「あんなに性格悪くないと思うけど。」
「努力家だってことだよ。それに・・・・・・博士は、本当はそんなに悪い人じゃないよ。」
「長い付き合いになるのかなあ。」
「長くするかどうかは啓ちゃんが決めてくれていいけど、でもお願い。論文が完成するまでは付き合ってあげてね。お母さんの身体のことはあたしが全責任を負いますから。なんてったってあたしのお姑さんになる人なんだからね。」
「婚約は解消するんじゃないの?」
「そうだ。でもそれはまだこれからの話?う~んあたしも何が事実で何が嘘だか分からなくなってきたぞ。」
僕が助手を引き受けると言ったので安心したのだろう。裕ちゃんは一人で悦に入っている。僕はやれやれという気分になった。
「ところで話元に戻るけど、どうして僕の英語のスコアなんて聞くの?」
「ああ、まあ参考までにね。また啓ちゃんにお願いすることがあるかもしれないから。」
そう言われて僕はまたドキッとし、それ以上は突っ込まなかった。それ以上突っ込んでやぶ蛇になったら嫌だからだ。僕の方から話題を変えた。
「ところでさっき、博士とどこ行ってたの?」
「ああ、ご飯食べてたんだよ。」
それを聞いて僕は自分が空腹であることを思い出した。時間は夜の八時頃。僕は下宿で昼食を食べたきりなのだ。
「そう言われると僕もお腹空いてるなあ。」
「ごめんなさい。でも啓ちゃんは、お昼ご飯は食べたんでしょ?」
「ああ、まあね。」
「博士はここ三日くらいろくなもの食べてないんだって。」
「なるほど。研究命の人なんだ。」
「そうあたしなんかよりずっとね。」
それから裕ちゃんは僕をファミレスに連れて行き、晩ご飯をご馳走してくれてから、仙川の下宿まで送ってくれた。下宿前に着いたときには午後十時を過ぎていた。
「啓ちゃんいつもゴメンねえ。変なことばかりお願いしちゃって。」
僕が高級車から降りると裕ちゃんはドアの窓越しにポツリと言った。どことなく申し訳なさそうだ。この申し訳なさそうな表情に僕は恐ろしく弱い。実は裕ちゃんはとてもしたたかな女で僕の弱点を知っていて、その弱点を攻撃しているだけなのかもしれない。しかし頭の中でそうは思っても僕は本当にもろかった。
「いいよ。どうせおふくろが世話になるんだし。」
「もしどうしても嫌なら博士の研究室には行かなくてもいいからね。」
「それはあした、目が覚めてから決めるよ。」
「啓ちゃん、ホントにいつもありがとう。この埋め合わせはいつか必ずさせていただきます。じゃあ。」
裕ちゃんは、最後は笑顔で左手を上げると、窓を開けたまま左ハンドルの高級車を発進させ、夜の街に消えて行った。そしてとてつもなく長かった週末は更けていった。
次の日の朝、僕は結局、猿顔の研究室に出かけていった。おふくろの面倒は見てもらうのであり、せめてそれに見合う分の労働力の提供はしなければならないのではないかと思ったのだ。大学はあったが講義は午後からだったので午前中は空いている。僕は京王線とJR中央線を乗り継ぎ、御茶ノ水から徒歩で昨日訪れた研究室を目指した。
僕は裕ちゃんと違い二度目なので一応ノックしてから「失礼します」と言って研究室の中に入ると、室内の電気は消えていて誰もいないかのように静かだった。しかし、すぐにドアの脇にあるソファが動き出したのでそこに博士が寝ていることがそれとなく分かった。博士は僕に気が付くと小さく伸びをして「おはよう」と軽く言った。
「おはようございます。すみませんお休みのところ起こしてしまって。」
「構わないよ。じゃあまた洗い物をお願いできるかな。」
博士にそう言われてシンクの方を見ると、昨日と同じように実験器具がうず高く積まれていた。
「昨日洗ったもの、全部使ってしまったんですか?」
「ああ。実験器具がなくて滞っていたものがあったんだ。君のお陰で充実した夜を過ごすことができたよ。」
「徹夜だったんですか?」
「徹夜かあ。そう聞かれればそうなんだけど俺はもう昼夜逆転なんだ。アパートにも帰ってないんだ。」
「妹さんと二人で暮らしている?」
「聡美のことは知ってるんだな?」
「はい。ご本人さんにもお会いしています。」
「聡美は就職してから会社の寮に入ったよ。アパートは倉庫みたいになってる。時々聡美がメンテナンスしてるんじゃないのかな。」
博士は他人事のように言った。
「じゃあ、早速ですが洗い物を始めますね。」
僕はそう言って昨日、脱ぎ捨てたのとまったく同じ状態の白衣を着てシンクに向かうと博士もむくっと起きて付いてきた。
「君・・・名前はなんといったかな?」
相変わらずの高飛車だ。
「はあ、石水啓一と申しますが。」
「石水君か。君の事は裕子から色々と聞いているんだ。でも名前はまだ聞いていなかった。裕子から聞いていると思うが、来月の二十二日までがヤマなんだ。手を貸してくれるとありがたい。」
人にモノを頼むときはもっと低姿勢でもよさそうなものだがその辺は個性なのだろう。僕はゴム手袋をはめ、実験器具を洗い始めた。
「そうですか。僕は博士のことはあまりお聞きしていないのですよ。妹さんからは少し聞いていますけど。それで、・・・・・・なんの研究をされているんですか?」
「ほう、素人が俺の研究に興味を示すのか?」
人をバカにしたような態度だ。この人に友達ができないのも分かるような気がする。
「素人で悪かったです。・・・・・・興味というか、好奇心です。」
「まあ、君の頭脳では理解は不可能だろう。一応、専門は心臓だが、今はイシュセイタイカンイショクを研究している。今回の論文のテーマもそれだ。」
「イシュセイタイカンイショク?」
「異なる種族の種、生きている個体の間の移植だよ。」
「スミマセン。ちんぷんかんぷんです。素人にも分かるように説明するとどうなりますか?」
「俺は、素人は相手にしないんだけどな。まあ簡単にいうとヒヒの心臓を人間に移植するようなことだ。」
「ええっ?」
「どうだ。嫌な気持ちになっただろ。だから俺は人に嫌われるんだよ。マッドサイエンティストとか言われてね。」
「なるほど、異種生体間移植ですか。」
「ああ。君の次のセリフも分かっているよ。神を冒涜する行為だと言いたいんだろ?」
「別にそこまでは。」
「その通りだよ。神を冒涜する行為だ。だがな、俺は神なんか冒涜されてしかるべきだと思っている。神が人間を創ったんじゃない。人間が神を作ったんだ。なんで人間はそんな己の空想の産物に振り回されなきゃいけないんだ?」
どこかで聞いたセリフだ。
「しかし自然の摂理に反するのでは?」
「それをいうなら堤防だって自然の摂理に反するんじゃないのか?それでも人間の英知は自然に挑戦してきたんじゃないのか?そしてあるときは自然の偉大さに叩き潰され、あるときは自然を完膚なきまでに叩きのめしてきた。」
「それはそうですけど。」
「まあマッドサイエンティストだと言いたければ言えばいい。悪口を言われるのは別に今始まったことじゃないし、君が初めてというわけでもない。」
「別にそんなつもりじゃありませんけど・・・・・・、よく分かりませんし。しかしなんでそんな研究を。苦労されてきたというのであればまず生活を改善させるのが第一じゃないんですか?東大出身の医師なのですから引く手あまたじゃないんですか?」
「君の話は裕子から聞いているけど、金儲けのことばかり勉強しているそうだな?」
「・・・・・・」
反論しようとしたが、僕は経営学部の学生だし、来年の公認会計士試験受験を控え、勉強の中心は簿記だったので博士の指摘は間違っていない。
「俺の同級生にも医学を金儲けの道具にしているやつがいるけど俺にはそんなことはできない。医学はあくまでも救えるかもしれないかけがいのない命を守るためにあるべきだと思っている。だから俺は金儲けには興味はないんだよ。」
「別に僕は金儲けに興味があるわけではありません。ただ、貧乏からは脱出したいと・・・」
「君は親に育ててもらったんだろ?俺にはその親もいないんだよ。君は今の生活が貧乏だと思っているかもしれないけど俺にしてみればブルジョアだよ。」
「そうかもしれません。」
「金に一体なんの価値があるというんだ?所詮、額面以上の価値はないじゃないか。」
「・・・・・・その通りです。ではなんのための異種生体間移植ですか?単なる真理の探究ですか?」
「人の命を救うためさ。」
「人の命?」
「そうだ。異種生体間移植が簡単にできるようになれば同種生体間移植なんてわけなくなる。同種生体間移植が簡単にできるようになれば死体生体間移植なんてわけなくなる。」
「はあ。」
「まあ難しい話をしても君には分からないだろう。言いたいことは俺が医学を探求しているのは人の命を救うためであって、金儲けには全然興味はないということだ。」
僕は黙った。確かに博士の言うことに間違いはない。僕は自分がなんだかちっぽけな人間に見えた。僕が黙ると博士もそれ以上は言わず、「じゃあよろしくな」とだけ言って、ソファに戻り再び眠りについた。余計なことはしゃべらない人だった。
洗い物を終えると僕は白衣を脱ぎ、近くのコンビニでパンを少し大目に買い、研究室に戻ってパソコンの置いてある大きな机の上にパンの入った袋を置いてから自分の大学に向かった。机の上には裕ちゃんと聡美さんが並んで写っている写真が飾られてあった。博士はまだ夢の中だった。