十二月も中旬を過ぎた十二月十七日、僕の下に一通の現金書留が届けられた。おふくろからだ。いつもよりはるかに厚みがある。中を開けてみると案の定、いつもよりも一桁違う仕送りが入っていた。同封されている手紙を読むと、膝はもちろん、腰や肩も治してもらい、身体が十年くらい若返ったそうだ。おふくろが健康を回復したこと、僕に予想外の仕送りが送られてきたことはグッドニュースに違いない。しかし、僕はそのことを素直に喜ぶことはできなかった。これまでの傾向からするときっとこれから数日の間に裕ちゃんが僕の前に現われ、無理難題を押し付けるのだ。
次の日、僕は既に日課になってしまっている博士の研究室訪問をやめようかどうしようか迷った。研究室に行ったら実は裕ちゃんが待っていて無理難題を押し付けてくるかもしれない。しかし、ここの下宿にいても裕ちゃんが襲ってくる可能性は否定できないのだ。結局、熟慮の末、僕はコイントスで決めることにし、百円玉を準備した。表が出たら外出、裏が出たら下宿にいることとし、結果、表が出て僕は本郷のキャンパスに出掛けていった。
裕ちゃんとの結納を済ませた次の日から、博士の研究室に通うことが僕の日課になっている。特に時給いくらで雇われているわけではないので完全なボランティアだ。婚約者の今の彼氏の下に毎日通い、雑用を引き受けるというのもおかしな話だが僕はこのボランティアがそれほど嫌ではなかった。博士は素人の僕が見ても天才であり、僕の知的好奇心を満足させるには十分だった。きっと裕ちゃんもその才能に惚れたのだろう。
僕はいつものように京王線とJR中央線を乗り継ぎ、御茶ノ水から歩いて東大の本郷のキャンパスに向った。そして学園紛争の面影を残す研究棟の三階の一番奥の部屋の、相変わらず誹謗、中傷する落書きが一杯書かれているドアを開けると中には意外な人物が待っていた。
「裕ちゃん!」
僕は思わず大声を出した。それはそうだ。裕ちゃんに会わないためのコイントス、でも僕は生まれつき運が良くないのだ。きっと「強運」ではなく「凶運」の持ち主と表現されるのだろう。
「よかった~。来てくれるとは思ってたんだけど。」
「珍しいね。てか結納以来だね。音楽の方は一段落着いたのかな?」
「着くわけないじゃない。デビュー前の一番忙しい時期。ホント人生の中で一番忙しいかも。なんてったって婚約者にも会えないくらいなんだから。」
僕の気持ちなどお構いなしで裕ちゃんはいつものペースだ。
「こんなところで何してんの?博士は?」
「それがね、博士は出かけちゃったの。」
「買い物でも行ったのかなあ?それも珍しいね。」
「ううん。札幌。出張っていった方が正確かもしれない。」
「出張?だって論文の締め切りは・・・・・・四日後でしょ?まだ完成してないはずだし、急に出張だなんてそんな話も聞いてないよ。」
「急な話だったんだけどね。で、論文を途中で放り出すみたいなこと言ってて、あたしに何かできることないかなあと思ってとりあえず来てみたの。」
「ほぼ出来上がってて、最終チェックして送るところまで行ってるって聞いてるけど。」
「さっきから、見てるんだけどまだところどころにほころびがあるね。」
「分かるの?相当高度な論文だけど。」
「もちろん内容は分からないけどスペルミスとかは分かるよね?英語の問題だからね。」
「で、どうするの?」
「とにかく、一通り読んでみて校正するよ。それで最終稿を作ってメールで札幌の博士に送って、了解とってアメリカの科学雑誌社に送りたいとは思ってる。」
「思ってるって、裕ちゃん、そんなことできるの?裕ちゃんも忙しいんだろうし、内容は英語だし、かなりハイレベルだよ。」
「啓ちゃん、お母さんの身体の具合良くなったみたいだね。」
裕ちゃんが急におふくろのことに話題を変えたので僕は大きくため息をついた。まあ、予想の範囲内ではある。
「そうか、僕がやるんだね?」
「啓ちゃん、こないだ英語得意だって言ってたよね?」
「そんなこと言ってないよ。科学論文なんて読めるわけがないし、ましてや書くなんて雲をつかむような話だよ。」
「とにかく、ここに医学用の英和辞典があるから逐一翻訳して内容をチェックして欲しいの。特に専門用語のスペルとか。」
「僕なんかじゃなくてネイティブの医者に頼めばいいじゃないか。裕ちゃんならそれくらいできるだろ?」
「もう時間がないの。それに医者に頼むと論文公表前に論文の内容が外部に漏れるかもしれないし、ネイティブの医者だからってなんでもかんでも分かるわけでもないよ。」
「どういうこと?」
「例えば啓ちゃん、憂鬱とか涅槃とか書ける?」
「・・・・・・いや、辞書引かないと分からない。」
「でしょ?ネイティブだからってあてにはならないの。パソコンだってすべての単語を記憶しているわけじゃないし、パソコンの校正機能もあてにならない。」
「裕ちゃんはどうするの?」
「あたしもできるだけ力になりたいけど、スケジュールが厳しいのよ。」
裕ちゃんは懇願の眼差しで僕を見つめた。小学校のときパンツを貸してもらってからというものの僕はこの人に逆らえなくなってしまった。
「分かったよ。でも締め切りは二十二日の二十四時だよ。」
「それは分かってる。あたしもできるだけ都合つけてこっちに泊り込むことにするから。」
「ねえ裕ちゃん、確かに博士は今の彼氏かもしれないけど、所詮は他人なんじゃないの?どうしてそんなことができるんだ?裕ちゃんは裕ちゃんで自分の夢の実現のために一杯一杯なんじゃないの?」
「よく分からないけどあたしは博士の夢の実現のお手伝いをしたいの。あたしの夢の実現のお手伝いは啓ちゃんがしてくれてる。啓ちゃんの夢の実現のお手伝いもきっと誰かがしてくれるよ。人生ってそんなもんなんじゃないのかな?情けは人のためならず。」
「博士はどうして途中で投げ出してもいいなんて思ったんだろう?もう少しで完成じゃないか。」
「それは人の命が懸かっているからよ。」
「人の命?」
「そう。札幌で博士なら手術できるだろうっていう患者さんがいるんだって。それで人を介して博士を頼ってきたの。」
「論文とその人の命を天秤にかけたんだ。」
「博士はそういう人だよ。性格はキツイけどね。でも本当は悪い人じゃないよ。」
「分かったよ。乗りかかった船だし、頑張ってみるよ。」
「もう乗っちゃってるけどね。」
そう言って裕ちゃんはニッコリ微笑んだ。僕はその笑顔に負け、裕ちゃんの座っている隣の椅子に腰掛けた。
僕は夢の中にいるようだった。女性の声が僕の名前を呼ぶ。そして僕のことを揺り動かす。声の主は裕ちゃんの名前も呼んでいるようだ。僕が夢とうつつの間を何度か往復し、まぶたを少し開けると日差しが瞳孔を刺激した。しばらく眩しさと戦うと目の前に声の主が浮かんできた。
「ああ、聡美さん。来てたんだ。おはよう。」
目の前には猿顔の医師の妹の美人アナの顔があった。猿顔の医師と美人アナは兄と妹のはずだがまるで似ていない。僕がこの研究室に通うようになってから僕はこの美人アナとは何度か顔を合わせている。聡美さんは民放在京キー局のアナウンサーで社会人だが、時間のあるときには食事などを差し入れしてくれる。
「ねえ、なんで、二人でこんなところでお泊りしてるの?」
聡美さんは咎める口調で言った。
「ああ、博士から聞いてないのかな?」
目を覚ましたばかりと思われる裕ちゃんの声が僕の隣から聞こえた。時計の針は七時ちょうどを指している。確信はないが恐らく午前七時なのだろう。昨日は夜遅くまで裕ちゃんと論文をチェックしていたが午前三時くらいまでの記憶しかない。僕は裕ちゃんと同じ毛布にくるまれ、同じソファに並んで座って眠っていたようだ。
「お兄ちゃんは?」
聡美さんの口調は相変わらず厳しい。
「北海道に旅行に行きました。」
裕ちゃんはまだ眠そうな声だ。
「どういうこと?」
「緊急手術だよ。博士にしか治せない患者さんがいるんだって。」
「そう・・・・・・」
聡美さんは過去にも経験があるのだろう。即座に理解したようだった。
「それで論文を投げ出すようなこと言ったんであたしと啓ちゃんでなんとかしようと思って昨日から泊り込んでるの。」
「そうなんだ。ありがとう。・・・・・・それは感謝するしすまないと思うけど、でも同じソファで一つの毛布にくるまれて寝てるのはちょっと尋常じゃないと思うけど。」
聡美さんの心の中に葛藤があるようだ。言葉を選んでいる。
「別にいいじゃない。あたしと啓ちゃんの仲なんだからさ。」
「随分仲がいいんだね。」
聡美さんが皮肉っぽく言った。
「あたり前でしょ。二人は婚約してるんだから。」
「でもそれはなしにするんだよね?」
「いずれはね。でも婚約解消したとしても幼なじみではあるんだからあたしと啓ちゃんが仲良しでなくなることはないよ。」
「石水君はどうなの?私との約束忘れてないよね。」
聡美さんが僕に振った。
「もちろんだよ。」
「怪しいなあ。なんだかんだ言って柏崎の議席を狙ってるんじゃないの?」
それを聞いて僕はムッとした。僕は議席などには興味はない。そもそも僕には政治的な野心などないのだ。今回のボランティアも目の前の美人アナの兄が困っているからということでの無償の支援なのだ。いや、無償という言葉では軽すぎる。僕は身銭を切ってこの常に空腹の兄に差し入れとかもしているのだ。僕はこの兄の恩人であるはずであり、その妹からは感謝される筋合いはあっても文句を言われる存在ではない。
「別に柏崎の議席と啓ちゃんとの婚約は関係ないと思うけど。」
僕が黙っていると裕ちゃんが言った。
「関係ないわけないでしょ。石水君はお兄ちゃんと裕ちゃんのこと知ってて裕ちゃんに近付いたんだから。」
「どうかなあ。そんなのただの縁だと思うけど。そしてあたしと博士は復縁した。それでいいじゃない?」
「じゃあどうして正式に婚約を解消しないの?結納からもうすぐ一月になるよ。」
「まだ一月でしょ?それはこの前も言ったと思うけど、この婚約には父を初め多くの人が関わっているからおいそれとは解消できないからだよ。父が博士のこと大嫌いなことも知ってるでしょ?」
「それはそうだけど。」
「そんなに心配なの?」
「うん。石水君のことは・・・・・・残念だけどまだ信じられない。」
「じゃあ聡美があたしから啓ちゃんを奪えばいいじゃない。」
「ええっ?」
聡美さんはビックリした表情を見せた。僕はただ黙って二人の会話を聞いている。
「別に驚くことでもないと思うけど。聡美はミス東大の美人アナなんだからさ。確かに啓ちゃんは真面目一本やりの堅物だけど色仕掛けで迫れば難攻不落でもないよ。案外あっけなかったりして。」
裕ちゃんがケロッとした表情でそう言うと聡美さんは大きくため息をついた。こういう話題は好きではないようだ。生真面目なのだろう。
「とにかく、裕ちゃんはお兄ちゃんの正式な彼女なんだからね。・・・・・・もちろんお兄ちゃんのことを手伝ってくれてるのは感謝してるけど。・・・じゃあ私は会社に行くので。」
さんざん文句は言ったものの、兄の手伝いをしてくれていることはすまないと思っているのだろう。最後はややトーンダウンするとそのまま研究室から出て行った。
「なんだよ。急に変なこと言い出して。」
聡美さんが出て行ったことを確認すると、僕は裕ちゃんをなじった。
「変なことって?」
「色仕掛けとか。」
「ハハハ。まあいいじゃないの。・・・ねえ、啓ちゃんは聡美のことホントはどう思ってるの?」
「どうって?」
「タイプでしょ?」
「何おバカなこと言ってるの。」
「またまた、図星でしょ?あたし、啓ちゃんの女の子の趣味とかちゃんと知ってるよ。」
「まあ、容姿は文句のつけようがないけど。」
「何か不満?」
「僕には不釣合いすぎるよ。」
「それ言うならあたしでも不釣合いじゃない?」
「自分から言うなよ。まあその通りだから言い返せないけど。」
「性格はどう?」
「性格って?」
「聡美のだよ。」
「まあ、真面目すぎるかな。」
「じゃあちょうどいいじゃない。だって啓ちゃんだって真面目でしょ?結構、お似合いかも。」
「だからダメなんじゃない。真面目プラス真面目だとバランスがとれないでしょ?」
「ああ、そういうことか。じゃあ、やっぱりあたしみたいなのがいいんだ?」
裕ちゃんはおどけた調子でそう言った。返す言葉がなかった。僕は話題を変えた。
「ところで裕ちゃんスケジュールは大丈夫なの?」
「スケジュールって?」
「裕ちゃんのスケジュールだよ。僕は学生だから講義を欠席するくらいたかがしれてるけど、裕ちゃんは相手のある仕事とかがあるんじゃないの?」
「へえ、心配してくれるんだ。さすがは婚約者だけのことはあるね。」
裕ちゃんは相変わらずおどけた口調だ。
「ねえ、僕は真面目なんだけど。」
「ごめんなさい。でもそれなら大丈夫だよ。昨日、というかもう今日の未明かな?マネージャーさんにメールしといたから。過労のため、二十二日までのスケジュールは全部キャンセルしますって一方的に宣言した。」
「へ~、そんなことできるんだ。まあ、まだデビュー前だし、スケジュールに余裕あるんだね。」
「余裕なんてあるわけないじゃない。分刻みだよ。だから東大病院に救急搬送されて入院したことにしたの。一時的な過労だけど少し休養が必要だと主治医に言われたってことにしといたから。」
「ええっ!またそんな嘘ついて。関係者が見舞いに来たらどうするの?」
「関係者なら見舞いに来るよ。今日、これからマネージャーが見舞いに来るの。まああたり前だよね。あたしはこれでも事務所にとっては大切な商品なんだから。」
「『見舞いに来る』って、どうするつもりなの?こんなところにいたんじゃ仮病だってのがバレバレでしょ?」
「大丈夫だよ。アイデアはあるから。」
「アイデア?」
「そこに啓ちゃんの白衣があるよね?」
「まあ僕の白衣じゃないけど。僕がいつも着てる白衣ね。」
「それと黒田ドクターのネームプレートもある。」
「うん。」
「黒田ドクターは東大病院の正真正銘のお医者さん。だから啓ちゃんが白衣着て、博士のネームプレートつけて医者らしく振舞ってもらえればいいよ。」
「何言ってんだよ。病棟にいるならともかく、救急搬送された患者がこんな汚い研究室の中にいるのは誰が見てもおかしいよ。」
「そうかなあ。啓ちゃんが白衣を着て『ただ寝ているだけでは疲れは取れないので、音楽とは別のことを少しやった方がいいと思って僕の論文を手伝ってもらっています』ってもっともらしく言えば案外ごまかせると思うけど。」
「・・・・・・そんなにうまくいくかなあ?」
「うまくいくよ。大切なのは白衣だよ。医者の権威と言った方がいいかな。お医者さんに言われたら普通の人はそんなもんかと思うよ。」
「う~ん。」
僕はうなったが論文チェックを進めなければならず、あまり考えている暇もなかったのでともかく裕ちゃんの言う通りにした。
それから三時間ほどして携帯メールに誘導された裕ちゃんのマネージャーが研究室にやってきた。ドアがノックされたので、白衣を着てドクター黒田のネームプレートをつけた僕はドアを開けマネージャーを招き入れた。
「失礼しま~す。白石裕子のマネージャーで~す。」
マネージャーは自分の名前は名乗らず、明るい声で僕にペコリとあいさつをした。歳は僕と同じくらいだろうか、随分若い女の子だ。背は低く、べっ甲のメガネをかけている。秋葉原にいるアニメ系のキャラのようだ。机に向かい、論文とにらめっこしていた裕ちゃんは顔を上げた。
「すみません。こんなところまでわざわざお越しいただきまして。主治医の黒田と申します。」
僕はそう言ってわざとらしくネームプレートをマネージャーに向けた。マネージャーはもう一度ペコリと頭を下げ、裕ちゃんの傍まで行き、僕に椅子を勧められて裕ちゃんの隣に座った。
「も~、ビックリしましたよ。急に入院だなんて。」
「ゴメンゴメン。さすがに疲れたんだね。」
裕ちゃんはやや疲れた表情で言った。
「それでどんな感じですか?」
「うん。少し休んで随分楽になったよ。後、二、三日で退院できると思う。」
「なんで病室にいないんですか?」
マネージャーが核心を突いてきた。裕ちゃんはそれには答えず、白衣のポケットに手を入れて立っている僕の方を見た。
「それは疲労回復の治療の一環ですよ。白石さん、音楽にかかりっきりで疲れてしまったようですので、音楽とはまったく別のことをやることで逆に疲労を回復させようとしているんです。疲労回復というとベッドに寝たきりというイメージがあるかもしれませんがあれは却っていけません。むしろ疲労蓄積の原因となったことと別のことを積極的にやることによって疲労を早期に回復できるという効果が期待できるんです。」
僕は医者のように言った。
「へ~、そういうもんなんですか~。」
マネージャーは半信半疑だ。僕の語りが自信なさ気なのかもしれない。
「ええ。例えば山登りなんかむしろ身体を疲れさせますよね。でも疲労の原因がデスクワークにあったりすると身体を動かす方が疲労回復にはいいんです。白石さん、聞けば東大の卒業生で英語が堪能だとおっしゃるじゃありませんか。それで僕の論文をちょっと手伝ってもらっているんです。」
「そう。机に向っての勉強なんてホントに久し振りなんでなんか却って新鮮。」
「ええっ、裕子さんって東大なんですか?」
マネージャーが驚いたように言った。
「うん。知らなかった?」
「てか、裕子さんの私生活なんて全然知りませんよ。社長も教えてくれないし。」
「まあ社長もあんまり知らないかもね。それで社長はどんな感じ?」
「そりゃ、心配してますよ。今日も『一緒に行こうか』って言ってたんですけど、『裕子さんのお父さんがいるみたいだ』って言ったら急にトーンダウンして。」
「ハハハ、そうだったんだ。でも見ての通りあたしは大丈夫だから社長にもそう伝えてね。」
「はい。裕子さん元気そうなんで少し安心しました。これ、お見舞いです。」
マネージャーはそう言って大きなレジ袋を机の上に置いた。レジ袋は白く、中身は見えない。
「お嬢さん、申し訳ありませんが病人の見舞いに長居は禁物ですよ。」
僕は打ち合わせどおり、マネージャーに早期退席を勧告した。
「ああ、スミマセン。もう失礼します。じゃあ、裕子さん、退院するときは連絡くださいね。お迎えに上がりますから。」
「多分、退院したら自分の足で事務所に行かれると思うけど、まあ、連絡は入れるね。今日はありがとう。みんなによろしくね。」
「はい。失礼します。」
マネージャーはそう言うと僕に目礼し、ドアのところでもう一度「失礼します」と言って研究室から出て行った。僕は「ふうっ」とため息をついた。裕ちゃんはマネージャー女史が持ってきたお見舞いのレジ袋から何かを取り出している。
「あっ、うなぎだ。うれしー!ろくなもの食べてなかったもんね。でも残念。一つしかないや。」
レジ袋の中には色々な物が入っているようだったが、裕ちゃんはうなぎ弁当のような容器だけを取り出した。裕ちゃんがケロッとしているので僕はもう一度ため息をついた。
「ねえ、裕ちゃん。」
「ん?」
「さっきのマネージャーさん。」
「ああ、遠藤マネージャーね。」
「随分、若いね。」
「おお、ああいう子が好みかな?」
「またそういうこと言う。」
「まだ二十歳だよ。まあ、なりそこないのアイドルだね。」
「へ~、そういうもんなんだ。」
「芸能界は競争が厳しいからね。」
「権蔵先生がいるとか言ってたけど。」
「ああ言わないと社長が来ちゃうからさ。社長はお父さんが苦手なの。」
「権蔵先生が苦手でない人はいないよ」と言おうとしたがその言葉は飲み込んだ。
「なにはともあれありがとう。上手くごまかせたね。さあ、とにかく早く論文チェックして博士に送ろう。」
裕ちゃんがそう言ったので僕は白衣を脱ぎ、裕ちゃんの隣に座って作業を再開させた。すると裕ちゃんがうなぎ弁当のふたを開け、さんしょうを振り掛けると割り箸を割り「さあ、どうぞ」と言って僕に差し出した。
「いいよ。裕ちゃんが食べなよ。裕ちゃんのお見舞いなんだろ。」
「あそう。悪いね~。じゃあいただきま~す。」
裕ちゃんはいつものおどけた口調でそう言うと、ちっとも悪びれた表情は見せず、うなぎ弁当にパクついた。
それから二日が経過し、論文の最終稿は二十一日の深夜に完成し、札幌の病院にいる博士の下にメール送信した。これから博士が最終チェックする。とにかく博士がチェックしている間に眠って二十二日、締切日ギリギリの手直しに備えようということになって裕ちゃんと僕は同じソファに並んで腰掛けて眠った。腰に来るがもう数時間の辛抱だ。ここ三日間、キチンと眠っていないのでさすがに眠い。僕はあっという間に眠りについてしまった。
それから僕は再び夢とうつつの間を行き来し、窓の外が明るくなっているような気配を感じて目を覚ました。机の方を見ると裕ちゃんは既に起きていてパソコンに向かっている。何時間眠ってしまったのか、自分でもよく分からない。
「おはよう。博士から返信は来たのかな?」
僕がそう言うと裕ちゃんは回転椅子を九十度回転させソファで目を覚ましたばかりの僕の方を向いた。
「おはよう。よく眠れたかな?結構、いびきかいてて気持ちよさそうだったよ。博士からは自ら手直しした最終版が来て、今、アメリカの雑誌社に送ったところ。間に合ったね。ありがとう。」
裕ちゃんが満面の笑顔でそう言ったので僕にも笑顔が出た。とりあえずホッとした。
「そうか。良かった。博士、自分で手直しできたんだ。」
「うん。もっとも手直しっていっても一ヶ所だけだったけどね。手術も無事成功したみたい。明日、東京に戻るって。」
「まだ朝かな?」
「七時くらいだよ。あたしは一服したら事務所に向うね。」
「ここから直接行くの?」
「そう。退院して直接ね。ここきてからお風呂入ってないから臭いまんま。妙にリアリティあるでしょ?」
「そういや僕もお風呂入ってないや。なんか久し振りだな。こんなに一つのことで熱くなったの。」
「そう?あたしはなんか久し振りに啓ちゃんと共同作業ができて楽しかったかな。」
「『久し振りに共同作業』って、裕ちゃんと僕で一緒に何かやったことなんかあったっけ?」
「まあ啓ちゃんにとってはどうでもいい記憶かもしれないけど、あたしが柏崎市民音楽祭に出たことがあったじゃない?」
「市民音楽祭?いつだろう?」
「あたしが中学三年のときだから啓ちゃんは中一のときだね。」
「そんなのあったっけ?」
「素人のど自慢みたいなお祭りだよ。啓ちゃんと一緒に曲作ったりしたんだけど。」
「ああ。なんかあったね。裕ちゃん何か賞もらったんだ。」
「うん。優勝はできなかったけどあたしは本選に進んだ出場者の中では最年少だったから。」
「何、歌ったんだっけ?」
「忘れちゃったの?『天使の翼』だよ。」
「『天使の翼』?どんな歌だっけ?」
「信じられない。忘れちゃうなんて。二人で作ったのに。」
「ゴメン。歌ってみてよ。思い出せると思うから。」
「ここじゃダメだよ。今度、ピアノがあるときに歌ってあげるよ。」
「サビの部分だけでいいから。」
「ダメダメ。ここには楽譜もないしね。そっか~、啓ちゃんは忘れちゃってるんだ。あたしにとっては大切な青春の一ページなんだけどね。」
「青春の一ページねえ。」
「そりゃそうだよ。あの時、審査員奨励賞もらってから今年、ポップスコンクールで優勝するまで無冠だったんだから。」
「ああ、そうだったんだ。」
「オーディションも百回くらい受けたよ。でもダメだった。」
「それでも諦めなかったんだ。」
「そう。だから今回のこのチャンスは絶対に逃したくないの。幸い、啓ちゃんと再会できて啓ちゃんのお陰でチャンスは逃さずに済みそうだけど。市民音楽祭のときもそうだったけど、啓ちゃんといるといいことあるね。だからこれからもよろしくね。」
裕ちゃんはいたずらっぽく笑った。疲れていはいるようだが充実感を感じているようだ。
「僕は裕ちゃんといると何か面倒なことに巻き込まれるような気がするんだけど。」
僕は本音をポロッと漏らした。
「ごめんなさい。そう言われればそうかもしれない。いっつもあたしが啓ちゃんの生き血を吸ってるようなもんだもんね。」
「そこまでは言ってないけど。」
「いや、そうだよ。啓ちゃんにはいっつもしてもらうばっかりであたしが啓ちゃんのために何かしてあげたってことってあんまりないんじゃないかなあ。じゃあ、やっぱり彼女でもあっせんしますよ。こないだ遠藤マネージャーに興味示してたよね。アイドルのなりそこない。聡美は不釣合いとか言って敬遠してたけど彼女なら釣り合い取れるんじゃない?いい子だよ。なんてったってこのわがままなあたしのマネージャーが務まるくらいなんだから。」
僕はため息をついた。話題を変えた。
「ところで博士が論文を一ヶ所だけ手直ししたって言ってたけど、どこ直したの?」
「ああ、手直しっていっても一行追加されただけだよ。」
裕ちゃんはそう言うと目の前のパソコンの画面を論文の末尾までスクロールし、「ほら、ここ」と言って論文のお尻を指差し、僕は液晶を覗き込んだ。論文の末尾には英文で「この論文は有能な助手、ミスターケイイチ・イシミズの助力によるところが大きい」と書かれていた。