十二月二十四日、大学生になって二度目のクリスマスイブの夜、いつもの学ランを身にまとった僕は銀座の高級フレンチレストランの円形テーブルを前に裕ちゃんの到着を待っていた。午後六時の約束なので夜といってもまだ早い時間だ。今朝、急に裕ちゃんから電話があり、ここに呼び出されたのだ。てっきり裕ちゃんは博士とイブの夜を過ごすものと思っていたので少し意外だった。もっとも博士は無神論者のようだからイブの夜には興味はないのかもしれない。あるいは婚約していることのアリバイ作りのためなのかもしれない。いずれにせよ婚約者と一緒にイブの夜を過ごそうということ自体は理に適っている。
クリスマスイブといえば一年前のこの日もクラスの女の子から「今夜会えないか?」と電話があり、出かけていったことがある。もちろん下心もあったのだろう。なけなしのお金をはたいてプレゼントも準備した。しかし、もてない男が突然もてるのには何か訳があるのだ。待ち合わせの場所には僕以外にももてない男が何人か来ていて唖然としているうちにくだんの彼女が登場、マルチ商法の説明が始まった。だから僕にはクリスマスイブに良い思い出はない。最初から期待はしていなかったが、それでもご馳走にはなるのだろうからプレゼントは用意して行った。
裕ちゃんの到着を待っていると約束の時間に十分くらい遅れて裕ちゃんが現れた。それだけなら良かったのだが、連れの男がいたので僕はビックリして立ち上がった。
「権蔵先生!」
僕がそう叫ぶと連れの巨漢は左手をサッと上げた。
「いや、君達の邪魔をするつもりはなかったんだが・・・・・・。この前はすまなかったな。せっかくの結納の席も欠席してしまって。まあかけたまえ。」
巨漢は豪快にそう言うと豪快に座った。結果論だが僕はこの予期せぬゲストの登場を予想できなくはなかったのだ。最初から円テーブルに椅子が三つ用意してあった。
「いいえ。僕の方こそすっかりご無沙汰してしまいまして申し訳ありません。」
僕はそういいながら着席し、裕ちゃんも座った。
「選挙はまだ先になりそうだがどうかな?相変わらず勉強していると聞いているが。」
「はあ。」
僕は力なく相槌を打ち、裕ちゃんの方をチラッと見た。裕ちゃんは「すまない」といった表情をしていたので巨漢の登場は裕ちゃんにとっても予期せぬ展開なのだろう。ここは合わすしかないと思った。
「もっと君にも会って、政治の話とかもしたいのだけどな。いかんせん忙しくてなかなか裕子の相手もしてやれないのだよ。まあ分かってくれ。」
巨漢がそう言うとソムリエがワインを持って現れ、フランス語を交えてワインうんちくを披露した。そして目の前でコルクを抜き、巨漢にテイスティングをさせるとテーブルの上のワイングラスに注いでまわった。
「じゃあまずは乾杯だ。メリークリスマス。」
巨漢の音頭で裕ちゃんと僕もグラスを合わせ、恐らく最高級に区分されるであろう赤い液体を体の中に流し込んだ。巨漢はワインを一気に飲み干し、豪快に笑った。ソムリエがすぐに二杯目を注ぐ。
「こんな格好で申し訳ありません。権蔵先生がおいでになるのでしたらもう少しまともな格好をするべきでした。あいにくこれしか着るものがありませんので。」
「随分、苦学していると聞いているよ。」
「僕の家は裕福な方ではありませんので。裕子さんにもふさわしくないのかもしれません。」
「それは逆だな。むしろ若いうちは苦労した方がいいのかもしれない。・・・それで、今日はクリスマスイブだけど裕子には何かプレゼントを準備しているのかな?」
「あっ、はい。」
急に話題をプレゼントに振ったのでビックリしたが幸い、用意はしてある。
「私にも見せてもらっていいかな?悪趣味かな?」
そう言われて僕は裕ちゃんと顔を合わせた。裕ちゃんは引きつっている。裕ちゃんは僕がプレゼントの用意などしていないと思っているのだろう。
「別に構いませんが。」
僕はそう言って上着の左側の外ポケットに入れていたプレゼントを取り出し、「つまらないものだけど、メリークリスマス」と言って裕ちゃんに渡した。
「あっ、ありがとう・・・・・・開けてもいいのかな?」
裕ちゃんは相変わらず動揺しているようだ。
「もちろんだよ。」
僕がそう言うと裕ちゃんは黙ったままプレゼントの包装を丁寧に開けた。中から白い小箱が現れ、それを開けると「まあ!」と裕ちゃんはニッコリ笑い、巨漢が横から覗き込んだ。
「かわいい~!ありがと~。ほら、お父さん見て。」
裕ちゃんが小箱を巨漢に渡した。巨漢は小箱を受け取りしげしげと見つめる。中にはパステルピンクのハートのイヤリングが入っている。
「ありがとう。こういうの欲しかったんだ。よく分かったね。」
「欲しいかどうかは分からなかったけど裕ちゃんに似合いそうなんで選んでみた。」
僕はそう言って巨漢の方を見た。巨漢はしばらくそのイヤリングを見つめていた。
「安物で申し訳ありません。」
巨漢があまりにもしげしげとイヤリングを見つめていたので僕の方から声をかけた。
「ブランド物ではないのだな?」
巨漢がやや苦笑した声で言った。ブランド物ではないのは当たり前だ。僕にそんな余裕などあるわけないし、裕ちゃんはただの幼なじみに過ぎないのだ。
「スミマセン。僕はその~、貧乏学生ですので。」
「立派だよ。背伸びしないんだな。それに実力もないのにブランド物をプレゼントする奴にはろくな奴がいない。」
巨漢はかって知ったるように言った。そういう経験をしているのかもしれない。
「別に裕子さんを軽視しているわけではありません。」
「分かっているよ。大切なのはハートだ。・・・・・・今日はお邪魔してすまなかったな。その、・・・・・・色々とおせっかいというか、意見するものがいてな。君達が上手くいってないんじゃないかと言う輩がいたんだ。それで心配になってしまったんだ。まあ親心だと思って笑って許してくれ。すべて私のとりこし苦労だった。でも来て良かった。君達のことは君達にまかせておいて大丈夫だということが分かって安心したよ。じゃあ私はこれで失礼する。」
巨漢はそう言うとワイングラスを手に取り、二杯目のワインを一気に飲み干して席を立ったので裕ちゃんと僕も席を立った。
「啓一君。よく勉強していると聞いているよ。君には期待している。これからも裕子のことをよろしく頼むよ。じゃあ。」
巨漢はやはり忙しいのだろう、ちょうどギャルソンがスープを持ってきたところだったがそれには目もくれず颯爽と個室から出て行った。裕ちゃんがその後を追いかけ、僕は着席し、ワインを少し口に含んで喉の渇きを癒した。しばらくすると「やれやれやれ」と言いながら裕ちゃんが戻ってきてもとの席に座り、水を一口飲み、深呼吸した。
「ごめんなさいね。お父さんが昨日、『クリスマスイブは啓一君と会うんだろう?』って突然言ったもんだから。」
裕ちゃんはスプーンを取り、スープに手をつける。
「それで?」
「あたし達、婚約はしてるけど普段、ほとんど会わないじゃない。まああたしが音楽の方で忙しいということにしてるんだけどね。それでも会わなさ過ぎるもんだからお父さんも怪しいと感じ始めてるの。それで本当に婚約してるならさすがにクリスマスイブには会うだろうって考えたようで、会うなら久し振りに自分も啓ちゃんに会いたいって言い出したの。それで、急遽、こういうセッティングをさせていただきました。」
「そっか。やっぱりアリバイ作りのためだったんだね?」
「そう。ゴメンね。急に呼び出して。でもよくプレゼント準備してくれてたね。あれにはビックリ。しかもハートのイヤリングなんて。博士だってプレゼントなんかくれたことないのに。」
「博士は無神論者だからクリスマスには興味ないんじゃないの?まあイブの夜に会うのに手ぶらじゃ気が利かないかなあと思って。一応、婚約者ではあるんだし。」
「ありがとう。父がプレゼントの話をしたときは心臓が止まるかと思ったよ。もしプレゼントがなかったらホントに怪しいもんね。でもプレゼントくれたのはすごくうれしかった。博士から啓ちゃんに鞍替えしちゃおうかなって思ったくらい。」
裕ちゃんは冗談ぽく言った。事実、冗談だったのだろう。
「どうせ安物だよ。」
「気持ちの問題だよ。」
「それにしても権蔵先生が来たのはビックリしたなあ。あらかじめ言ってくれれば良かったのに。」
「言ったら啓ちゃん、逃げちゃうかもしれないでしょ。」
「確かにその通りだけど。・・・・・・権蔵先生、選挙とか言ってたけど本気なの?僕はまだ学生だよ。」
「それは時間が解決する問題でしょ。」
「僕がよく勉強してるみたいなこと言ってたけど、僕の話なんかするの?」
「時々はね。でもあたしの話よりもお父さん、探偵を雇って啓ちゃんのこと調べたみたいだよ。」
「探偵?」
「今までもそういうことしてたみたい。柏崎の議席を狙ってる男は多いからね。」
「なるほど、素行調査ってことだね。」
「そう。でも啓ちゃんは百点満点だった。啓ちゃん、大学の授業、全部出てるんだってね。しかも一番前の席に座るんだって?」
「ああ。まあ僕は勉強が好きだからね。好きでやってることだから。裕ちゃんの音楽と同じだよ。そんなことまで調べたんだ。」
「そう。だから啓ちゃんはすっかりお父さんのお気に入りになったよ。変な遊びもしないみたいだし。あたしも助かってます。」
「そっか。」
僕がそう言ってため息をつくとギャルソンがオードブルを運んできた。
「・・・・・・でっ、啓ちゃんは今晩、何か予定は入ってなかったの?」
僕が運ばれてきたオードブルを眺めていると裕ちゃんが少しモジモジしながら申し訳なさそうに聞いた。
「入ってるわけないじゃないか。僕は裕ちゃんと婚約してるんだぞ。イブの夜は恋人と過ごす、それがまっとうなイブの過ごし方だと思うけど。」
「そうでした。・・・・・・ゴメンね。あたしは・・・・・・次があるからこれで失礼しますけど。」
まだオードブルが出てきたばかりだというのに裕ちゃんはしれっとそう言ったが、さすがにまずいと思っているのだろう。
「次って・・・・・・そうか・・・・・・博士だね。東京に帰ってきたんだ。」
そうなることは分かっていたのだがなんとなく寂しい。声のトーンにも出ていたかもしれない。僕は昨日、今日は研究室に顔を出していないので博士の帰京は知らない。
「ホント、ゴメンねえ。いつもいつも啓ちゃんのこと踏み台にしちゃってるみたいで。」
裕ちゃんはそう言いながらハンドバックからタブレッドを取り出した。
「いいよ。そんなことは百も承知で僕は引き受けたんだから。で、デビューの方はどうなの?」
「お蔭様で順調だよ。来年の二月一日にデビューアルバムが発売される。」
「いきなりアルバムなの?」
僕は業界のことは良く知らないがいきなりアルバムでデビューということはめったにないはずだ。裕ちゃんは口に含んだタブレットを水で流し込みながら
「そう。演歌みたいにスロースタートにはなるかもしれないけど、じっくりやるよ。じゃあ、あたし急ぐんで。啓ちゃんはゆっくりしていってね。あたしとお父さんが食べる分はお持ち帰り用に包んでもらうよう頼んどくからお土産に持って帰ってね。・・・・・・この埋め合わせはいつか必ずするから。啓ちゃん、年末年始はこっちにいるんでしょ?」
「そうだね。僕には盆も正月もないからね。」
「たまには柏崎に帰って親孝行もしてね。」
裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言うとプレゼントのハートのイヤリングをバッグにしまい、「じゃあ」と手を振って僕の視界から消えて行った。寂しいという思いと最初からこうなることは分かっていたという思いが僕の中で交錯した。僕はギャルソンを呼び、連れは急用ができて帰ってしまったので早めに料理を出すようリクエストし、一人だけの気を使わないディナーを楽しんだ。そして午後八時前には仙川のおんぼろアパートに帰宅し、机に向い、簿記の問題集を広げた。寒いクリスマスイブの夜だった。
それから一週間ほどが経過し、この年も大晦日を迎えた。冬休みもレギュラーのバイトが入っているので僕は柏崎には帰らず、仙川の安アパートとバイト先を行き来する日々を送っている。裕ちゃんとはクリスマスイブに会ったのを最後にそれきりになっている。きっと、博士と楽しい年末年始を迎えていることだろう。僕はホッとするような、それでいて寂しいような、なんだか不思議な気分だ。
午後五時頃、おんぼろアパートの一室で簿記の勉強をしているとドアが不意にノックされた。僕は一瞬、裕ちゃんの気配を感じた。辺りはもう暗い。
(「大晦日の夜、カウントダウンを婚約者の僕と過ごすために裕ちゃんが尋ねてきてくれたんだ。」)
そんな都合のいい予感がして僕は急いでドアを開けた。しかしドアの向こうには意外な人物が立っていた。
「やあ、石水君。話には聞いていたけど、随分、おんぼろなアパートだな。」
「博士!どうされたんですか?」
「裕子から聞いてないのか?」
「ええ、何も。」
「そうか。これ持ってここに来るように裕子に言われたんだ。」
博士の両手にはクーラーボックスとスーパーのレジ袋、それに十八インチくらいのテレビが握られていた。
「まあ、上がってください。」
僕がそう言うと「じゃあ、お邪魔するよ」と言って博士が上がりこんだ。
「コタツは押入れかな?」
「はい、そうですけど。出しますか?」
「ああ。裕子に宴会の準備をしておくように言われているんだ。」
「宴会・・・・・・ですか?」
「忘年会でもやるんじゃないか。まあ、君にも随分と世話になったから慰労会というところかな。」
慰労会はいいが、慰労される者の部屋に無予告で上がりこんでくるのもいかがなものだろうか。まあ裕ちゃんらしいといえばそれまでだが。僕がコタツをセットすると、博士はスーパーのレジ袋から乾き物を取り出し、コタツの上に並べた。
「乾き物ばかりだけど、腹に溜まるものは後で裕子が持ってくるんじゃないかな。」
博士はそう言うと今度はクーラーボックスから缶ビールを取り出し、自分と僕の前に一つずつ置いた。
「これは?」
僕は博士が持ってきたテレビを指差して尋ねた。
「これも裕子に持ってくるように言われたんだ。テレビもない殺風景な部屋だって言われてね。でも俺が君の年齢だったときに比べればはるかに恵まれてるよ。・・・・・・じゃあ先にいただこうか。」
博士はそう言って缶ビールのプルタブをあけ、僕にもあけるよう促した。
「裕ちゃんも来るんじゃないんですか?」
「いいよ。『先に始めといてくれ』って言われているから。」
僕もプルタブをあけた。
「じゃあとりあえずカンパ~イ。」
博士は自分の缶を僕の缶に合わせるとゴクゴクとビールを喉に流し込んだ。
「プハ~ッ。なんだか一年間の疲れが取れるような気がするよ。」
「お酒飲むんですね。博士は研究にしか興味がないのかと思いましたよ。」
僕は冷めた表情で言った。博士は乾きものの袋を適当に開け始める。
「大きな山を越えたからな。まあ俺にも息抜きが必要だってことだ。」
「これからどうなるんですか?」
「これからか。まあ、年が明けてからの話になるけどな。アメリカで俺の論文が発表される。その論文を世界の学会がどう評価するかだ。いい評価を受けることができればどこかの研究機関が雇ってくれるだろう。」
「日本を離れるんですか?」
「そうありたいね。でもまだまだダメだろうな。本当は今すぐにでもアメリカに留学したいところだが金もないしね。もっと研究を重ねて論文を書いて、まだしばらくは下積みだよ。」
博士は自分のセリフを自分で噛み締めるようにもう一度ビールをグイっと飲んだ。
「なあ、石水君。」
「はい?」
「俺と一緒にアメリカに行かないか?」
「はあ?なにをおっしゃるんですか?」
「君と一緒なら案外、うまくやれそうな気がするんだ。」
「うまくって、僕は何もできませんよ。医学のことなんか分からないですし。」
「ああ。医学のことはいいんだ。金の計算をしてくれればなと。」
「お金の計算、ですか?」
「俺は金の計算には興味はない。医業に専念できればそれでいいんだ。しかし、社会というのは厄介なところで、金の計算もできないと面倒くさいものなんだよ。税金とか保険とか、余計なものがたくさんあるからな。だから君は俺が医業に専念できるように俺をマネジメントしてくれればいい。」
「マネージャーになれってことですか?」
「簡単に言うとそういうことかな。でも悪い話じゃないと思うぞ。俺は天才だ。俺を利用すれば存分に金儲けできると思うよ。」
「はあ、まあ・・・・・・考えてみます。・・・・・・せっかくですからテレビをセットしますね。」
博士があまりにも突拍子もないことを言ったので僕の方から話題を変えた。
「ああ。準備ができてないと裕子がうるさいかもしれないな。」
博士がリラックスした表情でそう言った。僕は簿記のテキストをどかし、机の上にテレビを置き、アンテナをつなげた。
「なあ、石水君。」
テレビの設定をしていると博士が不意に声をかけた。
「はい?」
「裕子と婚約してるんだってな。」
博士は表情を変えずにポツリとそう言った。僕は一瞬固まったが、冷静に作業を続けた。
「ご存知だったんですか?」
「二週間くらい前かな。ヤマザキとかいう裕子の親父の秘書を名乗る男が来てそんなことを言っていたよ。」
「研究室に来たんですか?」
「ああ。俺と裕子のことは知っているようだった。まあ、俺は裕子の親父にも会ってるしな。」
二週間前といえばまだ論文の締め切り前でバタバタしていた頃だ。
「何か言われたんですか?」
「『裕子にはつきまとうな。婚約してるんだ』ってなことを言ってたよ。」
「婚約のこと、裕ちゃんには聞いたんですか?」
「便宜上、婚約していることになっているだけだって言ってた。」
「そうですか・・・・・・」
「実際のところはどうなんだ?裕子にはそれ以上聞かなかったが。」
「興味あるんですか?」
「興味というか好奇心だよ。」
「本当に好奇心だけですか?」
僕はちょっと意地悪く尋ねた。
「・・・・・・いや、・・・・・・本当は興味大ありだというのが正直なところかもしれない。」
「どうしてそんなにまどろっこしいんですか?もっとストレートに自分の気持ちに正直になったらいいじゃないですか。」
「まったくだな。でも、俺はろくな人生を歩んでこなかったんだ。俺に素直さを求めるのは無理だよ。」
「本当は裕ちゃんのことが大好きなんですよね?」
「・・・・・・ああ。その通りだよ。くやしいがその通りだ。柄じゃないんだけどな。」
博士はそう言うと手にしている缶ビールをぐいっと飲んだ。
「ならどうしてもっと自分の気持ちを素直に裕ちゃんに伝えないんですか?・・・・・・僕が裕ちゃんと婚約しているのは事実です。でも婚約は解消するつもりです。その・・・・・・、妹さん、聡美さんに『裕ちゃんを返して』って言われまして。・・・・・・ですから、今すぐは無理ですけど将来的には婚約は解消する予定です。裕ちゃんもそのつもりです。それは博士もご存知のはずです。」
「ああ。裕子から聞いている。でも、君はそれでいいのか?」
「いいのかとおっしゃいますと?」
「随分無理して裕子と婚約したって聞いてるけど。」
別に無理などはしていない。所詮は作り話なのだ。しかしここは演技をして裕ちゃんに話をあわせておかなければならないのかもしれない。
「確かに無理はしたかもしれません。でも、所詮は幼なじみが婚約者に昇格しただけのことですから。昔の幼なじみに戻るだけです。」
「そうか。・・・・・・俺は正直、君には勝てないんじゃないのかなって思ってもいるんだ。」
「何をおっしゃいますか。裕ちゃんはあなたのために・・・・・・」
「俺より君の方がよっぽど裕子のことを理解しているよ。裕子のことを受け止める度量もある。」
博士がそう言うとまた不意にドアがノックされた。鍵はかかっていないのでそのままドアノブが回転し、「こんばんは~」という声と同時に裕ちゃんが入ってきた。
「お待たせ。お腹空いちゃったかな?」
裕ちゃんは恐らく寿司なのだろう、テイクアウトの料理が入っていると思われる丸い大型の容器を抱えて部屋に入ってきた。後ろに人影がある。
「こんばんは~。お邪魔しま~す。」
聡美さんが裕ちゃんに続いて入ってきたので僕は少しビックリしたが、聡美さんが現われたことよりも見覚えのあるイヤリングが聡美さんの両耳で揺れていたことの方が衝撃だった。聡美さんはケーキが入っていると思われる箱をぶら下げている。
「聡美さんも来たの?」
「いいでしょ。今日はまあ、啓ちゃんに日頃の感謝を込めての忘年会だよ。」
裕ちゃんは外套を脱ぎ、寿司一台とオードブルの入った皿をそれぞれコタツの上においた。聡美さんも外套を脱ぎ、小皿や割り箸を置いていく。いつも三人でこういうことをやっているのかもしれない。なかなか手際がいい。
「来るなら来るで連絡くれればよかったのに。」
「ゴメン、ゴメン。色々とバタバタしててつい連絡入れそびれちゃった。それに啓ちゃん年末は帰らないって言ってたし、確実にここにいるだろうなあと思って。まあサプライズパーティーだと思ってよ。迷惑だったかな?」
「まあ、いいけど・・・・・・。」
僕はそもそも断れない性格だ。ここまでセットされたら今さら出て行けとは言えない。
「じゃあ早速始めましょうか。博士と啓ちゃんはもう始まっちゃってるんだろうけど。」
僕の気持ちをよそに裕ちゃんはそう言いながらクーラーボックスから缶ビールを二缶取り出し、一つを聡美さんの前に置き、プルタブを開けた。聡美さんもプルタブを開け、博士と僕は缶を握った。
「それでは皆さん、準備はよろしいでしょうか?一年間、ホントにお疲れ様でした。では何はともあれカンパ~イ!」
裕ちゃんが音頭をとり、黒田兄妹と裕ちゃんそして僕の忘年会は始まった。
「ねえ、聡美。」
コタツでゴロゴロ横になっていた裕ちゃんが不意に聡美さんを呼んだ。博士は一時間ほど前から既にコタツの中で熟睡状態に入っている。テレビには年末恒例の大型歌謡番組が映し出されていて、今年ももう後二時間くらいで終了する。コタツの上にはご馳走と缶ビールが無造作に置かれていた。
「何?」
「クリスマスイブはどうしてたの?」
「どうって、仕事だよ。」
「そっか、仕事が入っちゃったんだ。」
「休みたい人多いからね。私みたいに何もなくて、田舎にも帰らない人は仕事だよ。」
「でも、『一緒にクリスマスを過ごしませんか?』みたいなお誘いはあったんじゃない?」
「それはあったけど・・・・・・」
「聡美、モテモテだからね。・・・・・・啓ちゃんは?」
裕ちゃんが今度は僕に振った。
「えっ?」
「クリスマスイブだよ。誰かと一緒に過ごしたの?」
僕は一瞬、聡美さんと顔を合わせた。目が合った。
「いや、僕も一人だったけど。」
「イブの夜だよ?」
「ああ。一人でこの部屋にいたよ。」
厳密に言えば嘘かもしれない。でもイブの夜、裕ちゃんは博士と一緒だったはずで、解釈の問題とも言える。裕ちゃんは少し沈黙した。
「・・・・・・何やってたの?」
「勉強だよ。」
「相変わらず簿記?」
「ああ。」
「そう。せめてバイトにでも行けば良かったのに。」
裕ちゃんは目をつぶったまま寝言のように語り掛ける。随分、眠そうだ。
「何が言いたいの?」
僕は裕ちゃんに聞いたが、裕ちゃんはそれには答えず
「ねえ、聡美は今、付き合ってる人とかいるの?」
「いや、別にいないけど。」
「そうだよね。もしいたらあたしには報告するよね。」
「うん。」
「じゃあ、啓ちゃんと付き合っちゃえばいいじゃない。」
「ええっ。」
裕ちゃんがそういったので聡美さんはビックリした表情を見せ、聡美さんと僕はまた顔を合わせ、すぐにそらした。
「いいじゃない。啓ちゃんも今はフリーなんだから。啓ちゃんはどう?」
「どうって、急に言われても・・・・・・」
「いいじゃん。ミス東大の美人アナが彼女だなんてうらやましいけどなあ~。それにもしもよ、あたしが博士と結婚して、聡美と啓ちゃんが結婚したとしたらあたしと啓ちゃんは義理の姉と弟ってことになるんでしょ?今までも姉と弟みたいなもんだったけど、正式に縁ができるんだよ。そしたらちょっと縁は遠いけど、権蔵の娘の連れ合いの妹の連れ合いってことで選挙にも出られるかもしれないじゃない。お父さん、啓ちゃんのこと気に入ってるし、ちょうどいいかも。」
裕ちゃんが眠そうにそう言うと、テレビでは今年、一番売れたグループが登場し、三人の視線がそちらに向かった。裕ちゃんがあまりにも唐突なことを言ったので聡美さんも僕も突っ込みたくなかったというのが本当のところかもしれない。裕ちゃんが腕枕のまま「あたしも来年はこのステージに立てるかなあ~」とつぶやいた。
グループのパフォーマンスが終了すると聡美さんが「裕ちゃん、寝ちゃったね」とつぶやいた。裕ちゃんを見ると腕枕で目をつぶり、スヤスヤと眠ってしまっていた。博士も当分起きる気配がない。この四畳半の空間に聡美さんと僕だけが取り残された。さっき裕ちゃんが変なことを言ったので少し気まずい。
「あの~っ・・・・・・」
二人の声は偶然、重なった。
「あっ、お先にどうぞ。」
右手の手のひらを返して僕が言うと、聡美さんは「石水君こそお先に」と言って、お互いに譲り合った。少し沈黙した。
「…・・・じゃあ、僕から言うね。今日はありがとう。来てくれて。お蔭様で楽しい年末を迎えられたよ。」
僕がそう言うと聡美さんはしんみりうつむいた。
「私の方こそありがとう。」
「ありがとうって、僕は何もしてないけど。」
僕がそう言うと聡美さんはコタツから出て、僕の前で正座した。ハートのイヤリングがちょっぴり眩しい。
「裕ちゃんを返してくれてありがとう。それから兄のことも手伝ってくれて・・・・・・」
「いや、それは、その~・・・・・・」
所詮、裕ちゃんと僕のことはお芝居だったので言葉が続かない。
「私、裕ちゃんと石水君のことが本当になくなったかどうかは半信半疑だったんだけど、今の裕ちゃんが言ったことでなんとなく分かった。本当に結婚は止めにしたんだね?」
「あっ、まあそういうことだね。」
僕は裕ちゃんをチラッと見た。
「今日は裕ちゃんから誘われたんだけど、裕ちゃん、石水君がとても落ち込んでるって言ってた。ゴメンなさい。私のせいだよね。私が裕ちゃんと石水君の仲をぶち壊したんだから。」
「ぶち壊すって、そんなことないよ。ただ、裕ちゃんと僕は元のただの幼なじみに戻っただけだよ。」
「ありがとう。そんなこと言ってくれて。・・・・・・それで、私に何かできることあるかな?」
「できることって?」
「約束したでしょ?私にできることならなんでもやるって。」
本当に裕ちゃんの代わりを務めるつもりなのだろうか。もし本気だとしたら本物の兄妹愛だ。
「そのイヤリング・・・・・・」
僕は聡美さんの質問には答えずポツリと言った。
「えっ?」
「そのイヤリング、どうしたの?」
「あっ、これ?これは、・・・・・・さっき裕ちゃんにもらったんだけど。・・・・・・もらいものだけど自分じゃ使わないからって・・・・・・」
そこまで言って聡美さんはハッとした。言ってはいけないことを言ってしまったと思ったようだ。
「そう・・・・・・」
僕は別に演技をしたわけではなかったのだがなんとなくしんみりそう言った。お芝居とは分かっていても実は寂しいというのが僕の本音だったのかもしれない。きっとそうだったのだろう。
「ねえ、石水君。裕ちゃんって前にもこの部屋に来たことあるの?」
「まあ、あるけど・・・・・・」
モンブラン持って急襲されたことはあるので「あるの?」と聞かれれば答えは「イエス」だ。
「そうだよね。二人は婚約してるんだもんね。・・・・・・石水君、ごめんなさい。私、・・・・・・石水君のこととっても傷つけたよね?」
「そんなことないよ。僕の人生はこんなものさ。僕は大器ではないけど晩成ではあるんだ。いつかきっと取り返すよ。」
「私にできることならなんでもするよ。・・・なんでも言って。」
「・・・・・・ありがとう。でも、今はいいや・・・・・・」
「そうだよね。・・・・・・私は裕ちゃんにはなれないもんね。」
聡美さんもしんみりした口調でそう言った。
それからカウントダウンが過ぎても博士と裕ちゃんは起きることはなく、カレンダーが新しくなった。