思ひ出   作:山田甲八

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七 留学

 年が新しくなってからも僕は暇を見つけては博士の研究室に通い、研究機材を洗い、調べものをし、原稿をチェックした。博士は年が明けてからもさらに勤勉で実直で、寝る暇も惜しんで研究に没頭している。案外、こういう人と知り合えただけでも裕ちゃんと再会した価値があったのかもしれない。

 そんな生活の中で時間は流れ、二月一日、ついに裕ちゃんのデビューアルバムが発売された。いきなりアルバムでデビューというのもすごいと思ったが、ポップスコンクール優勝という割にはマスコミの扱いは小さく、とても地味なデビューだった。それから僕は音楽雑誌やインターネットなどで少し情報を集めたが、なかなか裕ちゃんの情報は得られない。博士にも聞いてみたが博士自身、裕ちゃんの音楽活動にはあまり興味はないようだった。本人とは大晦日から新年にかけてかなり近い距離にはいたがそれっきりで、裕ちゃんと僕は相変わらず婚約者ではあったものの、婚約者よりも婚約者の彼氏と過ごす時間の方が長いというありえない生活をしていた。

 裕ちゃんの滑り出しは堅調という表現が正確なのだろう。ポップスコンクール優勝者という肩書きは生きているようでアルバム売上は桜の季節まで八週連続でベスト五十から落ちることはなかった。むしろ上昇傾向にあるくらいだった。

 そしてキャンパスの卒業シーズンも一段落し新しい季節を迎えようとしていた三月の下旬、博士のいる東大の研究室に行くと珍しく博士は上機嫌でニコニコしながら雑誌の記事を「ほら」っと僕に見せてくれた。英文なのでチンプンカンプンだが博士の名前が横文字で書かれていることは分かった。

「なんですか、これは?」

「そういうレベルだよなあ、君は。」

 相変わらず博士は人をバカにした口調だが僕もいい加減なれている。

「スミマセン。」

「まあ、謝られても仕方ないけどな。・・・この雑誌、アメリカでは比較的権威のある医学雑誌なんだ。」

「なるほど論文が評価されたんですね?」

「そういうことだ。」

「おめでとうございます。よかったじゃないですか。」

「まあ、君にはこのすごさは分からないだろうけどな。」

 僕としては最大の賛辞を送ったつもりだったが本人は不満なようだ。それでも普段の博士に比べればはるかに上機嫌だ。

「それで、・・・・・・向こうの研究機関からお誘いはあったんですか?」

「あったはあったんだが、大したところからは来なかったよ。まあ日本人の実力なんてそんな程度にしか評価されていないのが現実なんだけどな。一つだけ満足できるレベルの研究所から誘いがきたけど、残念ながら研究者としてではなく、留学生として来ないかというオファーだったよ。」

「どういうことです?」

「つまり向こうでフルタイムの仕事はおろかパートタイムの仕事すらないということさ。ただ勉強しに来ないか?ということだ。それだけじゃない。留学というからにはそれなりの資金もいる。」

「どれくらい必要なんですか?」

「君がすぐには準備できないくらいだよ。」

「そうですか・・・・・・」

「せめて留学でもできれば少しは道も開けるんだろうけどな。まあ、また仕切りなおしだ。ともかく科学雑誌で評価されるくらいまでは来たということだ。後、一押しだよ。」

 博士はそう言って微笑んだがどこか力強さはなかった。やはり残念なのだろう。

 季節も良くなってきたので僕は博士をお花見に誘ったが、博士にはやんわりと断られた。論文が、本人が思うほどには評価されなかったという残念な気持ちもあったのかもしれない。僕は博士をそっとすることにしてその日は少し早めに研究室を後にした。

 

 桜があちこちに咲き始めている本郷の街を御茶ノ水駅方面に歩いていると不意に携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイを見ると「裕ちゃん❤」と出ている。携帯の住所録に愛称で登録し、その愛称にハートマークまで付けるのは僕の柄ではないのだが、「苗字と名前じゃあまりにも他人行儀だ」と裕ちゃんに勝手に設定されてしまったのだ。

「もしもし。」

「あっ、啓ちゃん?今いいかな?」

「うん。」

「今、どこ?」

「本郷だけど。東大に来てたから。」

「ああ、博士のところね。」

「博士の方は終わって、これから仙川に帰るところだよ。今、駅に向かって歩いてる。」

「そっか。ねえ、今から新橋まで来てくれないかなあ。」

「新橋?」

「聡美に呼ばれてるの。あたしと、啓ちゃんにも話があるんだって。」

「聡美さんが。なんだろう。」

「まあ大体予想はつくけどね。」

「何?」

「留学の件だと思うよ。」

「留学?」

「とにかく詳しいことは会ってから話すよ。新橋に向かって。どこで会うかはまた連絡するから。」

「はい。」

 そう言って電話は切れ、僕は新橋に向かった。新橋に着いた頃のタイミングで再び、携帯に電話があり、僕はその電話の指示で駅の近くの喫茶店に入った。随分、高級そうな喫茶店で、高級ビジネスマンおあつらえ向きなのだろう。学生服の僕にはとても不釣合いだ。

 店内を見回すと先に聡美さんが僕に気付き、手を振った。裕ちゃんはもちろん僕より先に来ていて、僕は裕ちゃんの隣に座り、裕ちゃんと二人で聡美さんと向き合った。

「石水君、お久し振り。」

「ああ、こんにちは。お久しぶりです。」

 聡美さんは満面の笑みだ。こんな機嫌のいい聡美さんと会うのは出会って結構、初めてかもしれない。

「今、裕ちゃんとも話してたんだけど、お蔭様でお兄ちゃんの論文、アメリカの学会で高い評価を受けることができました。ありがとうございました。」

 聡美さんはそう言ってしおらしく、裕ちゃんと僕に頭を下げた。

「ああ、良かったね。今、東大に行ってきたんだけど、博士に論文を絶賛する記事を見せてもらったよ。まあ僕にはなんのことかチンプンカンプンで博士には嫌味を言われたけど。何はともあれおめでとうございます。留学の話も来てるみたいだね。」

 僕がそう言うと聡美さんの表情が硬くなった。

「そう。それで二人にお願いがあるの。」

「お願い?」

「お兄ちゃん、実は留学を希望してるの。口には出さないけど私には分かる。アメリカに行けばきっと道を切り開いていけると思うから。」

「うん。」

「でも今はやめて欲しいの。」

「なんで?いい話じゃない。」

 僕が聞いた。裕ちゃんはさっきから黙っている。

「確かにお兄ちゃんにとってはいい話に違いないと思う。でもお兄ちゃんがアメリカに行っちゃうと私は本当に独りぼっちになっちゃうの。分かるでしょ?」

「それは分かるけど、博士の成功は聡美さんの願いでもあるんじゃないの?」

「それはそうなんだけど・・・・・・」

「どうかしたの?」

「実はね、裕ちゃんはもう知ってるんだけど、お兄ちゃんと私は血が半分しかつながってないの。腹違いの兄妹なの。そしてお兄ちゃんは私の母親のことが大嫌い。」

「聡美さん・・・・・・」

 なるほど、兄妹なのに似ていないわけだ。

「だから、アメリカに行っちゃったらもう帰ってこないんじゃないかと思って。私にももう会ってくれないんじゃないかと思って。」

「そんなことはないでしょ。今まで二人で苦労してきたんだから。」

「私にはなんとなく分かるの。私ももう社会人。一人で生きていかれるから。でも私も苦しいの。独りぼっちにはなりなくない。もう少し時間が欲しい。ようやく貧乏からも脱出できたんだし。・・・それに研究は別に今、アメリカに行かなくても日本でもできるじゃない。留学資金だってまだないんだしさ。」

「留学資金ってどのくらい必要なの?博士は教えてくれなかったけど。」

「三百万円。だからどうかお兄ちゃんにお金を貸したりしないで欲しいの。裕ちゃんもお兄ちゃんに日本にいてもらいたいでしょ?」

 聡美さんが今度は裕ちゃんに振った。

「そりゃそうだよ。あたしもデビューしたばっかりで心の支えが欲しいからね。アメリカに行くならあたしも一緒だよ。あたしも将来の夢は世界制覇なんだから。」

「そう言ってくれると安心ではあるんだけど・・・・・・」

 聡美さんのトーンが落ちる。

「何かあったの?」

 僕が聞いた。

「十二月にお兄ちゃんのところに裕ちゃんのお父さんの秘書の人が来たの。」

「それは知ってる。山崎さんでしょ?」

 裕ちゃんが冷静に答えた。僕もそのことは博士から大晦日に聞かされて知っている。

「なんの話をされたのかは知ってるのね?」

「うん。あたしにまとわりにつくなって言われたんでしょ?ホントはまとわりついてるのは、あたしの方なんだけどね。」

 裕ちゃんがそう言うと聡美さんは僕の方をチラッと見て続けた。

「まだ正式に婚約解消はしてないんでしょ?」

「それは仕方ないよ。あたしデビューしたばっかりなんだよ。ここでお父さんの機嫌を損ねたらお父さんはあらゆる手を使ってあたしをつぶしにかかるよ。それは分かってよ。」

「石水君はどうなの?」

 聡美さんは僕に振った。

「どうって?」

「裕ちゃんより心配なのは石水君の方。お兄ちゃんにお金を渡せばお兄ちゃんをアメリカに追いやれるもんね。」

「何言ってるんだよ。右に同じだよ。・・・・・・そもそも博士とは大晦日の日に二人でその話もしているんだ。博士、裕ちゃんのことは渡さないって言ってて僕もそれに同意したよ。博士から聞いてないのかな?」

 僕は大晦日の出来事を少し誇張して伝えた。

「あっ、そんな話してたんだ。私がお邪魔する前だね。な~んだ。お兄ちゃんそんな話全然してなかった。」

「まあ、博士がそんなこと聡美さんに言うはずもないんだろうけど。照れ屋さんだからね。」

 僕が冗談っぽい口調でそういうと聡美さんにも少し笑顔が出た。

「それ聞いて少し安心した。とにかくお兄ちゃんにお金は貸さないでね。絶対だからね。」

「それは大丈夫だよ。そんなお金ないもん。」

 裕ちゃんがそう言うと聡美さんが

「何言ってんの。裕ちゃんは大金持ちでしょ?」

「お金持ちなのはあたしの父親。そしてお父さんは博士のことが大嫌い。お父さんが大嫌いな男のために気前よくお金出すわけないでしょ。」

「うん。」

「啓ちゃんのことは心配ないでしょ。こないだ下宿を覗いたから分かると思うけど、正真正銘の貧乏学生だよ。奨学金がもらいたいくらいだよね。ね?」

 裕ちゃんが僕に振ったので僕は黙ってうなずいた。

「ああ、まあ、それは理解してるつもりだけど。」

「それに博士が留学しちゃったらあたしは博士と離れ離れになっちゃうんでしょ?そんなことあたしが望むと思う?」

「う~ん、裕ちゃんの腹の底って今一よく分からないから。」

「ハハハ。まああたしもデビューしたばっかりで博士のことはあまり構ってあげられないよ。だからむしろ聡美は安心かもね。」

 裕ちゃんがそう言うと聡美さんは腕の時計をチラッと見た。忙しいようだ。

「とにかく私が二人に言いたいのは一つだけ。お兄ちゃんの留学が実現するようなことは絶対に阻止して欲しいの。お兄ちゃん、あまり人に頼る人じゃないけど、頼りにするとしたら裕ちゃんと石水君くらいのものだから。じゃあよろしくね。今日はお時間いただきましてありがとうございました。」

 聡美さんはそう言ってペコリと頭を下げるとテーブルの上の伝票を手に取り、裕ちゃんと僕の視界から消えて行った。

 聡美さんの後姿を見送って視線を正面に戻すと隣に座っていたはずの裕ちゃんがさっきまで聡美さんが座っていた席に移動して僕をビックリさせた。

「啓ちゃんどうしたの?聡美の後姿なんて見つめちゃって。」

「別に見つめてなんかいないよ。」

「少しは聡美に興味持ったかな?」

「そんなんじゃないよ。」

 裕ちゃんが変なことを言い出すので僕は少し怒った口調で言った。

「相変わらず硬いね。で、啓ちゃん、ちょっといいかな。」

「あっ、うん。」

「さっきの話なんだけど。」

「さっきの話って?」

「博士の留学の話。」

「うん。」

「なんとかならないかなあ。」

「なんとかって?」

「留学資金だよ。留学資金。」

「はあ?なんのこと?」

「鈍感だなあ。つまりね、三百万円、なんとかならないかなあってこと。」

「なに寝言言ってるの。そんなお金あったらあんなぼろアパートに住んでるわけないでしょ?」

「そっか。そうだよね。・・・・・・ホントはあたしが稼いだお金を留学資金にしようと思ってたんだけど間に合いそうもなくてね。ゴメンね、どだい無理な話だよね。・・・・・・ただ、・・・・・・啓ちゃん、倹約家だし、金銭感覚もあるからいざっていうときのためのお金があるんじゃないかなって思っただけ。」

「それに留学しちゃったら博士とは離れ離れになっちゃうんじゃないの?さっきも聡美さんにそう言ってたじゃない。」

「あれはお芝居だよ。ホントは博士にはアメリカに行ってもらいたい。だって・・・・・・夢が実現するかもしれないんだよ。」

「うん。」

「ごめんなさい。また、無理言ったね。こればっかりは啓ちゃんでもどうしようもないよね。まあ、あたしの独り言だと思ってあんまり気にしないでね。じゃあ、あたし次があるから。」

 裕ちゃんはそう言うと手を振って僕の視界から消えて行った。婚約者と三ヶ月ぶりの再会だというのに相変わらずそっけなかった。

 

 次の日から僕は毎日、銀行に通った。お金を毎日五十万円ずつ引き出すためだ。柏崎で小料理屋を営んでいた僕の家は決して裕福な方ではなかったが、およそ一年前に帰天した僕の親父は趣味が仕事と貯金という真面目な人で、コツコツと貯めたお金があったのだ。そして僕のおふくろはお金の管理も計算もできないという人で必然的に親父の遺産は僕が管理するということになった。だから昨日、裕ちゃんに博士の留学資金を用立てる相談を受けたとき、僕に資金の心当たりがないわけではなかったのだ。本当は解約してしまえばいいのだがおふくろに気付かれてしまうかもしれない。気の小さい僕は五十万円ずつ引き出した。振り込め詐欺対策のためか、銀行預金は一日五十万円までしか引き下ろすことができない。なんで僕がここまでやるのか、博士のためなのか、裕ちゃんのためなのか自分でも分からなかった。

 月が替わり、四月になると僕は現ナマ三百万円を持って本郷の博士の研究室を訪れた。博士は研究室の中央に置かれた机の上のパソコンに向かっている。博士は僕に気付くと「やあ」と言ったが僕はそれには応えず、机の上に三百万円の入っている封筒を静かに置いた。

「なんだこれは?」

 博士は不思議そうに聞いた。三百万円の入っている封筒を今までに見たことがないのだろう。封筒は厚く、立てることもできるくらいだ。

「留学資金です。三百万円あります。使ってください。」

 僕がそう言うと博士は露骨に不機嫌になり僕をにらみつけた。予想はしていた。僕の出すお金を素直に受け取ってはくれないだろうと思ってはいた。

「なんのつもりだ。」

「アメリカに行ってください。」

 博士は大きく深呼吸した。そして僕を睨みつけたまま

「裕子に言われたのか?」

「確かに裕ちゃんには言われました。でも、これは僕の意思です。」

「なんでそんことができるんだ?所詮、俺と君は他人じゃないか。」

「夢が実現しようとしているんじゃないですか。」

「君もおせっかいだな。」

「世話好きと言っていただけますか。」

「確かに夢ではあるよ。でも俺は日本人の同情なんか受けたくないんだ。俺は・・・・・・自分の力でアメリカに行く。」

「なんとしてでもこのお金は受け取ってもらいます。」

「乞食扱いするな。君に金をめぐんでもらう理由はない。」

「誤解しないでください。・・・これはあげるんじゃない。僕は・・・あなたに投資するんだ。・・・・・・あなたの才能に。」

「投資するだと?」

「言ったじゃないですか。僕はお金の計算ばかり勉強している人間です。こんなおいしい投資案件はありませんよ。僕は博士の天才に惚れこんだんです。このお金は・・・いずれ何十倍にもして返してもらいます。」

 そう言って今度は僕が博士をにらみつけた。しばらくにらめっこが続いた。そのうち博士の方が視線をずらした。

「分かったよ。それほどまで言うのなら受け取ってやるよ。」

 そう言って博士は机の上の封筒を手に取り、自分の方に寄せた。

「用が済んだんだったらさっさと帰りたまえ。」

 博士はパソコンに視線を戻し、僕のことはあまり意識しないかのように冷たくそう言った。僕は一瞬ムカッとしたが、すぐにそれでいいと思いなおした。所詮、礼など期待する方がおかしいのだ。僕はため息のような息づかいをして「失礼します」と言い研究室を出て行こうとして、ドアを開けると「石水君!」と後ろから博士の声がした。声が震えている。僕は振り返った。

「ありがとう。」

 涙声だった。目には涙が浮かんでいる。僕はビックリした。この人にも涙が残っていたのだ。衝撃を受けた僕はただ目礼だけしてその場を離れた。

 

 安アパートに戻ってきてから、僕は裕ちゃんに電話した。僕の方から裕ちゃんに電話をかけるのは再会してから初めてのことだ。三コールくらいで裕ちゃんが出た。

「もしもし、啓ちゃん?」

 ディスプレイに僕の名が表示されるのだろう。

「今いいかな?」

「どうしたの?てか、啓ちゃんがあたしの携帯に電話してくるなんて初めてだよね。」

「そうだね。初めてだね。」

「あたしの声が聞きたくなっちゃったんだ?」

「そう。聞きたくなっちゃったんだよ。」

 裕ちゃんの笑えない冗談に冗談で答えた。

「何かあったの?」

「今日、てか今さっき、博士に三百万円渡してきたよ。」

「ええっ!ホント?どうしたのそんなお金?」

「裕ちゃんの言ったとおりだよ。僕は倹約家で金銭感覚もある。裕ちゃんとは違うよ。いざとなったら三百万くらいの用立てはできるんだ。」

「そっか。無理させちゃったね。ありがとう。・・・・・・で、博士は。」

「『ありがとう』って言ってくれたよ。」

「ひぇ~、あたしにもそんなこと言ってくれたことないのに。」

「涙声だったよ。僕もビックリした。」

「そっか。結構人間ぽいとこあるんだ。」

「人ごとみたいに言うなよ。裕ちゃんの彼氏なんだろ?」

「そうなんだけどね。とにかくありがとう。それ聞いて安心した。やっぱり・・・啓ちゃんはすごいね。結局、あたしは偉そうなこと言ってるけど自分では何もできない。・・・・・・啓ちゃん、この埋め合わせはいつかするからね。」

「ああ。期待してるよ。」

 僕は冗談ぽく言った。

「電話、ありがとう。」

「ほい。じゃあね。」

 そう言って僕は電話を切った。三百万円は返ってこないかもしれない。返ってくるとしたら裕ちゃんからだろう。それもいつのことになるのか分からない。でも、なぜかその夜はとてもいいことをしたような気がしていて自己満足に浸っていた。貧乏学生に奨学金を拠出する資産家になったような気分だった。

 

 その二日後の午前十時頃、僕は安アパートの僕の部屋で勉強をしていた。バイトは基本的に夜のシフトなので午前中は時間がある。というより能率が上がる午前中を勉強の時間にし、午後から夜にかけてバイトのシフトを入れているといった方が正しい。大学は長い春休みが終わろうとしている。来週には新学期が始まる。

 公認会計士試験の簿記の過去問を解いていると机の上の携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイには「非通知設定」と表示されている。僕は基本的にというか非通知の電話には絶対に出ないことにしている。ロクでもない電話であることは百も承知なのだ。三十秒くらいするとディスプレイの表示は「留守録メッセージ応答中」に切り替わり、さらに「録音中」に切り替わった。やがてディスプレイは消え、「着信あり」と「録音あり」のマークが表示された。しばらくそのままでも良かったのだが、ちょうど、連結会計の勉強で行き詰っていたところで、気分転換に留守録を聞いてみることにした。

 携帯を操作し、再生ボタンを押すと聞きなれた男性の声が聞こえてきた。

「石水君。俺だ。今日の午後の便で成田を発つことにした。色々ありがとう。感謝してる。達者でな。」

 僕は自分の耳を疑った。博士に三百万円を渡したのは二日前だ。こんなに早く行動するなんてありえない。非通知設定だから折り返しの電話もできない。そもそも僕は博士の自宅も携帯も研究室の電話番号もまったく知らないのだ。僕はそのまま裕ちゃんに電話した。数コールあって裕ちゃんが出た。

「もしもし。啓ちゃん?」

「ああ、僕だ。」

「どうしたの、急に。またあたしの声聞きたくなっちゃった?」

 裕ちゃんは相変わらずノー天気だ。ということは博士が今日、発つことを知らないのだろう。

「博士から今、電話があった。今日、アメリカに出発するようだ。裕ちゃんには連絡なかったの?」

「ああ、一昨日かな。連絡は来たよ。『お前のバカな幼なじみが金くれたんで準備ができ次第、アメリカに出発する』って言ってた。さすが博士。やることが早いね。もう出発するんだ。」

「感心してる場合じゃないよ。裕ちゃんはそれでいいの?」

「啓ちゃんもそれを承知でお金渡したんでしょ?」

「それはそうだけど。」

「イッツ・マイ・プレジャーだよ。私の望み通り。啓ちゃん、ホントにありがとう。」

「見送りには行かないの?」

「いいよ、もう。心の準備ってか、覚悟はできてる。お金さえ渡せばさっさとアメリカに行くと思ってたから。啓ちゃん、無理させちゃったね。ゴメンね。」

「僕のことはどうでもいいよ。それより見送りに行こう。」

「いいよ。泣いちゃうから。・・・・・・聡美には連絡した?」

「聡美さんの連絡先なんか知らないよ。博士の電話番号だって知らないんだから。」

「じゃあ、聡美にはあたしから連絡しとくね。間に合えばいいけど。で、啓ちゃんは見送りに行くのかな?」

「ああ、そうだね。裕ちゃんと一緒に行こうと思ったんだけど。」

「じゃあさ、見送りに行くんだったらせっかくだからこっちに寄ってもらえるかな?渡して欲しいものがあるの。」

「いいけど、こっちって今、どこにいるの?」

「ああ、六本木だよ。スタジオLっていうレコーディングスタジオにいる。今日は一日ここでレコーディングしてるから。Roiビルの近くだけど、分からなければ交差点の交番で聞けばすぐに分かると思う。割と有名なスタジオだから。」

「分かった。じゃあ今すぐに行くよ。」

 僕はそう言って電話を切り、学ランに着替え、京王線と大江戸線を乗り継いで六本木に向かった。

 六本木に着くと裕ちゃんの指示通り、交差点の交番で場所を聞いた。僕は、方向感覚はある方なので場所はすぐに分かり、歩いて五分ほどで目指す「スタジオL」に到着した。結構立派な建物で、レコード会社の本社が入っているビルのようだ。建物の中に入るとロビーがあって、会社の受付のようなものがあり、制服を着た受付嬢が二人、来客の対応をしていた。僕はそのうちの一人に声をかけた。

「スミマセン。石水啓一と申しますが、白石裕子にお取次ぎいただきたいんですが。」

「ああ、石水啓一さんですね。白石裕子さんからこれを渡すよう言われています。」

 受付の女性はそう言って三つ折にしたA四が入る事務用の茶封筒を僕に渡した。少し厚みがある。封筒の表には「よろしくお願いします。博士は日本が大嫌いだから日本のエアラインは絶対に使わない。きっとアジアの安いやつだよ❤」という裕ちゃんの決して上手いとはいえない字で書かれた付箋が貼ってあり、さらに封筒には慶応義塾の創始者、福沢諭吉先生のブロマイドが二枚、クリップではさんであった。そのブロマイドには「お車代です」と書いてある別の付箋が貼り付けてある。

「スミマセン。裕ちゃん、・・・・・・白石裕子には会えないんでしょうか?」

 受付嬢に聞いた。

「今はレコーディングの真っ最中ですから。会えるとしても随分、お待ちいただくことになると思いますが。」

僕はロビーに貼り付けてある時計を見た。正午を過ぎようとしている。時間がない。

「分かりました。これは確かにお預かりしました。ありがとうございました。失礼します。」

 僕は受付嬢に一礼すると急いで日比谷線に乗り、上野に出て、スカイアクセスで成田に向かった。

 

 成田空港は広い。待ち合わせもせずに二人の人間が会うことはかなりの幸運に恵まれない限り難しい。空港ロビーに到着した僕は裕ちゃんから与えられたヒントを頼りに博士を探した。四十分くらい探してようやく、出国ゲートに向かう大きなトランクを転がしている見たことのある後姿を見つけた。少しホッとした。

「博士!」

 僕は後姿に駆け寄り声をかけた。猿顔の男が振り向いた。

「石水君!ビックリしたなあ。よくここが分かったな。」

「探しましたよ。」

「そうか、見送りにきてくれたんだ。君も律儀だな。」

「水臭いじゃないですか。あんな留守電のメッセージだけでお別れだなんて。」

「その通りだ。俺は水臭い。」

 そう言って博士は立ち止まった。僕としてはどこかに腰掛けて少し話をしたいくらいだったが、立ち止まることがこの人にとってせめてもの僕に対する誠意だったのかもしれない。

「裕ちゃんからこれを預かってきました。」

 僕はそう言って預かった封筒を博士に渡した。

「裕子は来ないんだ。」

「泣いちゃうからと言ってました。」

「そうか。まあ、彼女も忙しくなったからな。立場が逆なら俺も見送りには来ないだろう。」

 そう言って博士は裕ちゃんの封筒を受け取ると事務的にトランクの外ポケットに入れた。

「あまりにも急なんでビックリしました。」

「そうだ。俺らしいだろう?」

「裕ちゃんを置いていってしまっていいんですか?」

 僕はあせっていたのだろう。かなりの早口で言った。

「何言ってるんだ。君もそれを承知で俺に金を渡したんだろ?いいんだよ、これで。」

「きっと後悔すると思いますよ。」

「石水君。後悔っていうのは二つあるんだ。一つはやれば良かったっていう後悔。もう一つはやらなければ良かったっていう後悔。」

「はい。」

「どんな人生を歩んでも絶対に後悔はするんだ。俺はあの時やっておけば良かったっていう後悔だけは絶対にしたくないんだ。」

「裕ちゃんを置いていってしまうんですね?」

「俺も裕子も、色恋のために自分の夢の実現を犠牲にする輩ではないよ。」

 もっともだ。裕ちゃんも、そしてこの僕も博士のその真っ直ぐなところにひかれたのだろう。

「その通りです。・・・・・・どうぞお元気でいらしてください。」

「石水君。」

「はい。」

「君に一つ大切なことを教えてやろう。」

「はあ。」

「裕子は病気だ。」

「はあ?」

「体調が悪いんだ。」

 そう言われて思い当たる節はある。タブレットを飲んでいるのを見たことはある。

「はあ。クスリを飲んでいるのを見たことはありますが、そんなに悪いんですか?」

「婚約者なのに承知してないんだな?」

「はい。」

 婚約者といってもそれは形だけのものなのだ。

「そうか。・・・専門医に診てもらえと言ったが聞いてはもらえなかった。」

「お腹は時々痛そうにしていますが、胃潰瘍でもできてるんですか?」

「医者は個人情報を漏洩することはできないんだよ。」

「僕はどうすればいいんですか?」

「何もしなくていい。俺も余計なことはしていない。ただ、患者の言う通りに処方箋を書く医者を一人、紹介しているだけだ。裕子のことは君に託すよ。その方が彼女も幸せかもしれない。」

「博士!」

 僕が少し大きな声で言うと博士は僕の方を振り向き視線を合わせた。もう登場ゲートが見えている。

「最後に一つ柄にもないことを言ってやろう。俺は裕子のことを愛しているよ。だから俺は、・・・俺なりに彼女の夢の実現には手を貸したつもりだ。」

「それは本人にも直接伝えたんですか?。」

「いいや。それは後悔している。俺が絶対にしたくないはずのやればよかったっていう後悔だ。だから柄じゃないんだ。」

「博士・・・・・・」

「石水君。君とは色々あったけど、君だけが唯一、友達と呼べる存在だった。」

 博士が泣きそうなのを必死にこらえようとしているのが僕にも分かった。僕の涙腺も緩んできている。

「ありがとうございます。最後にお会いできて良かったです。」

「もう会うこともないかもしれないな。」

「それは困ります。お金を返してもらわなければなりませんので。」

「そうだったな。じゃあ、もう一回会うことだけは約束しよう。達者でな。」

「はい。博士もお元気で。」

 涙を僕に見られるのが嫌なのか、博士はすぐに回れ右して登場口に向かって歩いていった。僕はその後姿を見送った。途中で博士は後ろ向きのまま右手を上げ、大きく手を振ってみせた。そしてそのままゲートを通過し、見えなくなった。

 

 博士の後姿を見送ると、僕は空港駅へ引き返した。空港駅に向かって歩いていると一人の女性がこっちに向かって走ってくるのが見えた。女性は僕に気が付くと減速し、僕の五メートルくらい手前のところで止まった。

「石水君・・・・・・」

 聡美さんは目を大きく開けて僕を見た。悪役を見つめる目だ。そうだ、僕はこの瞬間、間違いなく彼女にとってヒールだったのだ。博士と裕ちゃんは愛し合っていた。幸せそうな兄を見て聡美さんも幸せだった。しかしその幸せを僕は破壊したのだ。裕ちゃんの父親を騙し、裕ちゃんと無理矢理婚約し、失意の兄に金を渡し、ご丁寧にもアメリカへと追いやったのだ。もちろん真実は違う。でもこの妹に真実を伝えることはできない。僕はこの兄と妹の幸せな時間を完全に破壊したのだ。

「行っちゃったよ・・・・・・間に合わなかったね。」

 五メートルくらいの距離を置いて僕はポツリと言った。でも聡美さんは良く聞き取れたはずだ。聡美さんは一瞬、固まり、僕の方に向かって数歩進むとその勢いで右手を上げ、僕の左頬を思い切り叩いた。「パチン」という乾いた音がした。音の大きさほど痛みは感じなかったが、周りの人々が一斉に僕たち二人を見た。

「どうしてあなたはそうやって私の大切なものばかり奪っていくの!」

 聡美さんは僕に背中を向け、来た道を小走りに戻っていった。僕はしばらくそこに立ち尽くした。

 

 それから僕は来たときと同じスカイアクセスに乗り、上野で日比谷線に乗り換えて再び六本木に向かった。裕ちゃんに報告するためだ。

 スタジオLの受付に行くとさっきと同じ案内の女性が座っていた。僕の顔を覚えていてくれたようで、すぐに裕ちゃんのスタジオにつないでくれた。僕は「お掛けになってお待ちください」と言われ、エントランスに並べてある長椅子の一つに座って裕ちゃんを待った。エントランスで待っていると二十分くらいして裕ちゃんがやってきた。

「やあ、お待たせ、お待たせ。」

 僕の気持ちをよそに裕ちゃんはニコニコだ。

「忙しいところゴメンね。」

 裕ちゃんは本当に忙しそうだったので僕の方が恐縮した。

「ううん。あたしの方こそいつも無理ばっかり言ってごめんなさい。」

 裕ちゃんはそう言って僕が腰掛けている長椅子の僕の隣に座った。

「手紙、ちゃんと渡したよ。」

「ありがとう。・・・・・・それで読んでもらえたかな?」

「いや、大事そうに鞄にしまってたよ。」

「ありがとう。そんな無理言ってもらって。本当はもっとそっけなかったんじゃない?」

「・・・・・・そうだね。そっけなかった。」

「無理もないよね~。研究命の人で自分の夢がかなうんだから。」

「聡美さんにも会ったよ。」

「間に合わなかったんだってね。」

「連絡あったの?」

「メールが来た。」

「それだけ?」

「あたしとは絶交だって。」

「裕ちゃんはそれでいいの?」

「いいよ。この前も言ったでしょ?大切なことは真実が何かってこと。あたしと啓ちゃんはお芝居。そして博士の夢を実現させたのは啓ちゃん。ちゃんと話せば聡美も分かってくれるよ。友情を復活させるのはそんなに難しい作業じゃないと思うけど。」

 裕ちゃんがニッコリそう言ったので僕も少しは気が楽になった。

「ありがとう。裕ちゃんの顔見たら少し安心した。」

「そう。良かった。・・・・・・良かったらこれから一緒にご飯でもと思ったんだけど、今、レコーディングの真っ最中で外せないの。この埋め合わせはいつかするからね。」

「いいよ。埋め合わせなんて。裕ちゃんも忙しいんでしょ?・・・それより裕ちゃん?」

「ん?」

「その・・・体調はどう?」

「体調って?」

「身体の調子だよ・・・このところ忙しいんだろうし。この前、クスリ飲んでたから。」

「へ~、心配してくれるんだ。・・・ありがとう。でも大丈夫だよ。」

 裕ちゃんは元気にニッコリ笑った。

「それならいいんだけど。・・・裕ちゃんが今、どういう状況なのかよく分からないけど、とにかく、まあ頑張ってね。」

「ありがとう。今のところ何もかも上手くいってる。相変わらず胃は痛いけど。じゃあ。」

 裕ちゃんは余程急がしいのだろう、そう言うとそそくさとエレベーターホールの方に向った。僕はそんな裕ちゃんの後姿を見送り、建物を出て行こうとすると「啓ちゃん!」と裕ちゃんの声が背後から聞こえたので僕は振り返った。

「博士のこと本当にありがとう。今は無理だけど、いつかきっとお礼をさせていただきますので。じゃあね。」

 裕ちゃんは右手を振りながらニッコリ笑ってそう言うとエレベーターのかごの中に消えて行った。

 

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