年度が新しくなった頃から白石裕子の名前が音楽界を越えて騒がれ始めてきた。デビューアルバムは二月一日の発売から半年かけてようやくベストテンのトップにランクされ、さらにミリオンも達成した。夏頃からは化粧品のCMソングやドラマの主題歌にも登場してきた。しかし相変わらず裕ちゃん本人のプライベートは謎に包まれたままで、謎のシンガーとしてかえってマスコミをにぎわせていた。秋になっても勢いは衰えず、病気とは言われても気付けないくらいの大活躍で、この年の音楽界は白石裕子の一人勝ちだった。
裕ちゃんは余程忙しくなったのだろう、この年、僕とはほとんど会わなくなっていた。最後に会ったのは博士を成田で見送った四月の初めだからもう八ヶ月くらい会っていない。電話もメールも手紙もなく、それでも二人は相変わらず婚約者のままだった。
そしてカレンダーも最後の一枚となった十二月初旬のある平日の夜、安アパートで勉強をしていると不意に携帯が鳴った。登録されていない番号だったが、非通知ではなかったので電話には出た。
「はい。」
「お忙しいところスミマセン。石水啓一さんのお電話はそちらでよろしいでしょうか?」
セールス電話のような女性の声だった。聞き覚えがあるような気もする。
「はいそうですが。」
「私、白石裕子のマネージャーの遠藤と申します。はじめまして。」
「ああ、マネージャーさんでいらっしゃいますか。はじめまして石水です。いつも裕ちゃんがお世話になっています。」
本当は初めてではない。東大の黒田研究室で一度会っている。しかし先方はそんなことは気付きもしていないだろう。一応、婚約しているので婚約者のように受け答えした。
「今、お時間よろしいでしょうか?」
「はい。」
「白石裕子が石水さんに会いたがっているのですが、本人も大変忙しくなってしまいましたもので、スケジュールを調整させていただきたいと思いましてお電話させていただきました。」
なるほど、もう、本人が自分のスケジュールを管理できないほどの成功をおさめたのだろう。まあグッドニュースではある。
「そうですか。まあ調整というほどの必要もないと思います。僕はバイトとかありますけど基本的にはどうにでもなりますから。学生ですし、裕ちゃんに合わせますよ。」
僕は相変わらず大学とバイト先とおんぼろアパートを行き来する毎日だ。
「ありがとうございます。では、急なお話で恐縮なのですが、明後日、木曜日の夜はいかがでしょうか?」
「はい。僕はいつでも大丈夫ですよ。」
バイトが入っていたかもしれないが二日前であれば融通はきく。
「では木曜日の午後六時頃からということで予定を入れさせていただきます。場所は渋谷の道玄坂ですが、後ほどメールでご連絡差し上げます。お忙しいところ急に申し訳ありません。どうぞよろしくお願い致します。失礼します。」
「はい、失礼します。」
そう言って電話は切れた。裕ちゃんからの連絡ということでまた難題を突きつけられるのかもしれない。しかし僕は以前のような嫌な気持ちにはならなかった。今年一番成功したシンガーに会えるということにも興味があったし、とても懐かしい気もしていた。博士とのことも気がかりだった。聡美さんとも成田空港で平手打ちされたきりなのだ。まだ一年もたっていないけれども、僕にはもう遠い過去のような気がしていた。
二日後、約束された日の夜、僕はいつもの学ランを着て渋谷の指定されたレストランに向かった。レストランはアングラにあり、暗いエントランスを入ると既に手配ができているのだろう、名前を確認することもなく「お待ちしておりました。こちらです」と従業員にさらに暗い奥の部屋に案内された。かなり高級な店だ。でも僕にとっては秘密結社のアジトのような雰囲気だった。
一番奥の個室の扉が開くと既に裕ちゃんが待っていて僕をビックリさせた。まだ約束の二十分前のはずだ。
「裕ちゃん!早くない?」
「啓ちゃんだって。」
「僕は元々こういう人間だよ。」
僕はそう言ってギャルソンのエスコートで奥の方の上座の椅子に座った。裕ちゃんが僕に上座を譲るのは珍しい。
「僕が上座なんて珍しいね?」
「今日は日頃の感謝を込めてのことですから。」
裕ちゃんが殊勝なので不気味だ。何かまたたくらんでいるのだろう。
「博士が行ってしまって以来だね。」
「そうか。もうそんなに経つんだ。桜の季節だったのにね。」
「博士とはその後どうなの?」
「何もないよ。まあ、便りがないのは元気な証拠ってとこかな。」
「そう。電話とかメールもないんだ。」
「そうだね。最初からこうなるとは思ってたけど、博士は博士で頑張ってるんじゃないのかな。あたしも忙しくなっちゃったからあまり博士のことを考えてもいられなくなっちゃったけどね。」
「聡美さんとは?」
「相変わらずの絶交状態。・・・・・・この前、たまたまテレビ局で会ったんだけど無視されちゃった。」
「そうか。・・・・・・裕ちゃん、売れてるみたいだね。」
「お蔭様でね。これも啓ちゃんのお陰だよ。」
「僕はただ名前を貸してるだけだよ。」
「ううん。そんなことない。啓ちゃんがいなければあたしは音楽のことを諦めていたかもしれない。博士を送り出せたのも啓ちゃんのお陰。」
「そんなことないってば。」
「だから一度キチンとお礼を言わせて欲しいの。・・・・・・啓ちゃん。本当に、本当にありがとうございました。」
裕ちゃんはそう言って座ったまま僕に頭を下げた。今まで見たことのない表情だった。まだ時間前なのだろう、料理も飲み物も運ばれてこない。裕ちゃんと僕だけの静かな二人だけの時間だ。
「いいよもう。・・・…で、今日こうやって呼び出すってことはまた何か僕がやることがあるんだね?」
「あっ、分かっちゃった?」
「今までもそうだったじゃない。」
「そう言われればそうだね。啓ちゃんからデートに誘ってくれたことは一度もなかったね。まあ、啓ちゃんはそういう奥ゆかしい人だけど。」
「誘って欲しいの?忙しくてそれどころじゃないでしょ?」
「それはそうだけど誘われたらうれしいかな。」
「僕みたいなダミーの彼氏でも?」
「もちろん。女ってそういうもんだよ。」
確かに僕から裕ちゃんに積極的に関わったことはない。面倒なことに巻き込まれるのがオチだと思っているからだろう。
「それで、なんなの?今度は。」
「年末年始の予定は入ってる?」
「いや。去年と同じだよ。」
「柏崎には帰らないんだ。」
「うん。」
「お母さん、可哀想だと思わない?」
「お金はないし、勉強もしたいしね。」
「相変わらず、頑張ってるんだ。」
「今年受けた試験は全部落ちちゃったけどね。簿記なんて合格点七十点のところ六十八点で落ちちゃったよ。」
「そっか。」
「勉強しないで研究室でビーカーとか洗ってたしね。」
「ごめんね。あたしのせいだね。」
裕ちゃんはちょっと悲しい表情を見せた。
「今のは冗談。裕ちゃんにちょっと恩を着せようと思っただけだよ。博士とのことは後悔してないんだ。ああいう人と出会えただけでも裕ちゃんには感謝したいくらいだよ。」
「ありがとう。そんなこと言ってくれて。」
「で、年末年始にどうするの?」
「一緒に柏崎に帰って欲しいの。」
「柏崎に?でも裕ちゃん忙しいんでしょ?年末恒例の大型歌謡番組にも出るんだろうし。」
「うん。去年は啓ちゃんちのコタツで見てたんだよね。懐かしい。それで、その後カウントダウンコンサートがあるけどそれが終わったら時間あるから。今年の正月は柏崎で過ごそうかなと。」
「僕も一緒じゃないとダメなの?」
「来年、選挙があるかもしれないの。そろそろ解散かなと。衆議院が任期満了を迎えたのは一度しかないからね。」
「一つ聞いていい?」
「何?」
「マスコミとかで裕ちゃんの私生活とか全然出てこないけどどうして?」
「出てきて欲しいの?私はこの人と婚約してますとかいって。」
「いや、それはそれで助かってるけど。でもこれだけプライベートが出てこないシンガーも珍しいんじゃない?生年月日も出身も、趣味や特技まですべて不詳。普通ないよね?」
「まあ圧力がかかってるってことだよ。」
「権蔵先生?」
「察してよ。」
「まあ、言いたくないなら別に聞かないよ。それで、僕に選挙に出ろって言うの?」
「啓ちゃんはまだダメじゃない。まだ被選挙権がないでしょ?」
「うん。」
「啓ちゃんが出るのは次の次。今度の選挙はお父さんが自分の秘書を出すよ。」
「僕は選挙に出るなんて言ってないけど。」
「それはいいの。遠い未来のお話だから。問題は今現在、お父さんが啓ちゃんを次の次の選挙に出そうと企んでいるということ。だからその企みに乗るようなお芝居をして欲しいの。」
「また芝居か。まあ、そんなことだろうとは思っていたけど・・・・・・。ホントに僕は選挙に出なくていいんだね?」
「出たくなったら出てもいいよ。でもその頃はあたしも落ち着いてきてあたしが選挙に出られるようになってるかもしれない。」
「裕ちゃんが?」
「今が売れすぎてるだけだと思うし、まだやりたいことの半分もできてないけど、次の次の選挙の頃には八割くらいはできてると思うから。謎の歌姫が立候補しますといえば選挙も圧勝だろうしね。最後の二割は議員バッチつけた後の楽しみとしてとっておくでもいいし。」
なるほど僕は完全なダミーで最初からそういう作戦だったのだ。寂しいようなホッとするような不思議な気持ちだ。
「それで柏崎でどうするのかな?」
「今度、立候補予定の秘書さんと一緒にあいさつ回りだよ。」
「僕が?」
「大丈夫だよ。あたしも一緒に行くからさ。」
「もう裕ちゃんも成功したんだし、ばらしてもいいんじゃないの?」
「まだダメだよ。てか、お芝居のことは最後までばらさないで欲しい。」
「どうしたの?」
「もしばらしちゃったらお父さんがすごく怒ると思うの。怒らせたら怖いからね。啓ちゃんも無傷ではすまないよ。それに別にばらさくてもいいじゃない。選挙にはあたしが出てもいいような状況になってきたんだし、啓ちゃんには迷惑かけないよ。」
「まあ、確かに僕も嘘をついていたことにするのは心苦しいなあ。」
「でしょ?だからまあここはあたしに任せてよ。」
裕ちゃんがそこまで言うとソムリエがシャンパンを持って登場した。ソムリエはフランス語を交えながらワインうんちくを述べていたが僕にはまったく理解できなかった。目の前に置かれたグラスにシャンパンが注がれ、二人は乾杯した。
「おいし~。」
裕ちゃんがうれしそうにニコニコしながら言った。
「今日はクルマの運転ないの?外で飲むなんて珍しいね。」
「今日はアッシー君を準備してるから大丈夫だよ。さあ、じゃんじゃん飲もう!」
「飲むのはいいけど、またこの前、この前っていってももう一年前になるけど、寝ちゃわないでね。」
「ああ、あの時は失礼しました。」
それからスープが運ばれてきて二人の晩餐会は静かに始まった。
料理が終盤に近付くと、裕ちゃんは携帯をカチャカチャといじった。どこかにメールを打っているようだった。そして最後のデザートとコーヒーが終わると裕ちゃんは次の予定を話し始めた。
「啓ちゃん、この後、予定ないよね?」
「ああ。お泊りだってできるよ。」
僕はわざとらしく言った。
「ええっ?啓ちゃん、随分成長したね。昔はそんなんじゃなかったのに。」
「誰かさんに鍛えられたからね。」
「でもお泊りはまた今度ね。あした、朝早いから。」
「で、どうするの?」
「あたしの家にご招待します。」
「権蔵先生に会うの?」
「ううん。あたし個人の家。おうち買ったの。それを披露したいと思ってね。」
「ひぇ~、もう買ったんだ。」
「お蔭様で売れたからね。キャッシュで買っちゃった。」
「どこ?」
「それは着いてのお楽しみ。もう、表にクルマが待ってると思う。」
裕ちゃんはそう言って席を立ち、僕は後に続いた。
店の前にはセダンあるいはサルーンというのかもしれないが、ドアが四つついたドイツの高級車が止まっていて、その前に白いスーツに赤いブラウスを来たキザな男がくわえタバコで待っていた。
「お待たせしました~」
裕ちゃんがキザ男に声をかけた。キザ男は慌てて携帯灰皿を取り出し、くわえタバコを始末した。
「紹介しま~す。こちらがあたしの世界で一番大切な人、婚約者の啓ちゃんで~す。啓ちゃん、こちらがあたしの所属している事務所の野島慎一社長。」
裕ちゃんはいたずらっぽく二人を紹介した。
「ああ、はじめまして。白石裕子の婚約者の石水啓一です。」
僕はそう言ってキザ男に頭を下げたがキザ男はぽか~んとしていた。年恰好は四十代後半といったところだろうか。
「ゴメンゴメン。想像していたのとあまりにも開きがあったんでビックリしていたんだ。」
キザ男は裕ちゃんの旦那になる男ということでもっとイケている男を想像していたようだ。まさか頭がボサボサの学ラン男が出てくるとは思わなかったのだろう。
「あまりにも学生なんでビックリしたでしょ。でもあたしは啓ちゃんの中身に惚れてるんだから外見は関係ないよ。」
裕ちゃんは誉め言葉にならないフォローをした。
「はじめまして。プロデューサーの野島です。」
そう言ってキザ男は「株式会社野島音楽事務所 代表取締役 音楽プロデューサー」という肩書きの入っている名刺を僕に渡した。僕はしばらく名刺を見つめ、野島氏の顔と照らし合わせた。僕自身が真面目なせいもあるのだろうがチャラチャラしている印象を受ける。実際にそうなのだろうし、音楽業界というのはそういうものなのかもしれない。
「じゃあ、乗って。」
野島氏はそう言って、右手の親指で背後にあるクルマを指差し、裕ちゃんと僕はドイツ製の高級セダンに乗り込んだ。
クルマは東横線沿いを横浜方面に向かった。僕は、クルマはおろか免許も持っていないので東京の道路事情には詳しくない。でも方向感覚はあるので今、どちらの方面に向っているのかは分かる。自宅に到着するまでの間、裕ちゃんは饒舌で、僕がどれだけ素晴らしい人物で、しばらく会えなかったことがどれだけ寂しかったかを野島氏に語って聞かせていた。野島氏は適当に相槌を打っていた。
三十分くらい走ると目的地に到着したようだ。電柱には「目黒区碑文谷」と書いてある。碑文谷は閑静な住宅街で、「高級住宅街」といってもあながち間違いではないだろう。
裕ちゃんが「これで~す!」と自慢気に紹介した物件は、目黒区にしては庭の広さもまずまずで中々の物件だった。裕ちゃんはキザ男と僕を玄関から一階のダイニング、リビング、風呂場、トイレと案内し、さらに階段を上って二階へと案内した。二階は洋間が三部屋あり、そのうちの一部屋が裕ちゃんの寝室で、残りの二部屋は空き部屋となっていた。それから再び一階に戻り、一番奥の部屋に案内された。奥の部屋は広く、部屋の真ん中が大きなガラスで仕切られていた。スタジオと書斎がガラスで仕切られているようだ。ガラスの中にはマイクとグランドピアノが設置してあり、書斎側には音響機器が設置されている。
「すごい設備だね。レコーディングもできるんじゃないか?」
キザ男が感心したように言った。
「そう。レコーディングもできるように作ったからね。あたし、やっぱり音楽が大好きなんだね。四六時中音楽と一緒にいたいなあと思って自宅にスタジオを作っちゃったの。」
裕ちゃんはそう言ってガラス扉を開け、スタジオへと案内した。真ん中に大きなグランドピアノが置かれている。そのピアノには僕も見覚えがある。
「このピアノ・・・・・・」
僕は思わず声を出した。
「懐かしいかな?そう。実家にあったピアノだよ。啓ちゃんと一緒に曲作りをした思い出のピアノ。」
裕ちゃんはそう言ったけれども僕ははっきり思い出せない。遠い少年の頃の記憶だ。
「そんなことあったかなあ~。」
「そっか~。覚えてるわけないか。あたしにとっては大切な思い出だけど。・・・・・・どう、このスタジオ?」
裕ちゃんが今度はキザ男に振った。
「素晴らしい。これだけの設備があるならわざわざ六本木まで出てこなくてもここでレコーディングすればいいんじゃないかな。」
「啓ちゃんは?」
「ああ。久し振りにピアノ見たんでなんか懐かしかったよ。大事にしてるんだ。」
「まあね。このピアノはあたしにとって本当に財産だからね。」
裕ちゃんはそう言うと今度はキザ男と僕をダイニングキッチンに案内し、テーブルに向かい合って座らせた。裕ちゃんはコーヒーを入れるようだ。
「ねえ、啓ちゃん。」
キザ男が僕になれなれしく話しかける。
「啓ちゃんは柏崎の裕ちゃんの実家も知ってるよね?」
「ええ。まあ中学を卒業すると裕ちゃんは東京に出てきてしまいましたからそれ以降はあまりお邪魔していませんけど。」
「大きいの?」
「はい。使用人部屋もある大邸宅です。」
「へえ、お城みたいなんだ。」
「そうですね。庭も広いし、お城という表現も案外、的を射ているかもしれません。」
「そっか~、さすがは裕ちゃん。お嬢様なんだ。・・・ゴメン、ちょっとトイレ借りるね。」
キザ男がそう言い、「はいは~い。廊下出て奥ね~」という裕ちゃんの声がしてキザ男は部屋から出て行った。裕ちゃんと僕がダイニングに取り残された。
「ねえ、社長さん僕のことは全然知らないの?」
コーヒーを入れている裕ちゃんに聞いた。
「うん。全然、てかあたしはプライベートなことはなんにも話してないよ。まあそれがあたしの売りだからね。私生活が謎に包まれた謎の歌姫ってことでね。」
「それはさっき聞いたけど、社長さんも知らないの?」
「まあ、色々事情があるってこと。だから野島さんからは色々突っ込まれるかもしれないけど、話、合わせといてね。あたしと啓ちゃんはラブラブの婚約者ってことでね。」
そう言いながら裕ちゃんはキッチンのカウンターの上に置いてあるタブレットを口に含み、水で流し込んだ。胃薬のようだ。それを見て僕は八ヶ月前、成田空港で博士に言われたことを思い出した。
「相変わらず胃が痛いの?」
「まあね。」
「身体、大丈夫?」
「大丈夫だよ。好きでやってることだから。」
「お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないの?」
「おお、心配してくれるんだ。ありがとう。でも今は無理だよ。落ち着いたらゆっくり診てもらうからさ。」
裕ちゃんがニッコリ笑ってそう言うとキザ男が戻ってきた。
「いや~、トイレも立派だね。僕が今までに見た芸能人の家のトイレの中で一番立派かもしれない。・・・・・・じゃあ、僕はそろそろ失礼するよ。・・・啓ちゃんはゆっくりしていくのかな?」
キザ男が僕を見た。
「いや、裕ちゃん、明日も早いようなので僕もこれで失礼します。」
「せっかくなんだから泊まればいいのに。裕ちゃんに会うのも久し振りなんだろ?」
キザ男がおせっかいに言った。
「そうだけど、そうすると結局、徹夜になってあしたに響くでしょ?残念だけど、お泊りはまた今度ね。野島さん、啓ちゃんを下宿まで送っていってもらっていいかな?」
コーヒーをキザ男と僕の前に置きながら裕ちゃんが言った。
「ああ、もちろん構わないよ。」
「いいよ。電車で帰るから。駅、近いんでしょ?」
僕は遠慮した。
「まあ、学芸大学の駅まで歩いて十分くらいだから近いけど・・・」
「いいよ。送っていくよ。どうせ帰る方向一緒だし、それに啓ちゃんにも色々と聞きたいことがあるからね。」
キザ男は相変わらずフレンドリーに答えた。
それからコーヒーを飲みながら少し談笑し、キザ男と僕は席を立ち、外に出た。裕ちゃんも見送りに出て、僕はキザ男のクルマの後部座席に乗った。
「じゃあ、野島さん、啓ちゃんをお願いします。啓ちゃん、今日は来てくれてありがとう。今度はお泊りしてね。」
裕ちゃんはそう言って僕に投げキッスした。あくまでも婚約者であることを野島氏にわざわざ印象づけるかのようだった。「じゃあ、行くよ」と野島氏が言って高級セダンは走り出した。
「ねえ、啓ちゃん。」
クルマが大通りに出て、二人だけの空間ができるとハンドルを握るキザ男がなれなれしく僕に声をかけた。
「はい?」
「君達、本当に婚約してるの?」
野島氏はドキリとするようなことを聞いてきた。
「何言ってるんですか?当たり前じゃないですか。柏崎で結納もしてるんです。もっとも実際にいつ結婚するかは未定ですけど。」
「まあ、裕ちゃんも忙しくなっちゃったからね。でもよく分かんないんだよなあ。フツー、婚約者に内緒で家買ったりしないと思うけど。いずれは二人で住むんでしょ?」
確かにその通りだ。僕は少し沈黙した。
「・・・・・・おっしゃる通りです。端から見れば異常ですよね。でも裕ちゃんって昔からそういう人なんです。びっくりさせるのが好きっていうのか。子どもの頃から変わってませんよ。」
「そう言われれば確かにそうだ。それを理解してあげられるようでないと裕ちゃんのパートナーは務まらないってことかな。」
「そうかもしれません。」
「まあ何はともあれ、啓ちゃんが普通の人だったんで安心したよ。」
「普通の人と言いますと?」
「実はね、裕ちゃん、自分のプライベートなこと、一切、話さなかったんだよ。僕は事務所の社長だから最低限、知っておくべきことがあると思ったんだけど、出身も、家族構成もなんにも話してくれないんだ。『それはプライベートなことですから』とか言って。それでいい加減に怒ったら『じゃあ父に会ってください』って言われたんだよな。」
「権蔵先生にお会いになったんですか?」
「ああ。失敗したと思ったよ。」
「何か言われたんですか?」
「その話はやめよう。僕が消し去りたい記憶なんだ。」
「そうですか。」
「君はあのでかい親父のお気に入りだって裕ちゃん言ってたけど、よくあの親父に気に入られたなあ。」
「はあ。」
「それでもう裕ちゃんのプライベートを詮索するのは止めにしたんだ。逆に私生活が謎に包まれたミステリアスな歌手っていうのも面白いと思ってね。やらせじゃなくてホントに謎に包まれてる歌手だよね。事務所の社長だって知らないんだから。そしたら当たっちゃってさ。やっぱり情報がありすぎるのもつまらないのかもしれないね。街には情報があふれてる。インターネットで検索すれば知らなくてもいいような情報まで手に入るからね。だから逆に裕ちゃんは受けたんだと思う。それからは方針転換だよ。ネットに出てくる裕ちゃんの情報はつぶしたり。アナウンサー時代の話とかね。それとか逆に全然関係ない作り話をでっち上げたりしてさ。」
「そうだったんですか。」
「そう。だから裕ちゃんが婚約してるなんて全然、聞かされてなくてさ。ビックリしたよ。でも啓ちゃん、いい人そうでよかった。君は真面目な学生のようだから芸能界は別世界かもしれないけど、まあよろしくね。」
「はあ、こちらこそ。・・・・・・ところで野島さん。」
「ん?」
「お願いがあるんですけど。」
「お願いって啓ちゃんが僕に?」
僕の他人行儀をよそに野島氏は相変わらずフレンドリーだ。
「裕ちゃんの体調のことなんですけど。」
「体調?」
「僕は久し振りに会ったんですけど、調子悪過ぎるようなんですけど。」
「ああ、そうか。僕はほとんど毎日会ってるんで気が付かなかったよ。どう悪いのかな?」
「うまく説明できないんですけど、お腹が痛いようなんです。胃薬を飲んでいるようで。前も同じようなことがありましたから。」
「そうか。ストレスが溜まって胃潰瘍でもできたのかなあ。」
「一度、精密検査を受けた方がいいと思います。」
「そんなこと啓ちゃんが直接、本人に言うべきなんじゃないの?」
「ご理解いただけると思いますけど、裕ちゃん、僕の言うことを聞くような人じゃありません。それに今は音楽のことで頭が一杯ですから。」
「そりゃそうだけど、僕の言うことなんてなおさら聞かないんじゃない?。」
「ですから『アメリカ進出のためにメディカルチェックが必要だ』とか言っていただいて。野島さんも今、裕ちゃんに倒れられたら困るんじゃないんですか?」
「もっともだ。分かったよ。確かに僕も裕ちゃんの身体のことは無関心だった。なんとかうまくごまかして医者には連れて行くね。ありがとう。さすがだね。やっぱり婚約者だけのことはある。僕なんかよりよっぽど裕ちゃんのことを心配しているよ。」
野島氏は感心したようにそう言った。僕は下宿よりもはるかに手前の甲州街道で降ろしてもらい、一人で師走の道を少し歩いた。北風が頬をひんやりさせた。