思ひ出   作:山田甲八

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九 告知

 裕ちゃんと再会してから二度目の年が明け、上野駅で待ち合わせをした裕ちゃんと僕は、元旦の新幹線で柏崎に帰省した。柏崎でのスケジュールはギチギチではあったが、次期衆議院議員選挙の候補者となる権蔵先生の秘書と裕ちゃんの後をついて支援者をまわりご飯を食べればいいだけだったのでそれほど大変ではなかった。むしろ退屈ですらあったかもしれない。

 候補者は権蔵先生の地元担当の総括秘書で年齢はアラフィフといったところのベテランだった。きっとあの気性の荒い権蔵先生の下で何年も泥水をすすってきたのだろう。行く先々で「私はワンポイントですから」と言っているのが痛々しかった。この婚約はお芝居で僕には最初から野心などないのに、なんだかかわいそうだった。

 年が明けてから一週間ほどして、裕ちゃんは「メディカルチェックを受ける」と言って僕よりも早く東京に戻った。こんなにも早く野島氏が約束を果たすとは意外だった。きっと野島氏も裕ちゃんの身体が心配なのだろう。僕は裕ちゃんより少し遅れて東京に戻り、大学の後期試験に臨んだ。僕は自分でいうのもおこがましいが、本当に勉強する学生だったので一、二年では一単位も落としていない。三年生も無事、全科目履修できると三年次で僕は百三十四単位獲得することになる。これは最初から作戦通りで、卒業に必要な単位は百三十八単位だから四年生はゼミと外国書購読だけで済むことになり、就職活動に専念できるという段取りだ。裕ちゃんも安定してきているようで、僕としては久し振りに静かな生活を取り戻しつつあった。

 後期試験も無事に終了し、カレンダーがまた一枚めくられた、二月一日。裕ちゃんのデビュー一周年だ。しかし、裕ちゃんからは特に連絡もなく、僕はいつも通り、朝は勉強し、夜はアルバイトを入れるという退屈な日常を過ごした。

 アルバイトから帰宅するとちょうどいいタイミングで携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイには「白石権蔵事務所」と出ている。権蔵先生の議員会館の電話番号は一応、登録しているのだが、直接電話がかかってくるのは初めてだ。僕は緊張して電話に出た。

「もしもし。」

「もしもし、石水啓一さんでいらっしゃいますか?」

 中年紳士の声が僕の名前を呼んだ。権蔵先生本人でなかったので少しホッとした。

「はい。」

「白石権蔵の秘書の山崎と申します。お忙しいところおそれいりますが今、少しお時間よろしいでしょうか?」

「はあ。」

 山崎という名前は聞いたことがある。一昨年の十二月、博士の前に現われた秘書のはずだ。

「実は裕子お嬢様の件で先生が病院に呼ばれておりまして。」

「病院に?」

「裕子お嬢様が病院にお掛かりになっていらっしゃることはご存知ですよね?」

「ああ、はい。メディカルチェックを受けるとは聞いています。でも、申し訳ありません。あまり詳しくは存じません。裕ちゃんも僕にあまり話したがりませんので。僕も、その~、あまり根掘り葉掘り聞くようなことはしていませんので。」

「分かります。裕子お嬢様はお優しい方ですので石水さんに心配をかけないようにしていらっしゃるのだと思います。」

「はあ。」

「それで、先生の代わりに病院に行ってお話を聞いてきていただきたいのですがよろしいでしょうか?家族に話したいことがあるそうですので。」

「はあ。でも、僕は家族ではありませんけど、大丈夫ですか?」

「はい。家族ではなくても婚約者であればいいそうです。本当は先生が行って差し上げられればいいのですが、ご存知かと思いますが通常国会が始まったばかりで先生は大変お忙しいのです。奥様にも既に別件が入っておりまして。」

「そうですか・・・・・・、分かりました。お引き受けしましょう。」

「ありがとうございます。」

 ここでごねて婚約に疑問を感じられるとそっちの方が厄介だろう。僕は軽い気持ちで引き受けることにし、山崎秘書に病院の名前と場所、約束の時間を聞いた。裕ちゃんの様態については特に気に留めなかった。

 

 山崎氏に指示されたとおり、僕は約束の日の午後、いつもの学ランを着て、都内の大学病院に出かけていった。外来は午前中で終わっているようで院内は閑散としている。婦人科の外来受付で来意を告げ、長椅子でしばらく待たされた。十分くらい待たされて名前を呼ばれた。

「失礼します。」

 僕は引き戸を開け、そう言って診察室に入った。中には白衣を着た女医が看護婦と共に僕を待っていた。年は三十半ばといったところだろうか。事務的に「どうぞお掛けください」と言われたので僕はもう一度「失礼します」と言って着席した。

「失礼ですがご家族の方ですか?」

 女医がもう一度事務的に語りかけた。事務的なのでとても冷たく感じる。

「いえ、まだ家族ではありません。婚約者です。裕子の父の権蔵から『婚約者なら大丈夫だ』と言われたものですから。」

「お名前は?」

「石水啓一と言います。」

「学生さん?」

 学生服を着ているのだから学生でなければおかしいだろう。

「ええ。大学三年生です。」

「随分、早くに婚約されたんですね。」

「まあ、政略結婚です。裕子の父の白石権蔵はご存知ですね?」

「存じています。・・・・・・それで、失礼ですがご結婚のご予定はいつ頃ですか?」

「いや、まだ正式に結婚するのは未定です。政治的な理由でとりあえず婚約しただけですので。」

 随分、不躾とも思ったが、答えない理由もないので素直に答えた。

「そうですか・・・・・・」

 そう言って女医は黙り、机の上のパソコンに目を向けた。しばらく間があった。

「どうかしたんですか?スミマセン。実は僕は急にここに来るように言われたので・・・・・・、その~、彼女がどういう状況か承知していないんです。」

 僕がそう言うと女医は僕に分かるように大きく深呼吸し、僕に視線を戻した。

「白石さん、もうそう長くはないんです。」

 女医が冷静にそう言った。僕はなんのことか分からなかった。

「はあ?・・・どういうことですか?」

「病気のことについて白石さんからは本当に何も聞いていらっしゃらないのですね?」

「はい。今日も、本当は本人の父が来るべきだったのですが、父親は、ご存知の通り、参議院議員で、多忙なものですから。」

「白石さん、子宮に大きな腫瘍ができているんです。できたのはもう随分前のことだと思います。本人も相当痛かったのではないでしょうか?」

「はあ。お腹が痛いという話は聞いていましたが。」

「なぜ、もっと早く検査を受けなかったのですか?」

「そう言われましても。」

「もう、腫瘍があちこちに転移を始めています。残念ながらもう手遅れです。遅すぎます。」

 白衣の女性は僕をなじるように言った。全責任が僕にあるかのような言い方だった。僕は言い訳すらできなかった。晴天の霹靂という言葉はこういう気持ちを表すためにある言葉なのかもしれない。僕は呆然とした。それは裕ちゃんを失ってしまうという失望感とは違う。何かまったく身に覚えのない無実の罪を突然、官憲に追及されたような、そんな気持ちだった。

「・・・・・・とにかく今日は結果だけをご報告します。ご本人には告知されますか?」

 僕が黙っていると女医は事務的に言った。

「そんなこと・・・・・・僕、一人で決められる問題ではありません。」

 決められるはずがない。僕にはまったく関係のないことなのだ。

「おっしゃる通りです。ではご家族でよく話し合ってください。結論が出ましたらご連絡ください。それから今後の治療方針を決めましょう。治療といってもどれだけ苦痛を与えず、延命するかということになりますけど。ただ、できるだけ早く入院されることをお勧めします。一日でも長く生きていただきたいですから。・・・・・・今日はもう結構です。」

「はい・・・・・・」

 僕は力なく返事をしたが自分の力で立ち上がることはできなかった。僕は看護婦に促され、ようやく立ち上がり、待ち合いのベンチにドカッと崩れ落ちた。

 僕はもう一度自分の気持ちを整理しようとしたができなかった。裕ちゃんと僕はお芝居のはずだ。それなのにこの悲しい気持ちは一体なんなのだろう。共演した女優の余命が宣告されたとき、相手役を務めた男優はこんなに悲しい気持ちに襲われるのだろうか?僕は何度も自問した。

 それから僕は山崎秘書に電話をして権蔵先生に会う機会の調整をお願いした。電話で済むレベルの話ではない。本人に直接会って話すべき問題だ。しかし、通常国会が始まったばかりだということでアポイントメントを取ることはできなかった。

 僕は途方にくれた。裕ちゃんと僕はすべてお芝居のはずだった。それなのに夢が悪夢となり、それが突然、現実に変わろうとしているのだ。仕方がないので僕は下宿に戻り、権蔵先生あてに長い手紙を書いた。病気のこと、婚約は解消すること、白石家の人とはもうお目にかかりたくないことを書いた。裕ちゃんとのことがお芝居だったことも書いたが、清書にはその一文を入れなかった。もしその事実を伝えたら権蔵先生と裕ちゃんの関係はめちゃめちゃになってしまうだろう。そうしたら病気の裕ちゃんには耐えられないかもしれない。何度も推敲し、清書し、封筒に入れ、封緘し、次の日の朝一番、仙川の郵便局から速達の配達証明郵便で議員会館の白石権蔵事務所宛に郵送した。

 

 速達を出した次の日の夜八時頃、それは突然やってきた。安アパートのドアが突然ノックされ、僕はよく考えもせずにドアを開けてしまったのだ。ドアの向こうには僕が今、一番会いたくない人物が立っていた。

「権蔵先生!」

 僕は思わず大声で叫んだ。

「啓一君。」

 目の前の巨漢は鬼の権蔵の眼光で僕を睨みつけると靴を脱ぎ、僕を押しのけて下宿に上がりこみ、上着を脱いだ。

(「殴られる!」)

 速達がこの巨漢を大いに憤慨させたのだろう。それはそうだ。僕はこの巨漢があれほど楽しみしていた娘の結婚を一方的に破棄したのだ。ただではすまないとは最初から思っていた。ノックアウトを覚悟し、僕は防御の姿勢をとった。しかし巨漢は突然、畳の上に膝を折り、両手を付いて僕に頭を下げた。

「啓一君!この通りだ。どうか娘が生きている間は婚約者であってくれないだろうか。どうか娘を見捨てないでくれ。」

 僕は言葉を失った。あの不遜な参議院の大物が一学生に過ぎない僕に土下座をしているのだ。

「・・・・・・先生、どうか顔を上げていただけませんか。」

 僕は十秒くらいしてようやく我に返った。僕は巨漢の傍に寄り、膝を折った。

「君に合わせる顔なんかない。どうかこの通りだ・・・・・・」

 巨漢はなおも顔を上げようとしない。愛する娘のためなら親はこんなことまでできるのだ。僕は親の愛情にジンときた。

「・・・・・・先生、・・・どうやら僕が悪かったようです。申し訳ありませんでした。」

 冷静になって僕がポツリとそう言うと巨漢はようやく顔を上げた。

「啓一君。」

「昨日、お送りした手紙のことはなかったことにして下さい。ご心配をお掛けしました。」

「じゃあ、・・・今まで通り、婚約者でいてくれるんだね。」

「はい。・・・お約束します。・・・・・・それと、先生に一つご相談したいことがあるんですがよろしいでしょうか?」

「ああ、なんでも言ってくれ。できるかぎりのことはする。」

「この下宿を引き払って裕ちゃんと碑文谷の家で一緒に暮らそうと思っています。そして看病や身の回りの世話もしたいと思っているのですが、よろしいでしょうか?」

「そうか。ありがとう。是非そうしてくれ。君が裕子の傍にいてくれるなら私も安心だ。」

 そう言う巨漢に僕はようやく微笑みかけることができた。

 

 それから僕は裕ちゃんの遠藤マネージャーに電話をした。去年の暮れに一度電話をもらっているので電話番号は分かる。そして裕ちゃんの日程を詳細に聞いた。一週間後にオフがあり、その日は一日、碑文谷の自宅にいるという。その日に合わせ、僕は下宿の賃貸借契約を解除し、引越しの準備をした。

 そして宣告を受けてから一週間後、僕は住み慣れた下宿を後にし、すぐに使うものだけを詰めたボストンバックを片手に電車を乗り継ぎ、学芸大学の駅で東急を降りた。駅から碑文谷の街をしばらく歩くと「白石」という表札のある家の前に着いた。僕はインターフォンのボタンを押した。「ピンポ~ン」というインターフォンの音が響き、しばらくすると「啓ちゃん?どうしたの?」と裕ちゃんの声がした。モニターで僕の顔を確認できるのだろう。

「お邪魔してもいいかな?」

「待って。今行くから。」

 モニターから玄関に移動するタイミングがあって「カチャッ」っと玄関のロックが解除される音がし、ドアが半分開いて裕ちゃんが顔を覗かせた。僕は門から玄関まで移動した。

「やあ、裕ちゃん。今いいかな?」

「どうしたの急に?来るなら来るで連絡くれれば良かったのに。」

 裕ちゃんはビックリした表情でそう言った。

「連絡すると居留守を使われるかもしれないと思ったから。それに奇襲攻撃は無予告が原則でしょ。」

「・・・・・・」

 裕ちゃんは唖然としている。いつもと立場が入れ替わったようだ。

「上がってもいいかな?」

「まあ、いいけど。」

「じゃあお邪魔します。」

 裕ちゃんは僕をリビングに案内し、僕はソファに腰掛け、裕ちゃんは僕の対面に座った。

「どうしたの急に。何かあったの?」

 裕ちゃんは部屋着ですっぴんのままだ。こんな裕ちゃんを見るのは柏崎のとき以来かもしれない。それでも裕ちゃんにとって僕は柏崎のときから家族同然で気を使わない存在なのだろう。

「あったよ。」

「何?」

 裕ちゃんはいつもの自信満々と違って不安そうだ。僕はゆっくり深呼吸した。ためらっている場面ではない。

「病院に行ってきたよ。」

「病院?」

「裕ちゃんの病院だよ。検査受けたでしょ?」

「ええっ!なんで啓ちゃんが?」

「本当は権蔵先生が呼ばれたんだよ。でも通常国会が始まったばかりで権蔵先生もそれどころじゃないみたいで婚約者である僕が代わりに指名されたんだ。」

「お父さんから?」

「うん。まあ、直接の連絡をくれたのは秘書の山崎さんだったけど。」

「それで?」

「本人よりも先に家族が呼ばれたんだよ。状況は分かるよね?」

 僕がそういうと裕ちゃんはしばらく沈黙し、そしてニッコリ微笑んだ。

「・・・・・・そうなんだ。すごく悪いんだ。」

「そう。とっても悪い。」

「余命を宣告されたんだね?」

「うん。」

「後、どのくらいなの?」

「・・・・・・そこまではまだ聞いてない。」

「そっか~。まあ仕方ないね。そうじゃないかと思ってた。だって半端じゃないくらい体調悪かったもん。それ聞いてなんかスッキリした。」

「裕ちゃん。」

 僕は裕ちゃんの笑顔にビックリした。僕は裕ちゃんが耐えられないくらい落ち込むと思っていたのだ。

「よく告知してくれたね。ありがとう。」

「まあ、・・・裕ちゃんには音楽家として残したいものがあると思ったから。」

「そうだね。残りの人生、短いけど全力で生きてみます。啓ちゃん、今まで色々ありがとう。啓ちゃんのお陰でここまで来られたよ。」

「僕は別に何もしてないよ。ただ名前を貸しただけだ。」

「それだけでもあたしにとってはお礼のしようがないくらい。でも、啓ちゃんとのお芝居もこれでおしまいだね。今となってはちょっと寂しいけど。お芝居のラストは裕子が啓一との婚約を一方的に解消。啓一に慰謝料を払うということでいいよ。一億でも二億でも言い値で払うから。五億くらいあればお母さんと柏崎で悠々自適に暮らせるかな?」

「そんなものは受け取れないし、受け取るつもりもないよ。」

「ごめんなさい。そんなんじゃ啓ちゃんの気が済まないよね?でも今のあたしにできることはこれくらいしかないから。まあ退職金だと思ってよ。」

「おしまいじゃないよ。二人はこれから始まるんだ。」

「ええっ?」

「『ええっ?』じゃないよ。僕達はこれからここでお芝居の続きをやるんだ。」

「何言ってるの?」

「下宿を引き払ってきたんだ。今日から僕はここの家の人間になる。いいだろ?僕達は婚約してるんだ。」

「ちょっと待ってよ、そんな話聞いてない。」

「僕が決めたんだ。裕ちゃんがなんと言おうと僕はここで裕ちゃんと一緒に暮らす。」

「勝手に決めないで。」

「いや、勝手に決めさせてもらう。今まで僕は裕ちゃんのことは受け身だった。でも今度は僕の方から積極的に裕ちゃんに関わりたい。僕はここで裕ちゃんの面倒を見る。権蔵先生も『是非、そうしてくれ』って言ってる。」

「何言ってるのよ。・・・・・・あたしみたいな女のために大学四年生を棒に振るの?就職活動もあるんでしょ。そんなことしたらきっと後悔するよ。」

「どんな人生を歩んでも絶対に後悔はするんだ。それなら今、自分が信じた道を進みたい。将来、今を振り返って、『白石裕子は僕の青春だった』っていうような道をね。」

「どうしてそんなことが言えるの?あたし達、お芝居だったんでしょ?啓ちゃんだってあんなに嫌がってたじゃない?」

「それは僕にも分からない。でも、余命を宣告されたときものすごいショックを受けたんだ。とても悲しい気持ちだった。家族を失ってしまうようなそんな気持ちだった。なぜだかは分からない。とにかく下宿を引き払って、ここで裕ちゃんと一緒に暮らした方がいいんじゃないかと僕に思わせるような衝撃だったんだ。」

「そんなこと急に言われても、あたしは啓ちゃんのこと受け止められないよ。」

「別に受け止めてくれなくてもいい。でも執事は卒業だ。もちろん身の回りの世話はするし、看病もするけど、音楽も一緒にやりたい。僕は音楽家白石裕子のお世話をさせていただくことにする。」

「・・・・・・あたしのマネージャーにでもなるっていうの?」

「マネージャーでもないよ。あえていうならプロデューサーだ。僕は音楽家白石裕子をプロデュースしたいんだ。僕は誰も知らない裕ちゃんを知っている。僕にしかプロデュースできない裕ちゃんがあるはずだ。」

「ダメだ。気持ちの整理がつかない。」

「すぐには無理だよ。そのうち気持ちの整理はついてくるよ。僕が裕ちゃんからお芝居を持ちかけられたときもそうだったから。・・・・・・二階に空いてる部屋があったよね。そこを一つ僕の部屋として使わせてもらうよ。」

 僕はそう言うと唖然としている裕ちゃんを無視して、リビングを出て二階に向った。

 

 僕の突然の押しかけに裕ちゃんは大きく抵抗はしなかった。最初の三日間くらいは確かにブツブツ文句を言っていたかもしれない。しかし、しばらくすると文句は出なくなり、代わりに色々と要求をするようになってきた。「寒い」、「コーヒーが飲みたい」、「おやつがない」、「布団をかけて」、そういう要求に僕は一々応えた。僕は裕ちゃんの恋人でもなんでもないはずだ。なぜ、なんでもない人のためにこんなにできるのか自分でも分からなかった。ただ一つ分かっていることは裕ちゃんがもうすぐ、僕の前から永遠にいなくなってしまうということだ。だから少しでも思い出を残しておきたい、そう感じていたのかもしれない。

 押しかけてきてから一週間ほどすると、スケジュールの調整もでき、また病院の都合もついてようやく裕ちゃんを病院に連れて行けるようになった。裕ちゃんと僕は遠藤マネージャーの運転するクルマで病院に向った。遠藤マネージャーは博士の論文のときに東大の研究室で会っているので初対面ではない。しかし、白衣を着ていた当時の僕と、学ランを身にまとった僕が同一人物であるとは気付かないようだった。

 病院に着き、受付を済ませ、外来の待合室で三十分ほど待たされると、順番が来て裕ちゃんと僕だけが診察室に入った。遠藤マネージャーは外で待っている。

 診察室に入ると約二週間前に僕に余命を宣告した女医が座っていて、裕ちゃんに席を勧めた。僕は裕ちゃんの右やや斜め後ろに立った。

「話は全部お聞きになられたそうですね?」

 女医のそんな問いかけから始まった。今回の予約の際に本人に告知をしたことは既に連絡してある。

「はい。全部聞きました。もう覚悟はできています。」

 裕ちゃんはしっかりした口調で答えた。いつもの堂々とした表情で僕の方がしっかりしなくてはならないと思ったくらいだった。

「では、治療方針について説明しますね。とにかくすぐに入院して下さい。そして抗がん剤治療と放射線治療を並行して行う予定です。かなり持久戦になるかと思いますけど、頑張っていきましょう。」

 女医が一気にそう言うと、裕ちゃんは少し間を置いた。

「・・・・・・すみません。せっかく方針を立ててくださった後で申し訳ないのですが、入院するつもりはありません。在宅治療でお願いしたいんですがなんとかなりませんか?」

 それを聞いて女医の眉がピクリと動いた。

「何をおっしゃるんです。そんなこと無理に決まってます。もう手遅れなのですよ。後はどれくらい延命できるかです。それはご理解いただきたいのですが・・・」

「それは十分に理解しています。十分理解しているからそう言ってるんです。・・・・・・私、音楽をやっているんです。これまでとってもたくさんの歌を歌ってきました。でもそれはまだほんの一部なんです。まだまだ歌いたい歌が一杯あるんです。それを命の限り、歌って行きたいんです。」

「お気持ちは分かりますが目を覚ましてください。そんなことをしたら命を縮めることになってしまいますよ。」

「それでも構いません。私はこれまで好きなことはなんでもやりたいようにやってきました。だから最後もどうか好きなようにさせていただきたいんです。」

「白石さん、・・・音楽をやっていらっしゃるんですか?」

「はい。自分で言うのも変ですけど、これでも結構、売れてるんですよ。まあ先生が聴くような曲ではありませんけど・・・・・・。だから、どうか好きにさせてもらえないでしょうか?幸い、自宅にはレコーディングできるスタジオもありますので自宅で療養しながら活動できればと思っています。」

 裕ちゃんが力強くそう言い、女医はため息をついた。一呼吸おいて、女医が、今度は僕の方を向いた。

「石水さんとおっしゃいましたね?」

「はい。」

「石水さん。婚約者としてはどう思われますか?」

 女医が不意に僕に振った、が僕にもよく分からない。本当は裕ちゃんと僕は恋人でもなんでもないのだ。もちろんそんなことを目の前の白衣の女性は知る由もない。

「・・・その・・・・・・彼女の意思を尊重したいと思っていますが・・・」

 僕は曖昧に返事をした。

「白石さんに一日でも長生きをしてほしいとは思わないんですか?」

 女医は問い詰めるように言った。「一日でも長生きしてほしいか?」と聞かれれば答えは「イエス」に決まっている。しかし裕ちゃんの音楽家として人生を全うしたいという気持ちも痛いほど理解できる。

「・・・・・・もちろん長生きはしてほしいに決まってます。・・・・・・しかし・・・運命がどうしてもそれを許さないというのであれば、僕は彼女には、彼女らしく生きてほしいと思います。」

「本当にそれでいいんですか?」

「はい・・・・・・僕は・・・」

 そこまで言って僕は裕ちゃんと顔を合わせ、「彼女には音楽家として燃え尽きてほしいと思っています。今の僕にできることは音楽家、白石裕子が燃え尽きるのを見届けることだけです」と言って女医に視線を戻した。

 女医はしばらく黙った。考え事をしているようだった。

「・・・・・・分かりました。・・・では自宅療養ということにしましょう。治療プランは作り直します。但し、命を確実に縮めてしまうことだけはどうかご承知おきください。大体、後、一年くらいだと思っていてください。」

 女医がやれやれという表情で言うと裕ちゃんが「入院しなくてもいいんですか?」といつもの明るい声でそれに応えた。

「もちろん主治医としてはそんなことは認められませんし、もし私が家族だったら大反対するところです。」

 女医はそう言うと机の上のマウスを動かして目の前のパソコンを操作した。するとパソコンに内蔵されたスピーカーから微かに、歌声が聞こえてきた。その歌声には確かに聞き覚えがあった。裕ちゃんの声だ。

「先生・・・・・・」

 僕が声をかけると女医はパソコンの画面から二人に向き直り、裕ちゃんと僕を交互に見て微かに微笑んだ。

「実は私、白石裕子さんの大ファンなんです。私だけじゃありません。ここの医局の者はみんな白石さんの歌が大好きです。命の燃え尽きるまで音楽活動に身を捧げたいとおっしゃるのなら私も微力ながらお手伝いさせていただきます。私も最後の最後まで白石裕子さんの歌声を聴きたいですから。・・・入院はしていただかなくて結構です。私が碑文谷のご自宅まで往診に伺わせていただきます。」

「先生・・・・・・よろしいんですか?お忙しいんじゃ・・・・・・」

 僕の方が心配になって聞いた。大学病院の勤務医であれば忙しさは尋常ではないだろう。

「もちろん、そんなこと普通はしませんし、できません。ですからこれは本当に特別です。病院にも内緒でお伺いしますのでこのことはここだけの秘密にしておいてくださいね。」

 女医が若干の笑みを浮かべて言い、裕ちゃんが笑顔で「はい」と返事をした。僕にとってはただの幼なじみに過ぎなかった裕ちゃんが本物の「歌姫」に見えた瞬間だった。

 

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