【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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序章 逆鱗を撫ぜる
一 とある日の午前


 

 

 笑顔を浮かべたヴイーヴルの青年が廊下を歩いている。

 行き交うオペレーター達に快活な挨拶を振り撒いて、ロドスの朝をより一層活気付かせている。

 

「ドクターさん、調子はどうですか?」

 

「おはようアビス。調子なら絶好調さ」

 

「ああ、それは良かったです。ドクターの顔はいつも隠れているので、言葉にしてくれないと不安なんですよ。今日も書類仕事頑張ってください」

 

「うぐっ、思い出させないでくれよ……」

 

「あはは、すみません」

 

 ドクターと別れて、またアビスと呼ばれていた青年は進み始めた。欠伸をしている医療オペレーターの少年と少し世間話をしたり、口下手な同じ種族の女性と格闘術について軽く話し合ったり。

 少しその様子を切り取るだけでも、彼が好かれている様子は浮き彫りになる。

 

 アビスがどんな人なのかも知らずに。

 

 

 

 

 彼は少しタイミングを伺って、誰も見ていない時にある通路へと入り込んだ。その通路は不便で不必要なものであったため、オペレーターは基本的に利用しない。

 扉の絵が壁に描かれているのを抜きにすれば、その通路を使うのはアビスくらいのものだった。

 

 曲がり角を進んだ先で、アビスは足を止めた。どっかりと腰を下ろして、先程通ってきた方からは見えないように体を隠しながら、ポケットから何かを取り出した。

 

 それは何かの包装紙であり、それを小さな音と共に破くと、中にあった薄茶色の何かを摘んで引っこ抜いた。

 そう、それは機能性を最大限に重視して作られた圧縮ビスケットだ。優れた栄養バランスによって一袋を食べれば大凡一食分に相当する便利な食べ物だ。

 アビスは一枚目を少し齧り、黙々と独りきりの食事を始めた。

 

「いつもいつも飽きないわね。画餅を味わった方が何倍もマシじゃない」

 

 いつのまにか扉が開いていた。横穴に腰掛けて、シーはその携帯食糧に顔を顰める。

 

「外に何か用でもあったんですか?」

 

 無表情のまま、アビスはシーを見上げた。ドクターや他のオペレーターとの会話にあった愛想はカケラも残っておらず、だがシーにそれを気にする様子はない。

 

「用がなかったら顔すら出せないのかしら」

 

「そんなに活動的だったとは知りませんでした。宿舎を手配しておきましょうか?」

 

「要らないわよ」

 

「色々と不便でしょう? 遠慮なさらずに引きこもるのをやめたらどうですか?」

 

 とうとうシーは無反応を貫くようになった。視線はスケッチブックに集中している。待つ姿勢を見せていたアビスもそれ以上発言することはなく、またビスケットを齧った。

 

 しばらく、鉛筆と紙の擦れる音と、ビスケットの袋が出す音、そして少しの咀嚼音が通路を満たしていた。アビスにとって決して居心地が良いとは言えなかったが、ここ以外の食事場所は見当たらない。

 たとえば私室には日が昇ると何故かLancet-2が訪れ、その後も折を見てはいつのまにか配備されていた充電器を目的にアビスの部屋を訪問する。たとえばロドスには食堂があるが、そこに携帯食糧を持って行く訳にもいかない。

 食堂のメニューを食べることのできない理由がアビスにある以上は、このような人気のない通路や埃っぽい部屋しか残されていないのだ。

 

 やがてアビスは一袋を食べ終わり、腰を上げた。

 

「さようなら」

 

「ええ」

 

 短く交わして、アビスとシーは別れた。アビスには色々と仕事があり、シーがそれについていくこともない。結局意味のある会話をすることもなく、その日の二人の会話は終わったのだった。

 

「あれ? アビスじゃん」

 

 通路から顔を出した瞬間に、アビスの口角は自然な位置まで上げられた。視線の先からは、偶々ドクターの遣いとして朝から駆り出されていた紫髪のサルカズがこちらを見ていた。

 

「おはようございます、ラヴァさん。シーさんに何か用があるのでしょうか?」

 

「まあ、そんなとこかな。アビスは?」

 

「ボクも同じです。用は終わったので帰る途中ですけどね」

 

 人気の無い通路から出てきても変な勘繰りを避けられる分、シーの描いた扉はむしろアビスの助けとなっていた。ラヴァは適当な返事を返すと、アビスとすれ違って角の向こうへと消えた。

 少しだけ予想外だった登場に内心面食らったが、アビスはまた通路を戻り始めた。目指すは……

 

 

「嘘つき」

 

 

 小さな小さなシーの言葉はアビスどころかラヴァにさえ届かなかった。

 アビスは何も言わず去って行く。

 

 

 

 簡単な輸送任務を終えたアビスは午後の任務に備えて私室へと帰ってきた。

 部屋のドアはある日起きたらLancet-2が入ることのできるように改造されていて、扉に取り付けられている、入室時に点き、退出時に消えるランプが点灯していた。

 つまりは今もアビスの部屋にあのロボットが訪ねている訳だ。アビスはそれを確認すると、スムーズな動作で自分の部屋に背を向けた。

 

「お帰りなさいアビス様」

 

「ああ、うん」

 

 ドアの中から聞こえてきたLancet-2の声に動きを止めたアビスは、諦めたようにドアを開いた。アビスからしてもLancet-2は好ましいロボットであるし、気付かれているのなら別人を装うのも難しい。

 

「こんにちは、Lancet-2。ちなみに何の用かな」

 

「充電に参りました。アビス様は輸送任務でしたね。お疲れ様です」

 

「ありがとう」

 

 いつもならもっと摯実であるのに、サッと話を逸らしたLancet-2へとアビスは一抹の違和感を覚えたが、製作者の名前を思い出せば、すぐに気のせいかと思い直した。

 あのサルカズの奇行にはアビスはよく困らされていた。特にドクターが来る前は購入したグレネードの中に一つだけチョコレート細工のものが仕込まれていたり、アーツユニットとして檜製の棒を渡され魔王討伐を命じられたりした。

 敵を前にして何故かベタつく右手に、ぐちゃぐちゃになっているバッグの中。ケルシーに購買部の廃絶を勧めようかと思ったくらいだ。

 

「アビス様。先程耳に入れたのですが、どうやらケルシー様がまた検査を行う予定を立てていらっしゃるようです」

 

「へえ、ケルシー先生が。前回から日も空いてないのに。あの人にはちょっと過保護な嫌いがあるよね」

 

「それはしかし……」

 

「分かってるよ。でも過保護だ」

 

「そうでしょうか」

 

 Lancet-2の声にアビスは頷き、棚の中から細長い箱を取り出した。その箱を開けば、ケルシーから処方されている注射薬のストックが二桁ほど詰まっているのが顕になる。

 右端に置かれた注射器に薬を詰めて、右腕に刺す。慣れた手つきで注射するアビスの様子を捉えたレンズは、悲しむように下を向いた。

 

 Lancet-2の主人である『かわいいクロージャお姉さま』は物知りだった。行動が奇天烈な変人ではあるものの、持っている技術は狂いなく一線級。ロドスを動かすために必要不可欠な人員だった。

 しかし、そんな彼女がLancet-2に入れたデータファイルは、どうにも情報が不足しすぎていた。

 

 どうして彼が自分を隠すのか。

 どうして彼が今以上人と距離を近づけないのか。

 どうして彼が戦いに赴く時は、たった一人なのか。

 

 彼が何を考え、何を目指し、何をしたいのか。

 Lancet-2のレンズは、その主人であるクロージャと同じように、それを見つけられはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 筆が水彩紙に振るわれた。

 高速で動く筆によって高く聳える山々や流れの穏やかな河川が浮かび上がる。忙しなく動く筆はしかし寸分の狂いもなく構想を書き写し、その速さにも、質にも、比肩する者は居ないだろう。

 その流麗な筆捌きは見る者を魅了し、しかし数分後にはその動きも止まってしまう。水彩紙には既に荘厳かつ流麗な山紫水明の絵画が出来上がっていた。

 

「……何の用よ」

 

「なんでもいいだろ、別に」

 

 シーが筆を置き、通路に立っていたニェンを睨む。

 だがすぐに気を取り直して次の水彩紙へと筆をまた振い始めた。ニェンはその様子を苛立ったような目で眺めている。

 

「なあ、お前は」

 

 シーが手を止め、ニェンを見る。

 

「お前は、アビスに何も感じねーのかよ」

 

「なんのことかしら」

 

「惚けんなよ……アビスがもう長くねぇことはお前にだって分かってんだろ?もっと自分を残すべきなんだ、アイツは!自分がこの世界から失われる怖さをとんと分かっちゃいねえ!」

 

「それで、それを私に言えと?」

 

「何か悪いかよ」

 

「どうして私がそんなことに付き合うと思ったのか驚いてるだけよ。アビスが今みたいになった理由を懇切丁寧にロドスに教えてやる義理も、私がその苦節をアビスに強要する義理もないのに、どうして私がそんなことをしなきゃいけないのかしら?」

 

「義理なんか必要じゃない。伝える大切さは何にも劣らねぇ」

 

「……消えるものは消えるわ。それに誰しもが心のどこかで抱えていることなのよ。伝える必要もないでしょう」

 

「忘れてるから思い出させてやらねえといけねーんだろうが。思い出した野郎が真っ先に抱え込んじまったんだから私もそれに手を出してんだ」

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

「ああ!?」

 

 シーが今度こそしっかりと筆を置いて向き直った。

 

「アビスが何を感じどう生きてきたか、なんて無関係に、アビスは最後に秘匿を選んだ。その全てを、その半生の全てを、否定される謂れはないわ」

 

「だとしてもだ!」

 

「ならあなたが言いなさい。私は嫌よ」

 

 噛み締めた歯が不快な音を立てる。シーが真っ白な水彩紙と用具を抱えて横穴の中へと進んでいった。

 それを止める言葉をニェンは思いつかなかった。食い下がってなんとかなるような頭の柔らかい妹ではない。

 

 

 扉が閉まり、とうとうシーは完全に姿を消した。

 ニェンに止めることはできなかった。

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