【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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百 絶縁

 

 

 

 

 部屋に入った。死角から飛び出てきた。

 そういうわけで、アビスは現在ドクターに押し倒されのしかかられていた。CEOが部屋の奥にいて注意を向けてしまったのが敗因だろう。

 

「あびすぅ……!」

 

 どうしてかアビスは発情期の鳴き声という言葉を想起した。首筋に顔を埋められ執拗なまでに匂いを嗅がれているなど断じて良い気分などではなかった。

 

「私は君がいないと生きていけない」

 

 ライサより面倒だった。

 

「もう嫌だ、絶対に嫌なんだ。私から離れないで欲しい。私も君から離れない。ずっと二人で居よう。そのためなら私は何だってするから」

 

「君がいないと生きていけないとか、そうやって自分の命を人質にするようなこと言ってる人嫌いなんだよね」

 

「分かった、二度と言わない。他にはどこを直して欲しい?どこを直せば私は君の隣に居られる? ずっと離れないためには何をすればいい」

 

「一旦離れてくれる?」

 

「それはイヤだ」

 

 扉の近くで押し倒されている青年と押し倒しながら現在進行形で体を擦り付けているフードの女──体躯としては少女か?──に、それを眺める無感情な顔をしたアーミヤ。

 

 メールを送ってから、すぐさまアーミヤの私室に押しかけてきて手を握ってきたドクターを見ることで大体理解した。

 案ずるより産むが易しということなのだろうか、とアーミヤは今までの心労を思って死んだ目をしている。

 

「すぅぅぅぅ、はぁぁぁぁぁぁ」

 

「キモい」

 

 ぺいっ、と横に放り投げる。

 

「アビス、アビス、アビス。絶対に逃さない。絶対私から離れさせない」

 

 次の瞬間にはアビスの体に絡みついていた。

 起き上がる時間さえ稼げないのは想定外だった。

 寝返りを打って敷布団のようにしてみたが、ドクターは恍惚とした笑みで気色の悪いことばかりを言っていた。つまり平常運転のままだったということだ。

 

「アーミヤさん」

 

「私に何か出来ると思いますか?」

 

「なんとかしてもらわなければ困ります」

 

「申し訳ありませんが、私に出来ることはありません。定刻になればケルシー先生が来ますからそちらに頼んだ方が良いと思いますよ」

 

 アビスの顔がより顰められた。

 

「あの人も来るのか……」

 

「アビスの体は硬くて、少し細くて。ああ、私の大切な友人。どうしてこんな腕が私を安心させてくれるのだろう。どうしてこの体が、高きまで聳える大樹のように感ぜられるのだろう」

 

 アビスはドクターを本気の力で引き剥がした。

 あの猫医者に頼むことよりこちらの方が早いからだ。

 鉤爪のように食い込んでいた指がじわじわと滑り、気持ちの悪いことを口にする余裕はどこにもなくなった。

 

「鬱陶しい」

 

 アビスにはドクターが犬のように思えてきた。飼い主のことが大好きで堪らない犬であればこのようにしつこいのだろう。

 飼い主になったのは間違いだった。なるべきではなかった。と、本気でそう思うには余りにも避けようがなかった。あのドクターを何も知らない自分が見れば十あるうちの九は助けていただろう。

 どう転ぼうがどうでもいい、興味ない。ただ悪戯に目の前の相手を自分がしたいようにしただけ。

 

 そのツケはいつか払われるべきだった。

 だから今こうなっている。

 

「ドクター。いくらボクだって限度があるよ」

 

 目と目を合わせてそう言えば、ドクターは金縛りにあったかのように動かなくなった。

 

「私、は……」

 

 出会い頭に押し倒され好き勝手されたにしては言葉を選んだ方である。本調子のアビスならば「もう限界だからどいてくれる?」と言って号泣させたこと請け合いだろう。

 だがアビスは混乱していた。アーミヤに呼ばれてドクターが居たことに関してはまあいいとして、トップの三人が集まる中に自分が放り込まれるなど予想だにしていなかった。アビスは未だ呼ばれた意味を知らずにいた。

 

 突き飛ばすように押してドクターを椅子へと座らせる。

 アーミヤは乱暴なその様子を見て苦笑していたが、視線を向けられ真剣な顔に戻った。

 

「アビスさんを呼んだ理由は全員揃ってから説明します。この状況を招いたのは恐らく、幾つかの齟齬が理由だと思いますから」

 

「ケルシー先生で打ち止め?」

 

「はい。そして……」

 

 時計がカタン、と音を立てた。

 分針が一つ進んだ音に違いないだろう。

 

「時間です」

 

 扉が開かれた。

 

 カツ、カツ、と部屋に響かせるヒールの跫音。

 肩に露出した源石結晶。

 理知を感じさせる無機質な瞳に真白の髪。

 

 ケルシーは入り口近くの椅子に座るドクターへと視線は向けず、その傍でこちらを睨んでいる青年と視線を交わした。

 本人に睨んでいるつもりはないのだが、知らず知らずのうちに内心が鋭利さを持って表出していた。

 

「アビス。体はどうだ」

 

「普通。あと話すなら後にして。アーミヤさんに今から何するつもりなのか説明してもらうから」

 

 ケルシーはアーミヤに目を向けた。

 

「私から話そう。アーミヤ、君は傍観者であり仲介人だと自覚しているだろうが、ことこの召集に至っては私が一番に無関係だ。岡目八目を論ずるなら私が適任だろう」

 

「いいえ、出来ません。ケルシー先生が何を思っていたのかは分かりませんが、ドクターは精神的に追い詰められていました。二度、それを見過ごすわけにはいきません」

 

 強い語気で否定するアーミヤ。

 瞠目して驚くケルシーだったが、浮かぶのはやはり否定の言葉だ。何故ならアビスは自身の担当する患者であり今まで築いてきた密接な関係が……関係が……

 

「アビス。お前はどう思う?」

 

「今さっき言った。割り込むほどのことじゃないだろ、ケルシー」

 

 それが現実だった。ケルシーはアーミヤに及ばなかった。好感度0に好感度マイナスが勝とうなどと無理な相談だった。

 

「私はドクターとケルシー先生にも経緯を説明していただくつもりでしたから、そう焦らないでください」

 

 くくっ、と小さくアビスが笑う。

 

 不本意だが、不本意ではあるが──ケルシーは席に着いた。自分のことで笑顔になった彼に毒気を抜かれただとか、ほんの少し満足してしまったとか、そういうわけではなかった。

 部屋の入り口と奥に一席、両サイドに二席ずつ。そこそこ広い会議室の中央に最大六人の席が用意されている光景が、いつぞやのサルカズ爆弾魔に呼ばれた時と重なった。

 

 ケルシーがじっとアビスを見つめていた。隣の席という至近距離では視線だけで穴が開けられそうなほど見つめられていた。

 結局ケルシーの斜め前、ドクターの左側に座った。いざとなれば盾に出来そうな人がいるだけで安心感は段違いだ。

 

「ケルシー先生がご多忙ですから手早く進めます。私がアビスさんを読んだのはドクターの精神状態が危険で、それが改善されそうになかったからです」

 

 ケルシーの眉が僅かに動く。対してアビスは特に何の感慨も持たない。ケルシーがどう動くのかドクターには把握出来ず読み違えて無様な姿を晒したのだろう。

 ドクターは失敗した。

 それだけのことだった。

 

「アーミヤ。私には彼女……彼が危険なようには見えない。口数こそ少ないがそれだけだ。君の言葉はそれで正しいのか?」

 

「はい。一週間以上、ドクターは私のアーツが反応するくらいに強い感情を抱え続けています」

 

 ケルシーの目がドクターを貫く。

 そして何の反応も見せないことを不審に思ったのか、肩を掴もうとして振り払われた。

 

「私に触るな」

 

 男の声ではなく、一人称もまた違う。

 思わずアビスの方を窺い見たが、当然の如く無感情に二人を見ていた。彼にとって一連のやり取りは全て予想できるものだった。

 

 ケルシーは理解した。ドクターの正体が知られている、もしくは明かされているという事実を初めて理解した。

 そしてその重大さは勿論知るところだった。と言うより、重大だからこそありえないと思っていたものが否定されたのだった。

 

「どうして、君が」

 

 ドクターは恐れていたはずだ。自身の正体を知る輩だと知るや否や地につきそうなほど頭を下げていたはずだ。それから一度も外部には漏れていない秘密だった。

 当初全く理解を示さなかったケルシーに何度懇願したか数えることすら出来ない。今なら分かるが、恐らくドクターは何でもいいから仮面を作りたかったのだろう。素の自分が好かれることなど微塵も信用出来なかったのだ。

 

 そうだ、そういうことだった。

 それならば答えは一つだ。

 

「アビスには嫌われてもいい、ということか」

 

 ドクターが初めて顔の向きを変えた。

 そして言葉を紡ぐ。

 

「お前は、何を言っているんだ?」

 

 口を開こうとしたケルシーにアーミヤが飛びつき口を塞いだ。巧妙に隠されていたがアーミヤだけにはアーツで分かっていた。ドクターの感情が一生分の憎悪と呼ぶにも生温いほどの殺意で埋め尽くされていることを理解していた。

 

 業務中に感じていたのは明確な怨念とそれを上回る悲嘆、そして強い無力感だった。ドクターはそれらの感情を一秒だに欠くことをせず、ずっと耐え忍んでいた。

 本当なら、アーミヤは八つ当たりで多少殴られるかもしれないと思っていた。それを覚悟していた。だがドクターは己と向き合い続けていた。素直に尊敬した。

 

 ケルシーが部屋に入った途端、ドクターの心は整理がついていないようだった。アビスに拒絶されてから悲哀と、恐らくは自身への怒りに渦巻いていた感情が混ざり合って溶け込んでいた。

 

 そして、それら全ては殺意に転じた。

 

 口に蓋をされたケルシーは観察を行った。だがドクターは一見して無感情のようだった。ただ意図がわからなかったから問いを返したのではないのだろうか。

 

 手がピリついた。

 静電気のような痛みこそなかったが、ピリピリとした感覚が指から這い上がってきた。それは肩を通り胸へと届き、更には全身へと広がっていく。

 それが殺意だと分かるまで、数秒。

 

「────ッ!?」

 

 椅子から飛び退いた。

 アーミヤが巻き込まれて尻餅をついていたが、この際そんなことに(かかずら)ってはいられなかった。

 

 ドクターが徐に立ち上がった。

 冷えた感情と呼ぶには熱が込められすぎている殺意が部屋の中に充満する。今のドクターを見て、直接その手で人を殺めたことがないとは、誰一人として思えないだろう。

 

 そこの一人を除いては。

 

「ドクター。今アーミヤさんから話聞いてるんだけど」

 

 ケルシーの方にゆらりと歩き出したドクターの袖を掴んだ。手繰り寄せて手首を引っ張ると、ドクターは椅子に倒れるように座った。

 

「はいはい、えらいえらい」

 

 フードの上から押さえつけるように撫でる。立ち上がって威嚇することがないようそこそこ強く力を込めていたが、ドクターはされるがままになっていた。

 

「分かりましたか、ケルシー先生」

 

「……何を」

 

「ドクターはアビスさんに嫌われてもいいから仮面を外したんじゃありません。嫌われないと信じることが出来たから外せたんです。そうですよね、ドクター?」

 

 こくり、と頷いた。

 頷きながら椅子ごと彼の方に寄って、そして押し返された。アビスが鬱陶しい応酬を始めたくなかったからだ。

 

「そん、な、わけがないだろう」

 

 小さく漏れていた。

 

「アビスが君を嫌わない? ありえない、どうして。分かるはずだ、だって、そうだろう」

 

 理解出来なかった。

 

「いや、いや、違う。当たり前だ、分かっている。分かっているんだ」

 

 理解したくなかった。

 

「だが、それでも」

 

 アーミヤだけに聞こえていた。

 

「──どうして、私だけが……ッ!」

 

 あーあー、聞きたくない。そう言って耳を塞げたならどんなに楽だっただろうか。アーミヤに逃げることが許されていたなら、コータスらしく脱兎のように逃げたかった。

 泣いてしまいそうなケルシーの姿など見たくなかった。涙を堪えて唇を噛み締め、弱音を吐くケルシーなど。

 

 

 誰だって嫌われたくないに決まっている。

 

 

 ケルシーはそれを隠していただけだ。その容量が人より大きく、まるで感じていないかのように振る舞うことが得意だっただけだ。

 

 嫌われたくなった。拒まれたくなかった。捻じ曲げたくなかった。睨まれたくなかった。考えたくなかった。騙したくなかった。

 

 全て、必要なことだった。

 

 嫌われた。拒まれた。捻じ曲げた。睨まれた。考えた。騙した。そうしなくてはいけないと主張する一方で、そうしたくないと叫んでいた。

 

 彼は人に興味がない。だから嫌われることを避けようと思えば簡単だ。ただ過去を尊重してやれば、すぐ友人にさえなれるのではないかと思った。

 それでも嫌われるしかなかった。彼を救うためにはそれしかなかった。嫌っていたはずの私を受け入れた彼を見て、最悪の気分だと思う理性とは裏腹に心が軽くなった。

 

 アビスに自覚があるかは分からないのだが、最近ではトゲが随分と鋭さを失っているようだった。初めてのことだった。計画通りに進んで希死念慮を感じたことは。計画通りに進んでここまで心が躍ったことは。

 

 それが。

 

 ドクターはアビスに寄り添った。だから嫌われていない。それは理解出来る。理解出来てしまう。

 それを選ぶことだけは論外だと、どれほど苦しくても彼に生きていてほしいなら彼を否定するべきなのだとケルシーは思っていた。だから、それは、受け入れられなかった。

 

 好かれるために、彼を死に誘うなど。

 

「あ、あああ……ああ……」

 

 ドクターと小競り合いを続けていたアビスが気付く。ケルシーが両手で顔を覆っていた。飛び退って、膝立ちのまま。

 何があったのか、そう問いかけようとした。

 視線はケルシーではなくアーミヤに向いていた。

 寸前に真横から大きな音が聞こえた。

 

 椅子が倒れていた。

 

「放せ」

 

「どうやら殺意だけは一人前のようだな」

 

 両者、共に感情が閾値を突き抜けていた。

 ドクターは塗り潰されたような殺意を抱え、ケルシーは鬱屈した嫌悪を向けていた。

 

 ケルシーの下敷きになっていたドクターが腕を振るう。容易く受け止めたケルシーが一秒にも満たない時間で脱臼させた。

 普通に戦えばケルシーの辛勝が見える戦力差。派手な先手を打たれたドクターには、万に一つの勝利すら存在しない。

 

 そのケルシーが振り上げた拳を止める者が居なければ、という話だったが。

 

「今、アーミヤさんが話してるんだって。これで二度目。二度目なんだよ。わかるかな。あのさぁ、ボクの声が聞こえてないなら、頭冷やせよバカ!」

 

 ごちん、と拳骨が二つ。

 

 喧嘩両成敗。脱臼していた肩はアビスが無理矢理嵌めた。流石にちょっと可哀想だったので椅子まで丁寧に運んでやった。

 ケルシーは理由がわからなかったので放置。恐らくはそれなりにきちんとした理由あってのことだろう、だが話の途中に突然襲いかかるのは許せなかった。

 

「凄いですね、アビスさん」

 

「こんな子供より子供らしい大人二人に囲まれて頑張ってるアーミヤさんの方が凄いですよ」

 

「えぇっと……」

 

 アーミヤは言葉に迷う。

 彼が絡まなければ二人はアーミヤより何倍も大人らしいのだと、どう伝えればいいだろうか。精一杯手を尽くしてもアビスは怒る気がした。この世の理不尽に。

 

 幸いにもアビスは早々に話の続きを望んだ。

 

「ドクターが限界だったのはこれで分かったと思います。そしてそれはアビスさんを秘書から外したことでそうなりました」

 

 ドクターから異論はない。

 それをしっかりと確認して次に進む。

 

「ケルシー先生がそうなることを理解していなかったことは分かりました。だから次に、理由をお聞きしたいです。まさか秘書が変わらないことにそれほど不満があったはずはありませんよね?」

 

 話を聞いているのかいないのか、ケルシーは机の一点を凝視していた。まるで先ほどの反省を一人で行なっているかのように。

 アーミヤがもう一度聞こうかと思ったタイミングで、ケルシーは「それが理由ではない」と言った。

 小さな細い声だった。

 

 心の中でミニアーミヤが「んーーーーーー」とそれはそれは長く続けていた。理解が一瞬止まったエリジウムなども使う「んー、なるほどね?」の極めて長いバージョンだった。

 しかし精神的にショックを受けたケルシーに不平を言うことなど出来ない。小さな声も少々困りはするがそれだけなので、倫理的に──

 

「もう少し大きな声で話してくれる?」

 

 ミニミヤが再度同じ台詞を吐いた。今度はより長かった。その意味を率直に言うなら「何しとんねんお前」であった。ただ理解出来ない指摘でもなかった。ミニミヤは疲れて不貞寝を決め込んだ。

 どうしてケルシーは小声で呟いたのだろう。どうして私だけそんな扱いなんだと詰め寄って仕舞えば良かったのに。そうすれば私がここまで疲れることもなかったのに。アーミヤは八つ当たり気味にケルシーを責める。

 

 そんな状況にも限らずドクターはアビスの服に顔を寄せて何やら匂いを嗅いでいるようだった。なるほど殺意が薄まるならこれ以上ないことだ。だがイライラするのでやめていただけるだろうか。

 アーツが拾うずっしりとした愛情も中々に堪えた。意味が分からないくらい大きい。恋愛の色が少ないのでまだ耐えられてはいるが、親愛だけでここまで重くなるのは考えものだろう。

 

「……すまない。私がアビスをドクターから引き剥がしたのは、ドクターが内部抗争の準備を進めているのではないかと疑っていたからだ」

 

 ケルシーはとても可哀想だった。それが自業自得であるかどうかは、これからの話の次第によるのだからしっかりと理解せねば。

 アーミヤは気合を入れ直した。

 どうやらアビスは気遣いの一つすらも出来ないようなので私が主導しなければ。

 

「現在ロドスに居る元亡灵(アンデッド)のナイン。彼女が……」

 

「ごめんなさい。少し待ってください」

 

 アーミヤの気合いがどこかへ散った。

 

亡灵(アンデッド)が居るんですか?」

 

「ああ、秘匿していたからアーミヤは知らないだろうが、一ヶ月ほど前からな」

 

「それは、まさか」

 

「アビスが連れ帰ってきた少女のことだ」

 

 アーミヤの背に黒い菱形の線が浮かぶ。面倒そうな顔で被害者然として無関係者ですとか主張してるクセしてアビスが発端だった。ちょっと嫌になってきた。

 しかしアーミヤが目を瞑ってから少し経つと、菱形の線は消えていった。怒るだけではどうにもならない。前を向き、どうすべきか検討することが肝要だ。それはどんな場合においてもそうだろう。

 忘れてはならない。

 怒りに突き動かされた短気や短慮がレユニオンのようなテロリストたちを生み出した。暴力とは、武力とは、歯止めが効かない毒となるのだ。

 

「話を続けてください」

 

 冷静な声だった。

 ケルシーはアーミヤの姿を見てバツが悪くなったのか顔を背ける。冷静でない、平生を装うことすら出来ていない自分を理解したのだろう。

 

「そのナインにドクターが接触していた。短いスパンで何度も執務室に呼んでいたようだった。秘書がアビスであることを利用したのだと考えた」

 

「まあ、事実だよ。ナインは執務室を何度も訪れていたし、オペレーターになるよう勧められていたのもそう」

 

 アーミヤの視線にアビスが答えた。

 事実確認は取れた。次の言葉を促す。

 

「ドクターは強い不満を持っているようだった。それが真実なのか偽物なのか、それはどうでもいいことだ。たとえ偽物であったとして、欺いているその事実が刃を幻視させるのだから」

 

「強い不満、ですか」

 

「ああ。アビスが他のオペレーターを訪ねたり定期検診のために執務室を出ることになれば、ドクターは強い不満を表していた。私を傷つけることが心やりになるようだった」

 

「性格悪いね」

 

 びくっ、とドクターの体が震えた。

 アビスは冷めた目でそれを見ると、特に何も言わず視線を戻した。ドクターは泣きそうになった。

 

「アビスに目をつけたのは内在する理由でない、と言っていた。それは嘘だったのだろう? ……だがどちらにせよ詮無きことだ。嘘をついていたことが今更何だという話だろう」

 

 ケルシーの言葉とは反対に、アビスの目がどんどん冷えていく。何か企んでいた計画があって、偶然ケルシーによってそれが消えただけの可能性が見えたからだろう。

 

「ドクター。どうして嘘を?」

 

「私は、ただケルシーの注意を逸らしたかっただけだ! 検診を餌にして妥協させ、ダメ押しにそう言えばケルシーの目が他に向くと思っていた、それだけなんだ!」

 

 アビスは心底興味がなかった。

 彼のような策謀に優れているわけでもない者にとって、弁の立つドクターがどれだけ言い訳を連ねたところで意味などない。可能性があるならば、やりかねないならば、否定する証拠は全て嘘くさい。

 ドクターからすればとんでもない論理だったが、その考えは賢いと言える。怪しい人を見つけたら撃っておく。そうでなければいつか殺されるかもしれないのだから。

 

「信じてくれ、私が君を害したことなんてなかっただろう!? 私は君を隣に置いておきたかっただけで、それで安心したかっただけだ。それならば──」

 

「ドクター、それ以上はよせ。醜い」

 

「……はぁ?」

 

 椅子がドクターの背後でうるさく音を立てた。

 倒れたそれを意にも介さずドクターはケルシーに詰め寄った。アーミヤが制止しようとする間もなく、回る思考がドクターの感情を押し上げる。

 

「お前が、お前たちが私をッ!」

 

 ただの気迫がアーミヤの足を竦ませた。バイザーの奥に見える瞳は闇のように暗く、しかし強い存在感と与える威圧感は燃える炎のようだった。

 

 ケルシーに殴りかかるドクター。

 人と直接争うことが全くない彼女にとってそれは会心の一撃と呼べるものだろう。十分に拳は固く、十二分の勢いを乗せて振り抜かれた。

 

 そして気が付けば床に転がっていた。

 ケルシーの並外れた技術によって毛ほどの力もかけずドクターはうつ伏せでひんやりとした感触を味わっていた。

 

「人は誰しも醜い側面を持っているだろう。それを否定する気はない。態々その一面を暴いて嘲るほど暇ではない」

 

 ドクターの背をヒールが貫く。

 実際に出血するほど鋭いものではなかったが、ドクターが抜け出せず踠くことしか出来ないくらいの力がかかっていた。

 

「君の幼稚で自己中心的な(さが)はいい。問題はそれを隠すことなく押し付けている点だ。『隣に置いておく』だの『安心したかった』だけなどと宣い、まるで物のように扱っているようだな」

 

「ケルシー先生」

 

「……どうして君は動かず、君の隣に彼を置く? 君が彼の隣に腰を下ろすこともなく、それがどうして咎められないなどと思っていた。その傲慢さは時に害となるだろう。今までそうでなかったとして、これからそうなる可能性は大いに高い」

 

 爪先で転がした。痛みに呻くこともなく、ドクターはケルシーをずっと睨んでいる。間に入ったアーミヤもまた毅然としてケルシーに向かっていた。

 

 唯一無干渉で眺めるアビスは虫ケラを見るような目をしていた。こちらの出来事に全く興味がない目だった。

 ケルシーはそれを見て少し安心した。大抵の人間であれば自身に擦り寄ってきた相手に好感情を抱き、それを叩きのめす相手には当然反抗する。

 アビスはあくまでケルシーとドクターの関係として捉えている。彼の目には彼と他人の間に関係など無いようなものだった。

 

「それ、なら……それなら、お前はどうなんだ、ケルシー! 彼を思い通りにしているのはお前の方だろう、お前こそ傲慢で仕方ない悪辣な権力者だろうが!」

 

「思い通りにして何が悪い。私はその権力に見合う立場を持ち、責任があり、より良い方向へと導く義務がある。それを傲慢とは呼ばない。そして君は対話の前に暴力を選んだ。この世で最も愚かな選択と言える」

 

 激情に駆られて返り討ちに遭い、その上言葉のナイフで滅多切りにされる。相変わらず性格が悪いのだなとアビスは思った。それだけだった。

 ケルシーは倒れた椅子を指差す。

 

「床で寝ると腰や背が痛くなるだろう、座ってはどうだ。なに、そのままがお好みなら無理強いはしないと誓おう」

 

 ドクターはフラフラと立ち上がり、腰を下ろした。心配そうな顔で見守っていたアーミヤは一言「やりすぎですよ」とだけ告げて席に戻った。

 これで元通りだ。

 

 喧嘩に口を挟まなかったアビスが纏める。

 

「全部分かったよ。ケルシーはナインを取り込まれたくなかったからボクを引き剥がして、そこに悪意はなかった。ドクターはただボクと居たかっただけ。はい、話終わり」

 

 二人は訂正しなかった。

 これ幸いと面倒なやりとりから逃げようとして、立ち上がったアビスの視線の先でドアが開いた。見えたのはダークグレーの髪。その傍には不幸を振り撒く悪魔。

 

「終わってないよ、アビス」

 

「まだ話すべきことがあるのよ、間違いなくね」

 

「うんうん、とりあえずさ」

 

 ライサがドクターの肩を掴む。

 

「こいつ殺していい? いいよね? 迷惑だよね? 分かってるよ絶対跡形も残してやらないから」

 

「……誰かと思えば役立たずか」

 

「あぁ?」

 

 ライサを落ち着かせようと手を伸ばしたアビスの視点がガクッと下がった。Wがアビスを引っ張って椅子に座らせたのだ。

 しれっとアビスの隣の席を奪われたことにライサは気付いていたが、それより今はドクターのことらしい。羽交締めにして盗聴器を壊されないよう全力だったWはもう止める気などないようだ。

 ケルシーやアーミヤが止めるだろうと高を括っているのだろうが。

 

 隣の席から肩を抱く。

 

「ドクターが劣勢。ケルシーが優勢。それって、あんたが無駄に生かされるってことじゃない?」

 

 悪魔(サルカズ)はそう囁いてニィと笑った。

 乗ってくるだろうと分かっているから返事は待たない。軽く突き飛ばしてケルシーに微笑みかける。

 

「さぁて、ケルシー。あたしは一体何から話せばいいのかしら? 妥協案で話した過去を嗅ぎ回っていたこと? オペレーターに裏から手を回していること? それとも、あたしから聞き出したリラのことかしら」

 

 アビスがWの胸倉を掴んだ。

 

「……全部話せ。最後の話からだ」

 

「そう飛びつかなくたっていいじゃない。メインディッシュの前に前菜がないなんて寂しいでしょう?」

 

 チャキ、と銃口がアビスの腹に当てられる。

 

「それとも源石結晶ごと体に風穴開けられたいのかしら。あたしは嫌よ、あんたの命だけは背負いたくないもの」

 

 殺気はない。しかし怯えがない。

 殺すと決めれば確かに撃鉄を倒すだろう。

 

「一つ目。聞いたわよ、BSWからの研修生がまた訪れるみたいじゃない。それも名指しでオペレーターを指名したそうね、『アビス』なんて名前のオペレーターを」

 

「……それが、どうした」

 

 ケルシーの顔に動揺はない。

 

「聞いてみれば多少知っていたわ。リターニア出身。高等部に入ったばかりで学生と二足の草鞋で大変な生活をしているようね」

 

「それがどうした」

 

「種族はフォルテ」

 

 アビスの目が大きく見開かれて、瞳が揺れる。

 どうやら大当たりを引いたらしい、とWは心の中で呟いた。ケルシーの徹底した調査は裏目に出た。名指しだったという点は恐らく隠すつもりだったのだろうが、BSW側に連絡を取ればすぐに分かった。

 

「あんたの従兄妹、種族は何?」

 

「……フォルテ」

 

「あんたのコードネームの由来は?」

 

「母方の実家がペッローの一族で、部族名がアビスだったんだ。だから、母の妹の子であるラグがコードネームを付けるとするなら、ボクと同じものになる」

 

「ええ、それで。あんたを故郷から追い出した彼女をロドスに呼び寄せたらしいわよ。ケルシーはあんたのこと、嫌いで嫌いで仕方ないのかしら?」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべるWに、ケルシーが口を挟む余地などない。アビスは恐らく確信していて、それは猜疑させるに充分な内容だったはずだ。

 

「二つ目。カッターだとか二人目のアビスだとか、どうやら間接的にあんたを変えようとしているらしいわね。思い当たる節がないわけではないでしょう?」

 

「フロスト、リーフ」

 

 くすくす笑っているWの性格は最悪だろう。何も言えないケルシー、掌の上で転がるアビス、意気消沈したドクターに、何も出来ることがない、何も知らないアーミヤ。

 

 付け入る隙を与えてしまった時点でケルシーたちはWに笑われる未来しか存在しなかった。

 

「三つ目。これはケルシーの口から聞きなさい」

 

 一つ目、二つ目。それらは三つ目の信憑性を上げるためだけの布石に過ぎない。ここでケルシーに水を向ければWの口から荒唐無稽な話が飛び出ることもなく、ケルシーの信用だけを落とせる。

 

「ケルシー」

 

「……リラ、と言ったか。君の話を聞いた限りでは、彼女の鉱石病は冬のうちに悪化を極めたらしいな。右目を、そして左足を壊した」

 

「ああ。それで?」

 

「余りにも早い。源石に長時間触れることすらしていないのだろう。健康状態こそ悪いがその他は理想的な状態だったはずだ。それが、たった一つの季節を跨ぐことすら出来なかった」

 

「だから?」

 

「不自然極まりない。私には──」

 

「そうじゃない。そんなことはどうでもいい。その程度の理由で、何をした? 覚えてるよ。『リラと話をした』ってケルシーが言ってるの」

 

 ケルシーが口を噤んだ。

 当然ながらケルシーは何もしていない。全てはアビスの早とちりだった。だが、それを証明できない。ケルシーは何も否定できない。そして嘘をつくことも出来ない。

 Wは思ってもみなかった展開に抱腹絶倒しそうだった。気を抜けば口から笑い声が漏れてしまいそうだ。

 

「それとも、あなたが?」

 

 ドクターの闇と炎を印象付けるような目ではない。ただただ強い意志が感じられるアビスの目に、アーミヤは首を振った。

 どうやらケルシーが一人で何か小細工をしたらしい。

 

「答えろ」

 

 剣呑な雰囲気はまだ殺気と呼べる段階ではない。だが敵意と害意は確かに存在していた。ケルシーに向けられた鋭すぎる視線が瞳を貫く。

 

「答えろよッ!」

 

 机に叩きつけられた手が大きな音を立てた。

 ヴイーヴルとしての特徴を失った握り拳から血が垂れている。医者であるケルシーは、しかし何も言えないままでいた。

 

「どうせ何も言わないわよ。それくらいにしたらどう?」

 

「黙っていてくれ」

 

「あらあら、まだ感謝の言葉すら聞いてないわよ。それにどうでもいいじゃないの。ケルシーはあんたの大事なものに手を出した。嫌って疎めばそれで終わりよ」

 

 息を荒くしたままWと目を合わせる。

 心底これ以上の問答が無意味だと思っているようだった。ライサを見れば、何がどうなったのか、素手でドクターと取っ組み合いを繰り広げている。

 

「……はぁ。分かった。第一ボクは巻き込まれただけなんだ。こんな部屋に居るべきじゃない。ラユーシャ、行くよ」

 

 こちらの声が聞こえていないライサの首根っこを掴んでズルズルと引きずっていく。Wはもうおかしくて仕方がなく、腹を抱えて震えながら歩いている。

 

 最後に部屋の中を見渡した。

 

 今にも駆け寄ってきそうな、捨てられた子犬のような雰囲気を漂わせるドクター。ただ俯いて目を合わせようともしないケルシー。探るようにWやライサを見つめるアーミヤ。

 

 誰にも魅力は感じない。

 このまま関係が途絶えようと一切の未練もないだろうとアビスには思える。

 

「ドクター」

 

「え、あっ。なんだ?」

 

 期待が薄らと塗られた言葉。

 

「これ以上ボクに迷惑をかけないでくれ。救われたんだったら仇で返さないで欲しい」

 

 暗くて見えない顔。

 扉を閉めるその瞬間に一粒の雫が垂れたように見えたのは、きっと目の錯覚なのだろう。

 

 

 




百話。百話です。六章完結です。実は六章完結を九十九話にしようと思っていましたが二万字弱になったので分割しました。
ケルシーとドクターはかわいいですね。
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