【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
百一 貴方は如何にして愛を謳う
冷たい海の中。私は何度も夢の水底に沈められていた。それは恐怖を煽るようでありながら、もがくことを諦めさせるように私へと纏わりついていた。
ああ、体の芯まで冷えるようだ。
そう思っても私の体は動かず、永遠に思えるような時間をそのままで過ごしている。
今日は目が覚めないのかもしれない。
毎朝のことだが、しかし未だに慣れない。私が既に冥土を目指しているのではないかと疑ってしまう。
私が一切死を知覚しないままに殺されていたとしたらどんなに素晴らしいことだろう。
現時点では裏切られている期待が、いつの日か成就してくれたならと。そう望んでやまない。
見慣れた真白の天井を眺む。
鬱々とした感情を抱えながら目覚めると、そこは夢の続きを思い起こさせるような静謐。まるで部屋全体が水で満たされているかのような、それでいて乾いた空間。
入っていた連絡とリマインダーに目を通しつつ飲料水が喉を通る。
珈琲は要らない。起きた時点で私の心は死を恐れ、眠気などとうに消えている。そして独特の匂いと塗り潰すような黒は、異物を隠してしまえるから。
朝のルーティンはこれでも改善した方だ。灯りを消して眠ることは未だに出来ていないが、自分から目を瞑ることも出来やしないが、睡眠は取れているのだから。
彼が居たら全て解決するのだろう。
手を滑らせて床に落ちた端末。厳重なロックの最奥には彼の写真が入っている。データ紛失が起こらないようバックアップは他の端末に幾つも置いていた。
彼を失いたくなかったからだ。
「それに、何の意味がある?」
再び端末が床に落ちる。拾おうとする手が震えて上手く持てなかった。彼の姿が頭に浮かべば、恐怖を覆い隠すほどの哀絶が痛みと共に胸を占拠していた。
会えないのなら居なくたって同じだ。
彼以外の者が相手だったならそう言えていただろう。
その実際的で現実的な考え方は私が壁の向こう側に居たからだ。まるで第四の壁のようなその境界線を隔てて私が世界を眺めていたからだ。
私が恐怖を抱えていた一番の理由がそれだったのだろうか。現実感のない世界から除け者にされているような感覚が、私の心を傷付けたのだろうか。
そんな問いはどうでもいいことだ。私の心に優しく触れてくれたのは彼だけで、そして彼はもう私の世界から消えてしまったのだから。解決出来ないと決まったのに蒸し返す必要なんてないだろう。
もう決まったことなんだ。
彼が私を救って、私は彼を利用しようとして、それに腹を立てた彼が私の隣から居なくなった。
私の自業自得だ。
諦める以外に選択肢はない。
諦めることしか私には出来ない。
それなのに。
「何故、私は彼を忘れられない……」
端末を拾おうと何度試してもダメだった。
彼のことを思う限り何も出来なくなってしまうようだった。
昨日のことなのだから引きずっていて仕方がない、そう思いはしても心のどこかで首を傾げている。今まで積み重ねていた成功が私の能力不足を易々と認めてくれない。
ただ甘えているだけではないのかと、そう言って私を責める。
『命に代えても──』
耳に残る彼の声が寂しくて堪らない。脳裏に浮かぶ彼の姿が苦しくて堪らない。私は本当の意味で彼が居なければ生きていけないんだ。
もう忘れるしかないだろう。彼と出会う前の私に戻るしかないのだろう。そう分かっているのに、期待なんて抱きたくないのに、頭から離れてくれない。
雫が垂れる。
がくんと頽れて端末に近付いた。
目に見えない何かを掻き抱くようにして、しかし私の手は空気を攪拌するだけに終わった。
垂れる髪に涙が伝い、数本が一束となってくっついた。
締め付けるような胸の痛みを、劈くような心の悲鳴を、私はどうすれば無視できるのだろう。蹲って胸を押さえたって何も誤魔化されてくれない。
ただ人に怯えていた頃よりずっと痛くて耐えられないんだ。どれだけ殴られようが斬られようが、涙なんて出ることはない。殺されかけたとしても、自然に泣いてしまうことはない。
今までの苦しみは、見えない心を引き裂かれることには到底及ばない。
「もう嫌なんだよ、アビス……なあ……」
涙が床に積もりゆく。
仕事に行かなければならないのに。
彼に見捨てられた私は安全を確保するためドクターの仮面をしっかりと被り直す必要があると言うのに。
私の体は緩慢にさえ動かない。
「私の隣に居てくれよ……」
それは意図せず漏れ出た本音だった。
心の内を整理するためだとか、そういった何の理由をも持たない、私の発言では珍しい言葉だった。
だからこそ私は己の罪を自覚する。
「仕方、ないだろう。だって私はドクターなんだ、そう軽々しくは言えない。ロドスに囚われた私が言えるのは『隣にいてくれ』って名前を呼ぶことだけ、そのはずだ」
『君が彼の隣に腰を下ろすこともなく、それがどうして咎められないなどと思っていた』
私を見下すケルシーの目がフラッシュバックする。私を足蹴にして彼女は言っていた、隣に居させてくれと頼むのが筋だろうと。
私には出来なかった。ドクターというシガラミが行動を制限しては憚らなかった。どうしたって隣になんて行けなかった。だから秘書にして招いたんだ。
……本当は分かっている。
そんなの言い訳でしかないのだと。
彼を隣に置いておくことは怖くなかった。行動を縛っているなら断られたって仕方のないことだから。断られたとしてもダメージは最小限で済む。
私が隣に居座ることは怖かった。もしも断られたなら、それは私を疎んでいることに他ならない。彼にとって居てもいい存在なのか、それとも嫌な存在なのか、それを明らかにしたくなかった。
強引に付き合わせているから拒絶されているだけ。そんな逃げ道が用意されていなければアプローチの一つだって出来ない人間、それが私だった。
嘆くだけの資格は持っていない。
彼を望む権利などない。
この涙がまるで意味のない空虚な行為だと思いたくはない。しかしドクターの思考が無駄だと断じている。
彼に拘うことが愚か者の行いだと分かってる。だが私の心はそれに逆らい、何度でも記憶を呼び起こす。
ドクターからかけ離れた、凡愚で情ばかり優先する頭があったのならと考える。すぐに答えは出る。きっと彼は私の大切にならなかっただろう。
私がこうしてこの世に居る時点で、こうなることは決定していたのかもしれない。宿命論を振りかざすつもりはないが、一つ一つ要素を拾えばこうなってしまうのは必然だった。
彼の特別を目指すことすらしなかった私には、お似合いの結末だろうか。
あの日以来ドクターは執務室を訪れていない。
強いショックを受けていたらしい彼女は鬱病と診断された。あの日までその兆候がなかったわけでもないが、摩耗していた精神が最後の砦を明け渡してしまったのは、やはりヴイーヴルの彼によるところが大きい。
そうは言っても彼が責められることはない。貧困に喘ぐ人々をレストランに連れていったところで騒ぎ立てる者はいない。結果、彼らが生活水準に耐えられず罪を犯してしまったとして、それは彼のせいではない。
事前に予防すべきだった者がいる以上、彼らの怠慢を指摘せずにどうして彼を責められるだろうか。
──それに。
コンコン、とノックの音が響いた。
入ってきたのは激務に忙殺されているはずのアーミヤだった。ドクターが機能しない今、ロドスは救出作戦より前の業務形態に戻ろうとしていたが、想定内ながらもキャパシティオーバーの一歩手前だったはずだ。
勿論ケルシーはそれに協力していたのだが、元より過重労働を重ねていた身。このような忙しさは慣れっこでアーミヤより比較的ダメージが少ない。
「お仕事は如何ですか」
よいしょ、とアーミヤが声を出す。ケルシーは早速積み上がった報告書やらに目を通し始めた。
「君が見通した現在は正に閾値の手前と言えば語弊もないだろう。極小単位が一つでも加えられたなら多くの要因を伴い瓦解が始まる。最も警戒すべきでありながら、無駄に終わる可能性もまた最も高い」
「分かっています。ドクターがそうしていたように、今の私たちには成功を積み重ね続ける必要がある。解決するための準備は未だ進みませんが、そう遠くないうちには……」
ばさ、と紙束が放り出されたように机の上へと落ちる。
「アーミヤ、君の助力は不要だ。私が彼をその気にさせて見せよう。不幸こそ積み重なったが、これは元より私が撒いた種なのだから」
「私は反対です。ケルシー先生のことは信頼していますが、実績から見て彼とのより良い関係を期待することは出来ません。ロドス全体を揺らがす判断として私は許容できません」
当然の反応だった。ケルシーはアビスを約三年間担当した医師であるが、今の彼にケルシーへの信頼はない。事実上はドクターと同様、絶縁を望まれていると言っても過言ではないだろう。
しかしケルシーはそんな反論を真正面から否定してみせる。
「冷静になるといい。君は彼の熱に当てられ、その印象を過剰に深めて考えている。彼のことを知った気で接する者など私より余程度し難いということは、君自身もまた知る所だろう?」
「勿論ケルシー先生は不可欠です。しかし、実際に説得すべき人がケルシー先生であるという言葉には反対です。拘る理由は分かりますが、アビスさんがただの一患者である時期は過ぎてしまいました」
食い下がろうと口を開く。
しかし毅然とした若きCEOの目に、とうとう何も話さず口を閉じた。
「つきましては、ケルシー先生。ドクターの看護をお願いします」
「幾つかプランは用意している。しかし彼女の精神は既に月並みな療法が効果を及ぼす域を脱してしまった。そして耗弱とは別の問題もまた引き起こされている」
アーミヤは大きく頷いた。
「例え彼女の精神を保護できたとして、身体的な衰弱を避けられない可能性があることは理解しています。全てはケルシー先生ではなく、私の手に委ねられている」
決意などとうに定まっている。まだ幼いウサギが持つ覚悟は誰にも引けを取らないだろう。
「どうにかしてみせます。これがドクターやアビスさんを救うための、最後の機会かもしれませんから」
ロドスは全ての人を救えはしない。
それならば、掬い取った命は最後まで守りたい。
アーミヤの目には手遅れの感染者など映っていない。その目にはただそこにある現実と、それを変えるための意思だけだ。
「手始めに近しい人から色々と伺いたいので、スケジュールに少し手を入れておきました。後でご確認くださいね」
「ああ、目を通しておく」
ケルシーの返答に満足したアーミヤは時計を確認して、その針の位置に声をあげて驚いた。どうやら多忙の身であることをすっかり忘れていたらしい。
勢いよく飛び出して行ったアーミヤの背中を頭の中に留めながらケルシーはカップに手を伸ばす。
「む」
円を描くように少量のコーヒーが溜まっていて、傾けても幾つか滴が垂れるだけに終わるだろう。
カフェインの過剰摂取は毒となる。
ケルシーはポットから白湯を注いでちびちびと飲み始めた。
脳内に描かれているのはアーミヤとドクター、そして件の彼だ。
彼はアーミヤがどうにかするだろう、あの青年は自己中心的且つ排他的で頑固者だが、それ故に一度引き出された好感情を素直に抱え込む癖がある。
好感度が全くのニュートラルである存在を上手く使えば付け込むこと自体は容易い。
そしてケルシーの管轄であるドクターであるが、手配は抜かりない。
そしてそれを行ったケルシーの感情はまるで凪いだ水面のようだった。
彼から好感を得るために殺そうとした──ことそれに関して、ケルシーがドクターを許すことはないだろう。
だがその制裁は降った。
「良い気味だ。胸が
背もたれにより一層の体重をかける。目が天井を真っ直ぐに見遣り、突き出した右腕が視界に映る。
部屋を照らす色褪せた青の源石灯。
『それに』の先を彼女は吐き出した。
あの会議中に爆発したのはストレスの管理がなっていなかったせいだ。極めて個人的な理由で相手の余地を許さず追い込むように憤怒した、それは自身の過失と言って相違ない。
どれだけ正当性のある怒りだろうと個人的なものだ。虐められていたり下に見られていたり過去の確執があったり、そういったことをあの場で言うべきではなかった。
だから、いっそのこと耐えられない言葉は独白してしまおう。そうした結論に落とし込んだ。それがケルシーなりの結論だった。
『お前が、お前たちが私をッ!』
くすりと笑いかけてしまった。
ああ、どうにも滑稽ではないか。態々叩き起こされたと思えば災禍の中で命の危険を潜らされ、ようやく見つけた信頼できる相手は重篤患者で更には嫌われている。
喜劇だろう。
彼女の生涯を言葉にするだけで込み上げてくる。噴き出しそうになる。そうしてケルシーは己の不満を消し去った。
腰を上げて、愚かな少女の心をケアするため、ケルシーは足を踏み出す。その顔がどのような感情で染まっているのか、ケルシー自身すら把握できていないままに。