【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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七章 巧言令色鮮し仁
百二 先即制人(先んずれば即ち人を制す)


 

 

 丹青(たんせい)とは即ち丹砂(たんしゃ)青雘(せいわく)。赤と青の顔料を示し、絵の基本であるその二色は豊かな色彩へと転じて、更には絵具や絵画までも意味に含む。

 そんなことを教養のない若者が知るはずもなく。

 

「ああ、今忙しいから後でもいいかな」

 

 ケルシーの指示により、秘書業務を中断されてからしばらくのこと。ライサとの訓練を終え、Wを連れ立って執務室を訪れたあの日のことだ。

 これは執務室を占拠していたシーに引っ張り込まれて、これから丹青に招くのだと言われたアビスの言葉だった。彼の顔には分かりやすく面倒くさいと書かれている。

 ドクターやらケルシーやらのことがあって忙しくなることは真実だったが、決してそれを意図して言ったわけではない。アビスは有耶無耶になるだろうと期待していただけだ。

 

 そうなるだろうと半ば理解していたシーは土を剣先でつつきながら「分かったわよ」と拗ねた。掘り起こされた土が小指の先ほどの高さにまで積もる。

 それにしてもいつから執務室の中はこんなにも自然溢れる解放的な空間になっていたのか。見渡す限り広がる森林、ちょうど執務室ほどの大きさであるギャップ。休憩室の扉と廊下の扉が場違いだ。

 

「一段落したら行くよ、きっと」

 

 何だったら既に丹青の中なのだが。

 帰さないように細工することは余りにも簡単だ。数十年だって過ごさせることが可能だ。とっくに手中なのだから。

 だがそんな監禁に何の意味があるのか、とシーは空に投げかける。ただ生きていることだけを願うならケルシーがとっくに実行しているだろう。それが可能なだけの力が彼女にはあるのだから。

 

 曖昧に誤魔化したアビスへと怒りが湧くことはない。想定されていた答えで、それに納得していた。彼が一番に大切を感じるのは自分ではないのだと理解していたからだ。

 二人は親しい。浮ついた関係こそないが、友人と呼べる関係にあった。

 

「だから嫌なのよ」

 

 筆から落ちた墨が溶けるように土へ染み込んで、すぐにドアが開いた。緋色の目が隙間から覗いて見えている。

 

「だから嫌だったのよ」

 

 シーは落ち着き払った様子で外に向かう。

 代わりに入ってきたナインもまた彼女を訝しむように見えていたが、アビスは心の色を理解していた。

 

 ドアが閉じると、瞬きのうちに執務室は元の姿を取り戻した。そして待っていたと言わんばかりのドクターが休憩室を転がり出て猛スピードで突進した。シーに目を向けていた彼はいつになく鈍い反応で巴投げを決め、矮躯が宙を舞った。

 

 

 それが最後だった。

 それを最後にシーはあの通路から消えた。

 

 

 ただ一つ、風変わりした扉を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロドスに着任してから暫くして、ケルシー(づて)にとある無職の話を聞いた。それから更に暫くして、アビスが気に入っていた通路の中に扉が描かれた。

 

「誰だよ、お前」

 

「誰だっていいでしょう?」

 

 今より幾分か子どもらしかった──まだ敬語を使えなかった──彼は刺々しい雰囲気だった。手の中でクルクルと回るナイフが鈍色に輝いている。

 対するは今より幾許か人間嫌いな様子のシーだ。興味どころか視線すらくれてやることもなく、()慳貪(けんどん)な彼より余程無愛想な態度だった。

 

 何故だろうか、彼はそれが少し心地良かった。

 突き刺さるような剣呑さに溢れていた。しかし目を凝らしてみれば、それが自分に向けられた針ではないことをよく理解できた。

 孤独であろうとする恣意的な無関心は、自身を守ろうと四苦八苦する彼にとって甘美なものに思えたのだろう。

 

 それから彼専用の場所だった通路が共用スペースとなり、扉が開く頻度は徐々に増えていった。

 追い払いたがるシーの言葉をそよと受け流してはトゲで返していた。アビスの態度が見かけだけではないことをシーが悟る頃には、通路が静寂を取り戻していた。

 

 

 それからは互いが互いの日々に入り込んでいた。

 アビスはシーを毎日のように見かけては、こちらに話しかけず、また話しかけられたいと思ってもいないシーの存在を許容していた。

 シーはアビスを——画の中で過ごした時間を含めて——一週間に一度くらいは見ていたし、少しずつ余所余所しい雰囲気の外郭を纏わせていく彼に月日を感じた。

 

 時折、助言をするようになった。

 余りにも稚拙なアーツを見咎め、シーは仕方なく口を開いた。馬鹿にするような言葉が出てしまってすぐに後悔したのだが、アビスは然して気にしていなかった。

 彼が練習していたのは熱を操作するものだった。しかしその身に残る源石の痕跡は、彼が持つ特大の素養を高々と示していた。

 アーツ反応を繰り返し検知していたPRTSから注意が入るまでの時間は、シーが彼のアーツを理解するに十分なものだった。

 

 彼が敬語が使えるようになってすぐ、シーは三日ほど姿が見えなかった。それで毒を抜いたつもりだった。心を侵す劇毒の汚れを落としたつもりになっていた。

 どうやら手遅れだったらしい。

 毒に気付いたのは初期症状があってこそのこと。一抹の寂しさを覚えたことで、シーはようやく彼の存在が毒になりつつあることを知った。

 

 静寂が戻る。シーはそれ以上彼に肩入れすることを選べなかった。だからと言って姿を消してしまえば、毒の存在をハッキリと認めてしまうようで嫌だった。

 彼が居なくなったところで、まだ、大丈夫だ。そう言い聞かせて、そのまま動かさないことを選んだのだった。

 

 第一章(少し前のこと)。アビスから向けられた殺意は心地よかった。彼にとって自分がそう大きな存在ではないと突き放してくれたから、シーは彼の味方になることができた。彼が引いたからこそ踏み出すことができた。

 アーツが繋いだ悲しみや恐怖をシーは恐れた。彼のアーツは卑怯だ。自分から歩み寄ろうとせず、しかし他者に歩み寄ることを強制する。それがシーにとってどれだけ鋭利な刃だったかは推して知るべきだろう。

 だが、それを理由に拒絶することはもはや出来なかった。とっくに答えは出ていたのだろう、毒は既に回りきっているのだと。

 

 嫌い合う。それは変わらなかった。

 アビスが望んでいたのは己の過去を共有出来るような友人ではなく、己以外のどこかを向いている存在だと理解していたからだ。興味や関心などは要らない。

 そのうち、シーは新しい立ち位置に足を進めた。アビスから近寄ることがないと分かっていたから、シーは利己的な考えを基にスタンスを変えた。彼のことを知りたいかではなく、彼を自分がどう扱いたいかで向き合い方を決めたのだ。

 例えるならば、「ありがとう」を告げる理由が、何かをしてくれたからではなく、感謝する気持ちがあるからというものに変わった、というような話だ。

 相手は関係ない。それは傲慢で身勝手で、更には強く利己的でありながら、ある種の清廉とした潔さがあった。

 

 

 

 ——絆されてしまった後悔はある。

 

 

 

 白の世界に黒を描けば色が追いついてゆく。

 振り翳した筆の流れに水が埋まり、振り抜いた筆先の輪郭に地が従う。天に垂らした墨は広がり天蓋となる。色付く森羅万象は無限の額縁に飾られている。

 

 風の(そよ)ぎを感じたところで、どこかの扉が開いたような気がした。

 思わず手を止め振り返る。

 もしや鬱陶しいまでに面倒見のいい兄が訪れたのだろうか、それともオペレーターとして駆り出すために誰かが遣わされたのか。

 

 若しくは、彼が来たか。

 

 涼風は止まっていた。どうやら気のせいに過ぎなかったらしい。集中できていないのだろう、彼がそう早くにこの世界を訪れることなどないと分かっているのに、僅かな期待を寄せている。

 面倒くさいやり方を選んだと自覚している。だが、彼はそのようなことを気にするほど大人ではない。受動的と言えば正しいだろうか、彼は与えられた利益や害を勘定し、それ以外の部分はどうでもいいと思っている。

 面倒だと言いつつドクターの秘書として収まっていたのはそのせいだ。今頃どうなっているかは分からないが、ケルシーに引き離されればそれを受容するだろう。

 

 彼の行動原理に最も強く根付いているのは、変わりたくないという考え方なのだろう。変わりたくないから他者の干渉を拒絶していたのが最近までの彼であり、過去を暴かれたことで守るべきものが根幹の部分だけになった。

 

「——だから。——が理由だった。……人を食ったような押し付けは嫌いなのよ」

 

 論理。合理。辻褄。

 一概には正しいのだろうと理解している。ただ、それだけで何もかもが決定付けられるといった考え方は酷く傲慢だろう。

 因果という概念は正しさを証明できない。それ以外の全てを排除するに足るほどの根拠がない。何故ならばそれが一見して自明のことであり、そして大前提であるからだ。それがあると仮定して推し進めた考えがそれを否定するわけもないだろう。

 

 彼の来訪はいつになるだろうか。

 

 天蓋から墨が垂れてくる。虚空にぶつかるような挙動で青雲や大山が描かれた。扉のようなものが現れて、しかしすぐに溶けて消えた。

 筆の運びを誤った。どうせ彼がすぐに訪れることもないだろうから作るのは後でいい。そう思って中空のドアに上塗りを重ねたのだが、少しだけ、思い直して空を仰ぐ。

 

「来るかもしれない、わね。もしかしたら。どうせ来ないでしょうけど、念のために……」

 

 筆を動かす。入口はこんなものでいいだろう。いや、こんなものだからこそいいのだろう。

 いつもより数段豪華な扉から離れ、森の奥へと足を踏み出す。彼が来たならすぐ分かるようになっている。それまでの膨大な時間を八方全てに同じ風景が映る森の中で過ごすのは余りに忍びない。

 

 それに、一度捕まえたならそうそう離すつもりはない。酩酊に似た毒が回っているのなら、良い気分を味わわなければむしろ損だろう。

 

 

 シーは豊かな世界を眺めて深く息をつく。

 墨などよりもっと黒く深い何かがその世界を塗りつぶすまで、あと少しということも知らずに。

 

 

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