【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
春の陽気に包まれていたはずの世界に雪が降っていた。不思議と家屋の中に居ると寒さは感じられず、雪の重量に軋む天井の音さえ聞こえなければ快適な空間だった。
「カミサマが居るのなら、私は嫌いよ」
独り言ではないのだろう。
シーは眠りこける彼に語りかけていた。
「ずっと同じ展開ばかりでとうに飽きたわ。道半ばから引き摺り下ろすしか能がないなら、ニェンに任せた方がまだマシね」
窓の隙間から雪が少し降り込んできた。
それを愛おしげに眺めるシーの瞳は、先ほどまで横たわる彼に向けていたものと変わらない。
床に触れて、消えた。
雪は雪である。しかし雪である前に描かれた絵なのだから、それは画餅に変わらない。絵は見ることでしか味わえない。床板に染みるほどの力は持ち得ない。
彼の生涯もそうなのだろうか。全くの無駄で、無意味で、ただの自己満足に終わる人生なのだろうか。恐らく誰かの記憶に残るだろう、色鮮やかな黒薔薇を咲かせるだろう、そしてそれきり枯れ落ちるのだろうか。
「ねえ、アビス」
シーが手を伸ばす。
そこにいる体へと届きはしても、本当の意味ではその手が何の効力も持たないと知っていながらに、シーは手を伸ばしていた。
「私はきっと……」
「ヘイコミュ障何やってんのー?」
盛大な音を立てて引き戸を開き、そして雰囲気を粉砕するセリフと共にシーの頭を すぱこーん! と叩いた。
「ねえ何やってんのー?」
ライサは笑顔だった。それはそれは非常にかわいらしく引き攣った満面の笑みだった。不思議な力で追い出され、アビスの身を案じて雪山を全力で走り回った執着の到達点だった。
「寒いわよ。戸を閉めてちょうだい」
「はいはいごめんねそれで何やってんのかなって聞いてるんだけどさー!」
ダァン! と大きな音が出る。
シーは呆れ返った顔でライサを宥めた。
「私が何をしていたか、なんて見れば分かるでしょう? ただの看病よ」
「そんなわけないでしょ」
すんとした様子で冷淡に否定した。シーはちょっぴりライサのことが苦手になっていた。分かりやすく真っ直ぐで微笑ましいとさえ思っていたのだが、どうやら敵視した相手には屈折した感情を抱くらしい。
というかこれは屈折でいいのだろうか。捻じ曲がっただけでこんなモンスターが出来上がるのだろうか。精神に何らかの疾患を抱えていそうだ。
「看病だったとして、なに? 人を追い出してまでやりたかった看病ってなに? なんなの? えっちなやつ? 殺すよ?」
「そんなわけないでしょう」
どうやら思春期のようだった。一般論として、原因不明に眠っている相手でそのようなことをするとは考えにくいだろう。
そのような理論を掲げた場合、ライサは普通から多少外れることになるのだが。
「アビスを看病してる自分に酔ってるのを格好つけてるだけならいいんだけどさ、本当にそれだけ?」
「私の否定に意味はあるのかしら?」
「あるよ。私には関係ないけど」
「あなたしか聞いてないんだから結局意味ないじゃないの」
「そうとも言うかも」
「そうとしか言わないわよ」
シーはこのぶっ飛んだ会話のできない存在をどうすればいいのか考えた。色々考えたが対抗策は思いつかなかった。
とは言え、この場において話題は逸れている。問答の意味を問うことで、結局何をしていたのか追求されてなくなっていた。それならば適当に返事をして取り繕えば場は収まるだろう。
「それで、何してたの?」
訂正。逸れていたとしてもレールに戻されてしまえば打つ手ナシだ。余りにも面倒くさい事態に、シーは端整な顔を思いきり顰めた。
差し当たり対応策を決める。
「看病したいなら好きになさい。ただし、部屋の物に触れたら承知しないわよ」
それは席を立つことだった。
「逃げる気?」
勿論それをライサは咎めるだろう。アビスがこうなった第一容疑者である事実は未だ覆らず、剰え二人だけの時間を作っていたのだから問い詰める以外の手はない。
「私をどうしたいのかハッキリさせてちょうだい。アビスから離れさせたいのなら、今のあなたは相当に間抜けな見落としをしているわ」
ライサが言葉に詰まったのを見て、シーはどこからか筆を持ち上げた。
「ここは私の領域よ。好き勝手するのなら、せめてどれだけ絶望的な不利があるのか知ってみてはどうかしら?」
先刻の再現は何度でも起こせる。この世界に居る限りは一部の例外を除いて全てがシーの支配下に置かれている。
だからこそ疑いの目は集中するのだが、意に介さないのなら
「……今、何だかとても不躾な評価をされたような気がするけど。
「へえ、そう。それなら私がお前を斬ったって、この世界が害を与えるから悪いんだって納得するんだよね?」
「あら。元気で微笑ましい鳴き声だけど、もう夜なのよ。吠えるなら外で吠えてちょうだい」
「その壊れた頭、地面に叩きつけたら治る?」
「私にペットを飼う趣味はないのよね」
墨汁の飛沫がシーの頬に飛んだ。
瞬時に展開された分厚い黒の防壁は刃を通したが、鼠色に染まることでそれ以上の破損を避けた。一つ蹴りを入れてその硬さを確認していると、壁から刀身が擦り抜けるように突き出てきた。
どうやらシーの動きを阻害することはないようで、障害物としては実際の壁より使い勝手がいいのだろう。ライサは舌打ちを抑えられなかった。
アーツを用いて石に含まれるであろうアルミニウムだけを引っ張ろうとして、それが無効化されていることに気付いた。石の質感ではあるが、どこまで行っても絵は描かれただけの物だ。
墨液は煤とゼラチンで作られ、ゼラチンを理解していればやりようはあったが、残念ながらライサにそこまでの知識はない。
しかしそれなら別の使い方をするまでだ。
ライサはフィクションに登場する蜘蛛男のような挙動で天井に張り付いた。タンパク質に作用するアーツによりシーの姿勢が崩れて蹈鞴を踏む。
その隙を狙って飛び掛かれば、シーは咄嗟に黒光する壁を作り出した。
黒一色の層に突き立てたナイフ。勢い任せに抉り抜き、再生する隙すら与えずに蹴破った。液体のアーツ等が相手なら切り裂かず切り抜ける選択肢が正解だと、彼は言っていた。
迫り来るシーの剣と打ち合って火花が散った。膂力はそこまででもないようだ。刃毀れが気になるところではあるが、頑丈なロドス製ナイフは恐らく折れることもないだろう。
壁から墨の触手が伸びてくる。
視線を前に向けたままサイドアームを追加して二つの軌跡で斬り落とした。前に飛び込むことで足に巻きつこうとした触手からの回避と攻撃を両立させる。
貫くように突き出した短剣が剣の腹で弾かれた。もう片方は触手の処理に回すため追撃が出来ない。もう一手で首にでも突きつけられたのなら捨て身で振り抜いたのだが、その隙は見つからなかった。
シーの大振りな攻撃を大きく回避する。剣から迸るように飛び散った墨が檻を形作るが、ライサは余裕を持って対処する。積み重ねた経験が第六感となってライサをサポートしていた。
床がグズグズに溶けてライサの足を捕らえようと蠢く。こんなこともあろうかと彼仕込みの立体機動で壁を駆け回った。
ばしゃりと音を立てて壁が液体に変わったものの、ライサは既に壁を強く蹴りつけ、宙へと身を投げ出していた。
ナイフを大きく振り下ろしてシーの剣と鍔迫り合うが、そこでライサはより強く下に押し込み、その反動を利用してシーの頭上を一回転して飛び越えた。
振り向きざまに振るったナイフは剣に受け止められてしまったが、余裕のない防御によりシーの胸元はガラ空きだった。
「はぁっ、はぁっ……クソッ……」
突き立てた部分から黒ずんでいって、最終的にシーの身体は墨となって弾けた。どうやら物の見事に騙されていたらしい。
「これで満足したかしら? 勝ち目なんて万に一つもないのよ」
死角からかけられた声。
冷たい感触が首筋に当たっている。
足元は液状化していたはずの墨が拘束具へと変わり、壁から伸びた鎖はライサのナイフにつながっていた。
「チッ」
手放したナイフが床に沈む。
彼女にとって今の戦闘は命のやり取りではなかったのだろう。最初から勝利を確信していた余裕が感じられた。ライサの癪に触るが、敗者が何を思ったところで意味などない。
「彼に危害は加えないから部屋の外で寝てなさい。明日も明後日も、彼が生きてることを保証するわよ」
「アビスを殺したら、今度こそ必ずお前の息の根を止めてやる」
「殺さないって言ってるじゃない。話を聞かないわね」
「ヘンなことしたらぶっ殺す」
目が据わったライサを無理矢理閉め出した。
ベッドの上で彼は静かな寝息を立てている。
十分気を付けていたしライサが巻き込むこともなかったので、彼の服や顔に墨は飛んでいなかった。小さく息を吐いて安堵する。
子供らしさを残した顔を撫ぜると、首元に源石が露出していることに気がついた。顔を顰め、胸の辺りを指でつつく。
全く何をしているのか。どうしてそう死に急ぐのか。多くの不満がシーの胸中を巡っては消えていった。そんな彼のことが嫌いではなかった。
「ヘンなこと、ね……」
アビスの服を丁寧に脱がしていく。別段そういった趣向はないのだが、引き締まった身体に指を這わせた。筋肉質な胸板をトントンと叩いてはくすりと笑った。特に意味はない。
耳を胸元に当てる。一定のリズムで聞こえる拍動の音は妙に官能的だった。
さて、とシーは筆を手に取った。
「
体の上を筆が踊る。
墨汁が力強く線を描いては、染み込むようにして消えていく。
「……目を覚さないから悪いのよ」
彼が意識を失い、ライサを押さえつけ、この上なく好き勝手に出来る理想的な状況が整っていた。シーの目論見は恐らく成功してしまえるのだろう。
そう分かっていたから、シーはその顔を歪めていた。流麗に筆を走らせるその姿はどこか小さく見えるようだった。
アビスが悪い。
八つ当たりのようにそう愚痴を零して、シーはせっせと腕を動かしていた。これでいいのだと、何度も独り言を呟きながら。
夜明けは遥か遠い出来事のようだった。