【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
冷たい風が吹きつける。
気遣うようにボクの袖を軽く引いた彼女に、ボクも同じようにして大丈夫だと返す。
散乱するゴミ、腐乱する遺体、きっと同じようなものだ。
ボクも彼女も、同じようなもので。
かつて孤児院だったはずの建物に入って、ただ今日と明日を上手く生きるための準備をする。
思い入れがあったはずの物を、生きるためと称して手から離してしまう。愛着が許されるのはどこにでもある物ばかりで、好きになった物は他の人の手に握らせて、代わりに明日には消えている食べ物を買う。
そんな日々はもうずっと前に嫌になっていて、それでもボクは彼女と一緒だから耐えられてきた。ボロボロの建物の中でも安心して眠っていた。
でもそれは間違いだった。
その日の彼女には、もう明日なんて物はなかった。
頬に露出した源石が黒く煌めいて、ボクの目から涙が滴り落ちた。彼女の白い左手からはボクの作った不恰好なブレスレットが外れかけて、それを必死にかけ直そうとして上手くいかない彼女の右手。
光を失った右眼はボクのことを捉えず、掠れる言葉が彼女の残り時間をも伝えてしまう。
消えかかっていた火が、とうとう消えて。
ボクは──。
目を開けた。
隣に座っているのはワルファリンだった。垂れ下がってボクの顔に触れている白い髪が狂おしいほどに記憶と情動を刺激する。
アビスが体を持ち上げて頭を振った。
「む、もう起きたのか。話は聞いておる──お、おい!?何処へ行く!」
「……関係ないでしょう」
アビスの腕を掴んだワルファリンの手が強引に振り解かれる。ワルファリンの頭がついカッとなりそうなくらいにまでヒートアップして、しかしすぐに冷静な思考を取り戻した。
自分がなぜ振り解かれたくらいでここまで怒っているのか分からない。自分のことであるはずなのに、それは何故か。
どうしてだ?
人に殺したいほど怒るなどと──。
「さようなら、また会いましょう。ああ、いや……」
乱暴にドアを開けたアビスは憤激を露わにして吐き捨てた。
「会うことはない。もう、絶対に」
扉が閉められた途端に、ワルファリンの熱が冷めていく。
きっとワルファリンがアーツを知ろうと縋った直後のアビスは、そこまで怒っていなかったのだろう。アビスはアーツが知られたくなかったのではなく、アーツからその先を知られたくなかっただけなのだ。
それは今さっき抱えていた感情が恐らく、
ワルファリンは秘密の一端を、理解した。
廊下に割れた水晶のような物が落ちている。
ロドスで日々向上する技術の粋を集めて作られたサーベイランスマシンは、その着用者の手によって次々と壊されて廊下に落ちていく。
そして次に、やたらと静かなノックの音が通路へと響いた。
激情を押し隠して、アビスは扉の絵画をノックする。柔らかな表情で、吊り上げた口角で、自然な動作でその感情を塗りつぶし、懐に忍ばせた短剣を刺す隙をずっと探している。
そして扉が開いた瞬間に、アビスはその小さな隙間へと指を差し込み勢いよく開いた。
「うわっ!?あ、アビスじゃん……なんかあったか?」
逸る感情を押し殺して、どうにかアビスは笑顔を維持した。
「こんにちは、ラヴァさん。シーさんに用があったのですが、中にはいらっしゃいますか?」
「あー、今はやめといた方がいいと思う。今中で姉妹喧嘩してて……あれ?アビスどこ行った?」
まるでそうあれと作られたかのように緑豊かな森の中、ピリついた空気が支配する。
そしてそれを劈くように二人の怒号が空に轟く。
「つまりそれはただの我儘でしょう!私やアビスにとってあなたの信念なんかこれっぽっちも関係ないのよ!」
「だったらそっちの考えも私には関係ねぇんじゃねぇか!私はそれでいいさ、アビスの意思なんか無視して最良だと思う選択をするんだよ!」
「その最良は誰にとっての最良よ!どこまでいっても勝手な自己満足で、あなたは独善主義の大馬鹿者!」
「だからそれで──ああ?」
怒りが一つ限界を越える。
不自然なほど、突然に。
「ボクには関係ない。ボクと彼女には関係ない」
二言だけ聞こえた冷たいアビスの声色は、しかしその二人以上の昂りを見せているように思えた。
ナイフがニェンに向かって飛んでいく。
「くはっはっはっは!こりゃあ最高じゃねぇか!」
怒気と歓喜を振りまくニェンがナイフを盾で防いだ。続いて撃たれた石の弾丸が大盾を軋ませる。
「傑作だよ、なぁ、シー!」
「きゃあっ!」
翳した画材が石の弾に触れて弾き飛ばされ、シーは尻餅をついた。何故シーまで狙われたのか分からずニェンが前を向けば、木々の隙間からアビスが姿を現した。
「……んー、わっかんねぇなぁ。どうしてお前はシーを狙ったんだ?」
アビスが尻尾を振って、石を飛ばす。
盾でそれらを弾いたニェンの視界からアビスは既に消えていて、顔を振ると──シーの前で短剣を振りかぶるアビスの姿を見つけた。
「知ってたんだね」
「へえ、バレちゃったの?」
先とは打って変わった様子で、シーは薄く笑ってアビスを見上げた。余裕さえあるように見える笑みで、アビスの怒りを真正面から見据える。
「どうして、こうなったのかしらね」
寸分違わずシーの首へと振られた短剣が、寸前で現れた盾に阻まれる。ニェンが大盾を消して、シーの首元へと手を翳していた。
アビスがニェンを睨みながら向き直れば、ニェンは大剣を構えた。
「知ってるだけの、子供か」
「言ってくれんじゃねぇかよ……ッ!」
振られた大剣を一歩ずつ確実に回避する。四回ほど振られたタイミングでアビスはその柄を握る腕に尻尾を絡ませることに成功し、ニェンの体を巻き取って浮かばせる。
「がぐぁっ!」
地面に打ち付けられた振動が伝わり、ニェンの肺から空気が押し出される。振り上げられた短剣の輝きを視認し、間一髪で転がって逃れた。
大地に突き刺した短剣を即座に引き抜きつつアビスは追撃の石を飛ばす。立ち上がったニェンが容赦のない攻撃を盾で防ぐが、一つだけ零して左足へと一撃もらう。
「て、めぇ……」
「口を閉じて欲しいな、ボクは秘密主義なんだ」
アビスの尻尾が盾と衝突して大きな音を立てる。蹴り飛ばし、更には固めた拳で盾を陥没させる。僅かにできた隙を精密に突いて、しかし荒々しく短剣がニェンの肩を掠めた。
傷を負い距離を取りつつ盾を構えたニェンは、今度こそ一分の隙もない防御を貫徹する。
アビスは構えを変えると、攻撃を上に集中させ、出来上がった視界外から尻尾で掻き集めていた土を降らせて、注意が向いた瞬間にその大盾の縁を両手で掴み、地面へと勢いよく突き刺した。
足でその盾を踏めば更に地面へとめり込んで、その盾の上に立ったアビスへと剣が振られた。小さく跳んで回避し、嘲笑うようにまた盾の上に着地する。
ニェンが返す刀でアビスを捉えようとするが、今度はもっと大きく跳んで、ついでのようにニェンの背を蹴って地に手をつき、まるでガヴィルを相手取った時のサリアの動きを模したように跳ねてアビスは両の足で着地した。
振り返りつつ大剣を振ろうとしたニェンだが、その足にいつのまにか巻き付いていた尻尾に引っ張られて大きく姿勢を崩す。
大した速度もなく振られた大剣は横に流し、倒れ込むニェンの首筋に今度こそ短剣を振った。
ガッ、と音を立てて、短剣の鋒は地面を突いていた。
見れば、半ばほどから短剣は曲がっている。
いつ曲がったのかは分からないが、そうであるならば殴って殺すしかない──という思考は、アビスが横合いから蹴り飛ばされることで吹き飛んだ。
「よ、よくやった!」
「黙っていろ」
「うわ、マジかよ」
ワルファリン、サリア、ラヴァが森の中から次々と出てきた。大方、ワルファリンがサリアに状況を説明し、都合よくラヴァの耳へとそれが入ったのだろう。
アビスにサリアを倒す技量はない。自分の戦い方を知らなかったニェンにはどうにか優位を保っていたが、それでも殺すことはできなかった。
歯軋りをしたアビスから、怒りがアーツを介して周囲へと飛ぶ。
カルシウムを含有して作られていたロドス特製のナイフが形を更に崩し、その下手人であるサリアはアビスをずっと警戒するように見つめている。
「今は逃げるしか、ないか」
「させないわよ?」
アビスをいつのまにか取り囲んだ小自在が爪を光らせて威嚇する。振り向けばシーが未だ地面に座りながら、しかし抜いた剣を構えてアビスと目を合わせた。
時間が経ってより厄介になるのはニェンよりシー。それを分かっていなかったアビスには当然の結果だった。
アビスの手から短剣が落ちて、ニェンの頭の中で何度もかき乱すように渦を巻いた怒りが抜け落ちた。戦闘の最中もアーツのオンオフが切り替わって煩わしかったため、それもアビスの勝因の一つと言えるだろう。
「あーあ、いいとこだったのによ」
「ふっ、負け犬の遠吠えとかいうヤツか」
「お前もサリア呼んだだけじゃねぇか!はー、ったくよ、人が折角刃を通じて気持ちを通い合わせてたっつーのに」
「もう少しで喉を切られていなかったか?」
「うっせぇんだよお前ら!バーカバーカ!」
助けられて照れているニェンの文句は終わり、五人もの視線がアビスに集中する。その中でも事情を知らないラヴァが問いかける。
「どうしてこんなことしてんだ?お前シーとは仲良かったろ?」
「そうでもないわ」
「聞いてねぇよ」
恐らく、とワルファリンが口を開いた。
「アビスには秘密があるのだろう」
「その秘密が、アーツのことじゃないのか?」
「いいや、アーツについてのことはそれより先へ進ませないためのものだ。そしてその先にあった事実も、恐らくはまだ本当に隠したい秘密ではない」
「その先にあった事実って、なんだよ」
「アビスがアーツにして放てる感情は、アビスがその時感じている感情に限られる、ということだ」
そして、問題なのは──。
ぴんと指を立てる。
「アビスがアーツを用いて相手を恐慌状態にすることが得意だということ」
「それは──!」
シーとニェンがアビスの方を見つめ、ラヴァは未だに納得のいかない顔をして、しかしすぐに理解して目を見開く。
「それって、アーツを使うときにアビスは錯乱するくらいの恐怖を感じてるってことか?」
「そうなる。もし自身が感じている感情を増幅させられたりするのであれば話は別であるのだが……」
「ねぇな」
ワルファリンの懸念をニェンが斬って捨てる。
「そんなことができたなら、私やシーの頭はもっと怒りに染まってた。ロドス・アイランドを切り捨てるだけの怒りを増幅させてアレなら、どう考えても増加効率が小さいか──」
「ロドスのことが元来好きではなかったか」
「ってな訳だ」
「その可能性はないって言い切れんのか?」
「では好きでもない企業の任務で鉱石病を何パーセントも進ませる者が居るか?いや、居らんだろう」
答えに窮したラヴァの代わりにサリアが口を開く。
「現在辞めようとしているこの時にそれは弱いだろう。ニェンとシーを狙うほど譲れない何かがあったとするならば、ロドスへどれだけ思い入れがあったとしても無意味だ」
ここで、ラヴァ、サリア、ニェン、ワルファリンについて簡単に説明しよう。ラヴァから順に、努力家、研究者、技術者、研究者だ。
ラヴァはアーツ学について強い興味を示し、ロドス直々に特別扱いを受けてアーツを勉強している。クールぶっている部分はあるが、その実、理論派の実力者であるのだ。
サリアは元ライン生命警備課主任のオペレーターであり、サイレンスと共にとあるプロジェクトに参加したことがある。自身のカルシウムに関するアーツの素養を突出した知識で使いこなし、それを以て強靭な防御と強烈な攻撃を可能としているのだ。
「おいおい、そりゃマジで言ってるのか?本心から?心の底からか?冗談キツいぜサリアよぉ」
「妾からも言わせてもらおう。もしロドスのことが気に入ってなかったのであれば、先の騒動の時点でアビスはオペレーターを辞めておる。譲れない何かとロドスへの好感情が鬩ぎ合った結果、アビスはここに居たのだ」
ニェンは一分野に秀でた専門家だ。金属の加工というサリアのアーツに近しいものでありながら性格はサリアの正反対であるのだが、それはまた置いておくとしよう。何はともあれ彼女の情熱、技術は本物だ。
ワルファリンはやはり、なんというか、サルカズの研究者だ。ほんの少しくらいの箍なら外れてもいいだろうといういい加減さの下、研究にのめり込みすぎてしまう模範的に問題のある研究者と言えるだろう。
さて、ここでアビスに焦点を当ててみよう。彼は現在ロドスの廊下を、ドクターの執務室に向かって足速に歩いていた。
「まあ、全部アビスに聞けば分かる……」
「話は終わったのかしら?」
シーが剣を抜いた。
「じゃあ、時間を稼がせてもらうわね」
いつのまにか議論にのめり込みアビスを放置していた四人へと、小自在が爪を光らせた。
そこにアビスの姿はなく、舌を動かしていた隙を使って壁を作るように小自在が配置されていた。
「さあ、どうぞアビスの下へお行きなさい」
言葉とは反対に、シーは威圧する。
「行けるものなら、押し通るがいいわ」