【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
十四 『彼女への想い』
通路から話し声が聞こえる。
決して怒号の類ではなく、むしろ楽し気な声だ。
アビスがよく笑うようになって、もう幾らか経つ。
残り少ない人生を意味の無い放浪などに費やすこともなく、アビスは今まで通りロドスに骨を埋めるつもりで働いていた。
さて、現在の時刻は正に食事時──ではないが、アビスのいつも昼食を済ませる時間帯に差し掛かり、通路から声が聞こえ始めたのもすぐ先程のことだった。
「随分固いね、これ。味は薄味だけどまあまあイケる、かな?」
「病人食みたいなものですから、味が薄いのは仕方ないですよ」
今日一緒に食事をしているのはエイプリルだった。シーの描く絵を観察しながら、アビスから一枚もらったビスケットを齧っている。
「アビス様、胃に何か異常はありませんか?」
「ないよ、心配しなくてもいいって」
ちなみに
クロージャの計らいでLancet-2はアビスの部屋を拠点として確保することになり、つい先日ガヴィルに伴って謝罪に来たユーネクテスにアビスは少しだけ睨まれた。
そのガヴィルのことだが、あの言葉があくまでポーズであったことは分かっているためすぐに許したが、実際のところ彼女との過去を人に打ち明ける切っ掛けとしてガヴィルは動いてくれたのだ。むしろ礼を言うべきなのだ。
そう思ってアビスはガヴィルの関節を決めた。ユーネクテスをLancet-2に任せることで
先日の様子をアビスが脳内にて思い出していると、エイプリルがシーから目線を移し、アビスに問いかけた。
「ねえ、いつ聞こうか迷ってたんだけど、アビスとシーさんってどんな関係?」
「ただの同僚ですが……何か?」
「でもアビスは態々ここでご飯を食べてる。切っ掛けとか、そういうのはないの?」
「切っ掛け、ですか」
アビスが頭の中を巡らせる。
一巡した。
「ないですね」
「えぇ、本当に?」
「ある日突然扉が描かれていて、ある日突然絵のはずだった扉が開いて、それから特には」
「最初に顔を合わせた時はどうしたの」
「覚えていません」
シーの方を見る。
「そうね、私が初めてアビスを見た時はこんな感じだったかしら。『ふっ、ボクのアーツに這いつくばって怯えるが──』」
「お願いですからやめてください」
「そういう訳だから話せないわ。ごめんなさいね」
まさかアビスにもそんな時期があったとは。
エイプリルはそんな驚きを湛えてアビスを見る。ジョークでもなんでもない真っ黒な歴史をバラされたアビスは照れた様子で笑っていた。
そういえば、この二人はいつの間にか力関係の天秤が傾き始めている。そうエイプリルは思った。何故だろうかと
アビスはシーさんを殺そうとして、妨害したシーさんのお姉さんを殺そうとして、アビスが負けそうになったところをシーさんが助けて──
「もっと恥ずかしがるべき出来事あるでしょ」
「それは言って欲しくありませんでした」
途端に二人の顔が表情を失った。スン、という擬音が似合いそうな静まり返りっぷりだった。
一瞬の間を置いて、三人の笑い声が通路に響いた。もっとも、アビスだけは「笑えませんが」とでも言いたそうな不満気な顔をして、抑揚のない笑い声を発していたが。
エイプリルは少しだけ安心した。
数日前にアビスの過去を聞いた時、エイプリルは何と言えばいいのか分からなかった。それはアビスの過去がエイプリルにとってそれほどまでに重かったから、という理由だけではない。
消えてしまいそうだった。繊細なものの喩えによくガラス細工が使われるが、それでさえ一定の硬度を持っている。
アビスにはそれさえなかった。手を出してしまいたくなるほどにアンバランスで、しかし手を出してしまえば割れた破片がきっとその手に傷をつける。見ないフリをすればそれが割れるのは確実で、対処のしようがない。
今思い出すと、アビスは悪性腫瘍のように厄介だった。
そんなことを頭の中で呟いて、エイプリルはくすりと笑った。『悪性腫瘍』が一層強く不満を露わにして、慌てて弁解する。
それにも一頻り笑ったシーは、目を画材の方へ向けた。そしてその顔は先とは打って変わって真剣だった。
エイプリルは先程頭に浮かべた内容を思い返してアビスを睨むと、とても申し訳なさそうな顔でシーを見ていた。
結果示し合わせることなく二人は頷き、通路から逃げて行く。
「……別に私は気にしないのに」
二人が居なくなってすぐ、シーは扉の中に引きこもった。
シーやLancet-2と別れて、アビスとエイプリルはロドスの通路を目的無く歩き出した。アビスに課されているのは一日数時間で終わるアーツの実験や鉱石病についてのレポートと、自由時間が多く確保できる任務だ。
一方、エイプリルの予定はかなりの部分が埋まっている。それは狙撃の練習に費やすための予約を取ったからであり、エイプリルの事情を汲んで融通を効かせたケルシーの成果である。
エイプリルはそのスケジュールを後悔していないが、他に時間があまり取れないのは少しだけ悩みどころだ。
「ボクもエイプリルさんのように鍛錬に時間を割きたいのですが、如何せん鉱石病のせいでケルシー先生からストップが入りまして……」
「あはは、あんまり無理しないでね」
アビスの体を蝕む鉱石病は未だ猛威を奮っている。
アビスの源石融合率はロドスの中でも高い順位に位置していて、更に病状が一番進行してしまいやすい患者である。ケルシーが止めるのは極めて常識的だし、もしアビスの発言が本音なのであればかなり頭がおかしい。
そしてアビスは本気である。頭がおかしい。
「そもそも、アビスって訓練する意味あるの?」
エイプリルの口を衝いて出た質問は、中々どうして真っ当な疑問だった。
アビスの扱うアーツは電気信号。感情を表す不可視のコードを大気中に発信して、伝ったそれを受信してしまった相手はその感情によって心を揺さぶられる。そんな代物だ。
アーツの難易度としてはほぼ不可能に近いが、アビスはその類稀な素質と、発信するコードを自分の神経を巡っているものから──つまり、自分のその時持っていた感情に限定することで実現可能な技術にまで落とし込んでいる。
とはいえそれには反動も着いて回るが……それはアビスが耐えられればそれでいい話だ。
「訓練する意味はありますよ」
「たとえば?」
「例えば、ボクはエイプリルさんのような狙撃手に滅法弱いです。術師オペレーターや、そしてマドロックさんのように全身を装備で覆われてしまったら、どうすることもできません」
「んー、マドロックさんを引き合いに出すとほとんどのオペレーターさんが負けちゃうと思うけど」
脳内で、あのくぐもった声が再生される。艦内では鎧を脱ぐことになっているそうだが、未だその中身であるとされる人を見たことはない。
エイプリルは白い髪色をしたサルカズの女性と何やら関係があると思っているのだが、果たして本当にそうなのだろうか。真相は藪の中だ。いや、ワルファリンと違って聞き込みなぞしていないが。
「それに、ボクのアーツが効かない相手も居ますから」
「そんな人が居たの!?」
「ああ、今はロドスのオペレーターですね」
「嘘でしょ!? ──って、あぁ、もしかしてあの人?」
「そうですね、名前は言いませんが銃を持ったサルカズの女性……」
「そうねぇ、あたしのことかしら」
アビスの足が止まる。
気付けばエイプリルは少し後ろに止まっていて、更にその視線の向こうには件の人物がヒラヒラと手を振りながらアビスの方へと歩いていた。
苦虫を噛み潰したような顔をWに向ける。
「久しぶり、W」
「えぇ、本当に久しぶりね。チェルノボーグ以来よ。おかしいわねぇ、その間にはたくさん機会があったはずなのに、あたしとあなたは久しぶり……どうしてかしら?」
「ど、どうしてだろうね……?」
「それに最近起こった騒動だって、あたしは任務で仲間はずれ……あはっ、あははははっ!」
「あはは……」
乾いた笑いが通路に広がる。Wから刺すような視線が感じられるが、アビスはどこまでも視線と白を切り続ける。
二人の関係がまた自分にはよく分からないものであり、それについてエイプリルは問おうとするが──時計を見れば、狙撃訓練の時間まであと少しだった。
「あっ、もう時間だ。私はもう行くから、じゃあねアビス!」
「えっ」
エイプリルが駆け出していった。
ゾクッと背筋が凍える。
「さぁて」
肩に置かれた手に、脳が危険であると警告を発した。
「どうやらアビス、あなたってあたしよりも嫌われてるようね」
仕切り直して、Wが薄笑いを浮かべる。
「ついてきなさい、外に悲鳴が漏れない部屋でたっぷりとお話をしなきゃいけないわ」
アビスが苦虫を噛み潰したような顔になり、一瞬だけ震え出した体を自分の感情で押し潰した。アーツの応用だろうか、Wに対しての微かな苛立ちを増幅させ、激昂にまで持っていく。
噛み潰していた苦虫を飲み込んで、アビスはその怒りを顔と態度で表現した。
「前も言ったけど。ボクは知らなかっただけであって、それを謝罪することはあっても罰される謂れはないよ」
これ以上掘り返すなと遠回しに言い、早々にWから離れていくアビス。こんな時に限って人通りが全く無く、人の気配すらも感じられない。
アビスの歩調は乱れず、しかして追いつこうとする誰かの足音が耳朶に響く。
──チャキ、と音がした。
アビスが振り返ろうとした瞬間、冷たい金属の感触が後頭部にあるのを感じた。次いで、源石灯の光を反射する白刃が視界の隅に見えた。
アビスは何も言わず両手を上に挙げる。
「自分のしたこと、分かってるの?」
先程までのような軽い発言でないことは、Wの発している全てから感じ取れる。刺すような視線はいつのまにか重量感の錯覚を伴って殺意に変貌し、そしてそれを突きつける銃口と刃が証明している。
銃を使うことはないだろう。こんな室内で使えば銃声がWを襲い、アビスを殺した後に逃げることが不可能となる。
だがナイフは最悪だ。銃を突きつけたのは一瞬でもいいから思考の隙を作るためであり、ナイフこそがアビスを脅す本命の凶刃。
冷静なアビスの思考を嘲笑うかのように、状況はアビスにとって最悪の様相を呈していた。
「ねぇ、これは脅しじゃいけないのよ」
サプレッサーのついていないバレルがアビスを小突く。
「脅されたからそうしたんじゃなく、あんたから進んでそうしなきゃいけないことなの」
ナイフがアビスを薄皮一枚だけ切り裂く。
「それを、何?」
怒りがとうとう露骨なものになる。銃が何度もアビスの頭を突き、ナイフを握る手に力が──
頭が急速に冷えていく。
「あんた、また使いやがったわね!?……チッ、もういいわ。あたしがまずやるべきことはそれじゃないもの」
アビスのアーツは反則的だ。アビスが自分を落ち着かせることさえできれば、そしてそのコードのみをアーツとして取り出すことが出来れば、相手を強制的に落ち着かせることができる。
それが幾ら相手の神経を逆立てようが、継続してしまえばすぐに落ち着く。アーツユニットなしで行使したためにまたケルシーから何か言われるだろうが……
「第三訓練室の鍵をパクって来たわ。あんたが戻しときなさいよ?」
ケルシーから割と怒られるだろうが、アビスはもう諦めた。
アビス自身でも、Wに共感する気持ちがないという訳でもないのだ。例え敵対していたとしても越えてはいけない一線というものが存在するし、それを無遠慮に踏み越えられればアビスは容赦なく殺意を向ける。
クルビアのスラムで徒党を組んでいた男たちが良い例だ。アビスでもWでも、同じようなことをされればぶっ殺したくなるのが人の性というものなのだから。だからWの言を否定はしない。
しかし、それが人に理解されることが難しいということもしばしば存在する。それは彼女というただの過去に縋り、何年も一緒に活動していた相手へと殺意を向けたアビスにはよく分かっていることだろう。
他者の理解を求めるなら、まずは他者の無理解を受け入れなければならない。そこがWには欠落しているのだと、アビスは思う。
「結局、どうするつもりなんだ」
「んー、そうねぇ……」
Wが訓練室のドアを開けてアビスを蹴り入れる。
後ろ手に閉められたドアから施錠音が響き、真っ暗な訓練室の中でどうにかアビスは立ち上がった。
灯りが点いた。
広い訓練室の真ん中の灯りのみが部屋の中を照らし、扉の側にいるアビスの近くはまだ暗い。
その中心部にサルカズが二つ椅子を置いた。
向かい合わせにして、そのまま腰掛ける。
「まずは思い出話でもどう?あんたが何をしたか、どう思っていたか、あたしにはまだまだ分からないことばっかりなのよ」
まあ、でも──と、Wが続ける。
「それを聞いたとして、許すとは思わないことね」