【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
分からない人は『ケオベの茸狩迷界 コータスの少女』で調べよう。
アビスの話が一区切りついたところで、Wは心の底から鬱陶しそうな顔をして立ち上がった。幽鬼のような足取りで、ストレスを積み上げ続ける扉の方へと近寄っていく。
「W、それは止めた方がいい」
「うるさい」
端的に、アビスへの暴言とも理由を告げただけとも取れる一言を発して扉に手を伸ばした。電子ロックが快音と共に解錠され、Wは徐に扉を開く。
そして外側からも扉に力がかかり──チェーンロックがそれを数センチに留めた。Wは心底鬱陶しそうな顔をして、ドアの外に居るコータスを見下ろす。
「アビス、こんな所に一人でどうしたの?」
「Wも居るから、二人だよ」
「そうなの?ごめんごめん」
扉を開けて確かに見下ろしているW。それが見えていないのかのように振る舞うライサを見て──実際にはWに隠れて見えないのだが──アビスは肩を震わせた。
「あと、話さなくちゃいけないよね。ロドスを
アビスはそっぽを向いた。特に意味はない。アビスの心の中で
Wは扉を閉めようとした。一度でも話せばしばらくは静かになるだろうと思ったからだろう。いくらライサとアビスの仲が親密であろうと勝手にWの尋問に割り込むことを許される訳ではない。
プライベートな付き合い、とは間違っても言いたくない関係だが、しかし確かにアビスとWはそのようなものだ。
「なんで閉めようとしてんの?」
だがそんな理論はライサの中に存在しなかった。
閉められかけた扉の隙間にライサの持っていた黒い鞘を差し込み、Wの力に軋んだ。無理に閉められそうになる中、ライサの持っていた抜き身の短剣が縦に一閃され、チェーンロックを形作る輪の一つが両断された。
Wは飛び退って銃を構える。ロドスの設備をまさか壊すなどとは考えない、そんな甘い考えこそが自分を今焦らせているのだと自戒するように顔を歪める。
ライサが短剣を鞘に番えて差し込もうとすると、歪に軋んだ鞘が刃の侵入を拒んだ。無表情でそれを何度か試した後、ライサは鞘を丁寧にジャケットの裏へと仕舞った。
「で、
ドアを押し開けてライサが部屋の中に侵入する。真剣をWに突きつけて険しい目を──ライサの目が見開かれた。
「
Wの言葉にも反応せず、ライサはアビスの方を見ている。表情の抜け落ちていた顔はいつのまにか欠落と激情が入り混じる混濁を露わにして、覚束ない足取りでアビスに近寄っていく。
アビスがライサの視線の先を見ると、そこには赤黒く染まった自分の左肩があった。
「なに、そのケガ」
「ちょっと銃で撃たれちゃって」
Wの方へと振り返り、感情の表し方を忘れてしまったかのような顔のライサが足を踏み出して──背後に傾いた。アビスの手がライサの腕を掴んで引っ張り、平均的な身長のライサは体勢を崩してアビスに寄りかかったのだった。
何か奇妙なものを見る目でライサは掴まれている自分の腕を凝視し、状況を理解した瞬間、大きく震えて動かなくなった。
「ラーヤ、落ち着いて」
アビスの手がライサの肩を撫で、強張っていたライサの体から力が抜けていく。Wが先程とは一転、ニヤニヤと趣味の悪い笑みで推移を見守っていた。
「大丈夫。ボクが守ってるから、大丈夫」
自分を守ってくれる何かの存在は得てして平常心を齎してくれるものだ。アビスはそれを知っていて、それの効果もまた知っていて、チェルノボーグでの時と同じようにライサの感情を均そうとした。
しかし、現実は普通、想像とは全く違う。期待していたものと正反対の結果になることも、このテラの大地では往々にしてあることだった。
「いや落ち着けるかぁ──ッ!」
「いっ、たいなぁ!?」
ライサの頭が上を向いて、アビスの顎にクリーンヒットした。湯気を出せそうなほど熱を発している自分の顔を冷まそうと手を
心臓は全力で走った後よりも強く速く打たれ、早鐘という言葉がぴたりと当てはまる。
胸に手をやったとして落ち着く訳がないと分かっているし、何よりそうしている自分を見られたら流石のアビスも気付くだろう。と、ライサは求められている以上の業務をする自分の体を恨んだ。
未だ鳴り響く拍動に聞こえないフリをして、自分の既に八割ほど満たされてしまった分かりやすい心を怒りでなんとか上書きしようとする。
「バカじゃないの!?顔近いし声近くてやばいし掴んでる手がガッシリしてた!あとイケメンムーブすんな!もう間に合ってるっていうかむしろ私が間に合ってないから!」
「何の話を……!?」
上書きには失敗した。後にはWのニヤニヤ笑いだけが残るのみだった。顔には湯気が出そうなほどの熱気に加えて火が出そうなほどの羞恥という、ライサからしてみれば地獄のような状況だった。
「とにかく、止めて!」
それは本心からの言葉だった。本当にライサは止めてほしいと思っていた。ただ、それは自分の処理能力が追いつかないから適度な塩梅にしてほしいという、肯定のニュアンスを大いに含むものだったが。
「わかった、分かったから落ち着いて」
「分かってない!」
曖昧に頷くアビスが結構強めに殴られた。殴られた頬に手をやり、途方もなく大きな困惑を抱えながら、アビスはライサと目を合わせる。ぷいっ、と顔を逸らされてより一層理解ができない。
「アビスは、アビスは絶対分かってないから!」
「なんて答えればいいんだよ!」
「アハハハハ!あんたたちバカみたい!」
「うるさい負け犬!」
「あんたはタコじゃない!アハハハハハッ!」
騒々しく、しかしそれ以上に和やかになった部屋の中で、三人分の声が響いていた。
悪意に塗れた笑い声は殺意を持たず、困惑の声は距離の近いままで、愧死するかのような声は学業に励む子供のように噛み付いていた。
そのどれもが、きっと長くは続かない。
押し潰すように広がった暗雲はまるで人工的に生み出されているかのような紋様を空に描く。住宅街を抜けたアビスとライサはそんな雲の下、建物の裏、影の中を息すら殺して駆けていた。
「右一人、前二人」
「了解」
アビスが路地裏を一人で歩いていた兵士の前を通り抜け、その際に頭を引っ掴んで走っている勢いのまま壁に叩きつける。支える力を失った体が地面に倒れ伏すと同時に、路地で話をしていた二人の兵士も汚い地面に寝かせられていた。
アビスが前を駆け敵を排除し、ライサが追いながら耳を使って敵との接近を察知する。
格闘術ではサリア直伝の筋力と技術のゴリ押しを学んでいるため、不意をついた場合のアビスは雑兵ならほぼ間違いなく一撃で相手を沈めることができた。
「ラーヤ、無理しないように」
「分かってる、でも大丈夫。悲鳴や泣き声を聞いてるよりはずっと楽だから。前一人」
「……分かった。ロドスと合流すれば、きっとこんなことをする必要もなくなるから」
尻尾を足に絡みつかせて相手の体を浮かし、満足に防御できない姿勢にして腹部へと拳を突き刺した。まるで普通の食事ができない恨みを乗せたかのように凶悪な胃への襲撃だった。
走りは止めず、横を通り抜けた先で尻尾を振るい、側頭部に重量をぶつける。気絶した兵士を踏みつけたコータスの少女が浮かべる表情は、そのアビスの強さにツッコミを入れることを諦めたようだった。
アビスという存在は、自分の中で力関係の最上位に位置していたテロリストへと土をつけた。そしてそれが語る、アビスの完敗し続けているサリアという女性の話や、化け物を操る研究者の話、描いた絵を実現させる超常の力を持った自由人の話はもはや眉唾物だった。
最後の話こそコメディめいたものだったが、前の二つはライサの張り詰めた雰囲気を解す作用を持っているとは言えない話だった。
それが虚実であることのメリットは皆無に等しい。つまりはそういうことで、テロリズムによる破壊が自分の常識をひっくり返し、気晴らしに聞いたアビスの話はひっくり返された常識の裏側を覗いているような思いを抱かせる。
──────。
「……この音は、何?花火?」
突如捉えた異音。何かが打ち上がるような、夏季に開催される祭りでしか聞いたことのないような音がコータスの耳に入ってきた。
「花火──信号弾!?ラーヤ、ここに残っていて!」
「何を、って、はあ!?」
ライサが空を見上げる。路地の天井を暗い色彩で塗り潰す空の景色には黒い不純物が混じっていて、それは建物を身一つで登っていったアビスの影だった。
「あれより強いとか、サリアさんは絶対何かとんでもなく大きな短所を持ってるはず」
正解だった。そして何なら、アビスもそうだった。
花火が弾けた音を聞いてすぐ、三階か四階建ての屋上からアビスが飛び降りて、ライサの前に着地した。
もう何も言うまい、と死んだ目をしたライサの隙をついて、アビスはライサを抱えた。
「えっ、何これ」
お姫様抱っこの体勢になったライサが至極真っ当な質問をアビスに投げかける。まだそこまで長い付き合いではないが、アビスがこんなことをする人間だとは思っていなかったからだ。
事実アビスはそんなことをする人間ではない。協力することになったオペレーターとは距離を取り、関わらざるを得ない人とも一定以上は踏み込まない、それがスタンスだ。
しかし今の場合はそれが必要であり、尚且つライサ自身が
「ごめん。かなり揺れる」
「えっ」
体にグン、と負荷がかかり、それに対抗するようにアビスの腕がよりしっかりとライサを抱えた。
アビスの跳んだ衝撃で、室外機が二階の壁から落ちていった。そしてその音が響く頃にはアビスは三階の小さな窓枠を同じようにして歪めていた。
屋上へ着いたのは抱えられてから数秒のことだったが、ライサは創作物のゾンビが如くフラフラだった。それを分かって、アビスはライサをしばらく抱えていたが、明瞭な意識を取り戻したライサがアビスを非難して、致し方なしといった表情でライサを下ろした。
アビスは奇行に出たが、何もデリカシーがない訳ではない。ライサにかなり怒られる可能性も考慮して今の行動に臨んだのだ。ところでアビスは確信犯という言葉を知っているだろうか。
「あの色のついた煙、見える?」
「見えるけど、あれがロドスって組織の?」
「恐らくは。よし、直線的に行こう。それがたぶん一番分かりやすい」
「えっ、いや」
「合流さえすれば──ん?でもあの色って危険な時のこと?うわあ、他のオペレーターと行動するの久しぶりすぎて信号弾の意味とか覚えてないよ」
「ちょっと、待って」
「とにかく、よし」
アビスがライサに振り向いた。
「行こう!」
「ちょっと待てって言ってるでしょうが!!」
ライサの痛烈な回し蹴りによって、アビスは声も出ないほどの驚きと共に屋根から落ちていった。
つまり、とライサは締めくくる。
「屋根を跳び回るなんて私にはできないの!抱えても怖い!別の方法!分かった!?」
「うん、考慮してなかった。ごめん」
アビスは散々ロドスのオペレーターである自負を持って兵士を倒していながらに、ロドスに所属していないライサに普通以上の能力を求めてしまっていた。身体能力もそうだが、普通異性に触れられるということは拒絶して然るべきなのだ。たとえば意味のないハイタッチとか。
人をレッテルで見ないことは美徳と言えるが、それを判断材料に入れないのはただの考え無しだ。
「じゃあどうしようか。大通りを何度か横切ることになるから、無理矢理突破は流石に絶望的だ」
「うっ、それは……」
「えっ?ああいや、ごめん、責めた訳じゃなくて」
……ん?そもそも大通りを飛び越えるつもりだったのか?
考え込むアビスを見ながら、ライサはそんなことを考えた。大通りを飛び越えるなんて馬鹿げた真似は、如何に手を使わず十数メートルの建物を登ったアビスでも、いや出来そうだなどうしよう。
ロドスの規格外さは思考能力のぶっ飛び具合でも群を抜いているのかもしれない。然しものテロリストも、屋根に登ったり跳んだりしている輩は居ないはずだ。
──居ない、よね?
ライサの表情に焦りが見えた。テロリストは確か、感染者を迫害するチェルノボーグに怒って奮起したはずだ。今だってそんな風の叫びが悲鳴と共に小さく聞こえてくる。
こんな行動を起こしたのは許せないし罰を受けてほしいとは考えているが、その主張に対して僅かな理解くらいはしてもいる。もし自分が感染者になったらどうなるのか、ライサはそれを考えたことのない愚かな民では無かった。
そう、少なくとも論理は通っている。イカれた集団がピエロマスクを被ってテロリズムを起こしたのではなく、確かに血の通った感染者たちが自分の身を守り、失われた仲間の命を弔うために武器を取ったのだから。
そんな者たちが、屋根の上を飛び跳ねるだと?とうとう巻き起こった改革に酔うことなく、復讐心に身を委ねることもなく、屋根の上を?
だが活動の一環である爆破などの破壊によって瓦礫と化した家々が道を塞ぐこともあり得ないことではない。瓦礫の山を越えるのは危険であるし、避けて通りにくい道も街には幾つかある。
屋根の上を通るという行動は、テロリストとの戦闘を避ける上で理に適っている。そしてそれはテロリストからしても、ある程度の理は存在しているのでは?そもそもテロリストとの接触を避けようとする人を狙うにはそれしかないのでは?
ライサの頭が、屋根の上での戦闘を可能性として捉える方向へとシフトチェンジした。ぶっ飛んだアビスの思考が少しずつトレースできているという信じたくない事実に、ライサはまだ気付いていない。
ちなみにアビスは考えながら「ドローン」だとか「空挺兵」だとか溢しているが、ライサは気づいていない。
先程信号弾の方向を見た限りでは居なかった、と思う。だがもしかすると居るのかもしれない。ライサはざっと見ただけの景色に隅々まで注意を飛ばすことはできないが、もし屋根に登っているテロリストが見えたなら、流石にそれを一番先に見つけているだろうが。
いよいよライサの頭は変な方向に凝り固まり始めた。屋根に登っているテロリストというワードに全く抵抗のない辺り本当に重症だった。
今、見てしまえば全て分かる。少なくとも自分の周りのテロリストが屋根を利用しているのか把握できる。それはこれからの行動において利益となるはずだ。
ライサの頭はおかしくなった。屋根を利用など滅多に聞かない。テロリズムの現場に屋根を利用するテロリストが現れた時点でそれは夢だと分かるだろう。馬鹿なのか。
少し怖いが、見るしかない。もしかしたら既にアビスが確認しているかもしれないが、コータスの自分が意識して屋根の上を警戒することにも意味はあるだろう。
ライサは馬鹿だ。そういうことだった。
「見つけた!」
捉えた。屋根の上を、自分たちの方向に駆けてくる何かを、ライサは自身の両目と両耳で理解した。
嘘だろ。
「アビス!誰かがこっちに来る!」
「……えっ、マジだ。嘘でしょ」
アビスは何故だか理解に少しの時間をかけたが、結果的に視認できたのだから問題はない。
何をするために接近してくるのか、アビスは冷静に考えた。ライサを後ろに下がらせて、アビスはそれが何なのか推察しようとした。
銃声。聞こえる頃には、アビスの体は射線から外れていた。半ば反射的に動いた超速のそれであっても、銃弾はアビスの鼻先数センチ先を飛んでいく。
銃への知識が少ないらしきライサは何が起きたかイマイチ理解できていなかったので、後ろ側のバルコニーへと降りるように言って、自分は距離を詰めていく。
間に一軒の家屋。
それがアビスと、止まった女の位置関係だった。
射線を切り続けたアビスには無駄だと感じたのか、その女は既に銃を下ろしてアビスの方を見ている。
「一応聞くけど、何のつもりかな」
「ここはテロの被災地よ?そんなこともあるわ、仕方ないでしょう?」
「君が撃ったはずなんだけど」
「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」
会話に応じる女に一抹の驚きを感じながら、それを隠して腹を探る。射程に入っていたから、というような軽薄な理由で撃ちそうだとは理解したが、それを避けた自分にどのような感慨を浮かべるのかはまだ分からない。それが仮面なのかも、まだ。
だが、ほぼ間違いなくテロリスト──レユニオン・ムーブメントの一員だろうことは分かる。赤いツノや細く長い尻尾から判別するに、サルカズだろうか。
仮面を付けていないことには何か理由があるのだろうか?あの少年と同じなのか?
それを質問しても、答えは期待できないだろう。仄かでも微かでもない悪意と害意がその目から感じられた。
「ああ全く、話が通じないな」
自然な動作で腰に手をやり、吊るしていたアーツユニットを準備する。少し彼我の距離は大きいが、フレンドリーファイアをしてしまう相手は居ない。存分に振るえるはずだ。
「コードネーム『アビス』」
「……はい?何と言いましたか?」
「白を切る必要はないわ、だってあたしはロドスのことも知っているんだから」
その発言が意図していることは、チェルノボーグにロドスのオペレーターが訪れることを前もって知っていたということだった。
自分の名前は方々の任務を熟していたから調べられたのなら知られていてもおかしくはないが、ロドスに注目していなければ容姿と名前が結びつくことはそうないだろう。
スパイと内通、二つの可能性をアビスは思い浮かべて、即座に否定した。自分以外のオペレーターやエンジニア全てを信頼している訳ではなく、あのケルシーがそんな真似を許す訳がないと思ってのことだった。
他にも可能性はある。たとえばロドスと提携している企業は多く、それらから脱落した者がテロリストになった可能性だ。しかしロドスを知った感染者が、果たしてその助けへと手を伸ばさずにいられるのだろうか?
ロドスの手は、まだ小さい。掬い上げられる数には限りがあり、それは宛ら湖から少しの水を掬ったようなものだと言う。しかしながらその水を溢すことを、ロドスは決して許さない。
もしそんなアビスの思考が合っているならば、選択肢は一つに決まって動かないだろう。
チェルノボーグを訪問する情報が入らなくても、ロドスが訪問せざるを得ない理由について知っていたということなのだから。
「へえ、ドクターさんに用でもあるのかな?」
「……なんですって?」
「白を切る必要はないよ。だってボクはバベルのことも知っているんだから──、なんてね」
背後に飛んだ。直後にグレネードが破片を飛び散らせながら破裂して、それをアビスは屋根の上を転がって回避する。
あの不幸な事故の経験から、信号弾の方角は念入りにメモしている。恐らく戦闘は避けられなかったため、テロリストの一人にバベルのことを知っている人が居たということだけでもケルシーに報告できれば上々だろう。
灰の舞う都市、通りから少し外れた屋根の上。
アビスとWの戦闘が始まった。
前話の冒頭、アビスの語調がズレていたので修正しました。