【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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二十八 追憶

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 苦しくなった。

 

 

 自分の首を絞めていた。

 

 

 喉を押さえて助けを求めた。

 

 

 こんな筈じゃなかったのに。

 

 

 自分の縋ってきた相手はもう居なかった。

 

 

 私には、縋る相手なんて居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付けば、Wはどこかの路地裏に立っていた。

 雪が深々と降っていて、少しだけ足元に積もっている。明らかに冬であるのに、不思議と寒さは感じない。気温も普通に思える。

 路地裏を進んでいくと、とある開けた場所へとWは行き着いた。汚い路地裏の一角で、葉のついていない木がそれなりの大きさで一本育っていた。

 

 その木の根元で、汚い子供が何か作業をしていた。漆黒に塗り潰されたようなツノがアビスと重なる。Wは、この子供のことが好きになれそうにないと思った。

 

 手元を覗き込むと、その子供は誰かを埋めているらしいことが分かった。その誰かは知らない。分からない。ピントでもズレているかのように不鮮明で、上手く認識ができなかった。

 

「良くやるわね。あんたの親?」

 

「名前だって知らない人」

 

 子供が少しの間手を止めて、Wの方を一瞥した。

 

「時々見かける人だったから、埋めてあげようって思ったんだ」

 

「そう、ご苦労なことね」

 

 何の興味も湧かなかった。段々と土が覆っていく男の顔は相変わらずブレて分からなかったが、それに対して特段不満もなかった。

 その子供の作業を側で観察する。

 

「どうしたの?埋葬なんか見てて楽しい?」

 

「退屈よ」

 

 そう言いつつもWは子供の側から離れなかった。いや、離れることができなかった。

 Wはピントのズレた顔を見て頭を巡らせ、自分が何故ここに居るのか分からないことを自覚した。どこまで覚えているのかすらも霞がかかったようになって思い出せない。

 自分が路地裏の奥を、つまりこの子供が居る場所を目指したのは何故か。来た方向を見ると、そこには二つの足跡が続いていた。

 その足跡はWのそれと、死体を埋葬している子供のそれだろう、もう一つの方には何か引き摺ったような跡がある。

 そうだ、自分は理由もなく足跡を追ってこの子供に辿り着いたはずだ。

 その頃から思考に鍵がかけられていた?いや、それならば何故今は外れている?あの不可思議にも視認できない顔のせいか?

 

 しかし一つだけ更に不可解なものがある。もし思考に鍵をかけることや記憶に干渉することを可能とするアーツが自分にかけられているとして、Wに対する明確な目的が見えなかったのだ。

 アーツではない可能性も浮上する。自分はもしかすると夢を見ているだけなのかもしれない。現実的に考えて後者の方があり得るように感じるが、だとしても今のこれは何だろうか。

 

「まだ足りない、わね」

 

「誰に言ってるの?変な人」

 

 作業を止めずそう言った子供の背中を蹴り飛ばした。ほとんど無関係な人間を丁寧に葬ってる方が変だとWは言いたかった。

 

 瞬きをした。

 

 特に何の構えもしていなかったのに、何かが劇的に変わったような気がした。子供の方に歩こうとして、気付く。

 自分の足はさっきと違って、雪を通り抜けて動いている。何だこれはとふためいているWには、その子供の関心はもう無いようだった。

 作業が終わり、子供は両手を合わせて目を瞑った。

 

「ねえ、どうして木の下なの?」

 

 そんな少女の声がした。Wが子供──少年と共に振り返ると、そこには寒そうな格好をしてこちらを見ている長髪の少女が居た。

 

「木の成長を助けるから」

 

 少年が答えた。

 

「ふーん」

 

 少年が立ち上がり、少女の方を見る。汚れた手の土を払い、何の用だろう、とでも言いたそうに首を傾げる。スラムの住人として、最低限の危機意識さえも持っていないようだ。

 

「ねえ、キミ何歳?」

 

 少女が駆け寄って、少年の手を取りそう問いかけた。

 

「十一、だけど」

 

 少年は少女の距離感に戸惑っている。受け答えは出来ているが、視線の挙動不審さがその戸惑いを如実に表している。

 しかしそんな少年の対応にも少女の目にある輝きは消えることなく、むしろ大きくなった。前のめりになった感情を上手く制御できなかったようで、少女はつい口を滑らせた。

 

「キミの親って……」

 

 言いかけてから気づいた少女がハッと口を押さえて少年の顔色を窺う。ジッと見つめるも少年の胸中は上手く見透かせず、少女がとても不安になったのが少年とWと少年には伝わった。顔に出やすいタイプだった。

 

「あ、えーっと、なんでここに?」

 

「どっちも同じだよ。親が居なくなったからここに来た」

 

 一瞬だけWの目が少年の心を透かした。親という存在への諦念と、Wも良く知っている憎悪の感情が少年の心を埋め尽くしていた。

 その親を殺した相手への裏側にある羨望や嫉妬までは、流石に見通せやしなかったが。

 

「あー、そっか、うん」

 

 返答に迷った少女の声が虚しく響く。

 用があるなら早くして。もし少女がそれ以上行動を起こさなければ、きっと少年はそう言って少女を突き放していただろう。

 

「じゃあさ、私のとこ来ない?」

 

 少女がそう言って笑った。

 

 くらり、Wが突然の眩暈にフラつく。

 そしてその視界を埋め尽くす砂嵐のようなノイズが消えると、そこはもう木や雪なんてない、どこかの室内だった。

 

 もう長いこと使われていないであろう暖炉の前に使い古されて色褪せた赤色のソファがあって、棚が一つだけ壁際に置いてあった。家具はそれだけだった。

 特段広くもないが、家具の少なさが影響してかなりの空間があるように感じられる。それが良いのか悪いのかは別として。

 

 ソファに掛けられていた一枚の毛布を摘んで持ち上げる。何度も修繕したような跡があって、ここは一体どこかと思案する。

 結局分からなかった。ここはどこなのだろう?少なくとも現実に居る訳ではないようだが。

 

「あ、えーと、初対面じゃないけど、誰?なんでここに?」

 

「人に会って、挨拶も無しにいきなり名前を尋ねる人がいるかしら」

 

 扉から入ってきた少年にそう答える。どうやらここは少年と少女の行き先だったようだ。

 何が起きているのかもう一度考えてみたが、ただの夢である可能性がやはり高い。だがアーツの線も完全には消えた訳ではない。

 

「だってボクは名前知らないし。それで、どうしてここに居るの?」

 

「あたしも知らないわ、気付いたらここに居たの」

 

「うそつきだ」

 

「嘘じゃないわよ。それとあたしの名前はW、覚える必要はないわね」

 

 ソファの肘掛けに腰掛けて、少年を観察する。

 

 少年の目に含まれているのは多くの当惑と、少しの好奇心。年齢にしては幼さが過ぎる言葉遣いだが、やはり精神は中々未成熟なようだ。少年は危機感も覚えずWと会話を続けている。

 もし自分がスラムに住んでいる凶暴な人殺しだったらどうするのか、と少年の質問に答えながら考える。だがどうせこの世界は架空のものだ。少年がどうなろうと自分には無関係と見ていいだろう。

 

 そうして数分が過ぎたところで少年がWの持っているものを見て、何かを思い出したようにハッとした。

 Wの方に近寄って手を伸ばした。

 

「それ、返して。カインとナインが使うから」

 

「はいはい、別に要らないわよ」

 

 そう言ってWが毛布を差し出し──次の瞬間にはその感触が綺麗さっぱり消え失せていた。あの少年を蹴り飛ばした後と全く同じ感覚がWを襲った。

 二度目ともなれば状況が概ね把握できる。きっと、感覚の前では自由に関わることができて、この変わる感覚があった後にはもう接触できないんだろう。不可思議なことだが、とするとアーツなのだろうか。夢と言うには些かルールに従い過ぎている。

 

 毛布はWが触る前と同じく、ソファに掛けられていた。

 部屋に入ってきた少年が手早くそれを畳んで、すぐに引き返し──部屋に入ってくる少女を捉えた。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎。ちょっと話さない?」

 

 少女が少年に笑いかける。

 少しだけ躊躇った後、少年は毛布を持ったままソファに座った。隣の場所に少女が腰を下ろす。

 

「⬜︎⬜︎はもう慣れた?」

 

「集団生活なら、慣れたよ。けどあの二人の世話は慣れそうにないかな」

 

「ふふ、そっか」

 

 Wは壁に寄りかかってその会話を聞いていた。興味はカケラもないが、何故だかこの部屋から離れる気にはなれなかった。

 ただ、さっき少女と会った時からずっと困惑しているか無表情かだった少年が見せた笑顔は、何故だかひどく頭の浅い部分に残っていた。Wの胸に湧いた親近感のような思いは、頭を振ればすぐに消えていった。

 

 息を吐いた。話していた二人はいつのまにか自分達に毛布をかけて寝入ってしまっていた。窓から差し込んでいる光によって、毛布は心地よい温度にまで暖められていたのだろう。

 扉の開いた音がして、双子のように似ている小さな子供が二人忍び込んできた。

 

「なんか、夫婦みたいだね」

 

「分かる」

 

 まだ初等部にすら入れないような二人がそれぞれ同性の隣に潜り込む。たしかに、その四人は小さな家族のようだった。

 もしカメラを持っていたら撮ってしまいたくなるような光景だった。Wはメモリいっぱいになるまでテレジアを盗撮したが、あのカメラのデータは他に出力してあるので、メモリは空っぽだ。もしこの場にあったなら、一枚くらい撮っても良かっただろう。

 

 くらりと眩暈がWを襲う。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少年が少女と話をしていた。自分についてあることないこと吹聴していた少年を見つけた。Wはヘッドロックを決め、少女は大笑いしていた。

 

「ほらほら、悔しかったら抜け出してみなさい」

 

「これには深い訳があって……いたたたたたっ!!!」

 

 何かが変わった。

 少年が少女と話していた。少年は話の種に窮して変なことを口走り、少女に笑われていた。Wも恥ずかしくなるほどに見ていられない有様だった。仕方なかったのかもしれない、とWは反省した。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少年が老年のヴァルポと話していた。Wに目を留めた少年がそのヴァルポを紹介した。まるで孫と祖父のように仲が良かった。

 

「それで、お迎えはいつ来るのかしら?」

 

「少なくとも向こう十年は来ないよ!?」

 

 何かが変わった。

 少年が老年のヴァルポと話していた。話に割り込んできた少女は難しい話の気配を感じてすぐに逃げていった。二人とも苦笑していた。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少年が小さな子供の世話をしていた。珍しく雪の降っていない日で、孤児院の前を二人が元気に走り回っているのを見ていると、膝の後ろあたりに衝撃が来た。あの双子だった。後ろには少しだけ申し訳なさそうな顔をして少女が立っていた。

 

「拳骨まではいいのよね?」

 

「みんな逃げてー!」

 

 何かが変わった。

 少年が小さな子供の世話をしていた。それに双子が混ざり、少女が混ざり、最後には全員で笑っていた。Wも何故か()()()()()()()()楽しくなった。笑顔は、浮かばなかったが。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少女率いるちびっこの群れが少年に突撃していた。逃げていた少年がWに(なす)り付けようと一目散に走ってきて、しょうがないので簡単な障害物を作りつつ退避した。少年は捕まった。

 

「あははははっ!面白いくらい引っかかるわね!」

 

「な、なにこの意地悪なトラップ……」

 

 何かが変わった。

 少女率いるちびっこの群れが少年に突撃していた。逃げる少年に追い縋る少女と、その指示で道を塞ぐちびっこたち。追いながら指揮をする少女、追手を紙一重で躱す少年、そのどちらもがWから見ても高い戦闘のセンスを有していた。

 

 

 

 

 そして場面が切り替わった。

 

「リラ、今日はWが来てる!ねえ遊ぼう、W?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「洗濯物?あたしが干すの?嘘よね?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「Wの話を聞かせてよ。カズデルの話でもいいよ」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「『あたしはW……ただの傭兵よ』ってね!いたぃっ!?ちょっとW何すんの──ごめんなさいごめんなさい許して痛い痛い痛い痛い!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「あんた傭兵だって信じてないわね!?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「Wって食事しないんだ。それにいつも眠気とか感じてなさそうだよね。えっ、勘違い?何が?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「Wの髪とツノってオシャレだよねー。私もそういうアクセント入れた方がいいかな……」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「リラとWって本当に仲良いよね」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「ねえ、もしかしてWって⬜︎⬜︎を狙う不審者──痛いっ!ごめん、ごめんってば!だって仕方ないじゃんいつも⬜︎⬜︎の側に居るもん!……ふっ、仕方ないって、私でももっと言い訳できる──いだだだだだだっ!!顔壊れる!面皮剥がれる!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「ナインがまだちっちゃくて良かった、なんて思うことがあるんだ。ボクって一つや二つ年が下の女の子は苦手みたいでさ」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「あたしはどうしてここに居るのかしらね。えっ?ああ、ただの独り言よ。そんな真剣な雰囲気になる必要はないわ」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「私は、やらなきゃいけないことがあるの。もし話したらWはそれを応援してくれるかな。それともおかしいって言って止めるのかな」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「W、ボクって実は強いんだよ!Wのことも孤児院と一緒に守ってあげる!…… どうしてそんなに笑ってるの?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「こーらー、カイン!それはWのだってば!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「リラ、あんたはあたしが男だって言ってたらしいじゃない?それで聞きたいことがあるのよ、ねえ。どうやって痛めつけられたいかしら?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「さぁてと、ナイン。私がWをボコボコにした話の続きをしよっか──うわあ、今日来てる!?ちょっ、待って!いだだだだだだっ!許ひて!許ひてぇ!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「また、あの人達か。懲りないなぁ」

 

 

 そして場面が切り替わった。

 

 もはや見慣れた部屋は、血の色に染まっていた。

 まだ新鮮な血飛沫が灰色一色だった孤児院の壁を彩っている。芸術性は皆無と言っていいだろう。

 

「模様替えにしては、絶望的なセンスね」

 

 その心に生まれた動揺を押し隠して、Wはいつものように余裕のある笑みでソファの方を見遣(みや)った。

 

「……」

 

「あんたがこうしたの?」

 

「……そうだよ、バカ」

 

 少年がソファの上で蹲っているのを見て、Wは目を逸らした。ついにその笑みを動揺が上書きして、Wは真剣な顔で起こった惨劇を推察しようと試みる。ほんの短い付き合いだったが、少年とリラのことは何故だか他人事のように思えなかった。

 ちらりと少年の方を見る。

 自分から少年の傷を抉っておいてWは後悔していた。Wはひどく感情移入してしまっているようだった。まるで、そう、少年と()()()()()()()()()()()()()()かのように、Wは悲哀を感じていた。

 

 子供を押し潰す精神の負荷。少年の目から涙が零れ落ちて、それはその部屋に居るもう一人に伝わる。Wは少年から目を逸らした。

 唯一、孤児院の壁の向こうから物音が聞こえている。恐らくはあの少女だろう。もしそうでなければ、少年は恐らくこんなものでは済んでいないはずだろうから。

 

 何かが変わる、あの感覚がした。

 

「ねえ、リラ」

 

「なに?」

 

「ごめん」

 

 ソファの前に立つリラに、少年は謝った。ソファと毛布の間で丸まって、自分の顔も見せないまま、リラの顔も見ないまま、少年はリラに謝った。

 それがどれだけ礼を欠いているかは知っているが、だとしても今の顔をリラに見せたくなかった。

 

 リラがソファの空いている部分に浅く座った。毛布の中で全てを拒絶するようにしている少年の背中を毛布越しに撫でる。

 

「いいの。いいから」

 

 それだけでひどく安心した。ソファの中に居る少年の感情は分からなかったが、Wはきっとそうだろうと確信していた。

 寄りかかっていた壁から離れて、Wはその場に座り込んだ。自分の尊敬するあの人が恋しかった。もう会うことはないのだと知っていても、手を伸ばすことは止められなかった。

 

 

「私も謝れたらいいのに」

 

 

 

 そして、場面が切り替わった。

 窓からは朝日が差し込む。まだ日の早い、雪も積もっている冬の朝。

 

「リラ、どうしたの?」

 

「もう休んだ方が良いよ」

 

 ソファに座っているリラが少年の袖を掴んで引き止める。長く使っていなかった暖炉は綺麗になって使用されていて、袖を掴んでいないもう片方の手には屋台で売られている粉物の料理が入っているパックが握られていた。

 Wは状況も理解できないまま焦燥感に駆られた。だが長年の経験がそれに蓋をして押し留め、あくまで冷静になろうとした。

 

「Wからも、言ってよ」

 

「何をかしら」

 

「⬜︎⬜︎、もう五日も休んでないで働いてるの。私なんかのために、そんなことしなくていいのに──」

 

「「それは違う」わね、リラ」

 

 その発言に頭の中身が真っ赤に染まりそうだった。もし自分がそれをかつて経験したことがなかったら、その思考に体を委ねてしまいそうなほど大きく頭を占領していた。

 だから一度頭を振った。全く変わることはなかったが、気晴らしにはなった。

 

 こうなった事情は大体察している。少年が余りにも致命的な失敗をして、それのために孤児院の住人がたった二人にまで減少したということだろう。

 Wはあの双子やヴァルポの老人並びに他の子供らと付き合いがなかった訳でもなかったが、この二人と同じくらい深い関係だった訳でもない。然程の悲しみも感じない。

 それに、今は二人の問題が大きく立ちはだかっている。死者に対する哀悼はあって然るべきだと思うが、それは全ての問題が片付いてからだ。

 

 二人揃った否定の言葉がリラの手から力を奪う。

 少年が何かを失敗した。リラは失敗しなかった。つまりはそういうことで、Wは少年に擁護される権利があるとは思えなかった。

 

「リラ、あんたの言ってることはおかしいわよ。⬜︎⬜︎が悪いんでしょう?許すまではいいとして、償いすら許さないなんて鬼畜にも程があるわ」

 

「そうだよ。ボクが悪いんだ」

 

 軽薄に笑いながら肯定する少年。

  Wの心が、何故か刺されたように痛んだ。

 

「そんなこと……⬜︎⬜︎は悪くないの!だって、⬜︎⬜︎は私や孤児院のためにしてくれて、それが偶然悪い結果になっちゃったってだけで、だから!」

 

「悪いのよ、リラ。偶然も必然も関係ないわ。⬜︎⬜︎は毛布の中で蹲り、あんたはその背を撫でた。それが全て示しているでしょう?そう、⬜︎⬜︎さえ居なければ、あんたが、あたしが……」

 

 自己嫌悪。少年を苛む莫大なその思いはWにも伝播し、そしてそれはWの思考にすら多大な負荷をかけていた。少年は殺したいほどに自分を憎み、それがどうしてか伝わったWも、自分を責めたくなる。

 自己嫌悪にレベルの違いはあれど、Wの脳内は掻き混ぜられた。困惑と共に自己を蝕む嫌悪の念が心に居座って退かなかった。

 

 後半はひどく混濁した物言いだったが、Wの言いたいことはリラに伝わった。

 

「そんなこと言い出したら、私だって……」

 

 リラの顔が悲痛なものに変わる。そしてその苦しさと比例して、少年の袖を掴む力も強くなった。ただ、その力が強くなればなるほど、少年の抱える自責の念は同期したように強まってしまう。

 悪循環だった。少年とWは一層強く自身を憎み、リラの悲しみは際限なく高くなる。

 

 その場に張られた緊張の糸は強く強く引っ張られた。本来何とかできるはずだったリラはWという存在によって行動を否定され、少年を止めることができない。

 だがその世界では、それこそが正史だ。Wという存在によってリラは少年を説得できないまま部屋から出ることを許してしまう。

 リラの手を振り解いて、少年は歩き出した。

 

 

 また、何かが変わった。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎」

 

「離して」

 

 腕を振ると、リラの手は簡単に袖から離れた。しかし代わりにその腕が少年の腰へと回されて、抱きつかれた少年は強引に解く訳にもいかず硬直する。

 

「行かせない」

 

「離してってば」

 

「嫌だ!」

 

 抱き留めたまま、リラは自分の右側に倒れ込むようにして少年を引っ張った。普段なら耐えられたそれも、痩せ衰えた少年にはリラの体重を乗せた振り回しに耐えることができなかった。

 Wの心の中にも生まれていた自己嫌悪と劣等感は未だ消えない。ただ、その隣に正体のわからない暖かいものがあることを感じた。

 リラに嫌われるべき自分にとって、火傷しそうなほどに暖かい。それを認めることは許されない。リラに赦しを請うことはあっても、孤児院からはもう離れようと思っていた少年に、それはあってはならないものだった。

 

「⬜︎⬜︎」

 

「なに。なんなの」

 

「もっと休もうよ。無理し過ぎだってば」

 

 そう言ったリラの顔はひどく辛そうで、それでも無理をして笑いかけていた。それが伝えるのはリラの優しさだけではない。そして少年はそれを分かっていたはずなのに、突き放そうとしていた頭は真っ白になった。

 

 一雫、落ちた。

 

 今のリラがどれだけ悲しんでいるのか知っていたはずだった。それが自分のせいであることを理解していて、だからこそ自分はリラに嫌われるべきだと、少年はそう思っていた。

 

 より強く、自分が嫌になる。

 

 早くリラから離れよう、と少年はソファから立ち上がった。悲しませるくらいなら、やはり自分は居ない方が良いのだから。こんな自分がリラの隣に座っていて良い訳もないだろうから。

 

 それにリラから離れなければ、自分に甘くなってしまうだろうと確信していた。少年は自分が嫌いだった。絶対に間違っている嫌いなヤツが甘やかされるのは耐え難かった。たとえそれで不幸になる人間が居なかったとしても許せなかった。

 現に今、融かされてしまいそうだった。涙を流しているのは、リラの言葉で少しでも少年が救われたことを意味していた。

 

 しかし、その逃走は阻まれた。立ち上がった少年の、今度は腰ではなく、胸の前で手が組まれたからだ。

 

「今から言うこと、理解できなくてもいいよ。正気じゃないなんて言っても許してあげる。でも疑われたくはないの。それが嘘だって言われることだけは嫌なの。ねえ、それでも聞いてくれる?」

 

 少年は何も言えなかった。少年がやっとの思いで心を氷の中に閉じ込めていたのが、正体の分からない何かのせいで暖められてしまっていたからだ。

 ただ、一線だけは引くべきだ。少年は、少年とリラの間に線がなければすぐにでも絆されてしまうと分かっていたから。

 

「私は、⬜︎⬜︎のことが大切なの。傷ついてほしくない。悲しい顔なんてしないでほしい。ずっと一緒に居たい。私も、⬜︎⬜︎と同じなんだよ」

 

 そうして一線を引こうとして、引かれる前にリラは易々と踏み越えて少年に抱きついた。自分がリラとの間に築いていた壁は、リラの言葉を拒絶するためのものではない。心を閉じ込めたのは、リラの体温を否定するためではない。

 自分の感情を内に押しとどめるためのものだった。

 

 子供でしかない少年は涙を流す。

 何故だか、Wの視界も滲む。少年の心にある暖かいものが理由は不明だがWの心にもあり、暖かさが胸の奥から際限なく湧いてくる。

 

 

 くらり、また場面が変わった。

 

 

「ねえ、どうすれば良かったんだと思う?」

 

 ソファの前にリラが立っている。少年はとっくのとうに出かけていった。リラのために仕事を探しに行った。体が壊れていく音がずっと聞こえている。

 リラにとってそれは、自分の手で少年の体を壊しているのとなんら変わりはなかった。

 

「……もう、やめてよ…………」

 

 押し殺した泣き声が部屋の中に響く。無理矢理にでも止めれば良かったと後悔する。だが少年を前にすればその痩せた体がどうしようもなく悲しく思えて、力が上手く入らなかった。他にどうすれば良かったのか。分からない。

 

 分からないから、Wに聞いていたのだ。

 二人の近くにいる、今やほぼ唯一の大人だった。

 

 ただそのWをして、答えは見つからなかった。

 

「あんたがどうにかするしかないわ」

 

 突き放すように言った。リラが目に涙を溜め込んで、精一杯流さないようにしながらに、Wの方を向いた。Wはため息を吐いて、ガシガシと頭の後ろを手で掻いた。

 

「あんたが説得できないのなら⬜︎⬜︎は外に行くだろうし、あんたが喜べば救われる。そしてあんたが泣けば自分を責める。そういうヤツよ、あいつは」

 

 ボス、とリラの体がソファに沈んだ。

 その顔もまた、自己嫌悪に歪んでいた。

 

「ほら、やっぱり、Wの方が⬜︎⬜︎のこと分かってる……私は何にも分かんない、もう分かんないよ」

 

 それは違う、と言うことができれば良かった。だが自分に起こっている奇妙な現象をどう言えばいい?原因は分からないが少年の感じていることを自分も感じられる?嘘か誇張か、そう受け取らなければ、やはり少年のことを分かっているということになる。

 感情がリンクしているなんて、与太話にも程がある。

 Wの居る世界は虚構で、しかしその虚構を証明するものはWの記憶以外に存在しない。Wの感覚を証明するものはない。それがひどくもどかしい。

 

 しかし今直面している問題を強引に解決することは、きっと出来る。

 

「まあ、⬜︎⬜︎だってあんたの話を聞いてない訳じゃないわ」

 

「そんなの、どうとだって言えるよ」

 

 まだ涙を流しているリラ。仕方がない、Wは部屋の扉を開いた。そうすれば、リラにもその扉のすぐ側で座り込んでいる少年の姿が見えた。

 リラの顔が驚きに染まって、泣き声は少しの間止まった。

 

「ほら」

 

「……バレてたんだ」

 

「あたしはあんたと一緒らしいからよ。うわ、自分で言ってて吐き気がしてきたわ」

 

 この世界が虚構だと気付いている。それも、少年の視点を追っているだけに過ぎないとはもう分かっている。しかしそれをWは、その虚構の住人のために利用した。

 この世界が虚構だと気付いている。しかしWの感じる心の熱はリアルに限りなく近かった。共感できる十分な理由もあった。だからWは今も真剣に干渉している。

 

「⬜︎⬜︎、どうしてそんなに無理をするの?」

 

「リラのために無理をしたいから。責める意図はないよ。ただ純粋に、リラのために動きたいからボクは動いてる」

 

「……そ、そんなこと急に言われたって、私は絆されないからね!」

 

 少年はリラのその反応が予想外だったのか僅かに驚き、そして首を傾げた。

 リラが紅潮した顔を冷まそうと深呼吸する。

 

「もしかして、W」

 

 少年はようやく合点がいったらしい。

 

「リラは、病気なのかな。鉱石病の進行よりもそっちの方が酷くて、もう保たないから──痛いっ!?」

 

「あんたねぇ、もう少し何とかならないの?」

 

「な、何が……?」

 

 バカが。Wは舌打ちする。

 

 なんだか張り詰めていたはずだった空気の糸は切れることなく弛緩してしまったように思えるが、決して問題は解決していない。少年はまだリラのために動きたいと思っているし、リラはそれを止めたいと思っている。

 

「リラ、良いんだよ。ボクのことは」

 

 少年は、良くも悪くも自分の感情に素直だった。嫌いな自分のことは痛めつけて、大好きなリラのことは大切にする。子供らしく、子供な少年はそうしてリラに向き合っていた。

 

 リラは感情に素直ではなかった。どれだけ自分に貢いでくれたとしても、それで嬉しくなって舞い上がりそうになったとしても、現実を見てそれはダメだと抑圧できる子供だった。少年の行動が嬉しくても、それに伴う痛みを分かってしまう子供だった。

 

 だから衝突する。少年は子供の視点のままでしか物を考えられず、自分がどれだけ犠牲になろうと嫌われるべき存在なのだからと厭わない。

 究極、リラのために何かしたいというのは少年自身の欲望で、少年はそういう自分勝手な子供だったのだから。

 

 

「ねえ、W。私はどうすれば良いのかな」

 

 

 リラはもう一度そう言った。

 

 Wは少年を引っ張り部屋の中に入れた。何をするのか、と訝しんでいる少年を自分の前に持ってきて、後ろから抱きしめるために手を伸ばす。

 

 リラの顔が少しの困惑に染まった。それを見ている少年の心は場面が切り替わったその時から荒れていて、Wの胸中も穏やかではなくなっていた。だがそれを押さえつけられるところが、Wの大人である所以だ。

 大人は年齢だけでなるものではない。考え方、経験、知識、感受性、肉体。大人になるには、複雑で煩雑な行程を踏み、また時間をかける必要があるのだ。

 

 両の手を組んだ。Wも少年と同じように、少年が嫌われるべきであるほどの行いをしたと思っていた。二人とは死生観が多少違っていたとしても、目的のために切り捨てられたとしても、そこらの命が紙屑同然だと思う極端さをWは持っていなかった。況してや、あの孤児たちを。

 だがしかし、少年を憎からず思う気持ちもあった。正解を選び続けられる者は居ない。それに、人のために身を削ることができる人もそう居ない。

 間違いは仕方のないことだと分かっていた。別個の感情を差し引けるほど人間は単純に作られていないが、それができたとして嫌悪やらが残ることはなかっただろう。だからこうして抱き締めても、Wの心に抵抗は生まれなかった。

 

 痩せた体が逃れようと踠く。雪の融けた水と僅かな食べ物だけで生活している少年は本領の一割すら発揮できず腕の中に収まっている。それは拘束している今に限れば良い知らせであったが、それでも尚憐憫を浮かべずにはいられない。

 

 リラの足が一歩踏み出た。その意思を汲み取った少年がWを引き剥がそうとより力を入れる。だがWはビクともしなかった。

 

「リラ。あんたが素直になるっていうのも、解決策の一つよ。あんたがもっと素直に引き留めれば、きっとすんなり終わっていたはずだわ」

 

 もっと素直になって、強引にでも全力で止めていたら、Wの存在がなかったとしても解決できていた。

 それは仮定の未来ではあれど、確約された未来でもあった。

 

「方法はきっと沢山あるわよ。けどね、さっきも言った通りあんたにしかどうにも出来ないのよ。あたしがこうしたってこのガキは何とも思わない。リラ、さっさと観念しなさい」

 

 Wが今こうして少年を抱きしめても、Wの居ない世界で少年が感じたような暖かさは少ししかない。精々がマッチ棒一本程度で、氷を融かすには不十分だった。

 

「あの、えっと」

 

「なによ?」

 

「……ちょっと、恥ずかしいって言うか」

 

 日和りやがった。火炎放射器を手に持ちながらマッチ棒で妥協しやがった。Wは端整な顔を最高に顰め、それを見たリラは「良いから早く来い」と実際言われたように錯覚するほど感情が表に出ていた。

 元より、追い詰められればリラはなんとかできるのだ。躊躇いを顔に出しつつも、Wへと向かう足は滞ることがない。

 

 マッチに抵抗しようと暴れていた少年を最後に一度だけ強く抱きしめて、Wは腕を解いた。リンクした感情は少しだけ暖かさが増して、少し気恥ずかしさを感じる。

 恨みがましく上目遣いで睨んでくる少年の頭をぽんぽんと叩いた後、肩を掴んでリラの方に勢いよく押した。

 

「さっさと、幸せになりなさい」

 

 奇妙な感覚がWを襲う。何かが変わった感覚がある。どちらかと言えばそれは不快な感覚だったが、あと一度や二度くらいは我慢してやっても良かった。

 気付けば、部屋の中には誰も居なかった。

 

 振り返ると丁度少年が扉を開いて部屋の中に入ってきていた。痩せていた体はまだあまり改善されていなかったが、久しく見ていなかった笑顔を湛えているあたり、ちゃんと幸せなのだろう。

 

 少女が少年の後から入ってきて、早足で追い越した。ソファにダイブして、毛布に包まれる。

 

「あぁ〜、暖かいよぅ……」

 

 少年はリラよりも子供だったが、今の一幕だけならリラの方が子供のように見える。リラの行動に苦笑している少年も含めて、親子のようにすら見えた。

 

「明日ボクが仕事に行っている間に色々とやってほしいことがあるんだけど、いい?」

 

「任せろ」

 

「……大丈夫だよね?」

 

「この私が信じられないと言うのか」

 

「なんかキャラ違くないかなぁ!?」

 

 蠢く毛布の切れ目からサムズアップのジェスチャーをしている右手が生えてきた。感じることのできないWにはどれだけ寒いのかが分からなかったが、窓の外では予想以上に雪が積もっていた。Wの腰くらいの高さだろうか。

 古い孤児院の中ではそこそこ風が吹いているから、きっとかなり寒いのだろう。

 

 ニョキッと首が生えた。

 

「寒い、よね」

 

「うん?そう、だね。えっ気温の話だよね?」

 

「うん」

 

 聞くまでもなくない?どこからどう見ても春や夏の服装をしている少年がそう言った。Wからすれば、自分だけ毛布に潜り込みながら少年に寒いかと聞いたリラも、寒そうな服装をして自然体で居ながらに寒いと答える少年も変わらなかった。

 毛布から数本の指が生えてきた。毛布と存在が融合しているようだった先程とは違って、リラは羽織るように毛布にくるまってソファに座り直した。

 

「……毛布、使う?」

 

「え?いや、寒いならいいよ。ボクはリラほど寒くないから」

 

「そっか」

 

 体育座りのようにして、リラは椅子に座っている。少年の肩に少しだけ寄りかかると、ただバランスを崩したのだと間違われて直された。

 

 不満だった。頬を膨らませた。少年は窓の外を眺めていて、そんな自分の様子には気付いていないのだと気付けば、リラの不満はより強くなった。

 実際はリラに毛布を使ってもらいたくて知らないフリをしているだけだったが。

 

「一緒に使おうよ、毛布」

 

「いいよ、気にしないで」

 

 そういうことではない。二人の様子を部屋の隅から眺めていたWがため息を吐いた。自分が居ない世界でも、頭の性能は大して変わらないようだった。

 

「二枚あるなら欲しいけど、二人で一枚を使うなら遠慮しとく。だってボクのせいでリラが寒いって思ったら嫌だし。言わせちゃった罪悪感みたいなのもあるだろうし」

 

 どうしてそこまで自分の感情を言葉にできているのにそれを相手に当てはめることができないのか。今正にリラがその嫌な感じだとか罪悪感だとかを感じている真っ最中だ。

 結局リラは毛布から抜け出した。ぼふっ、と音を立てて毛布が床に落ちる。

 

 不思議そうにそれを見つめている少年。自分を見ているリラに対して少しは何か思うこともあっただろうが、結局特に何もせずまた窓の外へと視線を移した。

 不満にまた頬を膨らませようとしたリラがとあるものに気づく。ソファの背凭れと少年の背、それらの大体中間地点。ゆらゆらと揺れているそれをリラは観察した。

 

「えいっ!」

 

「……ん?どうしたの?」

 

 ザラザラしているが、その尻尾はそれなりに暖かい。アダクリスやサヴラなどが持っている爬虫類の尻尾は変温性で尻尾の付け根くらいしか暖かい部分はないと言われているが、ヴイーヴルやドラコなどの尻尾は個人差が激しく一概に括れない。

 その点少年の尻尾は人肌並みに暖かかった。鱗のおかげかこの寒い日にも中々高い温度を保持している。

 

「リラ?」

 

 見かけほど重くない尻尾。

 

「……暖かい。抱き枕にして寝たい」

 

「じゃあ今度からそうしようか?」

 

 Wは大きい大きいため息を一つ吐いた。距離が近過ぎる。少年とリラがそういう仲でないことは知っているが──ん?もしかするとこの二人、実は恋人なのか?

 突如発生した疑問がWの思考を貫く。確かに、恋人の距離感としては正解だ。昨今の恋愛は低年齢化が激しいと聞くし、そういうことがあってもおかしくはないのかもしれない。

 

「んふふー、あったかい」

 

「それなら良かった。ちょっと窮屈だけど」

 

 なるほどそういうことか。Wは納得した。そして居た堪れなくなった。感情は少年と繋がり安心感のようなものが生まれているが、流石にそれだけでカップルの空間に居る疎外感を誤魔化せはしなかった。

 その瞬間、狙った訳ではないのだろうが、Wの頭を眩暈が襲う。瞑っていた目を開ければ、そこにはソファに座っている二人が居た。自分が居るのは後ろ側で、恐らく悟られてはいない。

 

 こてん、とリラの頭が少年の肩に当たる。

 

「リラ、しっかり座って」

 

「あ、はい」

 

 何言ってんだか、とWは肩を竦めた。

 

「ちょっと⬜︎⬜︎、恋人が甘えてるんだから応えるくらいしなさいよ」

 

 揶揄い混じりに投げかけた言葉に、二人は勢いよく振り返った。言い知れぬ圧を感じてWは引き気味に仰け反った。変にシンクロした動きがそこはかとなく怖かった。

 今まで噛み合っていなかった二人が噛み合うとこうなってしまうのか。数秒のアイコンタクトによって意思を伝達したらしき少年が立ち上がり、少女がファイト!とでも言うように腕を構えた。

 

 今度は何が繰り出されるんだと警戒していたWは、少女の方へと注意を回しすぎて伸ばされた腕に反応することができなかった。

 近づいていた距離はいつのまにか、ゼロだった。

 

「な、なによ、これ」

 

「⬜︎⬜︎がWをハグしてる、だよ」

 

 リラの声は届いていない。

 思考が追いつかず、引き剥がした方がいいのかそれとも背中にでも置くのがいいのかとWの腕が虚空を彷徨う。

 

「ありがとう、W」

 

 少し、いやかなり照れ臭そうに少年が言った。何に対して言っているのだとかそれ以前に、Wは自分の感情が理解できなかった。

 それは少年が持つ感情だったが、前に違う世界でリラに向けていたものと比べると、全く感情の毛色が違うことを除けば、その大きさは決して負けていなかった。

 

「え、いや、あんた……」

 

 まだ混乱の渦中にいるWを見て、リラが笑った。こんなに慌てふためくWが見れるのだったら、必死に練習して十種類くらいは使えるようになったアイコンタクトもその甲斐があった。

 Wが少年に対してそうしたように、Wのことを最後に一度だけ強く抱きしめて離れた。

 

「本当に、ありがとね。W」

 

 Wの情動は現在、少年のそれを『強制』されている。少年がリラを見て安心すればWもある程度安心するし、それがもし少年と同じようにリラを見て少しでも安心していたなら同じくらいのレベルにまで引き上げられる。

 Wに少年や自分のことを仄かにでも嫌う気持ちがあったからこそ、少年の自己嫌悪は完全なものとしてWと『共有』された。

 

 『強制』された感情は、少年のそれの半分以下だろうか。その判断は勘に頼っていたが、Wはそれを大凡掴んでいた。そして、『共有』された感情は少年のものと全く同じか、それに限りなく近いものだということも分かっていた。

 

 今感じているのは本当に後者だろうか。この少年に対する親愛の情は、『共有』されたものなのだろうか。

 いや、『強制』されている可能性を高く見積もっている訳ではない。Wは自分の感情がどのような相手に対してどのように働くのか知っている。僅かばかりの親愛すら抱いていないと言い張るには、少年とリラとは真っ当に親しくなり過ぎた。

 

 だからWが疑っているのは、これがもしかして自分自身の持つ感情なのではないかということだった。『強制』と『共有』の二通りがあることから分かる通り、自分自身の感情が全く存在しない訳でも無いのだ。

 だから自分自身の感情が少年の感情を上回れば、『共有』された感情ではなく自分の感情が心にあるだろう。

 

 と、そこまで考えておきながら、Wはそんな訳がないと一蹴した。照れによって赤らんだ顔は壁に叩きつけることで何とかした。

 心配そうにWの方を伺う少年。それをニコニコ見守っているリラ。くしゃくしゃっと少年の髪の毛を乱し、リラにデコピンをかました。

 

「いったぁい!何すんの!?そこは私にもなんか良い感じの対応するとこでしょ!」

 

「三年早いわ。出直してきなさい。そうね、⬜︎⬜︎を見習えば一年で許してやってもいいわよ」

 

「数字が生々しい……でも、ボクもそうだよ」

 

「えっ、私のこと嫌い……?」

 

「あっ、いや、ボクもWのこと好きだよ、ってこと」

 

 何言ってんだか、子供のくせに。上目遣いがあざといのよ。

 そんな感じの言葉を心中で吐いて、Wはもう一度少年の髪をくしゃくしゃにした。ついでに危険な上目遣いを中断させる。

 

「ねえ、私のことは嫌いなの、それとも好きなの……?」

 

 まだリラが何か言っていた。Wはため息を吐くと、やれやれといった表情で口を開いた。

 

「こいつがあんたのことを嫌いな訳ないじゃない」

 

「ちょっと黙ってて。私は⬜︎⬜︎の口から聞きたいの」

 

 ピキ、と音を出して何かがどこかに浮き出た。

 

「ん?なに、私の後ろがどうしたのW……って痛い痛い痛い痛い!ごめんなさい調子乗りました!許して!」

 

「……ほんっと、どうしようもないわね」

 

 はあ、とため息を吐いて腕を組んだ。

 

「Wって分かりやすい嘘吐くよね」

 

 少年にはWをぞんざいに扱ったリラの気持ちが理解できた。揶揄った後にこうも楽し気な表情をされてしまえば、やめる気になんてそうならないだろう。

 

 Wの視界で少年がまた口を開いた──瞬間に、言葉がノイズに邪魔をされて聞こえなくなった。

 

 一瞬だけWの景色が淡いオレンジ色に染まった。何の色だったか思い出せないが、Wはその色を知っていた。頭の中を探っても見つかるのは、それが不吉な色だということだけだ。

 

 頭を押さえて、Wはソファの背もたれに手をついた。

 何か嫌な予感がした。

 

 いつのまにか、いや、世界が変わった時からだろうが、少年はソファに座って扉の方を見ていた。Wはソファに手をついたまま、違う方の手で頭を押さえた。

 ズキズキと痛む頭の中、拍動の音がいやに大きい。

 

 少年が立ち上がった。

 見たくない。

 

 扉が閉まった音がした。

 聞きたくない。

 

「ねえ、リラ」

 

「なに?」

 

「ボクに隠してること、あるよね」

 

 リラが息を呑んだ。

 それが『強制』された感情なのかそうでないのかは分からなかったが、ひどく心を責め立てる何かがWを苛んでいる。立っていられなくなって、Wはソファに寄りかかりながら座り込んだ。

 少年は立っている。ようやく、Wはその苦悩が自分だけのものだと知った。だが恐らく、ただの悪い予感がここまで自分の首を絞める理由は、自分の中でリラの存在が大きくなったからではない、だろう。

 悪い予感とはつまり第六感だ。少年の心が食らってしまう悲しみや痛みを察知したのだろう。そしてリラのことを同じように憎からず思っていたWはそれを『共有』してしまうことも勘定に入れてしまった。

 

「リラ」

 

 少年の言葉が遠く聞こえた。その口を閉ざさなければならなかった。自分を襲っている苦しみから逃れるにはそうでもしなければいけないのだった。

 そして手を伸ばし、その手はすぐに止まって床へと落ちた。この世界にWが居ないことを思い出したからだった。

 

「やっぱり、バレちゃったか」

 

 耳を塞ぎたい。ソファの裏側に背を預けて、両手を耳に当てた。

 

「私さ、感染者でしょ?」

 

 ようやく、少年も嫌な予感がしたようだった。

 遅い、遅過ぎる。

 

 叫び散らしてしまいたかった。

 意味がなかったし、激しい頭痛がそれを妨げた。

 

「もうそろそろダメかな」

 

 リラの声が痛みを貫いて自分の脳髄に刻み込まれる。せめて自分がその痛みで気絶してしまえたらよかった。それ以外何も感じられなくなってしまえたら良かった。

 

「右目が見えなくなっちゃった」

 

 吐きそうなほど酷かった体調が回復すると共に、Wの目から涙が溢れ出した。嗚咽が喉の奥で乱反射したように口から無秩序に零れ落ちる。顎まで垂れて滴り落ちる涙は滂沱という表現が堪らなく似合っていた。

 

 いつしか、場面は変わっていた。二つの世界は近過ぎることをWは知った。リラの未来は閉ざされている。リラの命は鉱石病によって風前の灯となっている。

 

 嗚咽は未だ漏れ出ている。

 悲しみの大きさは、確かに先ほどより幾分かはマシだった。それでも涙は止まらなかった。

 いつの間にこんな絆されていたんだろう、なんて考えは浮かばない。ずっと前からきっと、少年とのリンクに気付いたその時からきっと、自分は引き込まれ始めていたのだと知っていたから。

 

「W、どうしたの?」

 

 リラの声が聞こえた。

 優しかった。いつもWと揶揄い混じりに交わす言葉はこんなに優しいはずではなかった。

 

「うゔぐっ、どうして、今優しいのよ……っ!」

 

「Wが泣いてるからに決まってるでしょ」

 

 心外だなぁ。その声はきっと遅効性の毒だった。

 その優しさを受け取ってしまえばしまうほどに、直視した事実が牙を剥く。今はただ甘いだけであっても、いつか終わりは訪れる。

 それを知っているから、知らされてしまったから、Wはリラを拒絶しようと押しやった。

 

「わわっ、と」

 

 たったそれだけの衝撃でリラは尻餅をついた。左足を引き摺るようにして、ぎこちない動きでバランスを取ろうとしていた。

 それだけでWには分かってしまう。きっと自分が知ったのは事実のたった一部分で、リラはもっと多くのことを隠しているのだと。

 

 扉が開いた。

 

「あ、えっ、W!」

 

「なによ……っ!笑いたければ、笑いなさい!」

 

 思ってもいないことを口に出した。それはそうでもしなければWの感情が抑えきれないからで、Wがそれほど弱っているということだった。

 しかしそれは失敗だった。それをするしかなかった訳ではあるが、どれを選んでもWの感情は限界を迎える。

 

「今のボクがあるのはWのおかげなんだから、笑う訳ないよ。ほら、落ち着いて」

 

 いつかカインやナインにしていたように、少年がWの背に手を回し、頭を胸に預けさせる。

 弱っている状態を自分から見せつけてしまえば優しくされない訳がない。ようやく引いてきた涙はまた流れ出して、今度はもう止まることが難しそうだった。

 

 

 ようやくその涙が止まって、Wは毛布に顔を埋めていた。

 とても微笑ましいものを見ているような顔で二人がWの側に立っている。

 あまり座らないソファの真ん中にWは座り、毛布で顔を隠していた。

 

「落ち着いた?」

 

 こくりと頷く。それは声を出すと恥ずかしさが限界突破しそうだったからというちゃんとした理由があるのだが、二人から見ればより子供らしい動作をしただけだ。

 視線の暖かさがどんどん上がっていき、返って居心地が悪い。リラが頭を撫でても反応しなかった。重症である。

 

 ゆっくりと毛布を膝の上に置く。時間をかけて落ち着いたためWの顔は、熟れたトマトだったのが熟したピーマンになっていた。おっと、アセロラだったかもしれない。まあどれも同じだが。

 

「それで、どうして泣いちゃったの?」

 

「リラ、のことよ」

 

「はぁ、もう……リラ。早く謝って」

 

「待って待って身に覚えがない」

 

「右目よ。あんたの右目の話」

 

「へっ?な、何の話かなぁ〜、W」

 

 隠す気があるのかどうかすらも怪しい誤魔化し方にWは手刀でツッコミを入れた。右側から側頭部を揺らす攻撃は、やはり完全に不意をついた衝撃となったようだった。

 

「ああ、確かに。それなら説明がつくね」

 

「いや全然話が見えないんだけど」

 

 世界は違えど、同じ少年。違和感の正体を突き止めてはいなかったが、その存在は確実に感じ取っていたようだ。

 

「それで、どのくらい見えなくなってるの?」

 

「あ、もう私の主張はないんですかそうですか。って、どのくらい?どういうこと?」

 

「見えないって言ったって、盲目にもいっぱいあるんだよ。弱視、準盲、盲、全盲。まあリラに分かるのは全盲かそうでないかだけだけど」

 

「……よく分かんないけど、見えないよ」

 

 リラが左目を手で覆った。

 

「もう何も見えてない。真っ暗」

 

 ぽかんと口を開けて、少年は動きを止めた。悲しみよりも困惑が上回っていることをWは『強制』的に理解した。

 

「よく聞きなさい、⬜︎⬜︎。リラの鉱石病は──もう、最悪のステージまで進んでるわ」

 

「鉱石、病が……?」

 

 Wも少年も、鉱石病には詳しくない。詳しくはないが、だとしてもその盲目という症状がどれだけ危ういのかは理解できる。

 盲目の中でも全盲、それは眼球近くの歪みではなく、視神経の損傷を表す。つまりリラの鉱石病は頭蓋の中を犯し始めているというのだ。

 

「な、んでそんなになるまで……」

 

「私だって、あんまり分かんなかったんだもん」

 

「あんまり?目が見えなくなるまで無症状な訳がないでしょう?リラ、あんまり隠してると首()し折るわよ」

 

「こわっ!?鉱石病関係なく死ぬよ!?⬜︎⬜︎もそんな『致し方無し』みたいな顔で見てないで助けてよ!」

 

「致し方無し」

 

 そんなぁ!?と悲鳴を上げるリラの前で、Wは優しく微笑みながら指を鳴らす。感情のリンクによるものか、リラは孤立することが多いような気がする。

 

「ほんとに分かんなかったの!ちょっとバランスが取りにくかったり、ピントが合わなかったりするだけで……」

 

「リラ、そういうこともちゃんと言ってよ。Wが泣いちゃうから」

 

「ごめん……」

 

「二人共殺される覚悟はいいかしら」

 

 首の後ろに手をやって、左右に傾ける。

 

 ポキ、ポキ。

 

 リラは無言で少年を盾にした。

 

「わっ、リラ、ちょっと──ぎゃああああっ!!」

 

 

 

「分かってたんだけどね」

 

 ソファに座ったリラが、人差し指で頬を掻きながらそう言った。窓の近く、壁に寄りかかってWは腕を組んでいる。

 

「何を、って。聞くまでもないか」

 

 少年はリラの隣に座っている。いつも天井に向かってゆらゆらと動いている尻尾はソファの背凭れに撓垂(しなだ)れている。

 リラの発言が意図するところはWにも理解できている。

 

 リラの鉱石病は脳を侵しつつある。そしてその源石は顔にすら露出していて、重篤とはいかないまでも重体であることは間違いない。

 そしてその感染者は普通、このクルビアでは疾病予防センターによって隔離処置が取られる。それがまさか後ろ暗い研究施設(ライン生命)に引き渡されることもあるとリラは知らないが、だとしても感染者はそういう存在だ。

 少年がどれだけ優しくったって、そこまで症状の進んだ鉱石病患者だと知られれば手のひらを返されるかもしれない。ありえないとは分かっているつもりでも、それを振り切る勇気は往々にして出難いものだ。

 

「こういう雰囲気嫌い」

 

「あんたのせいよ」

 

 間髪入れずそう言った。

 泣かされたWの恨みは大きい。

 

「そうだけどさ」

 

 ぶー垂れるリラ。右目を注視していると、確かに動かない。よくよく観察しているとリラはいつもより大きく首を動かしている。真っ直ぐ捉えて動かない右目の瞳孔が不自然なまでに雰囲気に溶ける。

 なんとなく許せなくて、その顔を両手で挟んだ。ぶに、と変な声を出してリラがWと目を合わせる。Wの左目と目を合わせるリラ。右目は動かない。動かす必要がないように視線を動かしている。

 

 ごん、ぶつけた額が大きな音を立てた。

 

「いだい」

 

「あんたがサイアクなことしてるからよ」

 

 恐らくは、少年にバレたくなくて必死に練習したのだろう。結果的にWによって暴かれてしまった訳だが、ほぼ完璧なほどにリラは右目の異常を隠していた。

 それでも勘付いていた少年は一体どんなストーカーなのか。どれだけリラのことを見ているのか。そういえば恋人だったか。

 

 今更になって、『共有』された悲しみが流れ込んできた。既に涙を流したWは耐えられているが、少年の目からは一雫の涙が出る。

 

「リラ、病院に──」

 

「行かない」

 

「どうして?」

 

「行かない。行きたくない」

 

「それがどうしてって……泣いてないで答えなさい」

 

「やだよ、とにかく嫌なの……っ!」

 

 珍しくリラが駄々を捏ねた。

 背を撫でていた少年の方を向いて、抱き着いた。どうしてこんなことになったのか訳も分からずあたふたしている少年をより強く抱き締める。

 

「リラ、別にすぐ引き渡される訳じゃないのよ?それにそうするのが一番なのはあんたも分かってるはずだわ」

 

「そうしなきゃ、リラは死んじゃうんだよ。治療しなきゃリラは……」

 

「絶対嫌だ」

 

「リラ、ダメだよ」

 

「やだ」

 

「リ「やだ」あたしにだけ被せるんじゃないわよ」

 

 ぶふっ。少年の肩の向こうで噴き出す音がした。どうしよう殺したい。Wが拳を握り固めて近づくのを、少年は困ったように見ていた。

 

 ごがぁん!

 

「いっだぁ!!?私泣いてるんだけど!ねえ、私泣いてるんだよっ!?Wちょっと……話を聞けぇ──っ!!」

 

「あんたが話してないんでしょうが。話すべきことを話さないあんたに聞く耳持っても意味がないわ」

 

「うぐっ……だ、だって、私は、私はっ!私はここに居たい!病院のベッドの上なんかで死にたくない!⬜︎⬜︎の隣で生きて、それで⬜︎⬜︎に看取ってもらうの!この、孤児院で!」

 

「それが通じるとでも思ってるのかしら」

 

「だから言わなかったんじゃん!Wのバカ!」

 

「大人って本当に卑怯だよね」

 

「あんたはこっち側でしょうが……っ!」

 

「いだだだだだだっ!」

 

 とんだコメディのようだった。もはや『強制』や『共有』によって引き上げられた感情は滅多になく、Wは自分の感情で物を言っている。

 

「リラの言ってることも、分かるんだよ。ボクだってそう思う。そうすべきじゃないなんてことは分かってるけど、その気持ちを拒否する訳にもいかないでしょ?」

 

「それは、そうよ」

 

「それに、ごめんね、W。リラがああ言ったの、ボクは嬉しかったんだ」

 

 リラが無言で抱きつく力を強くした。

 

「……分かったわよ」

 

 はあ、とため息を吐いた。

 

 そして世界がズレた。

 窓の向こうから柔らかい日が差し込んでいる。雪が積もっている様子はもうない。

 ソファにはリラが座っていた。辛いことを我慢していることが傍目から分かるような顔で自分の左足を摩っている。

 

 『共有』された感情が強い悲哀と焦燥を伝えた。

 

「リラ!朝ご飯、スープ作ったよ!」

 

 扉を慎重に開きつつも、少年は足速にリラへと近づいてスープを差し出した。具が点々と入っていて、湯気が出ている。リラはその豪勢なスープに呆れた顔で少年を見たが、それを意にも介さず、これまた上等なスプーンを突きつけた。

 

「大丈夫、もしもの時のために貯めてたお金だから!」

 

「全然大丈夫じゃなくない?まあ、頂くけど」

 

 その器を受け取ろうとして、少女の手が空振った。恐らく右目が見えないことと、少年の勢いに押されていたことが原因だろう。

 

「リラ……分かった。口開けて」

 

「えっ、あっ。わ、分かった」

 

 リラの顔が僅かに緩んだのをWは見逃さなかった。

 

「あーん。どう?」

 

「あ、味わかんないよぅ……」

 

「そんな、味覚まで……!?」

 

「あ、いや、違うの!ちょっと嬉しさに心が追いついてないだけだから!」

 

「意味分かんない言い訳しないの、そんな体で……やっぱり病院に行った方が」

 

「それはダメ。あと、もう大丈夫だから。でも『あーん』って言わないで。追いつかないから」

 

「わ、分かった。口開けて」

 

「それもやめて」

 

「え、うん、分かった。じゃあ、はい」

 

「あむ」

 

「どう?美味しい?」

 

「ごっふ……ご、ごほっ!ごっほ!そ、その、こてんって首を傾けるのもやめて……お願いだから私の心臓を労って……」

 

「分かった。もうリラの言う通りにする」

 

「んぅっ──!!だ、だからやめてって……」

 

「えぇ、どういうこと……?」

 

 Wはいよいよ空気になった。二人だけの空間に居るためにはそうなるしかなかったし、『共有』された親愛の感情や『強制』された少しの困惑以外では居た堪れないとしか感じられなかった。

 もう自分が居るとか居ないとかどうでもいいから早く終わってほしかった。そんなWの願いが通じたのかすぐに眩暈が起きて、ノイズが視界を埋めた。

 

「リラ、本当にこれって必要?」

 

「必要」

 

「いや何してんのよ」

 

 少年の膝にはリラの頭が乗っていた。

 Wを見て破顔し、しかしそんな少年の顔はすぐに曇る。

 

「……リラ、もう左足が動かないんだって」

 

「それで、これは何よ?」

 

 まあ大体答えは分かっていたが。

 

「こうすると痛みが和らぐってリラが──」

 

「もう痛み引いたから大丈夫!ありがと⬜︎⬜︎!」

 

「あ、うん」

 

 お前何してんだ。そんな思念を視線に乗せてリラを見ると、物凄く恥ずかしそうな顔をして窓の外を凝視していた。回り込んで目を合わせようとすると、リラは全力で顔を背けた。

 

「あ、あのさ、W。少しは悲しんでよ」

 

「あんたが馬鹿な真似してなければそうしたかもしれないわね。ええ、あんたがその立場を利用して最低な真似をしていなければ」

 

「最低じゃないよ!⬜︎⬜︎は私のこと好きだもん!」

 

「えっ、今何の話?」

 

 少年は無知だった。リラは一年というアドバンテージを存分に振るうべくそれを利用していた。

 

「……罪悪感とかないわけ?」

 

「あります、すごいあります。むしろそれがイイ──いだだだだだだだっ!!いったぁ……いだだだだだだっ!?なんで二回!?」

 

「W!?ちょっと、リラには優しくしてあげてよ!」

 

「その価値がないわ」

 

 アイアンクローにやられた顔を覆ってリラが少年の方に倒れた。ごく自然な動作で膝枕に移行したリラを極寒の視線で虐めてやれば、途轍もなく顔を渋らせながら身を起き上がらせた。

 

 『共有』された少年のリラを気遣う感情。『強制』でないことが大きさから判別できて、Wは口を結んだ。

 少しの時間変な空気になった後、Wは口を開いた。

 

「リラ」

 

 少しだけ燻っていた感情をWは掬って拾い上げた。今そうしなければきっと後悔する、それを今までのことから知っていた。

 

「死ぬ時は死ぬって言いなさい。そうしなければ、⬜︎⬜︎はいつまでもあんたに縛られるわ」

 

「W、ボクはそれでもいいよ」

 

「あんたは黙ってなさい。それと、あんたがそれを受け入れることでリラが苦しむことくらい分かってやりなさいよ」

 

 リラは少年にずっと自分のことを覚えていてほしいだろう。だがそれと同時に、死人になった自分が少年を縛る訳にもいかないだろうと理解している。そしてそれを考える時間は死期が近づくに連れて増えるだろう。

 リラは抑圧する。今まで見ていれば、Wにもそれくらいのことが分かるようになっていた。今は子供らしく少年と過ごしているリラが、大切な所で大人になってしまうことを知っていた。

 

「リラ、あんたがどうしようとあたしは何もしないわ。もしあんたが縛り付けて苦しめたって、仕方ないことだって割り切ってやるわよ」

 

 でも、と繋げる。

 

「あんたのやりたいことはそこの⬜︎⬜︎に幸せになってもらうことだって、あたしは勝手に思ってるのよ。何か違うかしら?」

 

「違わないけど、でもその言い方は……卑怯だよ」

 

「ええ、そうよ。あたしって卑怯なの」

 

 大人だからかしら?

 最後にそう言うと、二人は消えた。感覚からも告げられている、世界が変わったのだろう。

 

 少しだけ名残惜しい。

 少年に残されているリラとの時間は少ないが、Wのそれはもっと少ないのだ。一つ一つ大切にしているつもりではあったが、それにしたって絶対数が小さ過ぎる。

 

 それと同時に、また別の寂しさが胸の奥で痛みを発した。少年の視点を追うこれは、きっとリラの死によって終わってしまう。それを半ば確信してしまった故のことだった。

 Wに残されているリラとの時間は、少年との時間にほぼ直結する。

 

 残り時間は本当に少なかった。

 

「ふわぁ……」

 

 少年が欠伸をした。

 場所は大きく変わっていて、恐らく孤児院の外。周囲は薄暗く、月の光だけが唯一テーブルの前に座る少年の手元を照らしている。

 その手元にあるのは漆黒に輝く綺麗な石だった。拳くらいの大きさであるその石を、少年はノミのような何かで割っている。

 

「……ちょっと、大きいな」

 

 カケラを月に翳して、少年はそう言った。よく見れば周囲の地面には数多に(わか)たれた路端の石が転がっている。練習台にしたとしても、どうすればここまで細かく分割できるのかと思うほど小さくなっていた。

 ガッ。少年は石を手で固定している。

 親指の爪と同じくらいの大きさの黒曜石が転がった。少年は小さくガッツポーズをとって、ヤスリで軽く磨き、横に押しやった。

 

「喜んでくれると良いな」

 

 喜ばない訳がないだろうに。Wは少年の隣で作業を眺めながらそう(ひと)()ちた。横にあるのはその石に穴を開ける機械だろうか。それに加えて紫色の糸があるのだから、恐らくブレスレットやアンクレットにでもするつもりなのだろう。

 

 その作業は日の出まで続いた。少年の手元にはまだそこそこの大きさの石が残っている。素早くかき集めて袋にしまい、少年は恐らく孤児院の方へ立ち去っていった。

 

 少年の座っていた隣で、Wは腕を組んでテーブルに突っ伏した。自分の居ない世界が与える疎外感は、Wの思っていたよりもずっと大きかったのだ。

 

 

 肩を揺すられて目覚めると、そこには少年の顔があった。

 

「Wの寝顔なんて初めて見たよ」

 

「……ん、ああ。変わってたのね」

 

「何が?」

 

 世界が。

 

 Wは何も言わず、少年の持っている袋を見た。少年はその視線に気付いて、サッと後ろに隠した。

 

「手伝わせなさいよ、あたしにも」

 

「ななな何の話をしてるの?」

 

「ブレスレット作りかしら」

 

「なんでバレてるの!?」

 

 二択だった。

 

「そうね、あたしが穴を開けるからあんたは引き続き黒曜石を割りなさい」

 

「そこまで知ってるともはや怖いよ」

 

「ほら、早く」

 

 促されて少年はWの隣に座り、袋の中から丁寧に機械を取り出した。そして黒曜石をテーブルの上にばら撒く。先程見た違う世界の少年より少しだけ作業が進んでいない。

 

「あんた、割と考え事してたでしょ」

 

「うぇっ!?」

 

「見れば分かるわ」

 

「……そ、そうなの?」

 

 概ね間違ってはいなかった。あちらの世界でやれることと言えば見ることくらいだったし、この世界でも見ることでようやく判別したのだ。見たから分かる、その言葉に嘘はない。

 

「それじゃ、始めましょうか」

 

「なんか釈然としないなぁ」

 

 そうして曖昧に笑いつつ首を捻った少年だが、始まってからはやはり真剣に、丁寧に、集中して作業に臨んでいた。

 だがWの作業スピードはそれよりずっと早い。器用さ、作業への集中力、銃の狙いをつける時のような鋭い雰囲気で精密に穴を開けていた。

 

 暇を持て余したWは少年の手元をじっと見つめている。特に何か変だった訳ではないが、一つ一つのカケラを翳しているその一瞬、何か心の中に『強制』されているような感覚があった。

 だとすれば、少年はその黒曜石に対して祈りを込めているのだろう。リラの鉱石病の進行が少しでも遅れるように、少年は願っているのだ。

 

 Wは最初に穴を開けた黒曜石のカケラを手にとって月に翳した。そして目を瞑り、少ししてテーブルへと置く。

 

 それに気付いた少年は、目を瞑り月の光を受けるWの横顔に少しだけ目を奪われていた。

 

 

 

 朝日が昇った。祈りを終えて目を開けると、そこには何十ものカケラに糸を通して、最後のカケラを待つ少年の姿があった。

 差し出した黒曜石のカケラの穴に糸を通し、固く結んだ。決して千切れることのないように、決して込められた祈りが四散することのないように強く結んで、余った糸を切る。

 

「完成したよ、W!」

 

「そうね」

 

 素気ない返しに対して、しかし少年は満面の笑みを浮かべていた。Wがどれだけ真面目に作業をしていたか知っているし、その込めた祈りの大きさは少年と比べても決して小さくないと知っていたからだった。

 Wはテーブルに肘をついて、立ち上がった少年にヒラヒラと手を振る。

 

「何してるの、Wも行くんでしょ?」

 

「あたしが?いいわよ、遠慮しておくわ」

 

「バカ。行くよ」

 

 Wを手を取り少年が走る。表情こそ平静を装ってはいるが、恐らくはリラにブレスレットを渡したくてしょうがないのだろう。満更でもない様子で手を引かれていたWは、やがて少年の隣を走るようになった。

 そして見えてきた孤児院、その前にはリラが壁に手をついて立っている。

 

「あ!やっと帰って……朝帰り!?」

 

「はぁ、はぁ、た、ただいま、リラ……」

 

「ちょちょちょちょっと事情聞いていい!?」

 

「少しは落ち着きなさい」

 

 

 ていっ。あうっ。

 

 

「ふぅ。リラ、実は渡したい物があって」

 

「えっ、なに、婚姻届!?仲人!?」

 

「手を出して」

 

「なになに怖い怖いやめて!」

 

 少しだけ前のめりになり過ぎていた、と少年は自覚した。一先ずは落ち着かなければと思うが、そうして深呼吸を始めた少年にリラはまた後ずさる。

 

「や、やめて、待って!私を殺したいの!?」

 

 そして、少年は必死にやめてほしいと叫ぶリラにしょぼくれた。リラが何かしら勘違いしていることは知っていたが、だとしてもその言葉は思っていたより気勢を削いだ。

 

「リラ、そういうの良くないと思うわ」

 

「えっ、あ、はい」

 

 少年はもう一度落ち着くためにとりあえず、繋いでいたWの手を離した。その代わりにWの手が少年の頭に落ち着いた。頭を撫でられてようやく少年の気持ちが勢いを緩やかなものにして、もう一度リラに手を出すようお願いした。

 Wに気圧されていたリラがおずおずと手を伸ばす。まだ何かを手渡されると思っているのか、手のひらが上を向いていた。

 

「じゃあ、あたしが一旦目を塞ぐわね」

 

「えっ」

 

「分かった」

 

「えっ」

 

 まるでナタを持った血まみれの大男でも見るように怯えた目をするリラ。久しぶりにWは自分のペースを相手に強制している。

 

「ああ、そんなに怖いなら右目はやめておくわ」

 

「同じだよそれ!っていうか冗談が悪趣味!」

 

「リラ、いい?」

 

「……オーケー、もう分かった。私が覚悟すればいいだけの話だもんね」

 

 覚悟するような話ではないが、何はともあれリラの準備が整った。じゃら、と音を立てて少年が袋からブレスレットを取り出した。

 口が真一文字に結ばれながらも、Wにはリラの困惑した様子が手に取るように理解できた。片手で左眼を塞ぎつつ、空いた方の手でリラを支える。

 

 ごっ、がらがら。

 袋から落ちたノミの立てた音だった。

 

 困惑、恐怖。折角決めていた覚悟がボロボロと崩れ落ちていく。だが少しだけ引かれていた手を少年が握った途端に全てが塗り潰された。

 後ろから目を押さえているにも拘らずありありと脳裏に浮かぶにやけ顔。

 

「いいよ、目を開けて」

 

「いや私じゃなくて」

 

「本当に、覚悟はできているのよね?」

 

「ちょっ、怖いって」

 

 リラの手に通したブレスレットは、手首より少し、いやかなり大きかった。少年が注意して持っていれば手首にギリギリ当たらないくらい、黒曜石も噛み合って静止していた。

 

「じゃあ、好きなだけ見るといいわ」

 

「待って待っ──にゃ、なにこれ!?」

 

「どう、かな?」

 

 放心した様子で手首を見つめるリラ。

 

「……嬉しくない訳ないじゃん」

 

 まあ、そうでしょうね。Wは照れ隠しにそんな言葉を吐こうとした。ニッコニコの少年を見て、流石に良心が咎めたのでやめることにする。

 

「でも、こんな……無理しなくていいって言ってるのに」

 

「へえ、それじゃあたしが貰うわね」

 

「絶対に嫌だけど、殴るよ?Wでも殴るよ?」

 

「そ、そんなの分かってるわよ。冗談じゃない」

 

「いくら私でも冗談にならない冗談は嫌いだよ」

 

「……気をつけるわ」

 

 目がマジだった。

 確かに茶化そうとしたのはあまり良くないことだったし⬜︎⬜︎の気持ちを無下にするのは自分としても許されないとは思っていたけど──あれ?割とあたしが悪い?

 

 少年が改めてリラと向き合った。

 

「リラ」

 

「なに、⬜︎⬜︎?」

 

「大好きだよ」

 

 リラが地面に膝をついた。

 心臓の辺りを抑えて苦しそうにするリラを見て慌てる少年。

 

「まあ、そうでしょうね」

 

 今度こそWは口に出して、世界が変わる感覚を味わった。

 

 

 

 それは何でもない日常だった。

 それが終わりの日だなんて、もしWがその世界の住人であれば分からなかっただろう。

 そしてWはその世界の住人ではなく、植え付けられた感覚があった。

 

 その日はもう、リラの生きる最期の日だった。

 

「リラ」

 

 少女はソファに横たわっている。少年はそれを、肘掛けに座って見つめている。

 二人の前で、Wのことが見えていない二人の前で今日失くなってしまう大切な人の名前を零した。Wが関わったのはこの世界の二人ではない。だが、それでもやはり悲痛に顔が染まる。

 

「リラ」

 

 もう一度、噛み締めるようにリラの名前を呼んだ。

 少し前、視界いっぱいに浮かんだあのオレンジ色が何なのか、ようやく思い出した。それは鉱石病に殺された死体が放つ、粉塵の色だった。

 

「⬜︎⬜︎……リラ……ッ!」

 

 お願いだから終わってほしくなかった。『強制』的に関わることになってから、Wはもう絆され過ぎてしまっていた。

 好きになれなさそうだとは誰の言葉だったろうか。少年のことも、リラのことも、Wは好きになってしまっていた。あの世界が嘘だったとしてもそれを認められないくらいに、この世界の二人に違和感を感じてしまうくらいに、Wはあの二人が好きだった。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎」

 

 リラの綺麗な声が鼓膜を揺らす。

 

「ねえってば、⬜︎⬜︎」

 

「聞こえてるよ」

 

「そっか」

 

 涙を我慢して、Wは二人を見た。

 リラの左目が歪な動きをしていた。

 

「……私、たぶんこれで良かったよ」

 

 リラは右手を少年の方に伸ばすと、少年はそれに自分の手を伸ばした。指を絡めて、リラの顔は彫像のように美しい笑顔になった。

 それが美しいのは彫像のように計算された美しさだからではない。それが残り時間の少ない、儚い笑顔であるからだ。

 

「笑えないよ、リラ」

 

「ごめんね。でも、ありがとう」

 

 心の底から嬉しそうにするリラの顔を直視することができず、少年は苦しそうに俯いた。

 

「あーあ、もうダメだ。私はたぶん、もうダメだよ」

 

 明るい声だった。自分の命を諦めてしまった重篤患者は、せめて未練を振り切ってしまおうと明るい声を出した。

 

「仕方ないよ。私は感染者だから」

 

 そして、その未練を振り切ることは決して出来ないと悟った。仕方ないと口にしておいて何も納得できていない自分を発見してしまった。何にもピントが合わない視界に押し潰されそうな恐怖を感じている自分が居ることを知ってしまった。

 

 リラの目から涙が落ちた。

 張っていた虚勢はどこへともなく消えてしまい、只管零れ落ちる涙を拭うこともせず──いや、拭えないのだった。

 

 正常に動けなくなったのは左目だけではなかった。左腕もそうだった。拭うためには少年と繋いだ右手を離すことが必要で、それがリラには出来なかった。

 少年との手を離せる訳がなかった。歪んで何も認識できない世界で熱を伝えてくれるのは、少年と繋いだ手と、そして胸の奥だけだった。その手を離してしまえば、残るのはきっと冷たい死だけだった。

 

 リラの涙は止まらない。

 

「死にたく、ないよ……まだ、手を繋いでいたい……っ!」

 

 少年の目から雫が垂れて落ちた。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎……っ!」

 

「聞こえ、てるよ……大丈夫。ボクはここに居るよ」

 

 肘掛けから立ち上がり、少年はソファの前に片膝をついた。両手でリラの右手を包み込んで離さない。

 

「どこにも行ったら嫌だよ、⬜︎⬜︎」

 

「どこにも、行かないよ」

 

「私のこと最期まで見ててよ、⬜︎⬜︎」

 

「ずっと、見てるよ」

 

 リラの懇願が少年の顔を歪ませる。声には出さまいと、押し殺して泣いている。それでも少年は滲んだ視界でリラを見続けていた。

 最期まで見ていたかった。もう一秒だって無駄にしたくはなかった。

 

「ねえ、ハグしてよ。⬜︎⬜︎」

 

「……右手、離さないといけないよ?」

 

「右手だけじゃ、足りないんだもん」

 

 リラは溢れ出る涙をものともせず、解いた右手をソファについて起き上がった。ひどく勇気が必要な行為だったが、リラは起き上がることができた。

 瞬間、リラは激しく咳き込んだ。脳の神経を侵す源石とは別に、肺の近くで根を伸ばし始めた源石のせいだった。血液を介して源石は身体中に移転する。末期の患者はそれこそ全身が病巣となり、機能を停止した途端に全てを壊す。

 

 少年はリラの体を精一杯抱き締めた。リラの涙が少年に触れて、少年の涙がリラに触れた。お互いの感情が溶け込むように伝播した。

 

「ああ、もう……嫌だな。私、まだ⬜︎⬜︎のこと全然知らないのに」

 

「そうだよ、リラ。ボクはまだ約束を果たせてない」

 

 リラが自分の左手を引っ張って少年の背に回そうとした。無理矢理にそうしたせいで、少年の作ったぶかぶかのブレスレットは床に落ちた。

 

「あ、ああ……」

 

 拾い上げようと指を引っ掛ける。

 それを腕に通そうとして──ブレスレットが床に落ちた。

 

「やだ、やだよ……っ!」

 

 少年がリラの様子に気付いて、手を伸ばした。黒曜石のブレスレットがまた床に落ちて、少年の指は取り落としたリラの手に当たった。

 

「ごめん、ごめんね、⬜︎⬜︎……っ!」

 

「いいから、ボクに任せてよ、リラ」

 

 少年がブレスレットを手に取って、彼女の左手を彼女の膝の上に置く。分かりやすくその手を手首から上の部分だけ持ち上げてブレスレットを通せば、その重みが彼女に伝わった。

 

 口の端から叫びが漏れた。

 それが始まってしまえば、もう止まることはなかった。

 

 

 Wの頭をやっと眩暈が襲った。

 ずっと、違う世界の人とは言え、自分のよく知る人物の号哭を聞いていたWは、頭がイカれそうなほどの痛みを感じていた。

 それがただの、銃弾が心臓を貫いた痛みであれば、Wにはきっと耐えることもできた。それが胸の奥で存在を主張する、物理的にあるはずのない心が痛むのでなければ、Wはそこまで辛い思いをしないで済んだはずだった。

 

「やっと来た」

 

 Wの方を見て、少年がそう言った。ソファに寝ているリラが、それを聞いて頬を綻ばせた。

 

「リラ、あんた……っ!死ぬなら死ぬって言いなさいよ!」

 

「だって、最近はずっとWが来なかったから」

 

「口答えすんな!ぶっ殺すわよ!」

 

「それは、困るなぁ……」

 

「もっと怒りなさいよ!」

 

「W。もう、やめて」

 

 リラの右手を握っている少年が、今度は振り返らずにそう言った。

 少年の目からは涙がとめどなく溢れている。Wの目からも、同じように。リラはどうにか抵抗していた。少年には自分に縛られてほしくないからだった。

 

「ねえ、W。お願いがあるの」

 

「……⬜︎⬜︎のことなら、あたしは、無理よ」

 

「どう、して?」

 

 Wは両手を固く握った。

 

「あたしが、もうあんた達と会えないからよ……っ!」

 

「なんで、そんなこと──っ!」

 

「あたしだって、気付いていたら言っていたわ!あんた達との別れなんて嫌に決まってるから!でも違うのよ、あたしはきっと本来、居たらいけない存在で!」

 

「どうして、そんなことを言うの?」

 

 リラの目から涙が溢れ出た。自分の死を恐れてのものでも、少年との別れを惜しむものでもない。

 

「私と⬜︎⬜︎はWに救われたの。私しか⬜︎⬜︎をどうにかできないだとか関係なく、Wは救ったの。私の背中を押してくれたの」

 

「違うわ、私なんか居なくてもどうとでもなったの!私が出来たことなんて……っ!」

 

「ボクのブレスレット作りに付き合ってくれたのはWだよ。ボクが一番ありがとうって伝えたいのは、Wだよ」

 

 少年がWの手を取って引き寄せた。

 

「ボクはWのこと大好きだよ。居てくれてありがとうって、居てくれて良かったって、そう思ってるよ」

 

 少年の目から流れる涙は、きっとリラに対しての悲哀だけではなくなっている。Wの許せないほどに低い自己評価に対して、憤りすら感じる悲しみを覚えていた。

 

「W、ハグして?」

 

「……それは、⬜︎⬜︎がやるべきよ」

 

「ううん、私はWにやってほしいって今思ってるよ」

 

 少年がWとの腕を解いてリラの背中に腕を差し込む。起き上がったリラは両腕を開くことすら出来なかったが、Wに抱き締められるくらいは、なんとかやり遂げた。

 

「バカ、W。本当に価値がないのは、本来ならきっと私の方なんだよ」

 

「そんなことないわ……っ!」

 

「……話せなかったな、⬜︎⬜︎に」

 

 涙がこぼれていく。抱き締められていたリラの体はまだ熱を持っているが、源石に侵食されている左腕は冷たかった。

 リラの白い肌が、まるで本当に真っ白な白磁の陶器になってしまったかのようだった。

 

 Wの広げた腕が少年をも巻き込んで抱き締めた。

 

「W、ちょっと痛いよ」

 

「今くらい静かにしてなさいよ」

 

 彼女とは違う。

 リラは、テレジアとは違った。決してカリスマなんて持っていない、ただの一少女だった。王の器なんてものでも決してない。

 しかし、少年にとってのリラはきっとWにとってのテレジアと同じだった。少なくともその思いの丈を自分より劣っていると断じることは、少なくない日々を過ごし、小さくない感情を抱いたWには出来なかった。

 

「私、本当に、幸せだよ」

 

 もう途切れ途切れになっていた。

 リラの命は消えつつあった。

 

 ただそのブレスレットはリラの左手首にしっかりと着けられたままだった。

 

「ありがとう、W」

 

 頷くことしかできなかった。

 

「ごめんね、⬜︎⬜︎」

 

 首を振ることしかできなかった。

 

 本当の意味で、二人の間で『共有』されたリラを想う感情が、二人の心の中を満たしていた。

 

「ごめんね」

 

 リラの命が、消えた。

 

 

 

 

「私はリラ」

 

 

 

 

「ねえ、キミの名前って、なに?」

 

 

 

 

「私の名前はリラって言うの」

 

 

 

 

「知ってるよ、貴女はWって言うんでしょ?」

 

 

 

 

 ああ、リラ(テレジア)

 

 

 

 

いだだだだだっ!!……あは、あははっ!なんだか楽しくなってきちゃった」

 

 

 

 

「私、みんなのこと好きだよ」

 

 

 

 

「泣かないで、泣いてないで」

 

 

 

 

「もう、仕方ないなぁ」

 

 

 

 

「私なんかのために……」

 

 

 

 

「涙は悲しいって伝えるためのもので、それを流すことが贖罪になんてならないんだよ」

 

 

 

 

「全然来ないなぁ、W。私のことなんて忘れてたりして──そんな訳ないか。あの人、私のこと大好きだから」

 

 

 

 

「ごめんね」

 

 

 

 

「言えなくって、ごめんね」

 

 

 

 

 どうして。

 

 

 

 

「これで良かったよ」

 

 

 

 

「本当に、幸せだよ」

 

 

 

 

「未練はあるけど」

 

 

 

 

「笑えない、なぁ──」

 

 

 

 

「本当に、ごめんね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、どうかお願い」

 

 

 

 

「私を殺して」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして、ボク(あたし)の前から居なくなったの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 床へと涙が落ちた。

 それは、アビスの涙だった。

 

「もしボクが言ったことの通りなら」

 

 アビスがアーツを放った後の姿勢のままで、Wに言った。

 

「もし死を恐れることだけが人間だと言うのなら、ボクの心も人間じゃない。間違っている。だって、ボクは死にたいって思ってるから」

 

 アビスの声は少年のそれと似ても似つかなかった。その、『ボク』という一人称を除いて、全て違っていた。

 しかしWは理解した。あの少年は紛れもなくアビスその人だったのだと理解した。それと同時に、アビスの言っていることを理解した。同じ経験をさせられたWにはそれがどういうことか分かっていた。

 

「ボクはこの哀惜を抱えたままじゃ上手く生きられないし、人と関わろうとする度に、ボクはあの恐怖を思い出してしまう。それくらいなら、死んだ方がマシだなんてことをいつも思う」

 

 リラを失った恐怖は、死の恐怖を真っ向から否定していたのだとアビス──少年は言う。失ったことの痛みは耐え難く、それをWもあの世界で知った。

 そしてその痛みは死の恐怖なんかよりもずっとコントロールが難しくて、他の恐怖と混ぜなければ、何度訓練しても乗り越えられなかった。

 

「死の恐怖に抗えないのはきっと人間らしい。突きつけられた銃の前で醜く命乞いをするのは、嫌になるけど、嫌になるほど、人間だ」

 

 少年が片膝をついて、Wを抱き締めた。少し前にケルシーがアビスにそうしたように、優しく。

 しかしそれはケルシーがした抱き締め方ではない。まるで子供でもあやすかのようにWの背に手を回し、頭を胸に預けさせている。まるで同じ孤児院に居る双子でも落ち着かせるように、暖かい体温がその触れた部分から伝わってきた。

 リラとWとアビスで過ごした時間はきっと、アビスの記憶には残っていない。あのWが過ごした時間はWの中で完結している。アビスが明言した訳ではないが、それをWは察することができた。

 

 しかしそうだとしても。

 あの違う世界の少年だったとしても、少年は少年だった。リラのことが大好きで、それさえ同じなら、リラを亡くしたWには受け入れられた。あの二人が居ないことを分かって涙がまた溢れたが、少なくともアビスはまだリラのことを愛していた。

 そもそもWこそ居てはいけない存在だったのだ。あの世界は本当の意味で存在しない世界だったのだ。それを分かることができたから、Wは少年が変わらないままで居るだけで良かった。

 

「でもさ、W。人間は死を恐れるだけじゃないんだよ」

 

 少年の言っていることを、Wは理解している。いや、Wも同じだった。アーツを掛けられる前はそんなことをカケラも考えたことなど無かったが、あの世界を経験して数十秒、Wは既に少年と同じことを考えていた。

 

「きっと、失う恐怖に抗えず、深く沈んでいく中で自ら命を絶つのも、その苦しさを忘れようと狂ってしまうのも、人間らしい──そうよね、アビス?」

 

 溢れる涙をそのままに、Wは笑った。自分を抱くアビスの背中に腕を回して耳元で囁くように言葉を発する。

 

「でもそれは、やっぱり間違ってるんじゃないかしら」

 

 自虐の意味を込めて、そう言った。アビスとWは間違えているのだとWは悟った。

 そしてそれはアビスも同じだった。悟った上で、Wとはまた違う考えをして、結果に行き着いていた。

 

「間違ってるよ。前を向くべきだ。でも、それを否定はしない。ボク達は過去に囚われず前を向くべきだった。それはボク達には無理だった。もう前を向けなかった」

 

「なによ、やっぱり間違ってるんじゃない」

 

「じゃあW。キミは正解を選べるの?」

 

 正解とはつまり、死を恐れることだ。死んでしまいたいなんて思わず、リラやテレジアの死を乗り越えること。同じような喪失感を経験する覚悟をすること。

 

 答えは明白だった。

 

「……離れて。もういいわよ。涙も止まったし」

 

「うん、良かった」

 

 アビスとWが立ち上がった。

 

「ボクは最初、キミなんてどうでも良かったし、本当なら増幅させた死の恐怖で壊そうかと思ってたんだけど、同じような経験をしたならどうにかしたいなって思ったんだ」

 

「良い雰囲気全部ぶち壊したわね」

 

「ボクは間違ってるから仕方ない」

 

「あーあ、まったく。あんた本当に最悪よ」

 

 相変わらず、空気が読めないヤツね。

 Wは口の中だけでそう言った。

 

 銃を拾い、アビスとWは小気味良い会話と共に部屋の真ん中にある椅子の方へと歩んで行った。

 Wはアビスを殺して片をつけるつもりだったし、アビスも同じようなもので、そういうところも似ていたのかも知れなかった。

 ただ、今のWには殺意は毛ほども無かった。どちらかと言えばその逆の感情が、Wの心を侵していた。アビスに言われた言葉も特段響いていなかった。その発言にむしろ安堵したくらいか。もしも変わらず接していたら、自分の感情がどうなるか分からなかったから。

 

「アビス、ちょっと扉の方に行ってもらってもいい?」

 

 椅子を片付けようとしたアビスを止めて、ライサが突然そんなことを言った。不思議そうな顔をしつつも、アビスは広い訓練室の端、扉に近付いた。

 

「Wは、逆」

 

「何よ、何があるの?」

 

「いいから」

 

 ライサの曖昧な返事に訝しみながら、言う通りにした。今はとても気分がよかった。得体の知れない本能的な恐怖から解放され、そして自分の大事なものが一つ増えた。それは今もなお輝いていた。

 

 Wが訓練室の壁に手をついてライサの方を振り返ると、ライサは何かをWの方へ投げようとしていた。綺麗な投球フォームで、振りかぶり──投げた。

 

 それは、ピンの抜かれた手榴弾だった。

 

 そう、ライサはWの椅子に一つだけ転がっていたものを発見していたのだ。残心、そしてガッツポーズ。少なくともこれでWは始末した。自分がどうなるかは分からないが、少なくとも扉の近くに居たアビスは逃げ切れるはず。

 Wとアビスが何やら良い感じになっているのを死んだ目で見つめていたライサはようやく、鬱憤を晴らすことができる。

 

 手榴弾がWの手前に落ちた。

 息を吸い込み、ライサはその怨恨を叫ぶ。

 

「死ねぇ──ッッ!!!」

 

「ちょっ、きゃああああああああっ!!!!」

 

「ラーヤ!?」

 

 アビスの突き付けた恐怖がなくなって、束の間。

 

 Wは最後にもう一度だけ、死の恐怖を感じた。




これにて二章完結です、読了ありがとうございました!
謎はまだまだ多いですが、違和感なく出せていけたら良いなと思っています。幕間を一話用意していますので、それを投稿してから三章の執筆に取り掛かろうかと思っています。

昨日の翌日さん、よくゑたる人さん、あぷっるさん、評価ありがとうございました!
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