【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
「ああもう、後で何かしてもらいますからね」
「仕方ないでしょう。誰かが捕まる必要があったんですから」
手をヒラヒラと振りながら、拘束を解かれた婦人が立ち上がる。側に立つアビスの首に添えられているのは老人の杖だったものであり、その中に仕込まれていた白刃だ。
エイプリルの額から汗が滴り落ちた。
状況がようやく飲み込めてきた。つまり捕縛していた男は護衛の力を測るための試金石兼囮であり、依頼主から護衛を剥ぎ取るために使われただけだということだ。
「シルヴェスター、お前は力を付け過ぎた」
「お、おい、待ってくれ。もしかして……ここに居る全員がそうなのか? 私はもうリターンよりリスクの方が大きいと? おい、そういうことなのか?」
「シルヴェスターさん、落ち着いて──」
「ふっ、ふざけるな! よりにもよって囃し立てた貴様らが私を裏切るなど、どう考えてもおかしいではないか!」
「もう話はついている。お前に儂らが譲ることなどもうありゃあせん」
「ご老公殿、私達はもう食事に戻らせていただいても?」
「ああ、好きにしなさい」
老人の言葉を畏まって受け取り、荒らされていないテーブルへと近づいていく参加者たち。手に持つワイングラスを傾ける者、皿にフォークを突き立てる者、共通するのはシルヴェスターの様子を見て品のない笑みを浮かべていることだけだ。
「少し、交渉をしませんか?」
アビスが老人にだけ聞き取れるような小さな声を発した。仕込み杖の刃が喉に食い込んで一筋の赤い線を描く。
垂れる血に構わず、アビスはまた口を開いた。
「エイプリルはいつも着用している靴をアーツユニットとして強力なアーツを使います。彼女は仲間意識が強いのでまだ逃げていませんが、切り捨てる決断をすればシルヴェスター一人くらい逃してのけるでしょう」
「何が言いたい?」
「あなた方にとっての交渉する意味を一つ提示したに過ぎません」
エイプリルがボソボソと喋っているアビスを見て目を細める。未だ憤激の渦中に居るシルヴェスターのせいで、コータスの耳でも大半の言葉が聞き取れない。
アビスが老人に言った内容を噛み砕けば、護衛を一人拘束する程度ではシルヴェスターの首を取れない、ということだ。
アーツユニットであるとされる靴を脱がせようとすれば逃げられるかもしれない。老人は武器が弓矢だという点で既に物量差で勝った気で居たが、それが崩れかねない。
「ボクは彼女のアーツを見慣れている。あなた方の護衛では難しいでしょうが、ボクならどうにかできます」
「それが本当か嘘かも分からんのにか?」
「……では、譲歩しましょう。ボクを彼女たちから離してください。ボクでは彼女の助力無しにあなた方を倒せませんし、彼女が簡単にボクを解放することもできなくなりますから」
「それが通ると思っているのか?」
「ボクにとって生き残る術は裏切るしかありません。それをあなたは分かっているのではないですか?」
捨て駒になる気はありませんよ、とアビスは嘯いた。
老人は元よりシルヴェスターのみが標的で、もしアビスの言っていることが本当ならば既に策は薄氷の上。逃してしまえばガードを固められてもうチャンスは巡ってこないだろう。
エイプリルの厄介さに老人は歯軋りをする。
そもそも、男との戦闘でアビスとエイプリルは無力化できると思ったから本性を現したのだ。計算違いにも程がある。
目の中を覗き込む。
アビスの瞳は冷えていた。まるで誰も味方などと思っていないような男の目だった。
エイプリルとアビスの間にこうも温度差があるのならば、アビスの言う通りにすれば勝ち筋はある。
それに我々の護衛がいる限り、無闇矢鱈と反旗を翻すこともないだろう。
「いいだろう。シルヴェスター共を壁際に追いやり、お前は儂らの護衛に包囲させてもらう」
「ええ、構いません」
老人が杖を構え直して、声を張り上げた。
「おい、エイプリルとやら! そこのシルヴェスターを連れて壁まで下がっておれ!」
「アビスに何をする気なの?」
「なんでもいいじゃろう。それとも、お主がこの杖を引く原因となってしまうのかのう?」
「……はいはい。分かりました」
無事に済ませるためには、これしかなかった。
アビスのアーツでは、これしかシルヴェスターに傷をつけず済ませる策がなかった。
扉から離れた壁際へと、エイプリルがシルヴェスターを引っ張っていく。参加者は老人とアビスの居る扉の方に寄ってきた。
アビスは密かにポケットに手を入れると、中に入っていたナイフを取り出した。
ナイフを真っ当に使うのではない。それは男が使っていたアーツユニットであることに意味があるのだ。
「使いたくなかったんですけどね」
その言葉が紡がれた時、アビスの首筋へと当てられていた刃は既に床へと落ちていた。
アビスを捕まえていた老人──ハオランは、龍門に根を広げる源石製品の流通を調整する重役の一人である。
元々は移動都市でもない山村の地主の後継者であり、野山を駆け巡り野生の動物を仕留める狩人として活動する予定だった。
ハオランの人生における最大の転機とは、立ち寄った旅人がハオランに一冊の本を売ったあの時だろう。
山村では珍しい新たな本に興奮したハオランは昼夜問わずその内容を読み込んだ。いつもいつでもその本を持ち歩き、隙を見つけてはページを開く。そんな熱中具合だった。
その本は、とある貴族の成り上がりを描いた小説だった。
小さな小さな貴族が源石の持つ未知の可能性に気付き、それを元にして他の色々な分野でもその慧眼を発揮して、終いには最高位爵位を王から賜り、ハッピーエンドで締め括られた。
それ自体のストーリーも大変良かったのだが、ハオランが何より読み込んだのは、詳しく書かれた源石の利用方法やその凄まじさだった。
ハオランは田舎の山村で生活しているため、鉱石病に罹患するリスクは知っていても、源石製品というものをとんと見たことがない。ハオランは敵対した貴族との抗争ではなく、優美なヒロインでもなく、純正源石の挿絵に魅了され、貴族そっちのけで夢中になっていた。
そして、見つけたのだ。
自身の所有する山に露出している鉱脈の一部が、貴族が源石鉱脈を見つけるための重要な特徴として描写していたものと丸っ切り同じ様子だということを。
代々溜め込んできた地主としての財を全て換金して、ハオランは源石坑を開設した。元採掘者であるレム・ビリトンからの逃れ者達を雇えたことも大きかった。
小さな山村には元より鉱石病に罹患して差別から逃れてきた住民も多く、企業からの差別に苦しんで故郷を離れた彼らにとって、ハオランの源石坑は非常に都合の良い契約先だった。
ハオランはその後源石坑の採掘から源石製品の生産業を一人で取りまとめ、とうとう移動都市の一角を占めるまでに至った。
突然出現したハオランを追放しようと何人もの暗殺者が駆り出されたが、誰も山育ちのハオランを仕留め切れる者は居なかった。
暗殺者の凶刃を掻い潜り、その依頼主であるライバルの喉を掻き切ってやった。ハオランに敵う者は誰も居なかった。
何度も死戦を潜った。何度だって振り下ろされたナイフを寸前で回避して、カウンターの拳を叩き込んでやった。
首に押し当てていた杖は震える手が取り落とした。突然感じた腹部への衝撃に吹っ飛ばされてへたり込んだ。ヴイーヴルの青年が尻尾を揺らしながら、離れたハオランへと足を進める。
ハオランには周りへ助けを求める声を発することができなかったが、もし出せたとしても意味はない。
「それでは」
「ああっ——、あああっ——、うあああぁっ!」
体に纏わりつく緊張に耐えきれず襲い掛かった護衛の一人にナイフを刺して突き飛ばし、アビスはハオランへと向き直った。
見せしめの効果を狙っていたのであれば、それは大成功だった。アビスの道を塞ぐはずの護衛はもう誰一人として動くこと叶わず、ただ震えながらアビスの目が自分に向かないことを祈っていた。
「名も知らぬご老人」
振り上げられたナイフ。
今まで幾度と掻い潜ってきた血濡れのナイフ。
「さようなら」
ナイフが人を裂く音がして、会場は騒音に包まれた。
恐怖に耐えきれなかった参加者たちが滂沱の涙を流しながら今まで笑っていたことをアビスへと謝罪し、そのナイフの向きを逸らす努力を始めたのだ。
それができない者は、ただ恐怖に耐えきれず死にたくないと泣き叫んだ。みっともなく喚いてガラクタのように呪詛を垂れ流した。
エイプリルとシルヴェスターが耳を押さえてアビスの方へと歩み寄る。
アビスが事前に伝えた注意事項は一つだけ。
アビスがアーツを使うほど追い詰められた時は、敵よりもアビスと距離を取ること。
エイプリルが文句を言ったのは、首にナイフを当てられた状態ではアーツ行使も儘ならないだろうと危惧してのことだ。
杞憂ではあったが、それがハオランを欺く一助となったことを考えれば寧ろファインプレーだったと言えるだろう。
「シルヴェスターさん、危険に晒してしまい申し訳ありませんでした」
「いや、充分だったよ。この会食自体が罠だと知っていなかった身からすれば、命が拾えただけでも儲け物だ」
シルヴェスターは清々しい微笑みを顔に描きながらアビスとエイプリルに握手を求めた。アビスは同じように微笑んでいたが、エイプリルは流石に騒ぎが気になるようで、浮かない顔をしていた。
次いで、シルヴェスターも部屋に充満する阿鼻叫喚の騒ぎへと視線を移した。
「どんな手品を使ったので?」
「ただのアーツですよ」
「ふむ……」
一言で簡潔に答えたアビスにシルヴェスターは髭を弄る。源石を運用する都合上アーツにも少しは触れているが、ここまで大規模で効果的なアーツは聞いたこともなかった。
鋭い眼光がアビスを貫くが、それを遮るようにエイプリルが身を乗り出した。
「シルヴェスターさん、それよりもここを片付けましょう。ねえアビス、アーツはどれくらい掛けてられるの?」
「……それなんですけど」
アビスは頭の後ろを指で掻いた。
「この事態は副作用のようなもので。不可逆なんです」
「はあ!?」
「ふむふむ……今なんと?」
アビスはなんとも言えない顔をして、頭の後ろを掻いていた。