【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
いっそのこと書き溜めをせず二、三日に一度投稿するスタイルにするかアンケートでも取るべきでしょうか……
午前九時、執務室にて。
飾り気のない鞄を引っ提げたドクターは、前日から引き続いて書類業務を任されたアビスと視線を合わせていた。
「どうしてボクなんですか」
尻尾がゆらゆら揺れながら、しかし時々ピンと強張る。バイザーがあるのでアビスにはバレていないが、ドクターはその真剣な嘆願を真面目に受け止めていなかった。
「だって暇だろ?」
「暇じゃありませんよ。訓練とか鍛錬とか」
「ケルシーから禁止命令が入ってるんじゃないのか?」
「……まあ、それはそうですが」
アビスが頬を掻くのを──実際には尻尾を見ているがアビスにはそう見えた──見ながら、ドクターは一度置いた鞄を再度持ち上げた。
ドクターの言っていることはちゃんと裏が取れていて、アビスと近しいオペレーターがここ最近忙しいのだと知っていた。だからアビスに頼んでいるのだ。
「予定はありますよ、色々と」
「例えば?」
「修練だとか、あと修行だとかです」
「全部同じだし全部ダメだろそれ」
「否定はしません」
一体何が言いたいのか。呆れたドクターは一つ大きなため息を吐くと、「書類よろしく」とだけ言って出て行った。
残るのは昨日よりは心なしか薄いだろうかと思われる書類の束と、大きな権限を持つ三人のうち一人だけ艦内に残るということで稟議の対象を一時的に統括したケルシーのみだった。
そう、アビスはケルシーと一緒に業務をすることになる。
悪足掻きもケルシーと一緒の空間で仕事をしないため、そしてその意思をドクターは遂に汲み取らなかった。
「アビス」
「はい」
ケルシーがドクターの椅子に座って足を組んだ。憮然とした表情のまま腕を組み──その右手の親指で秘書の席を指した。
「座れ。さっさと終わらせる」
「はい」
ぎこちなくなりながらもアビスは腰を落ち着かせた。ペン、印章、朱肉の三点セットを引き出しから机に出すと、丁度ケルシーも準備を終えて、二人の間あたりへと壁を作るかのように書類の束が置かれた。
両者共に上から取れるように、だろう。ケルシーは一先ず一番上に乗っていた医療関係の書類数枚をセットにして取った。
「アビス」
朱肉に印章を押しつけ、ケルシーが言った。
アビスは改築関係の書類を自分の方に置きつつ増築や改造を主とする書類をケルシー寄りにズラして束の上に置いた。
「はい」
アビスが朱肉に印章を付けると同時に、ケルシーは一つ目の捺印を行った。
「私は本気だ」
何を言っているのか、とは思わない。恐らくは
アビスがロドスへと持ち込んだ不必要な荷物。それは時々目敏いドクターによって宿舎に飾られそうになったりしていたが、未だアビスはそれを保持し続けていた。
「お前がどう思っているのかは知っている」
アビスが一つ目の押印を。
ケルシーがもう一度朱肉へと。
「だが私はお前の命を可能な限り引き伸ばすことが、お前の過去よりも大切だと思っている。『彼女』とやらに殉ずるとしても、ロドスの目と手が届かない場所でのみそれを許そう」
ケルシーが二枚目の書類を横に流して三枚目を手に取った。
しかしアビスの手は止まっている。アビスの印章は未だ手にあり、押印の済まされた書類が一枚アビスの前に置かれていた。
ケルシーもそれを見て動きを止めた。
「ケルシー先生、やっぱり貴女は分かってない」
アビスは軽薄にそう言った。
ケルシーの発言は分かりにくかったが、つまり『没収はお前のためにやることだから、やめるつもりはない。どうしても止めたかったらさっさと過去を捨てろ』ということだ。
セリフの後半部分に意味はない。アーミヤを筆頭とするロドスの救いの手は、哀れなアビスを捕らえて逃がさない。前半の補強として加味するとしても、『過去を捨てろ』の部分が強調されるくらいか。
それを、アビスは鼻で笑った。
「ボクは子供なんです。ただただ『彼女』のことが好きで好きで堪らない子供。少なくともその中には生と死なんて介在しません」
「……どういうことだ?」
「ベースはきっとそれなんです。生への執着も、死への恐怖も。ボクを作っている土台は『彼女』への恋心。それに応えているだけなんですよ」
アビスが生きたいと願うのは、死への本能的な恐怖があるからだけではない。アビスの生を願うリラの気持ちに応えることと、リラから貰った、遺品とさえ言える源石にのみ殺されたいからだ。
例えばリラがアビスと一緒に死にたいと言っていればアビスは死んでいたかもしれない。そんなものだ。
まあリラはそんなことを言えたはずもないだろうが。
一番現実味があるのは、恐怖に押し潰されそうになったリラが嫉妬して怨嗟を吐くというものだろう。つい死に際に零してしまった羨望の言葉が少年の首にナイフを突き立て、少年は命を投げ捨てるのだろう。
まあそれはあり得た可能性の一つに過ぎない。少なくともこの世界でのリラはアビスの生を願い、それを確かに受け取っているのだから。
そしてそれと同様に、アビスが死にたいと願うのもリラありきのことだ。リラが死んだこの世に用などほとんど残っていない。万一リラに次ぐ存在を見つけたとしてもそれを失う悲しみが発生してしまう、現世では大切な人を失うこともあると知っているアビスには、きっと地獄よりも生き辛いのだろう。
アビスの生を繋ぐのは、リラがそう願ったのと、アビス自身もそれを恐れているから。優先順位は今言った順番の通りだ。
そしてあの出来事からもう六年近い。アビスはもう満足していた。リラの居ない世界で六年も過ごすということは、アビスにとって、ふとした瞬間に耐え難い程の喪失感を味わわせる拷問だった。
ちなみに
しかし一番大きい理由として、大切な人を失ったことのない相手がその悲しみを我が物顔で感受するのは、大切な人を失ったアビスにとって度し難かったからだ。
同類でなければ共有することも拒否する。その悲しみに対して、アビスは歪な価値観を持っていた。それが意図せずリラに捻じ曲げられたものなのか、それともアビス自身の感情が捻じ曲げたのかは分からないが。
とにかく、アビスはリラが大切で、人生観並びに死生観までもそれを土台とするほどだった。今も誰かを押し潰しているかもしれない死の恐怖は、アビスの殺されたい欲求より小さかったのだ。
「だが、そうだとしても……」
「ケルシー先生には理解されないかもしれませんが、一応言っておきましょう」
そしてそんなアビスがロドスに居る理由は。
「好きな人に見合う人でありたい。ボクはリラのことが好きだから、格好良く有りたいと願って生きています。そしてそれが痛苦を押さえ込み、修練を弛まない人だとボクは思いました。強さは、その一つです」
「だから、お前はロドスにしたのか」
「はい。黒い噂がなかったとしても研究施設であるライン生命には恐らく入りませんでした。BSWは経歴が不足しています。不問としているのはこのロドスだけ──感染者と非感染者の両方を救うというのも良かった。とても、格好良かった」
「……」
ロドスの医療分野でのトップとして、ケルシーにはなんだかむず痒く感じる言葉だった。だがそれ以上に、あのアビスがここまで幼稚な考えに突き動かされていたのだと知って驚愕している。
「ボクはケルシー先生が思っているより子供です。薄っぺらいでしょう?ボクの価値なんて所詮はそんなものです」
アビスは印章を朱肉に押し付けた。
凹む朱肉、赤く染まった前面の印。
ケルシーの印章は、動かなかった。
「腑に落ちない。それならば何故あの時は、ニェンから逃げるためにロドスを抜けようとした?」
「子供ですから、そういうこともあるでしょう」
「いいや、お前はあくまで一貫性を持って生きている。それこそ、私にそれらしい嘘を吐いて誤魔化すことを辞さないほど真っ直ぐだ」
「……そう、ですか」
ケルシーは断言する。もしアビスが子供だったとしても、それだけは騙されることもなかった。それもそうだ、アビスに初志を貫徹するだけの意思がなければとっくのとうに過去など忘れているだろう。今のアビスが居ることこそ、今のアビスがそうである証明となるのだ。
時にはエリートオペレーターでさえ、アビスのことを対等に扱う。それは詳細こそ話さないがアビスに助けられたと言っているAceや、アビスのアーツユニットである短剣を手がけたMechanistなどがそうだ。時折書類の届け先になるOutcastも、アビスを軽くは見ていない。
アビスは子供だが、真っ直ぐだ。
「お前の鉱石病が進行した原因。そうだ、確かお前はラーヤ、そしてWと共に騒ぎを起こしたな。──そこで何かあったか」
アビスの目がケルシーの目と交わる。
その一瞬だけで、ケルシーは肯定と判断した。
「ラーヤからではないだろう。恐らくはW、となれば持っている情報は二択、お前と関連がありそうなのはやはり、レユニオンか」
「決め付けるには論拠が足りないのではないですか?」
「私をそう簡単に騙せると思うのなら、それはお前の自信過剰ということになるだろう」
「……その通りでは、ありますが」
迂遠過ぎるやりとりではあったが、つまりケルシーの言った通りのことだった。アビスはWに何かを伝えられ、それは今のアビスをロドスに縛り付ける何かだった。
分かりやすく整理しよう。
そして『子供ですから、そういうこともあるでしょう』というアビスの発言が蘇る。
アビスのこの発言を噛み砕くと、格好の良いことが土台にあり、あの時だけ覆っていたということになるだろう。確かにそれで説明はつく。
しかしその言葉はケルシーの『お前は一貫性を持っている』という言葉に否定され、その指摘が否定されることはなかった。つまり、この正当なはずの発言はどこかが間違っているのだ。
『子供だから、優先順位が簡単に変更される』
一貫性を持たせつつ辻褄を合わせるためには、『優先順位の変更』は否定せず、『子供だから』という理由の部分が否定される訳だ。
よって、現在のアビスと
その間にあるイベントなど訓練室爆破事件くらいのものだ。そこでいつもは接触していないWとの会話で何かが起きたのだと推測するのは正しいだろう。新情報の入手による優先順位の変更は正当であるだろうし、少なくともアビスの言う「魔が差した」だとか「気の迷い」だとかよりは信じられる。
「一体あの一瞬でどこまで考えているんですか」
「だから言っているだろう、私を騙そうと思わないことだと。まあこの程度ならばドクターやアーミヤも分かるだろう」
「信頼が重そうですね……いえ、厚いのは良いことですが」
苦笑混じりに印章を置き、ペンを取った。
「何があった。何を伝えられた」
「今は、書類に集中しましょう。さっさと終わらせたいと仰っていましたよね」
「ラベルも見ず薬瓶を並べるバカは居ないだろう」
「ボク以外には関係のないことですから」
アビスはケルシーの方を見ず否定の文句を繰り出した。尚も何か言おうとしていたケルシーは、しかし思いとどまり口を閉じた。アビスが無関係だと言うのなら、そしてそれが結果的にロドスに留まって延命措置を受けることに繋がるのなら、ケルシーはそれで良かった。
そうだ、アビスが何も言わなかったとして、ケルシーの被る被害は無いに等しい。アビスをロドスに縛り、鉱石病を安定させる。その間で過去に一区切り付けたのであれば良し、付けられなくともやりようはある。
聞いてしまう方が悪い結果になることは見えているのだ。ケルシーはここで聞かない方が良い。聞くべきではない。
だが、アビスの未来をより良いものとするには、それで本当に正しいと言えるのだろうか。
『子供が我々の希望であることは不変である』
『君は大切な存在だ』
アビスは約束を履行した。
ただの口約束を守り、アビスにとって何よりも触れられたくなかった大切な過去をケルシーに話した。
その相手を前に自家撞着などしたくない。相手が覚悟を決めて曖昧なルールを守ったというのに、そんな裏切るような真似をしたくはない。
アビスのためには、聞くべきだ。だがアビスの命を守るためには口を閉じているのが正しいだろう。
ならば、やはり口を閉じるべきなのだ。アビスの意思よりもアビスの命を優先すると言ったばかりなのだから、ケルシーはアビスの意思など聞かず、目的なども黙殺し、ただ強制的に延命させるだけでいい。
命あっての物種、と言うだろう。死んでは何もかもお終いなのだから、命は何よりも優先されるべきもののはずだ。心が壊れても、生ある限り治る可能性はある。
意思なんて重要ではない。命こそ、守られるべきだ。
「ケルシー先生」
「……なんだ」
「ボクのことで悩む必要はありませんよ」
あと権限的にボクの処理できない書類が──。
悩む必要はない、そう冷たく突き放したアビスによってケルシーの耳と尻尾が少しだけ傾いた。
アビスは気づいていない。
「それに、ロドスの手はまだまだ小さいです。ハッキリ申し上げると、
アビスは格好良くありたい。自分の人生はリラが消えた時点で、既に見切りをつけた。ロドスの礎となるのは一番の死に方でなくとも、納得できるほどに諦観している。
極論アビスは──Wから伝えられた
カーディやポデンコは代わりになり得ない。結局のところリラはもう死んでいて、この世には居ない。それが覆されない限りアビスの生は、アビスにとってほぼ無価値なものだ。
そろそろ限界は見えてきた。繰り返し押し寄せる吐き気や腹痛がそのタイムリミットを伝えている。
ようやくケルシーは、アビスの笑った理由が分かった。殉ずる──後を追うなんて表現は、笑ってしまうほど不適格だ。アビスの行動は、リラを追ってのものではない。
アビスはリラに会うため死ぬのではない。
リラの居ない世界から逃げるために死ぬのだ。
死ねばリラに会えるなど幻想と分かっている。今の世界を生き延びても意味などないと分かっている。だからせめて格好良くありたかった。所詮その程度のことだ。
過去のために生きる?前を向く?アビスの脳内にそんな思考は一片たりとも存在しない。ただ只管に自己満足のために生き、そして死ぬのだろう。
「そう、無駄なんですよ。ケルシー先生は、感染者を救う格好の良い人でしょう。ボクに手間取られて他の人を救えないなんて目も当てられませんし、ボクが嫌です」
自分のために、他人にそれを強要する。それをされた人がどんな風に受け止め、そしてどれだけの影響を受けるのかも分からないままにアビスは言葉を紡ぐ。
それは、いつかアビスがリラにそうされたように。
アビスを六年近くこの世に縛りつけたように。
「ロドスが格好良くなくては、ボクの三年が報われませんからね」
ケルシーの心を縛り付ける。
「さぁ、さっさと終わらせましょう」
アビスは気付かない。
「……そう、か」
ケルシーの顔が曇っていることに、書類を手に取ったアビスはとうとう気付かなかった。