【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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三十六 利己的思想

 

 

 そーっと扉から顔を出し、通路に誰もいないことを確認した。音を出さないように細心の注意をしつつ、夜中の館内を疾走する。

 食堂の前を通ろうとして、扉の横にピッタリと体をつける。中には夜食でも作っているオペレーターが居るのだろうか、まだガチャガチャと騒がしい。

 

 気付かれることはないだろうと思っているが、だとしても今自分の敵側に立つ相手は強大だ。少しの違和感からも全てを推理するに違いない。

 食堂を離れて、人通りの少ない通路へと忍び込んだ。あまり地理に詳しくはないが、確か食堂を迂回できたはずだ。

 

「何してるのよ」

 

 抜き足差し足で通路を進んでいたアビスをシーが呼び止めた。アビスはすぐに表情を取り繕ったが、自分を見た瞬間に面倒臭いと顔に出したのをシーは見逃していなかった。

 

「……こんばんは」

 

「ええ、こんばんは。今夜もそれなりに良い月ね、絵の題材には──ちょっと、待ちなさいよ!?」

 

「まだ何か?」

 

「話の途中、っていうか始まりじゃない!なに自然な動作で私に背を向けてるのよ!斬るわよ!?」

 

「静かにしてください、今何時だと思ってるんですか」

 

 シーが背後に手を回した。

 扉の奥から取り出したのは小自在だった。アビスを威嚇するように爪を照明に反射させ、シーはその傍で剣の柄に手をかけていた。

 アビスは当然のように待機していた小自在にツッコミたかったが、シーに睨まれて口を噤んだ。

 

「それで、こんな時間に何処へ向かってるのよ」

 

「甲板にでも、と」

 

「ここを通る意味が分からないわ」

 

「元から気晴らしが目的でしたから」

 

「じゃあその手に持っているタオルと水筒は何よ」

 

「……」

 

「確かあなた、最近鉱石病が進んでるって言ってたわね。こんな夜中に外を出歩くのなんて、何か禁止されていることでも……」

 

「さようなら」

 

「待ちなさい、『格子』!」

 

 墨のような何かが浮き上がり、シーの振った剣と同期したように、アビスの行手を阻む格子が通路に現れた。

 

「規律を破るなんて感心しないわね」

 

「シーさんが言えることではないでしょう」

 

「あらそう、それで?それがどうしてあなたのルール違反を見逃す理由になるのかしら?」

 

 この自由人め。そんな視線に込められた思考をシーは多少受け取れていたが、全く気にした様子もなくアビスを見ている。

 

「シーさん、確かにボクは今から言いつけを破るつもりです。しかしそれはしておいた方がいいと判断したからであって、決してボクがそれをしたいからするのではありません」

 

「ならそれをケルシー先生に言いなさいな」

 

「ケルシー先生はボクのことが嫌いなので」

 

「……拗ねてるの?」

 

「違いますよ、そのままの意味です」

 

「へえ、それで言っても無駄だって考えた訳ね。──いつからそんな馬鹿になったのよ」

 

 オペレーターの中には事務能力が著しく低かったり、一芸に秀でている代わりに基礎的な考え方が欠如している者もいる。だがその中でアビスは、協調性や社交性こそあまり見られないものの、社会人として及第点レベルに弁えていた、はずだった。

 実際には子供のような考えで秘匿していた過去こそあったが、それでも夜中にケルシーの目を盗んで何かをするような人物ではなかった。

 

 ルールを守ることは大切だ。ほぼ形骸化しているものや、時代錯誤の理不尽なものは兎も角として、ケルシーの定める理性的なルールは守られるべきだ。

 アビスの鉱石病が進み予断の出来ない今、ルールの枠内でより一層慎重になるべきだと誰もがそう思う。

 

 正しくアビスは馬鹿で、そして。

 

「子供ですから」

 

「まあそうね。私から見ればあなたは子供、それこそこんなくらいの子供よ」

 

「ボクはオリジムシか何かですか」

 

「……ゴホン、それはいいとして、よ。結局何をしようとしていたの?それを言えば通してあげなくもないけど」

 

「訓練室に少々」

 

「誤魔化すまでもなく訓練じゃないの」

 

「そう言っても間違いではありませんね」

 

 小さくシーの筆が揺れて、アビスの額がデコピン程度の力で弾かれた。そのボケが意図的なのかそうでないのかは分からなかったが、アビスの脳内が異常事態であることは分かった。

 

 そしてシーが再度筆を構え、アビスの方に向けた。

 だがその筆はゆらゆらと空を彷徨うばかりで一向に振られることがなかった。それを躊躇っているのか、それとも何かを待っているのか。源石灯が突如明滅し、アビスからはシーの表情がよく見えなくなった。

 

 そうして少しの間見つめあった後、シーは筆を下ろしてため息混じりに呟いた。

 

「月日に関守なし」

 

「関守?」

 

「本当、早過ぎないかしら」

 

 シーが筆を横に振ると、同期しているかのように墨色の格子は壁に溶けていった。シーはそれきりアビスの方を見ることなく、俯いたように画仙紙を睨むシーの顔はより一層観察することが難しくなった。

 アビスが小さく別れの挨拶を言うと、それにまた小さく別れの声が返された。以前は返されることのなかったそれにアビスは片眉を上げて、しかしシーと同様彼女の方を見ることはなかった。

 

 何かが変わったのだろうとは分かっても、それが具体的に何なのかアビスには分からなかった。アビスにはまだ優先するべきことがあって、そのために訓練は必要で、シーに思考を割くのはその後でも出来ることだった。

 だから少し立ち止まりはしても、アビスが振り返ることはなかった。シーの視線がアビスの元にないことが分かっていて、もう一つ言うのならシーが繊細だと全く思っていなかったことも起因していたのだろう。

 

 

 アビスの背が向こうに消える。

 

 一つ息をついて、シーは筆を置いた。画仙紙には未だ筆をつけておらず、そも筆に墨をつけてすらいない。何故真剣そうな顔を作っていたかと言えば、それはただ単にアビスをやり過ごすためだった。

 手慰みに懐中時計を小さく描いた。少しだけくすんだ金色に塗られているそれを手に取って、思いっきり向かいの壁へと叩きつけた。

 ニセモノはある種本物よりも忠実にその役割を熟す。叩きつけられた衝撃によって捻じ曲がった針が動き出した。規則正しい音を通路に響かせて、それがより一層不快に思えた。

 月日に関守は居ない。今アビスにもし関守が居たのなら、それはきっと自分だった。止められるのは自分だけだった。それを分かっていて、自分は何もしなかった。

 

 アビスは酷く利己的な存在だった。自分本位にしか物を考えられない、言うなればレユニオンにでも居るようなオペレーターだった。

 シーの長い髪がその目を覆い隠す。髪の隙間から覗いている口元は醜く歪められていて、横穴の壁についている手は固く握り締められて震えていた。

 

 シーが扉の内に普段から引きこもっているのは、どうしてなのか。それがもし自分を守るためなのであれば、その意味がとうに消えてしまっていた。

 目に見えないものは描くことも出来ない。例えば心なんて不確かなものがどんな形をしているのか実際に見えないし、それを描いたところで発する熱まで再現することなどシーにすら叶わないだろう。

 況してや、目に見えず、知ることすら出来ないものはより一層描くことが出来ない。心の傷を癒す何かだなんて、胸の奥に出来た穴を埋める何かだなんて、シーには描けない。

 

 だがそんなことは考えるのはきっと無駄だ。

 描いたそれが目に見える確かな存在だったとしても、それが自分の心を癒せる何かだったとしても、きっと虚しくなるだけなのだから。そうまで独り善がりになれるのは、きっとアビスだけだ。

 

 アビスは自分勝手だ。優先順位なんて自分だけにしか分からないものを勝手に作って、本来あったはずの笑顔を残すことなく、いつのまにか消えしまうのだろうから。

 

 

 笑ってくれていたじゃないか。

 歪な格好良さを追求することもなく、たった一人で大勢の敵を相手にする訳でもなく、自分の中に苦悩を覆い隠すのではなく、アビスは自分とエイプリルと、笑えていたじゃないか。

 

 

 懐中時計が時を一定に刻んでいる。だがそんなものはまやかしだ。科学なんてものが時の流れを証明していたとしても、生物が時間の速さを錯覚する以上、それは間違っている。

 時間の速さは一定じゃない。時計が針を動かすのは一定でも、時間の流れは一定じゃない。誰だってそれを知っている。誰だってそれを思っている。

 ただ、アビスはどうだろうか。そんな益体もない思考は切り捨てて、優先すべき事柄に向かって一直線に進むのではないだろうか。それは酷くつまらない、褪せた人生だ。シーにはそう思えた。

 

 シーが頭を掻きむしる。

 こんなはずではなかった。その後悔は今さっきのことに限らず、アビスと関わりを持った自分の行動全てに向けられたものだった。

 

 アビスに現前している鉱石病の死は、アビスだけに影響を与えるものではない。アビスの感じる死の恐怖が押し潰すのはアビスだけでない。

 

 人が死んでいくのを、シーは見ていたことがある。それは数え切れないほどの回数で、それは救えないくらいの重量でシーの心にのしかかった。

 アビスがどうなるのか知らなかった訳ではなかった。淡い光の群れとなった人だって知っているのに、それが想像できないようなシーではなかった。

 アビスだけではなく、エイプリルもいつかは死ぬ。ロドスもいつかは滅びる。

 

 ずっと分かっていた。覚悟していた。只人と関係を持つことが何を意味するのか知っていたから、何度だってアビスを突き放すように拒絶した。

 それでもアビスはいつも苦々しく笑うだけだった。ロドスでここが一番落ち着くのかもしれない、なんて。まだビスケットも食べていない頃にアビスはそう言っていた。

 強引に突っ撥ねることが出来ない訳ではなかった。まだもっと子供らしかったアビス程度、口先で丸め込んでその場から離れさせることすら造作もなかった。

 だがシーがそれを出来なかった時点で、もう後戻りなんて出来ない。一度絆された時から、アビスの死まで見届けるかもしれないと覚悟を決めていた。

 

 アビスの死にショックを受けるのはシーだけではない。エイプリルだって、きっと少なくない時間アビスの死を悼むだろう。あのコータスに至っては後を追うことすらあるかもしれない。

 今になって接する相手を増やすだなんて彼は何を考えているのか。まるで冥土の土産に楽しい時間を過ごそうとしているようで辛かった。巻き込んでやろうとでも思っているのか。だとしたらそれは成功だ、これ以上もないくらいの成功だ。

 

 訓練に行くアビスを引き留めなかったのは、諦めからではない。格子を消したのは、間違ってもアビスの死を欲しているからではない。

 

 それは、シーが自己中心的だったからだ。

 彼に死んでほしくない、その行動を今すぐに止めたい。そうは思っていても、それのせいでいつか吐かれるかもしれない彼の怨嗟がシーの口を閉ざした。

 救った相手が自分への怨恨に染まる光景。どうして止めてくれたんだと詰め寄られたなら。罵声を口の中で押しとどめ、堪えきれない怒りを秘めながら自分から離れていくアビスをいつか見ることになってしまうのなら。

 

 そんなことを想像しただけで、そんな未来を想定しただけで、言う気は残らず失せてしまった。

 

 

「別れを恨んでは、鳥にも心を驚かす」

 

 

 そんな詩をシーは思い出した。

 彼にとってその『別れ』とは、家族との惜別だったのだろう。

 

 自分にとってその別れはきっと、少しだけ違う。

 ニェンとの別離を悲しく思うことはあっても、それを惜しむことはない。使い古された表現技法が捨てられるのは、民衆の心が動かされる絵が変わってしまうのは仕方のないことで、その変化を否定するようなことはしない。

 だからニェンや自分が御役御免になったとしても、それを惜しむべきではない。残念ではあっても、失われるには失われるだけの理由が存在するのだから。

 

 だからシーにとっての『別れ』は、理解者の喪失ではないか。

 

 生きるために足掻けばいい。

 その姿が一番好きで、応援したくて。

 

 

 

「どうか、彼が救われますように」

 

 

 

 その言葉はきっと、何よりも利己的なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 握り固めた拳から血が垂れた。

 訓練室の中、転がっていた瓦礫に叩きつけた結果だった。

 

「体が鈍っている……いや、違うはず」

 

 少しだけ意味ありげな態度を見せたシーに後ろ髪を引かれる思いで訓練室に来たアビスは、久しぶりに体を動かした。ここのところ検査が多く、数日前に入れていたサリアとの訓練もケルシーによって取り消された。

 あの時に比べれば幾分か和らいでいる腹痛や頭の熱を誤魔化しつつ、アビスは軽い運動から始めた。

 

 準備運動のサーキットトレーニングを終えたアビスが本格的な筋力トレーニングやアーツ練習を行う前に軽い気持ちで始めた感覚の擦り合わせ。

 尻尾で掬い取った瓦礫を叩き割り、どの程度上手く自分のイメージ通りに出来ているのかを少し見ようとしただけだった。

 

 瓦礫は割れた。自分のイメージ通り、そこまでの乖離も見せず粉砕することが出来た。しかしそれにぶつけた左手の甲から血が流れた。

 血を拭い取ればもう流れ出ることもなくなったが、明らかに異常だ。以前より鈍って攻撃の威力が低くなることならまだしも、あの特に硬くもない*1訓練室の素材を割ろうとして自分を傷つけるなんてありえない。

 そも、アビスの物理強度は種族由来のものだ。それを最大限伸ばそうと努力していたのだから、一ヶ月にも満たない時間でそれが低下するなど前代未聞だろう。

 

 しかしその答えは既に判明していた。

 

「お前の鉱石病が進んだからだ」

 

 訓練室の扉が開いていた。

 姿を見せたのは数時間前までアビスの検査をしていたフェリーンの女性──つまりはケルシーだった。

 カツカツとヒールから音を鳴らしながら、ケルシーは訓練室に足を踏み入れる。

 

「どうして、ここに」

 

「知る必要はない。一つ言うとするならば、ロドスはオペレーターが好き勝手できるほど艦内の設備に手を抜いていない」

 

 アビスの問いへの答えはケルシーのポケットに入れられた端末にある。ケルシーの端末はクラッキング対策及び冷静な思考時間を与えるために厳重なロックが何層にもなって掛けられているが、その代わりに機能はロドス随一を誇る。

 PRTSとリンクさせることによって全端末の位置情報を取得することは疎か、艦内に取り付けられた監視カメラのログまでサルベージすることで、現在地をパーセンテージ表記で表すことすらできる。

 

 ケルシーがアビスの手を掴むと、緑色の光がその手を包んだ。ケルシーの至って普通そうな振る舞いや行動にアビスが困惑を深めていく。

 

 しかしまあ、怒っていない訳もなく。

 

「さて、説教の時間だ」

 

「あ、あのケルシー先生、もしボクの体が弱くなったと仰るのでしたら少し加減して掴んでいただいても──あの、かなり痛いんですが。指が千切られそうなのですが」

 

「いっそ千切るか」

*1
[注]あくまで個人の感想です

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