【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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五十六 そこには何がある?

 

 

 

 

 とある建物の出入り口から二人のオペレーターが顔を出す。一方は服装を白で統一したコータスの弓使い、一方は塗り潰されたような黒のツノを持つヴイーヴルの青年だ。

 

「疲れた」

 

「水でも飲みますか?」

 

「うん、貰っとく……」

 

 エイプリルがペットボトルを受け取り、中のお茶を喉に流し込んだ。アビスが一度斎場を振り返る。

 

 何の変哲もない公共施設である会館、それこそがシルヴェスターの葬式が執り行われた場所だった。出てきたことから分かる通り、アビスとエイプリルは丁度その葬式に出席した後だった。

 

「はあ、どうしてあんなに見られたんだろ。他の人と面識がなかったからなのかな」

 

「そうかもしれませんね」

 

 会場に入った二人は、多くの参列者から熱視線を浴びせられた。見知った顔でない、武器を持って出席、色々と考えられる要因はある。だから二人は特に気にしていなかった。

 ちなみに、エイプリルの着ている白の服は特段場違いという訳でもない。炎国の葬式では基本的に、白か黒であればマナーに反しない。アビスが着ているような、所々蛍光色の水色が入っている黒のジャケットも咎められることはないのだ。

 

「アビスは葬式に出たことってあるの?」

 

「どうしてですか?」

 

「なんか慣れてた気がしたから」

 

「人の死に慣れてこそいますが、葬式に出席したことはありませんよ。それにシルヴェスターさんとは、たった一度の付き合いですから」

 

 とは言えまさか、ボクより先に死ぬとは思わなかったけど。

 アビスは口の中でそう呟くと、水筒を受け取ってすぐ歩き始めた。龍門に居座るための言い訳はほぼなくなってしまったため、他の何かを探さねばならない。

 時間を無駄には出来ない。

 

 だがそんなことを考えるより先に、二人を龍門に縫い付ける厄介事は迫ってきていたらしい。

 

「あの!すみません」

 

 かけられた声に振り返れば、そこにはメガネをかけたザラックの少年──男がアビスたちの方を見ていた。消防局のショウと言い、この男と言い、龍門に居るザラックは総じて身長が低いのだろうか。

 アビスは一度頭の中を探る。そうだ、確かこのザラックは威圧感を会場中に振り撒く大男の後ろに控えていた男だ。シルヴェスター社の職員だとか、その類だろう。

 

「何かボクたちに御用ですか?それともロドスに?」

 

「それを話す前に一つだけ確認させてください」

 

 確認。何を話すと言うのだろうか。

 

「あなた方は、アビスさんとエイプリルさん、ということで間違いないでしょうか」

 

「はい。ボクはアビス、こちらがエイプリルと申します」

 

「やはりそうでしたか」

 

 ザラックの男はほっと胸を撫で下ろした。

 そう言えば、アビスとエイプリルは斎場で名乗っていなかった。どうしてこの男は知っているのかと、アビスの顔に少しだけ警戒心が浮かぶ。

 

 だがそんな警戒なぞ意味はなかった。

 ザラックの男は、徐にその頭を下げる。

 

 

「お願いです。どうか、真実を白日の下に晒してはいただけませんか」

 

 

 アビスは隠れてガッツポーズを取った。

 

 

 

 

 

 コップの中をストローでかき混ぜると、氷がぶつかって音が出る。やけに乗り気なアビスを目の端で捉えながら、エイプリルはミルクの溶けたコーヒーを一口飲んだ。

 

「どこからお話しすればいいのか分かりませんが……社長は誰かに殺されたのだと、私は思っています」

 

「それはまた、物騒ですね」

 

「死因は心臓麻痺と正式にはされているのですが、そんなものは嘘に決まっています。あの人が健康志向だってことを知らない社員は居ません。何せあの人は、私たち社員にさえそれを説いているのですから」

 

「心臓麻痺、ですか」

 

 どうやらザラックの男は知らないらしいが、心臓麻痺は健康であっても引き起こされるケースがある。脱水症状や外部からの刺激がその例だ。

 しかしそれだけではないだろう。疑念を持つとして、大して調べてもいない不確実な矛盾を理由として挙げるのは些か強引過ぎる。

 

「私が疑っているのは、副社長のガヅィアという男です。覚えていますか、私のすぐ前に立っていた……」

 

「ああ、あのサルカズの方ですか」

 

 斎場を出て少し経って、しかしガヅィアの姿は未だはっきりと思い出せる。二メートルもあろうかというかなりの体躯に、右の目を跨ぐ痛々しい裂傷の痕。まさかあれが副社長だったとは。

 

「彼は普段から不自然なほど社長のことを持ち上げていました。私たちのような部下には厳しく、所謂イエスマンだったんです」

 

「サルカズの男が、ですか」

 

 ロドスに居るサルカズを思い浮かべる。W、ワルファリン、クロージャ、ラヴァやハイビスカス、ミッドナイト。

 いずれもクセの強いオペレーターばかりだ。一般常識と合わせて見れば、そのイエスマンだったと言われているガヅィアがどれだけ不自然だったのか分かるというものだろう。

 

「彼は、社長の死に全く動じませんでした。訃報を伝えた社員の話によれば『遂に来たか』と言っていたそうで、私にはあの男が社長を殺したとしか思えないんです」

 

「つまり、それまでの態度は演技だったと?」

 

「あの男は至って冷静に社長の死を隠蔽して、小さく仲間内だけの葬式を開くことになりました。……つけ込まれないためとは言っても、あの心酔が嘘でもない限り、そんなにすぐ冷静になれる訳がない。そう言い切れるほど、普段のガヅィアは社長と親密でした」

 

 ザラックの発言は情報屋と取引した内容とも合致する。もし先程話していた内容が真実なのであれば、ガヅィアは確かに疑わしい存在だ。

 まだ話して間もない三人だったが、アビスはザラックの男が嘘をついているようには見えなかった。無論見抜けられないだけの可能性もありはするが、そのザラックがアビスたちを騙す意味などない。

 

 しかし、一つ疑問が浮かぶ。

 

「ところで、どうしてボクたちの名前を?」

 

「社長から聞いていたんです。会社に呼んで、そして今まで作り上げたものを見てもらいたいと仰られていました。ガヅィアは周到な男で、その点あなた方は安心なんです」

 

 龍門一帯は息がかかっている可能性がある、ということか。そこまでではなくとも、影響や顔の広さで言えばかなりの力を持っているのだろう。

 

「なるほど、事情は理解しました。そういうことなら力にならせていただきますよ」

 

「本当ですか!?」

 

「ええ、他ならぬシルヴェスターさんのことですから」

 

 嘘っぱちの笑顔を浮かべてアビスが手を差し出すと、ザラックの男は感動した様子で握手を交わす。

 シルヴェスターの死の真相を探る約束とは、随分と都合のいい体裁だった。別段特別な何かがあると決まっている訳ではなく、いざとなれば近衛局を巻き込むことが可能で、更に言えば口約束程度破る選択肢だってあるのだ。

 友人の死が不審だったと言えば、軽い処罰はあれどもケルシーが言っていたようなオペレーター契約の一方的な書き換えは出来ないだろう。完璧とまでは言えないが、しかし次善であることは確かだ。

 

 ザラックの男はそんなアビスの思考も知らずに顔を輝かせている。アビスの頭の中には『リー探偵事務所』だとか『亡灵(アンデッド)』だとか色々なワードが飛び交っていたが、それが口から出ることはなかった。

 握手に満足したザラックの男が立ち上がる。

 

「これ以上抜けていれば、ガヅィアに勘付かれてしまうかもしれません。社長のことは、よろしくお願いします」

 

 ザラックの男は最後にそれだけ言うと、時計を気にしながら店を出て行った。名乗ることもしなかったあたり、目先の感情に従ってしまう性格のようだ。向こう見ずと言うのか、それとも刹那的思考とでも言えばいいのか。

 

 氷が融け始めている。思っていたより上手くいっている龍門滞在に気を良くしたアビスは、まだ一口も飲んでいなかったグラスの中身を半分ほど、ストローで一気に吸い上げた。

 鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で音楽を流す。アップテンポの曲が堪らなく今の気分にマッチしていた。

 

 そんなアビスの隣で、エイプリルの飲んでいたアイスコーヒーは底をつき、それを無視して吸い込んだストローが音を立てる。薄く開かれた目はアビスへの不満を明確に主張している。

 

「……」

 

 アビスは気付かない。人差し指で机を連打しているエイプリルのアピールに全く気づいていなかった。

 

「アビス」

 

「……」

 

「アビス」

 

「あっ、はい。ボクですか?」

 

 アビスがプレーヤーのボタンを押して音楽を止める。イヤホンは外さず再生ボタンに手を添えているあたり気に入っているのだろうが、しかし今に限って言えばそれは、単純に喜べることではなかった。

 

 イヤホンを傷つけないように耳に着けている部分を持って、エイプリルはカナル式のイヤホンを豪快に引っこ抜いた。

 

「痛っ、えっ……!?」

 

「イヤホンは取ろうか、アビス」

 

「は、はい。すみません」

 

 何故そんなに怒っているのか分からなかったが、アビスは仕方なくもう片方のイヤホンも耳から外した。

 

「アビスってロドスのオペレーターで、龍門には一時的に来てるんだよね?」

 

「はあ」

 

 何を言ってるんだ、当たり前のことだろう。そんな顔で怪訝そうにしたアビスのことはエイプリルが割と強めに蹴ったので安心していただきたい。

 エイプリルの機嫌が傾く。

 

「一緒にロドスから来てずっと同行してる人って居るよね。その人に意見聞かなきゃって思わなかったの?」

 

 ようやくアビスはエイプリルが怒っている理由を心得た。なるほど納得と手のひらをポンと打った後、それが何かと言わんばかりにコーヒーを一飲み。

 

「反対でしたか?」

 

「いや、まあいいんだけど、いいんだけど……」

 

「ああ、この前の埋め合わせを誤魔化すつもりもありませんよ。いざとなれば、ロドスにも商業区画はあります。まあクロージャ(要らないもの)も付いてきますけど」

 

「でもラーヤちゃんとのそれは結局放り出してきたんでしょ?良くないよ、そういうの」

 

「それは致し方なかったんです。帰ったら償う……と思います」

 

「そこは誓ってよ。あたしはラーヤちゃんじゃないけどさ」

 

「なら誓いますよ」

 

 カラン、と融けた氷が崩れて音を立てた。

 

「また買い物に行きましょう、エイプリル」

 

「……うん、なんだろう。なんて言えばいいのかな。正解したらダメな問題だってあるんだよ?」

 

 そう言ってエイプリルがストローに口をつける。

 そこでようやくそのグラスが空だったことを再確認して、エイプリルは顔を赤らめながら店員を呼んだ。

 

 

 

 間違えなければいけない時がある。

 目を背けなければいけない時がある。

 間違っている人が未だ生きているように、淘汰されるのは必ずしも間違っているものでない。

 

 アビスは間違っている。

 正解を選び、それこそが間違いだったのだ。

 

 淘汰されたのはアビスでなかった。

 しかしその手は緩んでなどいなかった。

 

 過去を過去のままにしていないが。

 その過去が、本当に過去でなくなったとしたら。

 

 間違えなければいけない時がある。

 目を背けなければいけない時がある。

 それを分からないからこそアビスは子供だと呼ばれ、それが分かっているエイプリルは大人なのだろう。

 

 

「さて。まずは経緯を聞いて回りますか」

 

「異議なし!」

 

 

 

 

 少し前にアビスたちの話題に出ていた、ロドスに残っているあるオペレーターだが。

 

「ケルシー先生、マスターキーってあります?」

 

 アビスたちが斎場を後にした頃に、そんなことを言いながらケルシーの目の前で震えていた。

 自分を抱くようにしているが、それは寒さから身を守っているだとか、緊張に強張っているといったことではない。ただ、ちょっとした禁断症状が発症しているだけだった。

 

「オペレーターにマスターキーの貸借は認められない。それは君のような一般オペレーターには疎か、エリートオペレーターにも徹底していることだ」

 

 ケルシーは少し引き気味にそう言った。自身を見つめる灰色の双眸は限界まで見開かれていて、身長の低さを物ともしない絶大な圧迫感をケルシーに与えていた。

 今更になってアビスの気持ちを理解した。なるほど確かにこんな目で一日中見られていれば厭う気持ちも分かるというものだ。

 

 今までライサに付けていた、依存傾向にあるという評価。それはもしかすると本質に掠りさえもしていない随分と的外れなことだったのではないか。アビスの苦労が偲ばれる。

 

「どうしてですか」

 

「言われずとも分かるだろう。権限は上層に限ってこそ意味があり、またロドスの内部監査も無欠ではない。クロージャの使用を私が管理するという現在の体制で充分だ」

 

「充分ではありません。私が困ります」

 

「……」

 

 ケルシーはライサの危険度に関しての評価をやり直すことに決めた。そしてそれに応じてアビスの評価も上げることにした。確かにアビスの労働環境にはロドスの目が行き届いていない欠点があったようだった。

 

 ライサの震えがぴたりと止まった。

 コータスの特徴的な耳がぴくぴくと動く。

 

「嫌な予感。アビス。何かした。龍門。カフェ?アビス。氷。グラスの音。嫌な予感。四月。厄介事。アビス。何をした?アビス。嫌な予感。……あ、すみません。失礼しました」

 

 ケルシーの顔が引き攣った。

 耳が感じとった謎に高精度な情報群は脳の処理限界に挑戦していて、単語を羅列している間の黒目は左右バラバラに動き回っていた。

 

 何かアーツを使ったのだろう、とケルシーは思うことにした。そう思わなければやっていけない。コータスの医療オペレーターと会うたびにライサのことを思い出してしまうかもしれない。

 ケルシーに軽いトラウマを植え付けたライサは恥ずかしそうにしている。何を恥じる部分があっただろうか。

 乙女的にノーとか言っているならこちらも生理的にノーと言わざるを得ないのだが。

 

「そういえばロドスには清掃部門があるようですが」

 

 ケルシーの耳が反応する。清掃に関係している職員も確かに存在するが、だがしかしライサの言いたいことがそれではないということくらい誰にでも分かる。

 つまり、ケルシーが管理している『S.W.E.E.P』という部隊のことだろう。

 

 公然の秘密という言葉がある。ロドスではほぼ大多数のオペレーターが知っているのだが、『S.W.E.E.P』に関しての話題を出すことは少ない。精々所属しているオペレーターと会話する時くらいしか意識することもないだろう。

 『S.W.E.E.P』の存在は正に公然の秘密ということだった。

 

 易々と口に出したライサをケルシーが睨むような目つきで観察する。

 

「あったとしたら、なんだ」

 

 感情が排斥された、業務連絡でもしているかのような声。まさかこれを見てライサとケルシーが雑談しているなどと思うオペレーターは居まい。いや、もしかすると……ケルシーに対する評価がかなり落ちているあのオペレーターなら或いは、といったところか。

 ライサの顔は変わらない。

 

「ピッキングのやり方って教えていただけますか。出来ればロドスの艦内で通用する技術をお願いします」

 

 そしてそのズレ具合も変わらなかった。

 

「……却下だ」

 

「どうしてですか」

 

「その技術を艦内で使うだろう」

 

「それ以外に使い所がありますか?」

 

 平然と犯罪予告をするライサの頭はまたクリップボードで叩くとして、どうにも処理が面倒だった。餅は餅屋だ、アビスかドクターに押し付けてしまおうか。

 

 ケルシーが顎に手を当てた。

 

 しかし、妙なことだ。ここ最近のアビスはライサと親しそうにしていたのだが、どうやら鍵をかけて閉じこもっているらしい。出て行かれるよりはマシだが、何をしているのか気になるところでもある。

 

「ラーヤ、アビスは今何をしているんだ?」

 

 ライサの耳が一つ震えて、止まった。

 

「──気になってるんですか?」

 

 灰色の目が明度を落として黒く濁る。

 アーツ反応がライサの周囲で巻き起こり、その一瞬後にはケルシーの視界が捻じ曲がって意味を失くした。

 

 何も見えていない訳ではなく、むしろ本来見えていない場所まで視野が広がっている。だがそれはカメラのレンズが写し取るような整然とした景色ではなく、それぞれの角度が混在した歪みきっているものだった。

 

「アビスのことが、気になりますか?」

 

「……無闇矢鱈とアーツを使わない、それは講習で必ず言われていたことのはずだが」

 

「アビスのことが気になりますか?」

 

 ケルシーが目を閉じる。呆れのあまり瞑目したのではなく、乱雑な光しか入ってこないのであれば、暗闇の方がまだマシだと思ったからだ。

 しかし、まるで明かりに直接目を向けているように、瞼を透過した光が暗闇を色彩豊かに染め上げる。

 

「気にかけてはいる。だが、そう邪推されるようなものではない」

 

 視界が黒くなる。光が重なっているのか──そう考えた瞬間、その黒には少しの灰が混じっていることをケルシーは理解した。理解してしまった。

 

 超至近距離からケルシーの瞼の奥を見つめるライサ。身長差からして少し上を向くだけでケルシーはライサの目から逃れることが出来るのだろうが、それを断行するのは状況から見てかなり不味い。

 

 少しずつ、瞼の外の黒は灰へと戻っていく。

 

「信じていますからね」

 

 ゆっくり目を開けると、そこにはいつも通りの目をしたライサが立っていた。〝信じている〟ではなく〝信じる〟だろう、そうケルシーは思ったが、口は塞いでおいた。

 

 それにしても、ライサが自身のアーツをここまで使えるようになっていたのは驚きだった。入職した当初はアビスに追い縋ろうとかなりの時間を訓練に注ぎ込んでいたようだが、近頃はそうでもない。

 そういえば、他の遠距離オペレーターと仲良くしていたような気がする。もしかすると勘違いかもしれないが、そのおかげだろうか。

 

「じゃあ、私はまた別の人に当たります」

 

「マスターキーは諦めた方が賢明だ」

 

「絶対に嫌です」

 

「……そうか」

 

 アビスはいつもこんな豪傑と過ごしていたのか。ケルシーは少しだけアビスを尊敬し始めた。もっとも、そんな尊敬をされるくらいなら負担を分けてほしいというのがアビスの実情──もとい、少し前までのアビスの実情だ。

 

 これ以上の会話は無用だと判断し、ライサがケルシーの元から離れていく。クリップボードで叩き忘れてしまったが、ライサは犯罪予告をやめるだろうか。やめないだろう、そういう妖怪だ。叩いても叩かなくても結局は同じことだ。

 若干押され気味で支離滅裂な内容になってしまったが、ケルシーはそれを以て思考を断ち切った。ケルシーにはドクターと同等かそれ以上の仕事が入っている。早く次に移らねばなるまい。

 それは、分かっているのだ。

 

「アビスは今、何を……いや、関係のないことだ」

 

 頭を振って、今度こそ残滓まで排することが出来た。

 雑務に気を取られて疎かには出来ない。本質的に、ケルシーがロドスに居る意味はアーミヤと、そしてドクターにしかない。

 医者として今は振る舞っていても、都合が悪くなれば脱ぎ去ることすらも考えている仮初の衣だ。眼前に発露した問題に邪魔をされて本懐を見失うようではいけない。

 

 だから、アビスのことは気にしない。

 

 そうケルシーは内心で断言し、歩き出した。

 それが即ち意識しているというのだと自覚するためには、一体どれほどの時間がかかることだろう。

 

 少なくとも、アビスの不在に気付くよりもっと先のことなのではなかろうか。

 

 

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