【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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六十 前日の話

 

 

 

 

 

『隻眼で、ガヅィアっていう人なんだけど』

 

『その話詳しくお聞かせ願えますか?』

 

 

 

 

 リラに別れを告げた後、アビスとエイプリルは宿に戻ってきていた。スラムで調査を行うなら、数時間で日が落ちる今の時間帯では少々伴う危険性が高すぎると見てのことだった。

 元よりアビスが想定していた情報収集の場にスラムも入ってはいた。だがその中で優先度はほぼ最低だ。殺害現場は計画殺人において一番力を入れる場所だろうし、だからこそ葬儀屋などという回り道をしていた。

 

 だがスラムと何かしらの繋がりがあるならば話は別だ。

 ガヅィアがスラムを訪ねた理由は下見に終わるはずもなく、であるからには何かしらの組織とコンタクトを取っているはずだ。少なくともアビスならそうしている。

 組織である以上、文書も存在しなければおかしい。殺人の隠蔽に関して口約束程度で済ませられる訳がない。源石機器の履歴であったにしろ、調査すれば何かしらの粗は出てくるはずだ。

 

「一気に目標へと近付きましたね」

 

「うん、あそこでリラと偶然会えたのは大きかったね。スラムには明日行くってことでいい?」

 

「それでいいでしょう。どれだけスラムに食い込んだ組織なのかは分かりませんが、小さければ情報屋を、大きければその組織の解れを当たればいいだけですから」

 

「もし完璧だったら?」

 

「会社を巻き込んで糾弾します。シュエンを矢面に立たせるのは悪いですが、致し方ないことでしょう」

 

 ホテルのフロントを抜けて階段を上がっていく。それなりに綺麗ではあったが、いかんせん狭いため声がよく響く。響いたからと言って何かあるわけでもないのだが、どこか会話が憚られるのは事実だ。

 階段を登り、廊下を歩き、鍵を開いて部屋に入る──直前、アビスはその足を止めた。

 

「わっ、と。突然止まらないでよ」

 

「えっと、すみません……?」

 

「ほら、早く入って入って」

 

 背を押されて、アビスは仕方なく部屋に入る。自分より階段側にある部屋の前で何故か止まらなかったので不審に思ったのだが、どうやらエイプリルはアビスの部屋に足を踏み入れることを自然なことだと思っているらしい。

 ロドスのオペレーターは親しみやすいと思っていたが、自分で感じてみれば中々どうして強い衝撃となっていた。プレーヤーを接続したままになっていたイヤホンを外してテーブルの上に置けば、流れるような動作でエイプリルがスピーカーを接続させた。

 

「何聞くー?」

 

「エイプリルがお好きなもので構いません」

 

「それじゃ『Lily of the Valley』ね。入ってる?」

 

「追加してはいますが、消していませんよ。順番が何番目かは分かりませんが『Renegade』より少し前だったような気がします」

 

「オッケー」

 

 何度か曲を飛ばすと、目当ての音楽が流れ始めた。

 

「『Lily of the Valley』……スズランちゃんと同じ曲名なんだよね」

 

「何がですか?」

 

「『Lily of the Valley』は極東の言葉でスズランって言うの」

 

「へえ、中々洒落たコードネームですね。女性ですか?」

 

「……アビス、知らないの?」

 

「はい?」

 

「いや、別に知らないならそれでもいいけど」

 

 件のヴァルポを思い描く。エイプリルよりも20cmほど低い身長、そしてその背丈と比して劣らない長さのアーツロッド、主張が強すぎる種族特徴──そして何より、愛くるしい容姿とマッチした真っ直ぐすぎる性格。

 職員の間では崇拝対象にすらなっているそうで、聞くところによればそれのせいでプロファイル作成が難航したとか。傾城傾国とは少し違うものの、恐らくそれに近いまでの影響力を持っていることは確かだ。

 

 それを知らないと宣う眼前のオペレーターは何という情報弱者か。

 閉鎖的なアビスの態度は未だ改善されることなく、しかし最近では食堂の職員やMechanistの同僚などとも交流を始めている。

 

 アビスが短剣を机上に置いた。

 

 使われなくなった短剣を見て、Meckanistは何を思うことになるのだろうか。ドクターに話して、宿舎の壁にでも飾るのかもしれない。もっとも、その前にライサやシーが回収しそうなものではあるが。

 アビスが交流の輪を広げることで、予見される被害は間違いなく肥大化している。

 アビスが突然そうなった理由も、アビスが死にゆく理由も、リラにある。

 リラのせいだと、エイプリルが言ったその言葉にアビスはどこまで思索を広げたのか。

 

「さて」

 

 自身の苦悩を忘れて、今だけは能天気に缶チューハイを取り出し快音と共にプルタブを開く。トクトクトク、独特に波打つような衝撃と共にグラスへと淡い桃色の液体が注がれていく。

 入れていた氷が水位と連動して浮き上がり、少し揺らすだけで綺麗な音が鳴った。

 

「はい、没収ね」

 

 当然ながら、それはエイプリルに咎められた。

 

「何するんですか」

 

「それはこっちのセリフ。未成年が何してんの」

 

「少しくらいいいでしょう、もう予定なんてないんですから」

 

「だーかーらー、未成年が飲むのはダメだって言ってるの。予定がどうとか、全っ然関係ないから!」

 

「本当にそうですか?」

 

「えっ?」

 

「何故未成年が飲んではいけないのか考えれば、その理論は通じませんよ」

 

「はあ?」

 

「まず成長の阻害なんてすぐ死ぬボクには関係ありません。依存症だって気にするまでもない。急性アルコール中毒になるほど高い度数のものをハイペースに飲むこともありませんし、安全な飲み方は理解しています」

 

 アビスが言っている内容は事実だ。そしてそれが禁止される理由であるというのも間違っていない。

 だが、それだけで規制されているわけではない。

 

「アビスが飲んだら、ラーヤちゃんとかが真似するかもしれないでしょ」

 

「ロドスでは飲めませんよ」

 

「ロドスに所属してる未成年のオペレーターが艦外では飲んでるのも問題」

 

「オペレーターであることをそう喧伝する気はありません」

 

「だとしてもダメ!リラに言えないでしょ、お酒飲んでるだなんて!」

 

「ぐっ……リラさんは関係、ない……いやすごくありますけど、でも……っ!」

 

 思っていた通り効果は抜群だった。

 エイプリルは少し考えた後、アビスの顔の前にグラスを突き出した。

 

「リラとお酒、どっちを取るの?」

 

「そういう話では……」

 

「どっち?」

 

「リラさんに決まっています。ですが、その二つは両立できてしかるべきです」

 

 言葉に詰まる。遵法精神はカケラも持っていないが、法律が制定された意義を理解して喋っている。アビスの理論は周りを考えない、協調性がないと自覚していることに納得のそれだが、言っていること自体はそこまでズレた言葉ではないのだ。

 

 だが、アビスが飲酒すべきでない明確な理由は他にもまだまだある。

 

「それなら、レユニオンのことは?龍門に居る以上は素早く動けるようにするべきなんじゃないの?」

 

「……」

 

 アビスは無言で缶に手を伸ばし、しかしエイプリルの手がアビスのそれよりも早かった。

 

「……酔わない程度なら、いいんですよ」

 

「諦め悪いよ」

 

「別にいいじゃないですか、お酒くらい!」

 

 本気ではないのだろうが、アビスが奪われた缶を取り返そうと腕を伸ばす。ひょいひょいと手を動かして、溢れないよう注意しながら器用にアビスの手を避ける。

 

「なんでだろ」

 

「なんですか?」

 

 ひょい。

 

「アビスが年相応に見える」

 

「いつもこんな感じですよ」

 

 ひょい、すかっ。

 

「お酒って部分はダメだけど、そういうの良いと思うよ」

 

「……よく、分かりません」

 

「そうだろうと思った」

 

 ひょい。

 

 ひょい、ひょい。

 

 ひょい、がしっ。

 

 アビスの手がようやくグラスを捉えた。グラスの中で桃色が波打って音を出す。氷とグラスがぶつかって澄んだ音を出す。

 グラスを掴むことで手がエイプリルの手を覆うように触れて、つい意識して手を離す──なんてこともなく、アビスは不敵に笑う。彼は割と本気でこのゲームに臨んでいた。

 

「楽しそうだね、アビス」

 

「まあ、楽しいですけど。発端はエイプリルにあるんですからね?嫌々とは言いませんが」

 

「……未成年がお酒飲むなんて、普通なら絶対ダメなんだからね?」

 

「分かっています。エイプリルも秘密にしてくださいね?」

 

「はいはい。あたしも何か買ってこようかな」

 

 返還されたグラスに口をつける。キンキンに冷えているアルコールが体内に侵入していくのを感じて、アビスは目を細める。

 用意しておいたコースターにグラスを置く。既にその水位は三分の一ほど減っていた。

 

「チューハイで良ければ何種類か買ってありますが」

 

「怒るよ?」

 

「隠しても意味なんてありませんから」

 

「うわ、本当にあるじゃん」

 

 開けた冷蔵庫のドアポケットに並ぶのは五種類ほどの缶。いずれもアルコールを含むもので、それ以外の飲み物はミネラルウォーターくらいしか見当たらなかった。

 それ以外の飲み物とは言っても、飲み物以外で入っているものは一つくらいだったが。

 冷蔵庫の扉が閉まる。

 

「ねえ、アビス。あの箱って何?」

 

 一缶片手にテーブルまで戻ってきたエイプリルが、バッグの近くに置かれていた深緑の箱を指差す。A4サイズの装飾がされていない地味な箱は、明るい色調で整えられた部屋の中に少しだけ浮いていた。

 少し前から部屋にはあったような気がする。そして龍門に到着する前にはなかったような気がする。正確には覚えていなかったが、果たしてそれは正解だった。

 

「龍門に来てから買ったものです」

 

「何が入ってるの?見ていい?」

 

「いいですよ」

 

 少しだけ面倒な留め金こそあるものの、鍵が必要なものではない。アビスの予想通り、器用なエイプリルの前では数秒小さな音を立てただけで箱の蓋が押し上げられた。

 

「思ってた以上に面白みがなかった」

 

「ボクに面白い部分なんてありませんよ」

 

「うん、それはそう」

 

「……」

 

 自分から言ったことではあるが──、というような感慨をアビスは浮かべて苦笑した。自分の仕事はそれではない、人を笑わせるのはエンターテイナーに任せてしまうのがいい。

 路上でパフォーマンスをしている人を、龍門ではよく見かける。また今度改めてプレーヤーを買いに行く時は、その日の気分で観覧するのはどうだろう。

 

 取り止めのない思考、それこそプライベートな空間で自由に飲む利点の一つだろう。自由に飲み、自由に考え、自由に騒ぐことが出来る。後処理は自分でやることになるが。

 

「んくっ、んくっ、ぷはっ。久しぶりにお酒飲んだ気がする。お酒って言うほど度数は強くないけど」

 

「低めのものを見繕いましたから」

 

「……低かったらいいって訳じゃないんだからね」

 

「分かってますよ」

 

「ほんとに?」

 

「本当です」

 

「ならいいけど」

 

 示し合わせてはいなかったが、二人同時にグラスへと口をつける。

 

「そういえば、このグラスってどこから?」

 

「ホテルに言えば貸してくださいましたよ」

 

「ああ、そうなの」

 

 現在時刻はまだ六時。なんとはなしに思考を掠めたホテルの夕食については、あと一時間も余裕がある。

 

「アビス、リラって子について聞かせてよ」

 

「……どうして、ですか?」

 

 殺意を思い出したのか、少し警戒気味にアビスが問う。

 

「ちゃんとリラって子のことを分かれたなら、その子の責任はないかもしれないから」

 

 真剣な顔のアビスとは対照的に、エイプリルはさも楽しそうに笑っていた。

 

「リラが悪くないって証明してみせてよ」

 

 大多数は、それがからかい混じりの不真面目な笑みだと言うだろう。その話を酒のつまみとしてしか見ていないと思うだろう。にへら、と酔いが回ってきたのか脱力して笑うエイプリルは無神経だと思わされるだろう。

 

 しかし、アビスの手がテーブルの上にある短剣を取ることはなかった。

 

「……分かりましたよ。仕方がありませんね、孤児院での話を少し語るとしましょうか」

 

「やった。なんかエピソードない?良い感じの盛り上がれるやつ」

 

「酔ってますか?」

 

「酔ってませーん」

 

 エイプリルの持つグラスは既に空だった。もしかして、と思い缶の方を持ってみると、あったはずの重みが綺麗さっぱり消えている。

 

「ねえ、この缶まだ残ってる?飲んでいい?」

 

「構いませんが、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だよ。あっ、グラス借りるね」

 

 エイプリルが飲み終えた缶の中を洗面台で洗い、濡れた外側の水気を拭き取る。炎国の現在のリサイクル事情は知らないが、洗っておいて損はないだろう。夕食前ということもあるし、エイプリルは一缶程度で抑えておくべきだ。洗い終わったらもう冷蔵庫に近付けないようにしよう。

 そうアビスは考えたが、無駄だった。

 

「ほらアビス、早く話してよ〜」

 

 新たに開けた缶の中身をグラスに注いでいるエイプリル。それを見て、アビスは小さくないため息をついた。

 

「夜ご飯のことも考えてくださいよ」

 

「いいのいいの、こっちのが大事だから」

 

 まだ中身の残っている缶を引き寄せながら腰を椅子に落ち着ける。エイプリルは少し不満そうな顔をしたが、満杯のグラスがある。口をつけて、不平は心の中に留めた。

 

「ではそうですね、不思議な話を一つ」

 

 アビスは過去に思いを馳せる。

 郷愁がいつのまにか堅苦しい口調を奪い、緩んだ顔と相俟って本来の親しみやすさを発現させる。

 

 その姿を見て、少しだけ安心した。

 

 以前フロストリーフは、アビスについて『心を閉ざすより先に壊された』と評していたが、それが全てではない。もちろん間違いではないものの、アビスにはまだ正常な部分が残っている。

 先程のグラスを奪い合うやり取りだって、アビスは年相応にムキになっていた。

 

 今、笑えている。

 柔和な笑顔で楽しそうに話している。

 

 ──もしも、このまま生きられたなら。

 

 もしアビスが死を望まず、過去を懐かしみながらも生き延びることを選んでくれたなら。

 今を生きてほしいなどと高望みはしない。

 ただ、生きてくれたなら。

 

 

 それだけで、いいと思えた。

 

 

 

 

 

 

 酔った二人の歓談は夜遅くまで続き、結局エイプリルはアビスの部屋で二度目の目覚めを経験することになった。

 

 支度を終えて、二人が街へ出る。

 

「今日の予定は?」

 

「まずは情報屋を訪ねます。分かれば重畳、分からなければまた別で探ることになります」

 

「候補は?」

 

「今のところ、案内役の彼くらいですね」

 

「えぇ、あの人かぁ」

 

「苦手なんですか?」

 

「あんまり好きじゃないタイプ」

 

 それを苦手と言うのでは?アビスが視線を向けるが、長年一緒にいるわけでもないエイプリルにその意図は伝わらなかった。

 代わりに返された曖昧な微笑みから、つい顔を逸らす。

 

「なんかあった?」

 

「何でもありません」

 

「そう?」

 

 何故気付かないのか。今のエイプリルは宛ら、ライサから向けられる好意に全く取り合わなかったアビスのようだった。とは言えアビスは普段それを奥底の方へと押しやっているのだから、鈍感の具合としてはアビスが勝るだろう。

 

「……それ、持ってきたんだ?」

 

「備えはいくらあっても足りませんから」

 

 アビスの手には深緑の箱が提げられていた。代わりに普段から持ち歩いている水筒がその荷物にない。いつもより快調なようだ、その顔色はさして悪いものではない。

 

 ただ一つ気掛かりがあるとすれば──。

 

「上手く、行き過ぎてる」

 

「え、そう?」

 

「いえ……こちらの話です」

 

「どっち?あたしたち側じゃないの?」

 

「私事です」

 

「ふうん、ならいいけど」

 

 アビスの目的は専ら『亡灵(アンデッド)』にある。それだけのために龍門を訪れたと言っても過言とはならないだろう。

 したがって順調に解決の糸を手繰り寄せられている今、アンデッドの登場を待たずしてロドスに帰らされることを憂えるのは当然だろう。

 

 しかしながら、アビスの発言はそれのみを指していない。

 好調なのは嬉しいことなのだが、果たしてこの程度の調査でガヅィアが追い詰められるだろうか。疑問はつまりそのようなアビスの思惟だった。

 実際ガヅィアは見事な手腕だった。計画そのものは側から見ても不審なものだが、その()()()()()()()()()()()という事実が評価できる。

 成功していることが問題だ。どんなに周到な計略も倒れてしまえば机上の空論と全く等しいものだ。だがガヅィアは粗末な計画を成功させた。

 

 最悪の場合、粗末な計画だからこそ通った可能性もある。いずれにせよ、ガヅィアの立ち回りは非常に優れたものであったはずなのだ。

 だがしかし、現在アビスはその計画の解れを握っている。スラムに少なからず詳しいことがそれほどイレギュラーとも思えず、何故ロクに警戒されていないのか不思議でならない。

 

 スラムの情報統制に絶対に自信を持っているのか。

 それとも何か、秘密が暴露されない秘策でも用意されているのか。

 

 

 もしくは、致命的な間違いを自分が犯したのか。

 

 

 頭を振って思考を止める。アビスのその考えは全く根拠のない仮説の空論。何事にも最悪を想定して立ち回ることは理想だが、そのせいで利を逃しては本末転倒だ。

 ただの直感に身を預けてみるのも悪くない、そう思えるような気性ではない。アビスは絡みつく不安を振り切って、歩を進めた。

 

「私事、ねぇ……」

 

 龍門に派遣される上で付け加えられたレユニオンについての任務。それを取り付けられた時、アビスはほっと胸を撫で下ろしていた。

 龍門を訪れてからも、言葉の節々から、会話の所々から、レユニオンへの決して小さくない感情を読み取っていた。

 

 ドクターが何を思ったかは分からないが、アビスが考えていることは、一番重要な部分を除いて察することが出来た。

 レユニオンとの戦闘もしくは殲滅。中でも、幹部であるアンデッドに対する執着。ロドスが出会(でくわ)したデータはないはずだが、何故だかアビスはアンデッドに執着している。

 

 そうだ、そこが分からない。最も重要な動機というパーツが未だ暗闇の中、照らされることなく存在を薄めている。

 

「……」

 

 そこまで考えたところで、エイプリルはかぶりを振った。依然として考えは変わらない。アビスが隠した事象を暴く気など更々ない。大して関わる気などない。

 アビスがロドスを脱退する──死を意味してしまうその選択だけは許せなかったが。

 

 アビスが死をもはや恐れていないことは理解した。リラという存在を軛にしようと少し手を出してみたが、アビスはそれを一旦横に置くことが出来ている。

 根本的にアビスはリラとだけの世界で満足している。他者からの評価を気にしないとまではいかないが、それが取り巻く絶望を取り払うだけの価値を持ってはいなかった。

 

「ね、アビス」

 

「何ですか?」

 

「死なないでね」

 

「保証はできません」

 

 アビスはエイプリルに視線をやることすらなく、そう言い切った。

 

「そう言うと思った」

 

「……ただ、そうですね」

 

「?」

 

 少し悩むような仕草をした後、アビスは決心した様子でエイプリルの方を見やる。

 

「まだ死にません。それだけは約束します」

 

「言うじゃんか」

 

 脇腹を肘でつつく。

 けれど、アビスの目は変わらなかった。

 

 

 〝約束〟がどれだけ大事なのか分かっている。

 

 

 守れないことがどれだけ罪なのか、それを分かっていて声に出した。

 エイプリルが手のひらを返して茶化したとしても、アビスが言った限りその〝約束〟を決して違えることはないだろう。

 

「さて、そろそろ着きます」

 

「分かってる」

 

 二人は既に大通りを離れ、静かな路地裏を歩いていた。吹く風が段々と強くなっているように感じる。空気が重くなっているように感じる。

 

 向こうに、光が差している。

 

 その光は希望を象徴しない。掃き溜めに住む彼らは光が与える熱によって体力を奪われ、最悪命を落とす。

 燦々と降り注ぐそれを仰いでありがたく思えるのは、大通りを歩くような上層市民だけだ。

 

 その光へと近付いていく。

 武器を持つ手は油断なく構えられている。

 

 

 

 スラムへと、二人は足を踏み入れた。

 

 

 

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