【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
パチン、と誰かが指を鳴らした。
次の瞬間二人を半円状に囲む黒いフードを目深に被った集団が現れていた。指を鳴らす前と後で世界が変わったと言われても納得してしまいそうな手品だった。
だがこうまであからさまにされては、それがアーツによるものだと分かってしまう。下手なCGが映画への熱を冷めさせるようなもので、アビスとエイプリルは返って冷静に不審者達を観察していた。
音を鳴らした時のまま、文字通り指一本も動かさずカインは立っていた。背丈はボクと同じくらい。
「……なんだ、来ねえのか?」
カインが頭を傾ける。どうやらすぐに戦いが始まるものと思っていたらしい。至って不思議そうな声をしていた。
そして徐にひょい、と何かを掴むような動作をした。
その直後、見えていなかったものがすうっと現れてきた。
一メートル半ほどもある煤色の持ち手が掴まれた部分を起点として発現し、その中ほどから伸びる両刃はいっそ恐ろしいまでに綺麗な白で染められていた。
紅い布が巻かれた持ち手とその白刃は、殺傷するための武器でありながら美をも兼ね備えている。蠱惑的なまでに鋭く光る刀身など、もし戦場以外で見ることがあったのなら息を飲むことになるだろう。
しかしその代わりと言うわけではないが、その全長は三メートル以上、重量は見たところ五キロを下らないだろう。武器として、リーチに対してかなり重い。
そんな長巻──刃と柄が同じ長さの刀──をカインは片手で易々と操っている。
「ああ、そうだ。周りのコイツらは気にしなくていいぜ。戦いってのは意味があるからこそ映えんだ、初対面で殴り合ったって楽しくねえだろ?」
そう言って、カインが笑う。
アビスの瞳が揺れて、息を飲んだせいで僅かに呼吸が乱れた。エイプリルがアビスの方を気遣うように見る。
どんな関係があるのかは知らない。エイプリルはアビスに巻き込まれただけで、もしかするとここから逃げることが可能かもしれない。
だから。
でも。
二つの相反する感情が渦を巻いて、言葉は音にならなかった。もしアビスがもう少し安心させてくれるのならば、この戦いに確実な勝機があると言うのならば、エイプリルは迷いなくその矢を弓につがえていた。
だが、アビスの様子から見るにそれは期待出来ない。男に対して突きつけた殺気などとっくに雲散霧消し、短剣を握る手さえ頼りない。
「アビス、どうするの?逃げる?」
「逃がしてくれる雰囲気ではありません。……戦うしか、道はないのでしょう」
「勝てるの?」
アビスが押し黙る。まだカインの実力を一端でさえも見ていないが、そのアーツはアビスと致命的なほどに相性が悪い。
武器を隠されてしまえば対応できる気など全くしないし、そも姿を現していなければ、声をかけられていなければ、アビスとエイプリルは何もわからないままに殺されていた可能性すらあったのだ。
ブン、と刃が空を切り裂いた。
暇を持て余したカインが長巻を振っていた。
「んな悠長に話してても良かったのか?」
親切に、カインはそう言った。
何のことだ?
疑問符を頭に浮かべた二人。エイプリルが突然何かに気づいたように表情を変え、数瞬遅れてアビスも怪訝そうな色を失くした。
ようやく二人は、現れた代わりにいつのまにか消えていたものを認識した。
そしてカインの言っていることが何を意味しているのかを理解する。
全てはもはや手遅れだった。
カインが一つ指を鳴らせば、そこにはアーツロッドを持った黒いフードの人物が一人と、そしてとうとう治療を終えたアスランの男が立っていた。
男が目の辺りに当てていた手を外してみるも、その左眼は全く変わりない様子で動いていた。
「ありがとよ、レユニオンに助けられたってのはどうにも腹が立って仕方がねえけどな」
「精々役に立ってくれれば構わねえよ」
「はっ、そうかよ」
数的有利は覆された。個人の強さに関しても恐らくは劣っている。もう一つ付け加えるならば、十人を超えるカイン──アンデッドの部下が周りを取り囲んでいる。
勝算はどこを探しても見当たらない。
「どうして、エイプリルを殺したいんですか」
アスランの男に向けてアビスは問いかけた。それは男が起きてから聞こうとしていた問いで、それさえどうにか出来れば男の参戦を免れることが出来る。聞かない理由はない。
大方スラムがこんな風になっていたのもこの二人のせいだろう。エイプリルを狙う男、アビスとの戦いに意味があると宣うカイン。
龍門のスラムに関わりがあるのは消去法的にアスランの男だろうが、だがそうなるとやはりエイプリルを狙う理由だけが分からない。
「胸糞悪い話だ。龍門の犬が」
男はそれだけ言って、全身の毛を逆立てた。
何故ここで龍門の犬などというワードが出てくるのか、何か行き違いが起きているのではないか。
アビスのそんな言葉も、男の強烈な敵意の前には意味をなさなかった。
男の足が地面を蹴り飛ばした。
斬り結ぶ。
衝撃が殺しきれず、男の爪はボクの短剣を押し込んだ。次に繰り出されたのは牙、ボクの頭に突き立てようとした男をエイプリルの矢が僅かに怯ませて、その隙にどうにか横へと抜ける。
でもそのままにすれば次に男が狙うのはエイプリルの方だ。男の体に組み付いて喉を狙い、けれどすぐさま振り解かれて地面に落とされた。
至近距離から射られたエイプリルの矢が男の行動を制限して、すかさず脇腹を力の限り蹴る。
少しだけ男の体が動いた。このまま二人で相手出来れば無力化もそう遠くない……けど。
刹那、首筋に冷たい気配。
半ば反射的に動いた手が短剣で何かを受け止めた。それは恐らくカインが持っていた長巻だ。
うなじを狙っていた不可視の刃は重く、けど今倒れたら男の爪撃が容赦なくボクの体を抉るはず。両足で地面を踏み締めて押し返す。
生まれた隙を男の爪が狙い、下手な刃物よりも余程鋭いそれをなんとかもう一方の手に持った短剣で受ける。男の体重がかかった攻撃をそれだけで受け切ることなんて出来ないから、背後に飛んで衝撃を流す。
腕の負担が酷い。ビリビリと左腕が痺れ始めてる。
そうして少しでも油断を見せてしまえば、見えない攻撃がボクを貫かんと繰り出される。小さな劈く音だけを頼りに二本の短剣を十字に構え、気配と合わせて位置を捉える。
少しでも感触が伝わった瞬間に、短剣を振って上へと弾く。男はボクじゃなくてエイプリルの方に向いていて、邪魔が入ることはない。
前に踏み込んで、カインが居るだろう場所に蹴りを入れる。
手応えがない。前に出した足を踏み込みに使って、今度は広範囲を回し蹴り。それでも何かを捉えた感覚はなかった。
「痛っ……」
それどころか、振った左足の脛あたりが小さく切り裂かれていた。受け流された長巻を即座に持ち替えて対応したんだろう。ボクとしては間髪入れず攻撃に転じたつもりだったんだけど、それでさえカインにとって十分な時間を与えていたみたいだ。
エイプリルの方から途轍もなく大きな音がした。きっと廃ビルの中にエイプリルが撤退したんだろう、今まさにそれを追って男がビルへと入っていった。
エイプリルならきっと大丈夫だ。
ボクは、カインに集中しよう。
「まだ、死ぬんじゃねえぞ?」
そんな声が聞こえて、ハッキリとした殺意が視えた。
空を裂く重い音が聞こえて、ボクは迷いなく後ろに飛び退いた。あんな音が出てる攻撃を短剣で受けようものなら確実に折れる。さっきまでとは比較にならないくらい強い攻撃。
殺意が刺すように肩口から逆側の脇腹までなぞる。
二本の短剣を斜めに構えて、何かが触れた瞬間に回転させる。ズラすように、持って行くように。
受け流すことなんて今までなかったから、体の動きが粗過ぎる。技だけじゃ限界があるところを力でカバーしないと斬られる。
慎重に、力は適切に強く、そして受け流す。
どうにかダメージもなくやりすごした。となれば次はカウンター、受け流すことに成功した今、カインの体はかなり崩れているはず。
──強く地面を踏み締めた音。
咄嗟に飛び退いて、けれど完全な回避には至らなかった。肩先から胸の辺りまで鋭い痛みが走り、着地の衝撃で血が地面に垂れた。
全く同じ攻撃をカインは繰り出していた。初撃が流されてから間隔は一瞬しかなかったというのに、その絶対に生じる油断をどうやってか突いてきた。
見えないことだけがアドバンテージだと思っていた。リーチが長くて見えない、それは確かにボクに対する優位性を確立していた。
だけどカインはそれだけじゃなかった。
今の一瞬、前へ踏み出していたら死んでいた。
冷や汗が頬を伝う。
正直、普通に戦っていれば勝てる相手ではあるんだ。ボクに何の制限もなかったなら、きっと勝てる戦いだ。もしかしたら負けるかもしれないけど、それは本当に『もしかしたら』の可能性。
でも、ボクが今目指しているのは無力化だ。謝らなければいけないことがあって、話さなければいけないことがあって、だからボクはカインと話がしたい。
これはエゴだ。ボクが感じた罪悪感を消して楽になりたいってだけのエゴイズムだ。そして現実的に考えればそんな無謀、冒すべきじゃない。
今はボクだけじゃなくてエイプリルだって危険に晒されている。普通なら多少の傷を容認してでもさっさと倒して応援に行くべきだ。
カインの攻撃を察知して、短剣を構える。
突きを受け流そうとして失敗して、滑り込んだ二撃目を胴に受けて吹っ飛ばされた。
咄嗟にお腹をガードしようと当てた短剣の刀身が大きく歪んでいる。受け流すくらいは出来るだろうか、いや、出来ないと見た方がいいかもしれない。
カインは攻撃に躊躇いがなくて、隙を見せるとどんな時でも突き崩してくる。
普通ならそんな緊張は続かなくて、次第に動きがコンパクトになっていく。
でもカインは違う。いつだって空気を唸らせながらボクに武器を振るう。ボクがどんなに上手く受け流しても、緊張の糸が緩んだなら二撃目を叩き込む。
剣戟を交わす。
腕や脚だけじゃなく、頬や脇腹からも血が垂れる。たった十数回のやりとりが、ボクの身体に幾つもの傷をつけた。対してボクがカインを捉えたのは一度だけ。それも、カインの二撃目をどうにか払い除けただけ。
相手のミスを満足に拾えない。それはカインのアーツが持つ特性だけじゃなくて、ボクに少しの躊躇いがあるからだ。
「甘えな、おい」
突然、カインが声を出した。
──は?
前からの攻撃を受け流したはずなのに、背後からその声がした。
意味が分からないだろうけど、それを言いたいのはボクの方だ。受け流した直後その気配が消えて、その声がしたんだから。
振り返った先には、確かにカインが立っている。
高速移動?どうやって?可能なのか?
疑問が頭を埋めて、思考が加速する。
そういえばさっきまでずっと二撃目ばかりがボクの身体に傷をつけていた。二人目が居る可能性すらある……?いや、いくら気配を押し隠しても一度捉えたそれが消えるように感じるわけがない。
そこまで考えて、ボクはそれらを切って捨てた。
ボクは勝利を拾いたいんじゃなくて、ボクはカインに勝ちたいんじゃなくて、カインと話すためにアンデッドのことを探していたんだから。
今はカインの話を聞きたい。
その怨嗟を、ボクは聞くべきだから。
「甘えんだよ。なあ、もしかして感動してんのか?『生き別れの孤児院メンバーが遥か遠い場所で偶然再会!』ってか?くはっ、俺も感動するよ、最高だなァ!」
嘲笑に似た笑みを浮かべるカインに怒りが混じる。
「ああ、最高だ。──そのメンバーが二人しか居ねえってことを除けばな。その壊滅の原因がのうのうと生きてるっつーことを除けばなァ!」
そうだ。だからボクは謝りたかった。
Wに、『何故だか頭に浮かんだ双子の片割れはレユニオンの幹部を務めている』なんてことを聞いた日から、ずっと謝りたかった。
カインやナインが生き永らえている可能性は、ずっと考えていたことでもあるんだ。みんなが殺されたあの時、顔が確認できなかった遺体が一つあって、そして更に遺体の数が足りなかった。
あの男たちに原形が残らないほどぐちゃぐちゃに弄ばれたんだと思っていた。他のみんなの顔は残っていたから、カインかナインのどちらかが、もしかすると挑発したのかもしれない。そう思っていた。
実際は違ったんだ。きっと、カインはナインのおかげで逃げ延びることが出来て。その代わりにナインが男たちの怒りを受けることになった。
屈辱だったはずだ。みんなを守るため拳を握っていた愚かなボクを見て、カインは目を輝かせていたから。カインにナインを守ってやれって、そう何度も言っていたから。
ナインを犠牲にして自分一人が生き残るだなんて、耐えられないくらいの屈辱だったはずなんだ。
「本当に、ごめん」
「謝って済むなんて、思ってねえだろうな」
「それでもごめん。謝らせてほしい」
「嫌に決まってんだろ、どうしてお前がやりたいようにやらせてやらなきゃいけねえんだよ」
笑みを怒りが塗りつぶしたことの、逆が起きた。
カインの怒りを更なる笑みが覆い隠した。
「ああ、けどお前がこれから見せる顔を想像すれば、んな怒りも全部消えちまうかもしれねえんだけどな」
何を言っているのか分からない。
「俺のパフォーマンス、気に入ると思うぜ?」
獰猛に笑うカインの姿が見えなくなった。とは言ってもさっきみたいに溶け込んだわけじゃなくて、カインの周りに青い光が満ちて向こう側が見えなくなったんだ。
何をしているのか。
ボクの疑問はすぐ晴れることになった。
その光が掻き消えて、アーツで
「ねえ、謝って許されると思った?」
理解不能。
理解不能、理解不能、理解不能。
頭が追いつかない。
いや、理解を拒んでいる。
本当にアレはカインなのか?
何がどうして、どうなって、どうやって。
「私の姿で殺してあげる。さあ、土下座しなよ」
リラさんが立っていた。
少し時は遡り、廃ビルの中。
エイプリルはとっととあの場から逃げなかったことを少しだけ後悔し始めていた。
ライザーと呼ばれる持ち手の部分をより強く握れば、じわりと浮き出る手汗が気持ち悪い。
廃ビルに逃げ込んだエイプリルは迷彩を利用して男を死角から何度も撃ち抜こうとした。
だがその全ては途方に終わり、悉くが振られただけの腕に弾き飛ばされた。
初めのうちは焦ることもなかった。
十数回射って、何故、と思った。
数十回、余裕がなくなった。
男を翻弄する立ち回り方は今のところ出来ている。
だが矢を回収しているところが見られてしまったのか、男は途中から僅かな勝機すらも潰すために、射られた矢をすぐ折るようになった。
矢筒に残った本数はたったの三本。普段のような補助物資がないにも拘らず無闇な射撃を繰り返したからだ。
四階建てのビル、その二階にエイプリルは潜んでいる。迷彩機能はオーバーヒートして放熱中、よってエイプリルを男の目から隠しているのは廃ビルの汚れた壁や床、それだけだ。
三階への階段はほとんど崩壊していて、エイプリルが自由に移動できるのは一階と二階のフロアのみ。
一部の区画は鍵がかかっていたり床が崩落していたり瓦礫で埋まっていたりして、ビル内には行動範囲を著しく制限するものが多すぎた。
階段があるのは中央奥の部分で、二階から一階へと降りるだけなら左奥の崩落している部分も選択肢に入る。
エイプリルが居るのは右手前の部分で、男は必ず通らなければいけない真ん中の部分に居る。焦燥に駆られて出て行けば間違いなくやられる。
その、はずだ。
轟音と共に、廃ビルが揺れる。
一体何が起きているのか、それをエイプリルに知る
ただ一つ言えることは、男の豪腕が最終的に狙っているのは廃ビルへの損傷などではなく、エイプリルの殺傷だということだ。
「……ああもう、どうしてこうなったかなぁ」
コンパウンドボウの弦を軽く引いて、エイプリルはそう言った。スタビライザーに少し付着していた汚れを手で払うと、覚悟を決めて、エイプリルは立ち上がった。
矢筒はまた後で取りにくるとしよう。たった三本なら手で持っていた方が早い。
勝てるかどうかは分からない。だが、まだやれることはある。度肝を抜くとまではいかないが、予想外を作ることくらいなら可能だ。
その方法を手に入れるために乗り越えなければいけない壁はかなり分厚いのだろうが、仕方がない。
扉を蹴破って、その部屋には予想通り男が居た。
走り出す。弓を構えたまま、最初からトップスピードで。
つがえている矢はまだ放さない。
コンパウンドボウの特徴である滑車はレットオフと呼ばれる機能を作っていて、つがえたまま保持することが他の弓と比べて楽になっている。
だからと言って力が要らないというわけでもないが、何度も連続で射ることが出来るくらいに熟達しているエイプリルからすれば、保持したまま動き回ることを可能とする重要な機能だ。
男が投げた廃材の鉄パイプは余裕を持って避ける。エイプリルが少しだけ減速して、それを狙ってか男の投擲は止まらなかった。
横へと跳び、前へと跳び、しかし決して後ろには下がらない。
集中。
『田』の形をした何かの枠がフリスビーのように飛んできて、しゃがみつつ前へと跳ぶ。
顔のすぐ前まで迫っている二投目は、一投目との間を抜けるように跳ぶ。
壁に取り付けられていたパイプを外して、男が横回転にして投げつける。次いで、その逃げ道を潰すように汚れたトタン板や金属片がパイプに追いつくほどのスピードで投げられた。
だがそれで止まることはない。エイプリルの目がトタンの回転を見極め、その面を蹴り倒すようにして前へと進んだ。スカートはしっかり押さえつけてある。
いつのまにやら、エイプリルは加速だけを続けていた。先程までは回避に手一杯で減速を免れていなかったのに、今では相当な速さで男の方へと向かっている。
だがそこに余裕はない。しかし張り詰めたような緊張もない。エイプリルの集中は際限なく高まっていて、そこに余計な感情は介在しない。
男がようやく廃材から離れエイプリルを見据えた。鋭利な爪に殺気が迸り、エイプリルを睨む目は敵意と怒りで染まっている。
突っ込んできたエイプリルが、男と同じように殺気を纏う。普段は隠しているそれを男に向かって解き放った。
対する男も負けじと威圧を重ねる。エイプリルの行手を正確にシミュレートし、その足を踏み出した。
刹那、エイプリルは身を翻しクロスするよう振り下ろされた男の爪撃を完全に避け切った。
殺気を振り撒いたのは突撃すると思わせるためのブラフであり、エイプリルの目には殺意も敵意も映っていない。
男の横を抜けてドアの方へと走り出す。
向かうは階段、男の予想外を完璧な形で突くには一階にあるアレが必要だったからだ。
逃げるつもりか、そう男が焦る。アビスと合流されれば、逃げなかったとしても男の劣勢が確定する。
だから男は焦り、よく考えることもなく振り返り、エイプリルに追いつこうとしてしまうのだ。
エイプリルがつがえていた矢はブラフではない。
全てはここで男の意表を突き、一階への到達を確実なものにさせて、更に種を蒔くためのものだ。
振り返った男の視界に入るのは、小さな狂いすら許さず男の眼を狙っているエイプリルの
「視界良好〜!」
二重の罠にまんまと囚われた男に、エイプリルが無邪気な笑顔を見せる。まるで悪戯が成功した子供のようにはしゃいで、しかしその狙いがブレることなど万に一つもあり得ない。
エイプリルの矢が男の眼を射抜く。
男の体は反射的に仰け反り、エイプリルを逃してしまいそうになる。自分がまともに戦うこともないままエイプリルに逃げられる。それは絶対に許されない未来だった。
だから、男は決断を下した。
もしこれで二人とも死んだとして、それはそれで仕方がないことだと割り切った。
エイプリルが階段の方を目指してバックステップする、その瞬間に男の足は脆くなっていた二階の床を
「はあ!?わ、きゃあっ!」
素っ頓狂な声を上げてエイプリルが落下する。ロドスの空挺降下に慣れていることもあって、なんとか着地に成功する。履いている靴がスニーカーでなければ危うかった。
一瞬だけ周りに目を走らせる。今の崩落で廃ビル全体が倒壊する可能性だってありえたのだから、内心で男を非難しつつ確認する。どうやら心配は杞憂のようだ。
そして、殺気がエイプリルを貫く。
大きく飛び退る。
二階の床──一階の天井が落ちてきたことで瓦礫まみれになっていた場所では回避しにくいと思ったため、そして今ちょうど自分に向けて打ち込まれたものを回避するためだった。
何を回避するのか?
そんなものは決まっている。
「第二ラウンド、いや第一ラウンドだ」
男が突き出していた拳をゆっくりと戻す。
エイプリルの顔が、また厳しいものに変わる。
「かかってこい、殺されるためにな」
依然、男の気勢は削がれてなどいない。
ゴングの鳴る音がした。