【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
六十五 if√ コクヨウ
起き上がる。着替える。
顔を洗い、髪を整える。
目を覚ましてから、私がその四つを終えるまで五分もかからない。元々は朝とか全然起きられなくて、⬜︎⬜︎に──アビスに起こされてたんだけど。
アビスが望んだ通りになったなあ、なんて。取るに足らないことを考えながら最後のチェックを済ませた。
うん、ばっちり。超可愛い。
廊下の冷たい空気を感じながら、私は自室を出てすぐ、隣の部屋に入る。
この時間ならまだ起きてないはず。
電気をつけて朝餉を作る。冷蔵庫の中身は把握してるからすぐに取り掛かる。
備え付けの調理器具だとあんまり大層なものは作れないけど、態々食堂のものを借りるって言うのも、ね。
二十分くらいして、寝室の方からアラームの音が聞こえてくる。それはアビスからしたらちょっと不快なくらいなのかもだけど、私からすれば待望の音色!
「おはよう、アビス!」
「おはよう」
「朝ごはんはもう少しで出来るから待っててね」
「うん、ありがとう」
蒸し焼きにして、と。片付けもしながら料理しなきゃいけないくらいスペースが少ないから、簡単なものしか作ってないのに忙しい。
「あのさ」
「んー?」
「なんでボクの朝食を君が作ってるんだっけ。それに、毎朝二人で食べてるのも」
そう言われて、思わずアビスを凝視する。
どういうこと? 鉱石病で記憶でも失くしたの? 一緒に食べるのはずっと前から、それこそ孤児院にまだ居た頃から変わってないのに。
「君が言いたいことは大体分かるけど。でもこれだと、相部屋をやめた意味がまるでないよ」
「相部屋をやめるまではアビスが作ってた。部屋を分けたのは私が生活能力を持つためで、それは今見てるように達成された。意味なんてこれで充分でしょ?」
椅子に座ってこっちを見てたアビスの後ろに回る。前のめりになって覗き込めば、上を向いたアビスと目があった。
「それはそうだけど、でも実際には君がボクに依存するのをやめさせるためのことだったよね」
「依存なんてしてないよ?」
「…………うん。そうだね」
微妙な顔で私から目を逸らす。
アビスはもうずっとこんな感じ。何かにつけては私から離れようとする。仕方のないことだけど、それでもやっぱり、ちょびっとだけ、傷つく。
もう慣れてしまった胸の痛みを押し隠すように、ぎゅっと背もたれを掴む。
アビスには伝わってる。何も言葉は返ってこないし、何の反応ももたらされることはないけど。
傷つく。傷つくけど、慣れた。
拒絶されるのにはもう、慣れた。
それでも孤児院の頃に戻りたくて。⬜︎⬜︎って呼びたくて。近づいて。精一杯のアピールをして。
そうして、また傷つく。
「ねえ、アビス。私のこと───。」
その言葉は半ば無意識に口から出そうになっていた。何の意味もない言葉。ただアビスを悲しませて、私が傷ついて、それだけの言葉。
だからその声が掻き消されたのは、幸運だった。
「おっはよー! アビス!」
さっきアラームが鳴っていた部屋からそのウサギはやってきた。短くも長くもない黒髪を靡かせて元気いっぱいの笑顔を見せて。
「寝心地、よか、ったよ……」
「おはよう、ライサ。よく眠れたんだ?」
ライサ。ラーヤ。ラユーシャ。呼び名はこの三通りで、私に許されたのはライサだけ。
ドクター救出作戦。彼女はチェルノボーグにて行われたそれの最中アビスに助けられた民間人。
私よりずっと可愛くて真面目で。
そして、ずっと真っ直ぐな子。
「また来てたんだ。アビスの召使なんだっけ?」
「嫌だな、恋人だよ」
「嘘つかないでくんない?」
「分かんないフリも同じだと思うけど……?」
アビスの隣で寝てるのはいつも私だった。ロドスに来てからもずっと、部屋を分けるまではそうだった。
布団に残ったアビスの匂いも、ザラザラした尻尾の抱き心地も、寝顔も、寝息だって、全部私だけのものだった。
仄暗い感情が湧き上がってくる。怒りとはまた別の、もっとドロドロとした泥濘みたいな形をした感情が込み上げる気配がある。
それを力任せに押さえつけて、私は笑う。
ぶつける権利はとうの昔に失くしてるから。
「ラユーシャ」
「なに?」
「一緒に寝たかったなら事前にそう言って。何も言わないで入ってくるのはやめて」
「む。分かってるよ」
「だったらちゃんと言って」
「はーい」
可哀想だなぁ、アビス。あんなに言うこと聞いてくれない人に好かれてるなんて。
ライサだって、好きな人の言葉くらいちょっとは従えばいいのに。
「君も、僕が起きるより先に来て支度してるのはやめて」
「嫌」
「じゃあラユーシャと喧嘩しないで」
「私から仕掛けたことない」
今だってライサの方がつっかかってきた。私からは何もしてないし、悪口なんて言ってない。
私は何一つとして間違ってない。だってずっと前から私とアビスはそうしてきたんだから。今日だってそうあるはずなの。
邪魔に思うのは、私じゃなくて、ライサであるべきなんだよ。私がライサを嫌うんじゃなくて、ライサが私を疎むの。
隣に居るのは私。ずっとそう。だから私はライサを邪魔だなんて思わない。今のままでいい。だって私は
「ねえ」
だから、困らないでよ。当然だったはずなんだよ。
私は⬜︎⬜︎の特別だったはずなんだよ。
大切な人だって。
大好きだって。
そう言ってくれた。
そう言ってくれた、はずだった。
アビスの口が開く。
でも、優しいアビスはきっと。
十秒経った。
やっぱり声は続かなかった。
「なんでもないや。ごめんね」
それだけ言ってアビスは顔を逸らした。
今アビスは、私の顔に何を見たんだろう。
何を飲み込んだんだろう。
どうして、私に謝ったのだろう。
思考を強引に押し流す。
鬱屈した考えは一人の時にでも詰めればいい。アビスとせっかく一緒の場所にいるんだから、これじゃもったいない。
「はい、朝ごはん」
「え。私の分もあるの?」
「来た時寝てるとこ覗いたからね」
「はぁ!?」
「ごめん嘘」
はあぁ!? と更に声を響かせる。寝起きで出せる声量じゃないでしょこれ。どうなってんの声帯。あと生態。
「ありがとう」
「えへへ。どういたしまして、アビス」
それとなくアビスの近くに座る。ライサは反対側。
「ドレッシングはこれが一番合うと思うから、使ってね」
「分かった。それじゃ、いただくね」
「……ありがと」
「ん。どういたしまして」
かわいいな、ライサ。やっぱり私よりずっとかわいい。愛嬌があって、慕ってくれて、アビスからしたら私より余程魅力的に映るんだろう。
それでも私はアビスの隣に居座る。これは魅力とかそういうのじゃなくて、ずっとそうだったから。それは覆しようのない事実。
想いよりずっと確実な、事実。
「えへ」
アビスが私の料理を食べる。
頬張って、咀嚼して、嚥下する。
「えへへ」
満たされる。アビスと視線が交わったって抑えない。抑えられない。この快感は私のもの。誰にも邪魔なんてさせない。
「どう? 美味しい?」
「美味しいよ。ありがとう」
「ふふーん、愛情がいい味出してるのかな」
隠し味でも何でもないそれを伝えられて、けれどさっきとは一転して気不味そうな顔でフォークを動かすアビス。別に気にすることないんだけどね。
私が勝手に想ってるだけ。返礼なんて元から期待してない。もちろん、いつかはそうありたいと思うけど。
いつかは、また。
あの頃と同じように。
────ばちっ。
振るった
頬に伝った生暖かい液体を拭う。
戦場はいつもの通りだった。私たちの勝利が確定した、まるで消化試合のような殺し合い。
演習でも何でもないのに、敵の命はどれも恐ろしいまでに容易く潰えていく。
「──ははっ」
思わず笑い声が漏れた。
ああ、可笑しくて堪らない。
必死に生きていたはずの彼らが、私なんかの攻撃で悉く血の花を咲かせていることが。
本当に、可笑しい。
わん、つー、さん、し。
リズムに合わせて死体を作る。見逃してアビスの負担を増やすわけにはいかないから、さっさと処分する。
ほいさ。はいさ。
さあ、次。
「リラ、前に出過ぎだってさ」
「へっ?」
若干引き気味のライサに言われてようやく気付いた。
鮮血のレッドカーペットは何十メートルも伸びていて、破裂したようにぐちゃぐちゃな頭を持つ死体がそこかしこに落ちていた。
「よ、っと」
弾丸のようなアーツを跳ね返して術師の胴を撃ち抜いた。狙われていたライサが遅れて反応する。
私のアーツは副作用として反応速度が高まる。だからある程度はフォローできるけどそれを考えても危なかったし、ライサはもっと注意するべき。
「じゃあ帰ろうか」
「ん」
「あ、そう思ったらなんかすごく帰りたくなってきた」
「作戦中はそういうこと言わないでくれる?」
「そういう意味じゃないよ」
退路を断つように回り込んだ敵を吹き飛ばす。
「私にとって帰るべき場所はアビスだから」
「……イラつくなあ」
そう言いつつ、ライサが浮かべた表情は苦笑いだった。
私の言動にも多少は慣れてきたみたい。
「ねぇ、ライサ」
もっと仲良くなりたいな。アビスと仲がいいライサとは、ずっと良い関係を続けたい。
そう考えてのことだったけど、杞憂だったみたい。
「ラーヤでいいよ」
ライサが、もといラーヤがそう言った。
思わず口元が弧を描く。
「それで、何だったの?」
「なんでもないよ。ラーヤ」
「話しかけたくせに?」
「だって必要なくなっちゃったし」
「なにそれ」
表情は不機嫌そうに、でもその動きには不機嫌な時特有の乱暴さがない。
ラーヤも、私が同じこと考えてたって分かったんだ。
少しだけ嬉しくなる。
早くアビスに会いたいな。
───ばちっ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
もし私が、踏み出せなかったのなら。
風を全身に受けながら私は考えを巡らせた。
もしあの時躊躇ってしまったのなら、私はきっと近いうちに死んでいたと思う。鉱石病が私を殺していたと思う。
そしてアビスは──幼い⬜︎⬜︎は、私の死を心に刻む。順当に行ったとするなら、一生を私の幻影に囚われて過ごす未来だってあったのかもしれない。
「私は間違ってたかな」
「一つだけ、ね。でもその過ちを認めて取り戻そうとしてるのなら、君が今言った妄想の世界なんかよりずっと今の君は素敵だよ」
一歩前に踏み出す。
見渡す限りの荒野に巨大なキャタピラの跡がついている。ロドス・アイランドの足跡だ。
もし私の足跡があるとしたら、それはきっとアビスだ。
私の人生はずっと、初めて出会うずっとずっと前からアビスと共にあったから。
「アビスはさ、どうにもならなくなった時にアーツを使うよね。不安と恐怖の塊が心を押し潰してくるような、そんなアーツを」
まるで受けたことがあるみたいな私の言葉にアビスは眉を顰めた。これはきっとアビスが大事にしてるものだったから、知ったかで言われることが不快なんだろう。
でもアビスが気づいてないだけで、私はアーツを受けたことあるんだよ。
掻き立てられた。掻き混ぜられた。掻き毟られた。
けれど私の足は竦むことすらなく、表情は変わらず、いつも通りに行動できた。
だって、
「アビスに嫌われたくない。アビスに突き放されたくない。アビスに、もう二度と拒絶されたくない」
だから私は抱えている。
「加害者の私がどうこう言えることじゃない。でも、私は……耐え切れないくらい、悲しいんだよ」
微妙な距離感に警戒を顕にした態度。
根を張った不信感が私の心に穴を開ける。
「そんなに暗い顔しないでよ。私は笑ってるアビスの方が好き」
おかしくなりそうだ。
こんなにも近いのに触れることができないなんて、二人きりで名前すらも呼べないなんて。
私の名前を呼んでほしいだなんて我儘は言えない。
少しだけでいいから、触れたい。
伸ばした手を避けるようにアビスは一歩後ろに下がった。
触れるつもりなんてなかったし距離からしても触れられないだろうことは分かってるはずなのに、アビスは逃げた。
思わず胸を押さえてしまいたくなるくらいに強く心臓を握られた。
片時だって離れたくない相手は私から離れたいだなんて。
ああもう、笑えないなあ。
「──終わりにしたい、なんて馬鹿なことは言わないよ」
脅しみたいになっちゃうじゃん?
けらけら笑ってそう言ったら、アビスは私をまじまじと見つめ始めた。やん、照れちゃう。なんてね。
「楽しそうに見える?」
「……少しね。意外だよ」
「だと思う。だってそれが正解だから」
普段の私からかけ離れた言動だなんて私が一番よくわかってる。それでもそうしなきゃ、足が震えてしょうがない。
「ねえ、アビス」
「何かな」
「愛してるよ」
あまりにも淡白な愛の言葉。
「好きで好きで堪らなくて、だから私はアビスに好かれることが嬉しくて、苦痛だった」
「勝手だ」
「そうだね。とっても自分勝手だった」
仄かな
手に入れたあの日々はかけがえのないものだから。
「一つだけ、聞くね」
──ばちっ。
静電気みたいな音が聞こえた。
「私のこと好き?」
異音に戸惑いながら、アビスは答える。
「分からないよ。ボクは君のことが好きじゃないけど、でも嫌いでもないんだ」
「そっか」
ばちっ。
「それ、が。聞けて、良かったよ」
ああ、私嫌われてないんだ。
だったらもうそれでいい、妥協しよう。
ばちっ。
私は好かれようなんて思ってない。
ただ嫌われたくないだけだ。
だったら、今、固定してしまえば良い。
ばちばちと電流が流れる。
抑えつけられていたアーツが吹き荒れる。
「それ、は……」
「大丈夫、安心して。アビスには、向けないから」
サーベイランスマシンが青から赤に変わった。
吐き気と頭痛に眩暈のトリプルパンチ。慢性の鉱石病が急性に変わった時の症状。原因は、アーツの使い過ぎ。
ばちっ。
一つ一つに膨大な量の電気信号が打ち込まれた電流の群れ。アーツ学に則って空気中すらも容易く進むそれは、私の大事な、それでいて忌々しいアーツの奔流。
ブレーキの壊れる音がした。
「私のこと、忘れないでね」
ばちっ。
「君は、死ぬつもりなんだね。ボクに何もさせず、それでいて一直線に自殺へと進んでる」
「私のアーツを、怖がってるのは、アビスの、アーツが、教えてくれた、からね」
「性悪め」
「返す言葉も、ないよ」
ばちっ。
「ラーヤと、上手くやりなよ。朝ご飯は、大丈夫だと思うけど、ちゃんと、食べるんだよ」
「はぁ……こんなことなら、さっさと仲直りしておくんだった。今晩の夢見は最悪になりそうだ」
「そっか。あんまり、嫌いに、ならないでね。泣いちゃう、からさ」
ばちっ。
ばちばちっ。
「じゃあね。私、ずっと、好きだったよ」
「ああ。ボクも嫌いじゃないよ、リラ」
ばちっ。
私の意識はどこかに飛んで。
私の体はバランスを崩して。
私はきっと、笑えていた。
少年は、船の向こう側に落ち行く少女を見送った。
サーベイランスマシンの反応が医療部に把握されているのかは分からなかったが、少年は猫医者に少女のことを話そうと決めた。
嫌いではなかったんだ。
少女自身を除けば、誰も彼女のことを嫌いなどではなかったんだ。
少女が落とした結晶のカケラを拾った。
その黒さはまるで、黒曜石のようだった。
一周年記念です。何も書けなくなってから半年ほど、ひたすら逃げてました。これからは章ごとなどとは言わず、出来次第の投稿にしたいと思います。整合性なんて結局取れないので。
改めまして、誠にすみませんでした。
読んでいただけた方々、本当にありがとうございます。