【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
「どうもケルシー先生。先日はありがとうございました」
そうにこやかに笑うアビスの顔には誠実な感謝などひとかけらだって浮かんでいなかった。
おかしい。ケルシーは先日、自分の力で説得したいので手を出すことはないと治療を断ったのだから、今のリラを名乗る中身がこちらと親しくする必要などない。
何が目的だろうか。少しの間考えるが、やはり情報が足りない。この異常な第二人格について少しも調査出来ていないのだからそれも当然だ。
ケルシーはリラと名乗る人格について明らかにする努力をしていない。それは、後々アビス自身に伝えるかどうかをギリギリで選択できるよう、リラという人格の公表を後回しにしているせいだ。
あのケルシーと言えど苦手なものはある。コミュニケーションがその代表だ。分かりやすさはあってもとっつきやすさが明確に足りない。それはもう致命的なまでに足りない。
多重人格──解離性同一性障害の対症療法はメンタルヘルスケア。効果があるのならリラに試すのも吝かではないが、あれほど人格が確立されているのであれば無いに等しいのではないか、といった考えが頭について離れない。
どんな人間だろうと苦手なものには手が出ない。ケルシーもその例に漏れていなかったというわけだ。
「ああ、おはようアビス。体の調子をよく確かめて過ごすと良い」
「釈迦に説法ではありますが、ケルシー先生はいかがですか? 特に睡眠不足やストレスだとか」
「お前に心配されるほどではない、と言っておこうか」
ロドス職員の睡眠時間は上役になるほど削られていく、というものがある。たとえば購買部にほぼ常駐している変人などは「毎日4時間寝とけば大丈夫じゃない?」とか言っていたりする。
ちなみにその4時間という数字すら怪しい。午前4時ちょうどに行くと机に突っ伏して寝ているが、それ以外は基本いつ訪れても起きているからだ。
世間話が一段落ついたところで、ケルシーのそばにいる変人その2が口を開いた。
「ナチュラルに妾のことを無視しおってからに……」
「ああ、すみません。今のボクって減給されてる分だけ人が透明に見える特殊な病気に罹ってるんですよ」
「うがあああっ!!!」
躊躇なく小バカにするアビスにノリ良く襲いかかっていく
ケルシーが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「……好き勝手するようであれば、病床に縛り付けるのも手段の一つだが?」
「嫌ですね、ちょっとした冗談じゃないですか」
「ほう。手続きを済ませておこう」
「え、いやあの本気にされると本当に困ると言いますか、その、やめていただければ幸いなんですが──ってうわぁっ!?」
「……ふん。始業時間には遅れるなよ」
「分かっているっ!」
これがアビスであれば緊張感のある終わり方が出来ていたのだろう。だが実際の中身はリラ。シリアスの皮を被ったコメディ要員である。
ワルファリンにマウントポジションを取られ、ぷるぷる震えるのが関の山と言ったところだろう。
「ふ、ふふふ……思えば散々舐められたものだ。あのコータスのオペレーターと言い、そなたと言い、妾に敬意というものが足りていないではないか……」
「ストップ、ワルファリン。話せばわかる」
「分かっていたら苦労していない!」
「わっ、あはははっ、あはははははっ!! やめっ、て、あはははははははっ!!!」
久しぶりに反撃ができて満面の笑みになったワルファリンがついさっき早足で医療区画の方に向かった。
それを確認して、笑い疲れた体をどうにか起こす。疲れたとは言っても動きが少し鈍っただけで、アーツで動かしてるこの体に支障は出ない。ちなみに笑ったのも仕方なく演技しただけ。
アーツで支配してるこの体に反射の反応はない。だから私がわざわざ表情筋とか声とか色々調節しなきゃ笑わない。……もう大体慣れたけど、それでもかなーり難しいから、ワルファリンお婆ちゃんの困らせようって目論見は割と成功してる。
「好きだよ、リラ」
はぁ……でも、そんなのどうでもいいや。もう最高だよね、この体。いつだってこの声の告白が聞けるんだよ? まじやべー。もうほんと、まじやべー。一人につき一つは欲しい。私はどうせなら三つくらいほしい。
私がアビスの体を
とは言えいつまでもこんなんだったら流石にバレる。たとえばシーとかニェンって人に一度でも見つかったらヤバい。絶対大変なことになるって確信がある。
一刻も早くあの世界から帰ってきてほしい。ナインがこれ以上長引かなければたぶん大丈夫だとは思うけど……とにかく、ヤバい二人のことを警戒しつつ、他の人からも怪しまれないようにしないと。
よし。ってことで、私が成り変わってることをバレないようにしつつ、アビスと距離が近い人とは短期間だけでいいから接触を避ける。これで行こう。
──なんて言ったのに、私は現在矛盾した行動を取っていた。それは他オペレーターとの必要以上の接触で、詳しいことを言えば、ライサちゃんとのデートに赴いていた。
だって⬜︎⬜︎……アビスに他の娘とデートなんてしてほしくないし。心の底から嫌だったんだからしょうがない。
そう言えば龍門でエイプリルさんにまたデートしようねとか言ってた。アレも私が借りてる間に何とかしちゃって、ついでに出来ることなら突き放したい。
「それじゃ行こうか」
「ちょ、ちょっと待って。心の準備がまだ出来てなくて」
「はいはい。ほら、さっさと行くよ」
……突き放すとか何とか言ったけど、そもそも嫌われればいいってことに気付いた。強引に手を取って反応を見る。
「ひゅっ──」
発音が上手くできなくなって口から掠れた息だけが漏れる。目をまんまるにして、って驚きすぎじゃない?
アビスが言ってたことを参考にすると、ライサちゃんはアビスに依存してるらしい。正直ベタ惚れにしか見えないけど、アビスが言うならそうなんだと思う。
だから、実際はそこまで好きじゃないらしくて。ってことは嫌われるのだって簡単なんじゃないの? っていう見解。間違ってたら間違ってたで好感度を下げるのは良いことだし、とにかくやってみないとね。
そんなことを考える
「だっ、だだ誰に誑かされたの!? アビスがこんなことするなんておかしい! 絶対おかしい! 神様ありがとう!」
「……本音は?」
「神様ありがとう!」
こわっ。いや、もうこれ崇拝じゃん。嫌われるっていうのは完全に無理っぽいね。アビスが常日頃から苦労してる暴走列車は伊達じゃないってことか。
じゃあ、やっぱり私に出来ることは高い好感度を削るくらいかな。
「約束があるからこんなことしてるけど、こういう扱いは今日限りだよ」
「分かった。一生の思い出にするね」
分かってたことだけどこの子ヤバいね。何がヤバいって、さっきまでの赤面具合が完全に抜け切ってることがヤバい。さも当然のことみたいに言ってる。
この発言、私が言うなら全く問題ないけど、ライサちゃんを含めて他の人が言うのは流石にヤバい。それを分かってすらいないのはもう、なんかもうキモい。流石に引く。
「……うん。そうして」
内心では釈然としなかったけど、長々しく考えていたってしょうがない。私は特段その話を広げることもなく、ライサちゃんの手を引いて行った。
そうして到着したのは商業区画。あのクロージャさんが運営する購買部の他にも、オペレーターからエンジニアまで、全ての職員やロドス乗船者が利用できる生活用品店がたくさんある。
月に2回くらいは消耗品を目当てにアビスも訪れてた。ついでに購買部に寄って自分用の食料を補充したり。医療区画だとかエンジニア部がある区画よりずっとオペレーターたちと密接に関わってる。それが、この商業区画。
千を優に超える乗船者数を誇るロドス・アイランドでは、艦内でも経済が回ってる。ちょっと高級な日用雑貨に加えて娯楽品や嗜好品の類も売ってるから、まあまあ繁盛はしてるらしい。アビスに入ってくる情報が少なすぎてそれ以上はよく分かんない。
色々と脱線した。私が言いたいのはとにかく商業区画は賑わってるってこと。量はそこらの移動都市に劣るけど、一定以上の品質が保証されてるってことで、質はかなり上等な部類。
ちなみに量が劣ってるとは言っても、私とライサちゃんが搭乗してるこのロドスはさっき言った通り千人以上が生活してる。私服の需要はそれだけあるってことで、一店舗で賄いきれるほどじゃない。
つまり、服屋巡りはそれだけ長くなるってこと。
「アビス、やっぱり袋は私が持つよ?」
「いいって。部屋まで送るよ」
「部屋まで……うっ、うん! わかった!」
ほんのり頬を赤くして答えるライサ。
……今なんか変な妄想したでしょ、こいつ。
静かなロドスの廊下に靴音を響かせるのは私とライサとの二人だけ。引っ提げた紙袋が歩くたびにばっさばっさと音を立てる。
「本当に送るだけだよ?」
「わ、わかってるよ。でも今日はもう夜も遅いし泊まってくとか、どう? ほら、なんか、こう、一人で歩くには危ない時間帯だから」
「ロドスの治安を舐めない方がいいと思う」
絵に描いたようなピンク色の回答に辟易する。ライサを着せ替え人形にして遊ぶのは楽しかったけど、時々入ってくる露骨なアピールは終始イライラした。
私のアビスに粉をかけないでほしい。いやアビスが
今日一日を使って、ライサの評価をどうにかつけた。
一言で言うなら、初心でむっつりな恋愛弱者。
可愛いからグイグイ来てもあんまり不快にならなくて、誘い方が下手だからこそ拒絶するより先に笑っちゃう。そういった意味で距離を詰めるのは得意でも、恋人とか一歩進んだ関係になることは難しい。そんな感じかな。
毎日アビスを抱いてた──添い寝的な意味で──私の敵じゃない。距離を取ることがベストではあるけど、放置しておいても大丈夫そう。
信頼を笠に着て勝手なことをする必要はない。私はまだアビスから実在を疑われてる存在で、昔の私と本当に同じなのか猜疑してる段階。焦って拒絶されるなんて考えたくもない。
ふふん、これぞ頭脳プレー。こちとら六年以上もアビスを見てる熟練の女。恋愛弱者のライサとは年季が違うんだよ、年季が。
「着いたよ、アビス」
「ここがラユーシャの部屋なんだ」
「うん。それで、その……上がってく? 荷物もあるし、それにロドスの中なら帰りがちょっとくらい遅くなっても関係ないし、デートのことだって強引に決めちゃったからその謝罪っていうかお礼っていうかそういうのがしたくて。それにそれにいつもありがとうって感じでお茶くらい出さないと失礼だと思うし荷物運んで疲れてるんだったら、休んで行った方がいいと思うの!」
必死かっ! 長ったらしい以外の感想が浮かんでこない誘い文句に心の中でツッコミを入れる。どうせ手なんて出せないくせして背伸びしちゃってさ。
「そう言うなら、少しだけ」
ぐぬぬ。可哀想だからちょっとだけお邪魔しようかな、とか、そんなことは全然思ってなかったのにライサの誘いを受け入れてしまった。
流石に目をうるうるさせながら上目遣いされたら断れないって。中身私でごめんね。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ。……あ、アビス。ただいま」
えっ。
「あっ」
流れるように、部屋の壁に貼り付けられていたアビスの写真にただいまと告げたライサ。それを見てる暫定アビスの私。
なんでアビスの写真があるのかなとか言う前に自分からボロ出してきたよこの子。もうこの雰囲気どうすんの。渾身の一発芸で誤魔化すとかしないと地獄はいつまでも続くよ?
「ま、間違えちゃった。今のは、アビスに言ったことだから」
「あ、うん」
その方向転換は強引過ぎない!? 一緒に帰ってきた人に向かってただいまって言わないじゃん普通は!
油を差さず何十年も動かした機械みたいな動きでライサは奥に歩いていく。真っ赤に染まった顔を隠そうとしながら必死にソファを指さしたので、大人しくそれに座っておく。可愛いより先に怖いって。
記録媒体のプレイヤー。両脇にある写真。シャビーシックな壁掛け時計。隣には写真。サングラスをかけたリーベリの人が写っているライブのポスター。隣にはまたまた写真。
どこを見てもアビスの写真ばっかり。私の記憶ではアビスがライサに写真を撮られたことなんてないはずのに、それが当然みたいに何枚も貼られてる。
どうしよう。ヤバい。さっきまで舐めてた。
「粗茶ですが、どうぞ」
「ありがとう」
これ飲んでいいやつ? ねえこれ本当に安全? ライサが怖すぎて疑心暗鬼になる。睡眠薬とか入ってないよね?
「……」
「……」
恐る恐る口をつけたら割と好きな味の紅茶だった。けどほっと息をつくことはできなかった。
静寂。ライサは立ったままガチガチに緊張していらっしゃっていて、部屋の雰囲気がとんでもなく張り詰めていた。流石の私もふざけられないレベル。
「あの、あのさ……隣座ってもいい?」
かわいいなこいつ。
経験ないってことが手に取るようにわかる。子供の頃の私でも、もっと自然に距離詰めてたよ、たぶん。
頷く。ちょこんと座る。終わり。
「……」
「……」
それで終わりかぁ。
隣座ってからが本番なのになぁ。
「……」
「……」
でもなんか、懐かしいな。こうやってソファに座って何をするでもなく一緒にいるって体験。昔はここから揺れる尻尾に抱きついたり座ってる彼に抱きついたりとにかく抱きついたりしてたなあ。
「……ん」
ライサがどんどん私の方に寄ってきて、遂には腕と腕が触れ合うくらいの距離まで詰めた。えらいぞライサ。がんばれライサ。
心の中から発信した応援も虚しく、ライサは俯いたままそれ以上何も言わなくなった。
どうしようかな。ライサがヘタレじゃなかったらきっぱり断って関係悪化させようと思ってたんだけど、手すら繋げないようだし。もう帰ろうかな。
……もういいか。本当に何も出来ないみたいだし。
立ち上がってにっこり笑う。
「お茶ありがとね、ラユーシャ」
「えっ、あ……うん」
「今日は楽しかったよ。またね」
「……うん。なんだか女友達と来たみたいだったけど、私も楽しかったよ。また明日」
ばいばい、と手を振るライサに応えながら部屋を出た。最後の最後であんなセリフが飛び出てくるとは思わなかった。アーツのおかげで顔に出なくてよかった。
最低限、体を返す前にしておきたいことは終わった。ケルシー先生が何もしてくれなかったのは想定外だったけど、鉱石病はどうせ治せないだろうから問題ない。できるならやっておきたい程度のことだったし。
歩きながら考える。もうすぐアビスが帰ってくるだろうから、それまでにやっておかなきゃいけないこととか。ライサのこれからとか。
──だから、気付けなかった。
アビスがよく通っている通路を、特に何も考えないまま使ってしまった。ライサに注意が向いてしまっていた。
懸案事項を忘れていた。
「ねえ、そこの。見ない顔ね」
凛とした声色。似合わないと思ってしまったのは、今までのものぐさな態度を見てきた私には、自然なことだと思う。
ある意味こっちが本当の彼女なのかもしれないけど。
いつもいつも斜めに傾いてる機嫌はもはや壁になってるんじゃないかって思うくらい角度を増していた。
「誰の許可を得てその体に入っているのかしら?」
沸々と湧き上がる怒り。
シーはそれを隠そうともせず、私の方を睨んでいた。