【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
一杯食わされた。
頭の中身がそれで一杯になってからしばらくの間、私はかつてない虚脱感に襲われていた。
ケルシーがそれなり以上のやり手だと認識していなかった──というよりは、見積もっていたよりずっと早く吹っ切れた行動を仕掛けてきたことが要因か。
さて。
終わったことは仕方がない。
ケルシーの転換に合わせて今は柔軟に対応していくべきだろう。
それに、私とケルシーの空気感が伝播しつつある。
まだ対立にこそ至ってはいないがそれを察知するオペレーターは必ず存在する。
それまでにケリを付けなければ。
「ってことで、アビスを呼んだんだけど」
「何も言っていないのに『ってことで』なんて接続はおかしくないですか……?」
「心の耳で聞けよ」
「面倒だからって適当言わないでください」
「最近尻に敷かれつつあるくせに」
「ああ、死にたいってご相談でしたか」
「やめて!? 本当のことじゃん!」
執務室に呼ばれた緊張はこのくらいで解すことができたか?
それなら他愛のない話はこれぐらいにして……
待て、どうして私に関節技をかけて──
「あっ、あーっ! 腕が! 腕がちぎれる!」
締め上げられている右腕が尋常ではないほどに痛む。
解剖学にそれなりの知識がある私にはわかる、これは痛痒を与えるためだけに特化した技だ。
ほとんど本気の叫び声をあげながら懇願すると、アビスはようやく解放してくれた。
尻に敷かれる、はNGか。
彼女たちとの関係は満更でもないのだろうが、揶揄われることとはまた別か。
「さて、それじゃあそろそろ本題に入ろうか。聞く準備は出来ているかな?」
アビスが不機嫌そうに頷く。
「君には二つの選択肢がある。とても簡単な二者択一だ。それこそ答えを求めることが侮辱的であるほどに、ね」
「それなら帰らせていただきます、と言いたいところですが。それにもかかわらず聞いているのであれば恐らく重要な事柄なのでしょう。さっさと聞かせてください」
「ああ、そうだね。単刀直入に聞くとしようか」
覚悟なら既に出来上がっている。
アビスに限って言えば今がルビコン川のほとりなのだろうが、大局を見れば、とっくにそれは越えているのだ。
「未来と過去、どちらを大切にしたい?」
アビスが小さく息を呑む。
それもそのはずだ、私はアビスとナインを合わせる協力こそしたが、
アビスは恐らくケルシーに伝えられたのだと思うだろう。
本当は訓練室爆破事件の後Wに教えてもらったのだが、アビスはWについての理解が浅すぎる。
ケルシーの株を下げられるのならば下げておくべきだ。
ただでさえしてやられたのだから、これくらいがフェアだろう。
「未来を手に取りたいのであればケルシーを、過去を大切にしたいのであれば俺を頼るといい。断っておくが、俺はただアビスの意思を尊重したいだけで、前者を選んでも問題はない。その場合ケルシーに睨まれて俺は何も出来ないだろうけどな」
「……ドクターは、どこまで?」
「それは言えない、きっと彼女は名前を出されると困るだろうから。ただ、アビスを慮ったからこそのことだってことは理解してほしい」
嘘ではない。
Wは自身がバラしたと知られることを嫌がるだろうし、捻くれた物言いでコーティングしていたが、アビスの助けになろうと動いていた。
この言葉に嘘はない。
誤解を招いてはいるがそれに何の意味があるだろうか?
恐らくはアビスがケルシーに問い糺すこともないのだし、そして何より──私がアビスを頷かせればいいだけのことだ。
そういえば最近Wを見ていないが、ケルシーが任務を口実にロドスから追い出したのだろうか。
アビスのことでかなり手広く動いていたから目についたのだろう。
大方アビスのことで不安定になっている隙を突いたつもりだったのだろうが……運が悪かったな。
脇道に逸れた。
今はアビスの話だ。
「返事は……」
「時間がかかるのであればいくらでも待つさ。ただ、悩む必要があるのか? 俺の目にはとてもそうは見えないけどな」
「それは、いや、それを、ドクターが……?」
いつもの仮面で覆い隠しても胡散臭い違和感が残る。
それならば、と私は限りなく「私」に近い意見を言わせてもらった。
この程度ならば「俺」の一面として処理してくれることだろう。
「俺が言ったらダメなのか?」
「いえ、ただ驚いただけですよ。ドクターが自分の意思を──自分だけの意思を示すのは珍しいですから。正直チキンだと思ってました」
へえ、と感心した。
私が思っていたよりもずっと、アビスは周囲に気を配っているようだ。
仮面の意図をそこまで的確に言ってのけたのはアビスが初めてだな。
少しだけむず痒い。
「おっ? 喧嘩か? 売るのはいいけど責任持てよ? 俺が一時間休んだらロドスには何百万もの損害が発生するぞ?」
「残業すればいい話ですね」
「やめてください死んでしまいます」
「大丈夫、人はそう簡単に死にませんよ」
「俺」が仮面であることを知られるのは私にとって一番怖いことだった。
ケルシーやアーミヤは知っているが、その意味や意図までをも正確に理解しているとは言いがたい。
「俺」を使って信頼を築いたオペレーターに本当の私が露呈することは、ケルシーがにこにこ笑っているのを見た時と同程度の恐怖を私に与えるだろう。
だがアビスだけはその限りじゃない。
この男はたとえ私がシリアルキラーだったとしても、ケルシーに報告して終わりだ。
「俺」に対して一切の興味を持っていない、それがアビスだった。
だから私は少しだけ、見せてしまった。
「──過去は大事にするものだよ、アビス」
飄々とした仮面がズレて四角四面な私が露になる。
この言葉にだけは私の本当の感情を込めて、アビスがそれを受け取ってくれるのならばそれ以上のことはないと思えた。
目的のための「俺」と。
誰にも見せられない「私」という本質。
がらりと雰囲気が変わっていると思う。
何気ない動作からでさえ仮面との差異が零れ落ちているだろう。
しかし、それも一瞬。
私は「俺」の皮をかぶる。
私が顔を出しているのは、後から思い返した時には勘違いだったのだと思うような、そんな数瞬の出来事。
今は仄めかすくらいがちょうどいい。
アビスを理想の状態まで持っていくことと、その向こうにある目的まで見据えれば、今はこれくらいでいいんだ。
「今日はこれくらいにしておこうか。アビスにはどうやら考える時間が必要だったみたいだからな。悩めるだけ悩んでくれ、俺はそれを尊重するよ」
「……分かりました。とてもよく、理解しました。また暇そうな時にでも訪れることにしますよ」
「ああ、それがいいさ」
アビスが過去を──私の手を取ってくれると信じている。
何故なら、過去はとても大切なものだから。
たとえ未来を向いたとして、人を形作っているのはやはり過去の蓄積なのだから。
その過去は、私が取り落とした、私が失ってしまった、とても大事なものだったのだから。
アビスはきっと大事にしてくれると信じているよ。
プルルルルル、と小さく鳴る。
発生源はアビスの手にある携帯端末。
しばらく経って音が止まり、通話中の三文字が現れる。
通話の先にいるのは──エイプリルだ。
『はーい、あたしだけど』
「あぁ、良かった。今は任務中?」
『ううん、約束してた夜に向けて準備中』
ガチャガチャとガラスを擦るような音、何かを閉じたような音が向こうから聞こえてくる。
エイプリルの声は弾んでいて、楽しみにしていたらしいことがよくわかった。
それだけに心苦しく思う。
「そっか。参ったな……」
『どうかしたの? 検査でも入っちゃったとか?』
「いや、そうじゃないよ。予定は空いてる」
もしこれがロドスから下された指令や任務であったのなら、ここまで躊躇うこともなかっただろう。
「あのさ」
『うん』
「……明日でもいい?」
少しの沈黙。
重苦しい空気。
それを破ったのは、その空気を吹き飛ばすように明るい声だった。
『いいよ、明日でも。別に今日じゃなきゃいけないことでもないからね。予定ズラせばいいだけだし』
「ありがとう。良かったよ、頷いてくれて」
『いいよいいよ、これくらい』
小さく笑うエイプリル。
なんだ、こんなに簡単なことだったのかとアビスは思う。
「それじゃあ、そろそろ」
『まだ理由聞いてないよ?』
「…………」
『まだ理由言ってないよね?』
「…………個人的な、その、やらなきゃいけないことがありまして」
全然逃げられていなかった。
いや、なんとなくこうなる気はしていた。
エイプリルが大人しく頷いているだけで済むはずがないと分かっていた。
だとしてもいざ目の当たりにすれば、覚悟などなんと脆いものかと思わずにはいられない。
『敬語になってるよ。誤魔化すつもりなの?』
「誤魔化すなんて、そんなことない、とは言い切れないけど……」
エイプリルの声に怒りだけじゃなく悲しさが乗っていることをアビスは分かれてしまった。
理屈には疎いが、慣れ親しんだ感情にだけは強力なセンサーを持つアビスだ。
喉に言葉がつっかかる。
けれど、それでも優先すべきことがある。
「詳細は言えない。けど、やることができたんだ」
『どうしても?』
「うん。どうしても」
『そっか』
それでも優先すべきことがある、はず。
緊急性があるわけじゃないけど、一刻も早くどうにかしないといけない。
ナインのこととか、ボクも色々と迷惑をかけてしまったから。
けれどエイプリルの声を聞いていると、どうにも、その決心が揺らいでしまう。
伝わってくる悲しみは龍門のスラムで怒られてしまった時ほどじゃない。
だからって、蔑ろには出来ない。
したくない。
知らない人との予定だったなら別にどうでもいい。
シーとかWならぞんざいにも扱える。
事情の説明が出来れば良かったんだけど、きっとそれはあの人に不利益を招くだろうから。
「ごめん、今日だけなんだ」
『本当に何も言えないの?』
「申し訳ないけど……また明日にでも……」
『じゃあそれなら明日じゃなくていいかな? そんなことでキャンセルするような予定じゃないから。いつも暇なアビスとは違ってさ』
「……ごめん」
『…………今のは、あたしもごめん。頭冷やすね』
「エイプリルは悪く──」
『じゃあ、またかけるから』
プツ、と通話が切れた。
エイプリルの声は聞こえない。
ボクの声はもう届かない。
きっと明後日か、それくらいまでエイプリルから連絡が来ることはない。
それが結果だった。
力を失った手が下がる。
分かりきっていたわけではなくとも、こうなる可能性があることくらいは分かってた。
分かってた──はずなんだけどなぁ。
少し前くらいから、エイプリルがボクを見て寂しそうにしていることは分かってた。
どうしてそうなっていたのかは今でも分からない。
だから考えるのもなあなあにして、それきりだった。
やり場のない感情が積み重なればどうなるのか、それを知らないわけでもないのに。
エイプリルは
端末をポケットの中に入れる。
硬質で冷たい感触が、本当にそれでいいのかとボクに問いかけているようだった。