【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
ノックの音が響く。
ドクターは執務室のドアを見つめた。
来客予定がなかったために、誰がそこに居るのか分からなかったからだ。
今日の秘書当番はイーサンだ。
午前中は少しは手伝ってくれたが、飯時に消えてからずっと姿が見えない。
合図を出さない限りは常に護衛しているマンティコアとあまり相性が良くないらしく、居心地が悪そうにしていたのをドクターは見ていた。
だから彼は帰ってこないだろう。
このノックの主は恐らくイーサンではない。
そこまで思考を展開したところでドアが開いた。
見えたのは小柄な青年。
どうして執務室を訪ねたのだろう?
目的が見えない。
どこか顔色が悪い理由も読めない。
もう窓の外は暗い、こんな時間帯に来て何をしようと言うのか?
アビスが話すとすればあの返事なのだろうが、明日でも良かったのでは?
ドクターは首を傾げた。
「お疲れさまです、ドクター。進捗のほどは?」
「まあ、そこそこってとこだな」
「それなら終わるまで手伝いますよ」
「結構です」
「そう言わずに」
「いや本当に結構です」
コイツに書類業務を手伝わせてはいけない。
何かしら悪いことが起きる。
多少仕事が早く終わろうとも、そのメリットと釣り合わないほどの屈辱が刻まれる。
ドクターはそう認識していた。
故の絶対拒否バリアだった。
「困りましたね、腰を据えて話したかったのですが」
「……時間を取ろうか?」
「いいえ。ドクターを待っています」
「おおぅ……そうか……」
いつになくトゲが少ないアビスの様子に面食らう。
普段よりもずっと、なんというか殊勝だった。
「茶でも淹れるか」
「ボクが淹れますよ」
「気分転換だ。邪魔しないでくれよ」
そう言ってドクターは笑う。
内心で、「なんでこいつこんなに真面目なの?」と盛大にハテナマークを浮かべていることは露ほども出さない。
「なあ、アビス」
「なんですか?」
「火急なんじゃないのか? そうじゃないなら明日でもいいんだろう?」
「火急と言えば火急ですね」
「……なんだそりゃ」
「不発弾の処理、とだけ言っておきましょうか」
本格的に何を言っているのだろうか?
ドクターは性能の良い頭で可能性を片っ端から列挙していくが、ほとんど全てにバツ印がついた。
アビスに茶を勧めて、ドクターは業務に戻った。
時折向けられる視線はどこか興味深げで、子供が顔だけ出してこちらを覗き込んでいるような、そんな様子だった。
端的に言おう、落ち着かない。
すごく落ち着かない。
それでもなんとかペンを走らせる。
抵抗があるせいでむしろいつもより早く業務は進んだ。
歯応えがあるものの方が噛み続けられる──というのはまた別の話だが、まあそのようなものだ。
さて、そうして業務が終わったわけだが。
「ドクター、ちょっと毎日ボクのために紅茶を淹れてくれませんか?」
「〝ちょっと〟で済ませられる範囲を超えてるんだよな、それな」
「大丈夫ですよ、すぐ死ぬので」
「唐突なブラックジョークに思わず微笑みが消えてしまいそうだったよ」
「さながら生命の灯火のごとく?」
「しぶとく生きろよ」
急に元気を取り戻したアビス。
どうやらドクターの紅茶がよほどお気に召したようだ。
「……そんなに美味しかったのか?」
「ええ、それはもう。ボクに許された嗜好品は飲料に限られますから、こういったものは本当にありがたいんですよ」
「いつもいつも前提が重いなぁ」
「伊達に満身創痍じゃありませんからね、ははっ」
「笑えねえよ」
「失敬、失敬。いつになくテンションが上がっているんですよ。悪いことばっかりで下がることしかないですからね。鉱石病とか」
ユーモアはないが、ブラックユーモアにかけてはなかなか天才的だった。
特に評価できるのは躊躇いなく言えてしまうところだろうか。
もう少し自重しろ。
ライサが聞けばキレるぞ。
「……それで?」
いくら待てども出てこない本題の二文字。
ドクターは遂に自分から切り出した。
「ここに来た目的を聞かせてもらおうか。紅茶くらい後でも淹れてやるさ」
「ふむ、随分と気が早いですね。ドクターらしくもありませんが」
「そうか? 多くのオペレーターが言うように、俺も速戦即決が好きなんだよ。アビスだってたまに言う……言わないか。言わないな。なんか言えよ」
「ボクが速戦即決したら鉱石病がどんどん体を侵食しますけど、本当にそれで良いんですね?」
「下手なこと言って申し訳ありませんでした!」
ドクターの頭が机にぶつかって鈍い音を立てた。
人間、大事な時で頭を下げられなくなったら終わりである、とドクターは考えていた。
ちなみに今がその大事な時であるのかどうかは怪しいところだ。
「……では、そろそろ始めましょうか。ドクターのメンタルカウンセリングを」
「メンタルカウンセリング?」
「別に何もないなら良いんですけどね」
「アビスがやることじゃなくないか?」
「その通りですね。でもケルシー先生はどうせドクターのことほったらかしにしてるんでしょう? あの人、割と感情で動きますから」
「定期検診くらいは受けてるけどな」
「それだけでは足りませんよ」
「どうして断言できる?」
「ボクは感情のスペシャリストですから。ドクターも知っていますよね?」
「いや、知らんけど」
「……あれ?」
ドクターがアビスについて知っていることは、ただ自分の感情を発信できるということ。
アビスが他人の情動に鋭いのはあくまで副産物であり、知られているわけがない。
そんな些細な失念は置いておくとして。
「それで、カウンセリングの動機は? まさかなんとなくってこともないはずだろ?」
「ええ、まあ。ですが、言ってもいいものかと」
「ちゃっちゃと言えよ」
アビスは躊躇っているようだった。
しかしその理由がドクターには分からない。
分かっていれば、いや、きっと分かっていてももはや手遅れだったか。
どこまで理解されているのかを分かれなかった。
だから。
「ドクターがいつも抱えている際限のない恐怖を、取り除くべきだろうと思いまして」
それがもし、歓喜であったのなら。
もしくは憤怒であったのなら。
アビスは気づくことすらなかっただろう。
しかし、それは恐怖だった。
肌を刺すような凄まじい恐怖。
毎夜悪夢が訪れ、そして去っていくような、アビスにとっては慣れ親しんだ感情。
だからこそドクターは看破された。
「……恐怖? 俺が、何に?」
「未知と死。ボクに分かったのはそれだけです」
「占いにでも手を出したのか?」
「いいえ、確信です。事実でもある。──これは答え合わせの時間なんですよ、ドクター」
誤魔化すドクターに反駁し、紅茶を啜る。
幾度となく触れた感情の名前を間違えることなどアビスにとってはありえないことだ。
「余りにも乖離している。アーツで探ってみれば面白いほどによく分かりましたよ。あなたの表層に表れるそれと、内心浮かべているそれとの決定的な違いに」
ドクターは口を閉じた。
「ほんのわずかな情動を除いて、あなたの心はいつも恐怖に苛まれている。疑心に満ち溢れ、媚び諂っている。いえ、それが悪いこととは言っていません」
恐れることも疑うことも、大事だろう。
媚びることだって処世術だ。
「ですがあなたの心はもはや爆発寸前だ。いつ壊れてしまってもおかしくない。だからボクは来たんです」
心を押しつぶすような恐怖を知っている。
それにドクターが耐え続けていると知った時、目を疑ったほどにはありえないことだった。
何せドクターが抱えていた恐怖は、アーツで増幅させた恐怖と遜色ないものだったのだから。
「……爆発寸前、か」
「ええ」
「間違っていない、いや、それこそが正解だったんだろう」
ドクターは椅子に深く座り直してため息をついた。
「仮面を外してしまったのも、きっとそのせいだ。逃げたいって思ってしまったんだ」
「仮面ですか」
「ああ、仮面だ。誰にでも好かれるための、ただの虚像さ」
「……それは、俗に言う一側面なのでは?」
「意識的に行うこれが、か? 私からすればそんな見方は妄言に過ぎない。詐欺師が見せる優しさを本質のうちだと言っている者が何処に居る」
吐き捨てるようにそう口にした。
「自分のことが嫌いですか?」
「自分のことが好きな者には上役など務まらないさ。精々が部下をこき使うクソ上司だね。『どうしてこんなこともできないのか』なんて、何もできない私にはとても言えない」
「そう斜に構えずとも……」
「腐るしかないだろう。ある日目が覚めてみればこんな世紀末だ。致死の感染病や超人的な力を持つ人々、そして用意されていた厄介事ばかりの方舟に、一切身に覚えのない過去。どれだけ面倒だと思ってる」
次々と出てくる愚痴に、堪らず口を噤んだ。
何か言及することそれ自体が危なそうだったからだ。
元より、拾ってもらった組織に悪口を言うほど性根が曲がってはいない。
ケルシーは別だ。
「……私は、アビスにならバレたって構わないと思ってたんだ。どうせ私に興味なんてないだろうから」
「ええ、まあ。全くありませんね」
「でも少し不安になったからな。聞かせてくれないか?」
「何をですか?」
「私のことをこうして気にかけた理由だよ」
手を組み椅子に背を預ける。
色々と吹っ切れてしまったらしい。
「君に利益はないはずだ。アンデッドを探し終えた君には。ケルシーに対抗するため私の力を欲しているのだとするならば、私の誘いに即答しなかった理由が分からない」
「理屈立てればそうなりますね」
「つまりだ。私をどうにかする理由なんてなかったんだよ。だから知りたいんだ、今ここにいる理由を」
「……ドクターは、
「指示語では分からない。簡潔に言ってくれないか」
アビスはため息をついた。
そして、何言ってんだコイツとでも言いたげに向こうを見やる。
何も反応しないドクターに少し、苛立った。
「まずドクターはナイン探しに付き合ってくれましたね」
「そうだな」
「色々と苦労をかけましたし、ラユーシャのことでもそれなりに負担をかけていたと思います」
「ああ、あの子は確かに疲れたな。勘弁してもらいたいよ」
「まだ分かりませんか?」
「恩があるという話なら、以前君を殺しかけた事件の分で無しだろう」
「……はぁ…………」
「何か不満でもあるのか?」
やれやれ、とアビスは首を振った。
まさかここまでだとは。
「ドクター。恩とかそういうものは関係なく、ボクはこれまでよく協力してもらったりしたわけじゃないですか」
「ああ」
「ええと、まだ分かりませんか」
「……分からないな」
うむ。アビスは頷いた。
言うしかないだろう。
面と向かってドクターに言うのは気恥ずかしいが、もう仕方がないことだ。
「ボクにとって大切な人なんですよ。それこそ心を壊してしまったら他人事で済まないくらいに、あなたはボクにとって近しい人なんです」
「……大切、か。確かにそれなら頷ける。ロドスは大切な居場所だろうし、私が倒れては不都合だろう」
「そういう立場とかないんですよ。ボクはドクターだから助けたんです、さっさとその良質な頭で理解してください」
「私が君にとって? 馬鹿を言うなよ、それこそ妄言だ。第一、君は知っていたんだろう」
まだ言うか。
アビスは面倒くさそうに目を細めて聞き返す。
「何のことですか」
「私が仮面を被っていることに、だよ。まさかあれだけあからさまに雰囲気が変わって、ああこういう人なんだなとは思わないだろう?」
「ドクター、これ以上ため息を吐かせないでください」
「何か間違っているのか?」
「全てですね」
アビスは紅茶を一啜り。
ソーサーに空のカップを置く。
そして、鋭い気配をドクターに突きつける。
「どうでもいいんですよ、仮面とかそういうの。相手がボクを騙していたって、隠れて殺そうとしていたって正直どうでもいいです」
「……」
「ボクはドクターに倒れられたら後味が悪いから心配しているだけなんです。情はそう簡単に理性じゃ動かないんですよ」
「それが答えだと?」
「ええ。仮面があったくらいでボクに何か影響を与えようとしていたのなら、ご愁傷様です。その程度でボクを転がそうなんて、
「仮面があったくらい、か」
「ええ。興味なんてカケラもないと言ったでしょう。ボクは勝手に親しくなった気になってお節介を焼いているだけ。ただのエゴですよ、こんなものは」
どうでもいい、興味がない。
お前の中身なんて関係もない。
人間関係を最初から放棄しているアビスだからこそ言える言葉だった。
アビスだからこそ、そんな言葉でドクターを納得させてしまえた。
「そうかそうか……私になんて興味がないか、アビス」
「全く」
「私を好きでもないか」
「カケラも」
「私を嫌ってはいないか」
「これっぽっちも」
どうやらドクターの目は間違っていなかった。
アビスになら、ドクターは己を見せることができる。
素気無く否定の言葉を積み重ねるアビスに、ドクターは期待した。
その期待は、疑念を信頼が上回った故に初めて生まれたものだった。
ドクターは全ての人から好かれようとしていた。
全ての人から好かれることで、殺される恐怖から逃れようとしていた。
何せ誰が相手であろうと簡単に殺されてしまえるドクターだ、全ての人から好かれなければ意味がない。
だから仮面を作った。
フランクで少し粗野な、しかし深いところで理知的な「俺」という仮面。
誰にでも好かれるための作り上げられた虚像。
しかしそれをして、恐怖から逃れられることはなかった。
信じることさえできれば解決していたのかもしれないが、無駄に柔らかい頭が万一の可能性を考えて動きを止めてしまう。
アーミヤに、ケルシー。
彼女たちは過去のドクターを見ている。
彼女たちが信頼しているのは過去の自分であって、今の自分でないことをドクターは深く理解していた。
だから求めていたのだ。
今の自分を認めてくれる存在を。
何の気兼ねもない友人を。
それならばきっと信じられるだろうと思って。
信じられるのならば、きっとこの恐怖も薄まるだろうと思って。
しかしそれは途轍もなく高いハードルだった。
何故ならドクターは背後に積まれている過去の自分を超えられない。
今の自分では、過去の自分に勝てない。
この「私」だけを認めてくれる存在は決して見つからない。
故に初めて期待することができたのは、矛盾しているようにも思える条件を突破した者だ。
自分に興味がない者。
過去の自分など知ろうともしない人。
それは、アビスだった。
聞いてもいいだろうか。
ドクターの脳裏に問いが浮かぶ。
ずっと言いたくて、誰にも言えなかった言葉。
相手を信じるための第一歩。
アビスだけになら、その弱音を吐き出せる。
震える口が言葉を紡いだ。
「私を、殺そうと思ってはいないか」
ドクターは唾を飲み込んだ。
ごくりと喉が鳴る。
汗が頬を伝って流れ落ちていく。
アビスの返答はまたもや端的なものだった。
「いいえ」
何の気負いもなく。
答えることが面倒くさいとさえ思っていそうな顔をして。
アビスは理想の返答をドクターに返した。
「そうか。そう、だよな」
「意味もなく人を殺す趣味はありません。況してやドクターを殺したいなどと思ったことはありませんよ」
「ああ、分かっているよ。──いや、違うな。ようやく分かることができたんだ。ようやく分かれたんだ。ようやく、君のことを信じることができたんだ」
「……もう、恐怖はありませんね」
「ああ、当然だ。本当は当たり前なんだ、目の前の相手が私を殺さないことなんて。それでも信じられなくて、疑念ばかりの毎日だったんだ」
「好かれるための仮面、と言っていましたが」
「好かれていると実感できればその疑いも晴れようかと思っていたんだ。結局は無駄だったが」
晴々とした口調でドクターが言う。
心底嬉しいといった様子で椅子から跳ねるように立ち上がり、やはりぴょんぴょんと跳ねている。
「しかし、君が居たんだ!」
その高いテンションをそのままに、ドクターはアビスの手を取った。
「本当に嬉しいよアビス、私の友になってはくれないか!?」
「紅茶を淹れてくれるのなら、是非」
「それくらいならいつだって応えてやる! 夢みたいだよ、友人なんてものができるなんて! この私に友人が出来るだなんて!」
本当に嬉しいのだろう、ドクターは跳ねながら繰り返した。
そうして跳ねているうちに、ドクターは一つ、また秘密を曝け出すことになる。
「……えっ」
「何だよ、アビス! どうしたんだ!?」
「……い、いえ、その…………」
アビスは恐る恐るドクターを指差した。
それが見えていた。
ありえないそれが見えていた。
「えっ、と。あぁ、これか」
ドクターの声質が変わった。
低音のそれから、高音のそれに。
ドクターのフードが取れて、銀色の長髪が外に出ていた。
手入れがされているのかどうかはともかくとして、アビスはそれを綺麗だと思った。
「まあ、私のことに興味なんてないだろう?」
「興味はなくとも、驚きそのものはあるんですよ」
「そうか?」
ドクターは首を傾げたが、すぐになんてことはないという風に頭を振った。
「そんなことはどうでもいいんだ」
ドクターは端整な顔を笑顔で飾る。
それはまさに、大輪の華が咲いたように。
「これからよろしく頼むよ、私の友人!」
「……よろしく、ドクター」
「うん!」
ドクターは女性だった。
アビスは一頻り驚いた後、まあいいかと思考を放棄して紅茶を強請る。
ドクターは嬉しそうに笑ってコップを受け取り鼻歌混じりに準備を始めた。
どこかで誰かの後輩のコータスが、胸中を駆け巡る不吉な予感に身を震わせていた。
「大好きだよ、私の友人」