【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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六章 残り香の導き
八十四 猫医者抵抗作戦-フェイズ1


 

 

 

 

 

 

 

 

 ことり、と音を立てた。

 揺れる水面に歪んだ底が見える。

 

「報復は果たして悪か?」

 

 彼女は言った。

 答えはなかった。

 答える者は居なかった。

 

 檻の中で一人の彼女は呟いた。

 

「復讐は悪か?」

 

 今一度噛み締めるように呟いた。

 感情を込めようとは思っていなかった。

 堪えられなかったのだ。

 

 悲しみはいい。

 胸が痛み、それだけで済む。

 それにその痛みは証明だ。

 存在を肯定するための証明だ。

 

 怒りはダメだ。

 特に純粋な怒りは。

 痛いだけでは済まされない。

 命に終われば儲け物だ。

 

「君はどう考える?」

 

 社会が決めた善悪の規定。

 倫理観という規格化された思考。

 

 それに刃向ってもよいものか。

 この考えは異端なのか。

 あくまでこちらが異常なのか。

 

 同じ境遇にあったのなら、どう考える?

 全て同じとは言えなくとも。

 同調するだろうか。

 

 二つに分けるべきか。

 経験で区分すべきだと考えるか。

 その上で扱いでも変えるか?

 現実的ではないだろう。

 しかし頭の中でならどうだ?

 

「……早く聞かせてくれ、アビス」

 

 彼女は檻の中に居る。

 彼のことはもう呼んでいる。

 

 あの都市で交戦した青年。

 一点の曇りもない悲しみを貰った。

 

 それには感謝している。

 ああ、だから当然のことだろう。

 

「私はいつでも待っている」

 

 彼にはとびきりの楔を打ち込んでやる。

 その悲しみが決して癒えないように。

 強く、深く、太く、打ち込む。

 

 

 その痛みこそが君を支えているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執務室に入ってくるなり、ケルシーは言った。

 

「ドクター、何をしている」

 

 ドクターは顎に指を当てて考える仕草を見せた後、それに答えた。

 その言葉は単純明快だった。

 

「ツイスターゲームだよ。給湯室……今はキッチンか? そこにあるのを見つけてな、ケルシーもやるか?」

 

 アビスがひっくり返った姿勢のまま眉を顰めた。

 対外向けの口調と声色に戻っていると気付いたからだろう。

 

「出資者たちへの支援については」

 

「予算案から十分に出せる程度の物資と人員を算出して許諾しておいた」

 

「龍門支部からの報告書は」

 

「近衛局に回すようにしては、とアビスが稟議したのを俺が認めた。レートは現地で融通を利かせられるようにある程度の権限を支部長に持たせておいた」

 

 仕事は終わっている。

 終わっているからと言って業務時間に遊んでいいわけでもないのだが、そこまで辛口になることでもないだろう。

 ドクターという立場はオペレーターを知ることも職務のうちなのだから。

 

 ドクターはゆっくりと起き上がった。

 

「ところで秘書についてだが」

 

「業務効率の改善、空いた人員の利用、そして指揮することが少ないオペレーター。秘書にすることの正当性を並べる必要はないだろ、自明だからな」

 

「閉鎖的な空間。遥かに大きい権限を持つ上司と二人。このような労働条件の中で当人の受諾もなく膨大な量の仕事を押し付けられることについて、人事部からの警告が入っている」

 

「人事部からの警告? おいおい、ケルシーは一体いつから人事部のトップを兼任するようになったんだ? ……気に食わないなら自分でそう言えよ」

 

 ゾッとするほど冷淡な声で告げる。

 どうやらドクターとケルシーは仲が悪いらしい、とアビスは他人事のようにそう思った。

 自分がその間に挟まっていることも知らず、呑気に二人の様子を眺めている。

 

「それこそ本人の意思ってものだろ、そんな決定は。アビスが何か言ったならそれを検討すれば万々歳じゃないのか? どうしてそう複雑にしたがるんだ? それで俺やアビスが諦めるとでも思ってるのなら、勘違いも甚だしい」

 

「この話の濫觴について話そうか。いや、話すまでもなく理解しているだろう? 全ては君が権限を行使してスケジューリングに多大な負荷をかけたことに端を発している。個々人との親密性を上げることと戦闘オペレーター全体に満遍なく関わりを持っておくことは同等に重要だ」

 

「揚げ足を取るようで悪いが、個々人とのそれが同等未満だからこうして声をかけたんだろ? それともなんだ、私情でも混じったのか?」

 

「…………簡単に決着がつくような話でもない。これ以上は後で話すことにしよう」

 

「異論はない」

 

 ふぅ、と息を吐くドクター。

 どうやら頭に血が上っていたようだ、と反省する。

 

「ドクターって怒ることあるんですね」

 

「俺も人間だぞ、怒ってばっかだよ」

 

 ほへー、とアビスが相槌を打った。

 その疑問はドクターと親しくなっている以上当然のものだっただろう。

 ドクターはうざったいが一線を越えることはなく、そして言われる分にはどれだけ理不尽に責められようとも泣くか慌てるか、そして泣いて慌てるかの三択だった。

 

 それが自分に限ってのことだとなぜ気づかない。

 

「ケルシーは、まあ、よく怒ってるけど」

 

「失礼だな、普段は怒ってなどいないさ。ずっと面倒を見てきたお前に何かあるかもしれないと思えば、気が立つのも仕方ないだろう?」

 

「思ってもないこと言うのやめない?」

 

「全て本心だ」

 

 真顔で言ってのけるケルシーに、ドクターがため息をついた。

 やれやれと肩をすくめて挑発的に視線を寄越す。

 

「戯言はこれくらいにして、さっさと本題を言うのはどうだ?」

 

 ドクターの悪意に顔を顰める。

 とは言え本題に入るべきだとはわかっている、わかっているからケルシーはアビスの手を取った。

 

「大事な話がある。来てくれ」

 

「おいケルシー、俺の許可なしに秘書を別の業務に参加させるのは流石に越権行為じゃないか?」

 

 目を白黒させつつ二人の喧嘩を見守るアビス。

 ドクターの口調が口調なので、これがかの有名な夫婦喧嘩なのだろうかと考えてみる。

 

「ただの話だ。仕事ではない」

 

「それなら就業規定外の時間に誘えよ。已むを得ない事情でもないんだろ?」

 

「……ドクターとしての特権があるからと言って、これ以上当初の意向にそぐわない行動を取るようであれば、それも危ういと忘れるな」

 

「そうした集権化はそれ以上の問題を招くとわかってるだろ? 実効性のない警告や罰則は無意味だ、俺に正当性を求めるならそれ相応の姿勢を示してくれよ」

 

 二つ目の手がアビスを掴む。

 夫婦喧嘩の出汁にされるとは運がない、とアビスは内心で嘆く。

 最初から全て自分を巡ってのことだとは考えてすらいない。

 

 アビスにはドクターが口調を元に戻した意図はわからない。

 ケルシーにはまだ素を出していないという可能性は高いが、それ以外の理由も考えられる。

 何せあのドクターだ。

 妙なことを考えていたり、もしかするともっと大掛かりな何かが裏で進んでいたりするのかもしれない。

 

 そこまで考えたところで、面倒になった。

 

 自分を挟んで喧嘩なんてするなよ。

 別にどうでもいいだろそんなことは。

 

 二人の口喧嘩に辟易とする。

 重箱の隅をつつくような言い合いは正直聞いていて嫌気が差してくる。

 

「ドクター、ケルシー。もう充分でしょう」

 

 二人の手を振り払った。

 ついで、ケルシーと目を合わせる。

 

「話があるなら聞くよ。どこに行けばいい?」

 

「いつもの診察室だ」

 

「わかった。本当に話だけなんだよね?」

 

「ああ、約束しよう」

 

「よし。それで、ドクター」

 

 びくっ、とドクターが震えた。

 何を言われるか、それが想像できてしまったからだ。

 

 アビスの秘書として執務室に置き続けることのメリットはドクターからして高いものだったが、それ自体の難易度も高い。

 だからドクターは考えた。

 培われたシミュレーション能力で何度も考えた。

 

 そうして何度も想像すると、危機感が麻痺してくる。

 それは本来一度しか経験することのない恐怖を繰り返し脳に刻むからこそ起こってしまう避けられない結果だ。

 

 しかしその結果が目前に迫れば、その恐怖はぶり返す。

 危機感なく近寄って、本当にそうなってしまうかもしれないと思った時、恐怖はピークを迎える。

 

 瞳孔が広がり、足がすくむ。

 歯が震えてがちがちと音を立てようとする。

 涙が出そうだった。

 

「……はぁ。すぐに帰ってくるから(ボクのことはいいですから)不安にならなくていいよ(少しぐらい仲良くしてください)

 

 アビスはそう言って出て行った。

 その背を追うケルシーはこちらを振り返ることもなく、つまり違和感など感じていないようだった。

 

 けれどドクターには聞こえたのだ。

 呆れた顔の奥にあった少しの配慮が。

 

 恐らくは本気で恐れていたからそれが伝わったのだろう。

 多少なりとも恩を感じていて、ドクターの状況に理解があって、だから仕方なく許してくれたのだろう。

 

 ぞくり、と。

 

 ドクターの背が震えた。

 それはアビスの目に射竦められた時よりもずっと小さくて、注視していても分からないくらいの動きだった。

 

 自業自得だ。

 元を辿れば自分が招いた結果だ。

 だからこれを言うのは間違っている。

 

 けれど、あの恐怖と安心の落差はまるで。

 一度その目で睨みつけ、恐れさせて、どうしようもなく心が救いを希って、そんな時に呆れてこちらを許す、などという所業は、まるで。

 

「……DV彼氏」

 

 依存レベルが、一つ上がった。

 そんな気がした。

 

 

 アビスは泣いていい。

 

 

 

 

 

 

 

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