【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
希望は未来にあった。
屈辱と塗炭こそが過去だった。
俺が生まれたヴィクトリアの地はきっと恵まれていたんだと思う。
都市の位置は中央から少し離れていたが、外郭ではない。
煌びやかな富裕区に慎ましくも活気あふれる市民居住区。
それなりの景気を保つ商業区や笑顔ばかりの農業区。
他よりずっとスラムは小さくて、市長の有能さが表れていたと思う。
他の都市であればスラムが小さいことは大きな問題だ。
一勢力として台頭できなければスラムの住人は抜け出すチャンスすら掴めず、そうなれば窮鼠が溢れて治安が悪くなる。
貧民街に多少の権利、つまり余裕を与えることで動向を制御する。
都市とパイプを持つスラム上りを操り人形にして、表向きは関知しない姿勢を保ちながらも統制するんだ。
それがその都市では違った。
スラムの縮小に伴って各区の代表が共同で維持することになり、結果スラムは比較的低賃金で働く労働者の区という位置付けに上手くハマった。
幅を利かせ始めたスラムの住民を良く思わない労働者も居たが、三分割されて働きに出ているためだろう、そこまで不満が表に出ることはなかった。
そんな都市に俺は生まれた。
大元である統治者の血統からはかなり離れたアスランの血を引いて、穏やかな母と苛烈な父の子として。
家庭は円満なものだった。
亭主関白の気はあったが、母がそれに従順であったこと、俺がそれを当たり前だと思っていたこと。
それらは本来歪だったかもしれない家庭をこの上なく安定させた。
変化が始まった切っ掛けは、市長の急死だ。
スラムの融和政策はまだ完全ではなかったし、景気も少し傾いていた。
それでも次の市長が上手くやれば何とでもなる範囲にあった。
急進派に位置する前市長の遺志を継ぐために立ち上がった者は多く、保守派の富裕区民はそれを静観していた。
かく言う俺の父親も様子見を決め込んでいた。
順当に行けば、前市長の下で働いていた若い副市長が後を継いでいただろう。
それがひっくり返ったのは、スラム出身の立候補者が次々と勢力を取り込んで支持を増やしていったためだ。
スラムの住人は富裕区出身の副市長が前市長の遺志を継ぐかどうかを測りかねていて、富裕区以外の地区に食い込んだスラムの人脈を利用して成り上がっていた。
最悪なのは、その副市長が富裕区民であったためにスラムの動向に目を向けていなかったからだろう。
更に、スラムは自分の味方をするだろうといった先入観があった。
どちらもより良い都市を求めて立候補し、そして健全な方法で全力を尽くしていた。
多少の賄賂には目を瞑ろう。
それは混乱を招いてなどいなかったのだから。
そして迫り来る選挙の期間、その直前。
副市長の家族が不審死を遂げた。
そして同時に、スラムの一部で不審火が起こった。
両者はそれを即座に相手の仕業だと断じた。
どちらも同じ未来を夢見ていたが、二つの勢力が鎬を削っていた以上は多少の悪感情が生まれていたのだ。
もちろんそれだけではないのだろうが。
両者はそれからエスカレートした妨害活動を行うようになった。
裏社会での武力衝突などは当たり前として、各区長や富裕層を巻き込み資金を湯水の如く使った。
そこで更なる混沌を巻き起こしたのが、自警団だ。
これ以上治安の悪化を見過ごすことはできない、と市民自警団の総監が選挙に出馬する意思を見せた。
それは一見無駄な行為だと両陣営からは見られていたが、度重なる衝突に疲弊していた市民は同じ視点を持っていた自警団の総監に多大な期待を見せた。
三つ巴の選挙戦。
選挙期間に入ってからの都市は地獄だった。
三勢力がどこで聞き耳を立てているか分からず、常に治安維持の名目で自警団員が市内を闊歩し、裏では武力と財力と権力がぶつかり合っている。
市議会に送られてくる嘆願はあっという間に許容量を超え、しかし議員たちは介入を良しとしなかった。
それがこの都市の状況をより悪化させる一石だと分かっていたからだ。
そしてその判断は貫かれた。
選挙管理委員会と市議会は最後まで中立の姿勢を見せ、投票は不正なく執り行われた。
結果は副市長の当選。
中立だった富裕層からの支持をもぎ取った彼は見事自警団とスラムのリーダーを抑えて市長となった。
だが今になればそれは間違いだと分かる。
候補者の中で誰よりも復讐の炎を燃やしていた彼を当選させるべきではなかったのだ。
逆行するような、前市長とはそれこそ正反対のスラムに害意さえ見られる政策。
真っ向から反対した議員は、市議会どころかこの世からも退席させられた。
自警団は法律に縛られて手を出すことができず、スラムはその政策に追い詰められていく。
市長の悪意は止まることを知らなかった。
抗争とすら言える三勢力の衝突を乗り越えた先に待っていたのは市長による市議会の私物化と悪政。
悪意を向けているスラムのみならず一般市民や自警団が彼に隔意を持った。
しかし市長は前市長の行政による政策を悪用し、合法的に弾劾されることのない立場を作っていた。
クーデターは起こるべくして起こった。
市長が独自に保持していた、市民に圧力をかけるための私設部隊が自警団らとぶつかった。
クーデターが起こることを予見していたような正規軍の人員援助、富裕層のスポンサーが供給する資金力はそれらの全面的なサポートに回っていた。
火の手は富裕区に回っていた。
資金援助の元を断ち切るために回された市民自警団部隊と富裕区を管理していた高等市民自警団が衝突。
市民居住区、商業区、農業区の治安を維持する市民自警団と犯罪が元々少ない富裕区のみの管理を目的とする高等市民自警団では、旗色など火を見るより明らかだ。
富裕区は陥落し、資金を断ち切られた行政区の市長も捕縛された。
残っているのは正規軍のみであり、形勢を見れば撤退すると思われていた。
何しろ彼らには戦う理由がない。
クーデターが成功してしまったのなら必ず退くだろうと誰もが思っていた。
しかし実際には違っていたのだ。
正規軍はどこからか軍の正装を纏ったサルカズたちを連れてきて、更なる戦闘行為に励んだ。
名目は国家の転覆を目論み叛逆行為を行った市民団体の拘束。
それはきっとカズデルからヴィクトリアを眺めていたあの王が関係していたのだろう、容赦のない元傭兵たちによる制圧が始まった。
勢いに乗っていた前市長の死。
スラムの不審火、副市長家族の不審死。
まるで予見されていたような援軍。
どの勢力にも彼らのスパイが存在していて、戦力でも上回られて、勝ち目などどこにもなかった。
制圧の後、頭は国から派遣された誰だか知らないフェリーンに差し代わり、議会もスパイだったらしい市民で一新された。
最初からそれだけが目的だったわけだ。
国に狙われなかった富裕区は他の区民から多くの反感を買うことになった。
資金のほぼ全てを吐き出し、家々の稼ぎ頭だった市議会員たちは職を失っていて、俺たちに出来ることなど都市を出ることだけだった。
待っていたのは地獄だ。
大した金も力もない俺たちは路頭に迷い、手伝いやら乞食の真似事でどうにかして食い繋いでいた。
一緒に行動していた元富裕層の誰かが鉱石病を発症して、それに俺たちは一切反応しなかった。
ただ、日銭を稼ぐことが多少難しくなる。
そのくらいの認識だった。
一人、二人と倒れていった。
俺たちの行動範囲は専らスラムになっていた。
出身市のスラムとは違って──いや、今はもう同じか。
他の市民から風当たりが強く、理由のない暴力が横行するスラムを生きていた。
汚れ仕事に鉄砲玉。
俺たちはなんでもやった。
そしてマヌケなヤツから死んでいった。
逃げ損ねて殺されたヤツ、報酬が支払われず飢え死にしたヤツ、金に目が眩んで怪しすぎる仕事を請けて帰ってこなかったヤツ。
中でも一番マヌケだったのは家族に裏切られて死んだヤツだ。
威張ることしか脳がない男に、何も自分で判断できない弱い女。
俺は反吐が出るほど嫌いだった。
だから騙して殺してやった。
目から溢れている涙の意味を理解できずに、俺は死体から僅かな金と衣服を剥ぎ取った。
あの都市から逃げて生き残っているのは、いつのまにか俺一人だけになっていた。
弱かったからだ。
頭が足りなかったからだ。
運が悪かったからだ。
自尊心を捨てられなかったからだ。
大事なものを持っていたからだ。
爺さんと出会った。
俺は善意を利用して食い物にしてやろうと考えた。
それは当然のように失敗した。
何もかも見透かされて、全ての手札が封じられた。
経験が足りなかった。
最後にまた自分に足りないものを見つけた。
足りないものばかりだった。
足りない俺が生き残るべきではなかった。
埋めるために切り捨てたものの名を呼んでいた。
俺が少しの間生きながらえるためだけに死んだ、愛しい家族の名前を呼んだ。
シルヴェスターは俺を殺さなかった。
あの爺さんが何もかも足りていない俺を見て何を思ったのかは知らないが、俺にとって爺さんは足りないものを埋めてくれるかもしれない存在だった。
ずっと見ていた。
次第に尊敬が生まれた。
この爺さんは俺とは何もかもが違う、優れた人だと思った。
シルヴェスターの爺さんはとんでもない人格者だった。
時には裏切られることだってあるが、それは爺さんの長所と言える。
人を信頼し、使ってやれる。
俺もその信頼に与った。
龍門のスラムでトップになった。
富裕区で怠惰に過ごしていた俺が見れば失笑ものなんだろうが、その時の俺からすれば王の座にも替えられない価値があった。
シルヴェスターの爺さんはその後商売相手に裏切られて死にそうになることもあったが、無事に切り抜けたらしい。
俺と同じように爺さんを尊敬しているガヅィアの野郎とも連携を密にして、何一つとして失敗を許さないよう立ち回った。
そんな折、爺さんが死んだ。
呆気のない最期だった。
俺に会おうとスラムを訪れて、鉱石病の発作が起きて、そしてそのままポックリ死んだ。
ガヅィアに伝えた時、壮絶な顔をして、そうかと一言だけ言った。
俺も同じような顔をしていたはずだ。
咄嗟のことで十分ではなかったが、隠蔽工作は完了した。
シルヴェスターをよく思っていなかった商業組合の重役が軒並み精神病棟にぶち込まれていたことが幸いした。
それも、長くは続かなかった。
とある筋から近衛局の犬であるコータスが爺さんについて嗅ぎ回っているという情報が入った。
真正面から俺のところまで来て聞いていたなら、きっと殺す気は起きなかった。
それが仕事だからだ。
だが情報によれば、その女は近衛局と共にレユニオンを追っ払ったロドスとかいう組織の構成員を騙くらかしていたと言う。
そのやり口がどうにも気に入らなかった。
昔の俺と似ていたからだろう。
ただの八つ当たりだったが、その怒りはガヅィアからの連絡でいよいよ形になった。
スラムを訪れた時を狙って俺は仕掛けた。
親愛なるシルヴェスターの爺さんを、名誉と共に葬送してやるために。
「……なんだ、今の夢は」
ベッドの上でアビスは困惑した。
それは言うまでもなく、見ていた夢が理由だ。
スラムで対峙したアスランの大男、その人生をどういうわけか追体験した。
存在しない男の記憶が今なお脳裏に刻まれている。
自分の記憶ならともかく、他人の記憶を覗き見ることなど絶対に不可能なことのはずだ。
であれば今の夢はただの妄想だったのだろうか?
鮮烈に焼き付けられた惨状。
倒れていく彼の仲間と、骨の髄まで利用して殺した彼の家族が発した怨嗟の声。
擦り減っていく正気と擦り切れていく感情に何の感慨も抱かない彼の考え方。
明らかにただの夢ではなかった。
況してや、妄想などでもない。
──俺もお前も、全てが足りねえな。
声が聞こえた気がした。
いやにハッキリしている空耳だ。
喉が渇いている。
端末で確認した時刻は、いつも起きている時刻より幾分か遅い。
特製ビスケットを口にしながら着替えを済ませる。
もはやこの味には慣れてしまったのだが、何故だか今日はとても美味しいように感じる。
それはきっと、昨日ロドスの調理設備に多大なダメージを与えつつも完成した、してしまったあの料理のせいだろう。
やはりカッターに料理は向いていない。
変化が次々と起きている。
あの日からまともに話せていないエイプリルやシーのこと、近くに置きたがるドクターやオペレーターになったカッター。
この世界が絶えず変わっていく。
それはナインもそうだろう。
「ナイン、起きて」
原因不明の病状悪化。
まるで訓練室爆破事件の時のボクみたいに、融合率がとんでもなく上がっていたらしい。
そのせいでナインの呼吸器は傷つけられた。
もっと言うなら、肺だ。
発見された時、ナインは甲板で溺れていたらしい。
内側まで傷つけられた肺の中に血が溜まっていき、呼吸が上手くいかず、当然ながら緊急治療室に運び込まれた。
「……嫌な夢を、見た」
「ナイン?」
上半身を起こして、ナインがアビスの腕を掴む。
目の奥が揺れていた。
「お前まで死んだら、どうすればいいんだ。
子供には──人には、二種類ある。
いつまでも幻影に縋っていられる者と、現実が目に入ってしまう者だ。
アビスは前者でナインが後者。
消化しきれない憎悪と親愛の狭間で、ナインはどうしようもない現実に突き放される。
全ての発端でありながら、共に残った仲間でありながら、仇という楔でありながら、ナインを見捨てて逃げ出してしまう。
それが許せないようでありながら同時に仕方がないと思ってしまえる自分の客観性が、今だけは嫌いだった。
盲目な馬鹿になって前だけを見られたらいいのに。
ナインはため息をついて、血の匂いにむせた。
「かはっ……あぁ、クソ。まただ」
気泡を含む、痰混じりの液体。
肺から吐き出された血液が手に広がる。
肺の中にはきっと幾つもの壊れた組織片が溜まっているのだろう。
何度も手術を繰り返さなければ完治しない。
だがそれまでの辛抱だ。
これまでの我慢と比べればなんてことはない。
そんなナインを何とも形容し難い顔で見守るアビス。
「ナインは、生きたい?」
自然と口から出ていた。
夢の影響だろうか。
ナインは面倒そうに答える。
「死ぬまでは生きてやるさ。カインにもらった命を簡単に投げ捨てられるほど、オレは強くない」
アビスは何も言わなかった。
ただその言葉を肯定するように、丸まったナインの背を撫でていた。
肺の奥に違和感を覚えて、咳を予感する。
真っ赤に染まった手で受け止めた。
背を撫ぜる手の優しさで、少しだけ、ナインは泣きそうになった。