【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
お手洗いから帰ってくると執務室のドアに数名のオペレーターが集まっていた。
その中にはナインや、カッターの姿まであった。
何があったんだろう。
思い当たることはない。
近づくとカッターがボクに気付いた。
「何かあったの?」
「やっと来た。早く止めた方がいいよ」
「止める? えっと、ボクが?」
「とにかく見て。すぐに分かるから」
本当に何があるんだろう。
ドクターが必死に筋力トレーニングでもしてるのかな。
最近意地悪が過ぎた気がする。
今度からは控えておこう。
隙間から覗くために近づくと声が聞こえてきた。
何やら聞き覚えのある二人分の声。
それなり以上に広い執務室の中からここまで響いてくるってことはかなり大きな声で話してる。
喧嘩でもしてるみたいだ。
嫌な予感がする。
なんだかすごく嫌な予感がする。
特にこれは、そう。
最近学習したドクターが先に袖を掴んで泣いて縋り付く時みたいな。
面倒事の予感。
振り返る。
さっきまでドアに張り付いていた人たち全員の顔に「早く行けよ」と書いてあった。
ナインに背中を小突かれた。
逃げ道がどこにもない。
仕方がないかぁ、もう。
「ただいま、ドクター。それでラユーシャはどうしてここにいるの?」
「おう、おかえりアビス。すぐに摘み出すから待っていてくれよ」
「余裕ぶってんじゃねえよカス」
「足掻いても無駄だストーカー」
ドクターが失うものは何もない。
オペレーターの御機嫌取りが不要になった彼女はラユーシャと真っ向から喧嘩していた。
その光景が目新しく映らないのは、つい先日ケルシーと繰り広げたばかりだから。
元の口調が端々で滲んでいるから、本当に怒ってるのかもしれない。
「ねえアビス、嘘だよね」
「何が?」
「ドクターにプロポーズしたって」
「一体何がどうしてそんなことになってるんだ!?」
「ほら嘘じゃん! バーカ!」
本当にどういう話だよ!
プロポーズなんてリラにだってしたことない!
っていうかドクターは僕がプロポーズしたら真っ先に受けてるだろ!
「思い出せよ、アビス。『ボクのために毎日紅茶を淹れてほしい』って言っただろ?」
「はぁ!?」
言ってるわけがないだろう、そんなこと!
ドクターの紅茶は確かに美味しいから最初に飲んだ時は衝撃だったけど……
「あっ」
「えっえっ」
言った。
言ってた。
初めて飲んだ時に言った。
「い、いやいや、プロポーズなんて、そんな……」
そんなつもりで言ったわけじゃない。
断じてプロポーズじゃない。
だってあの時はドクターが男だと思ってたから言っただけで、そんな意図はない。
そう否定するボクを見るラユーシャの目から光が失われていく。
ぐるりと機械的な動作でドクターの方を向いて、「殺せば解決するよね」なんてことを言ったのが聞こえる。
そ、そんなことより、本当にそういうつもりじゃなかったんだ。
リラに誓ってそんなことはない。
「……な、なあ。一旦落ち着こうぜ? まだやり直せるだろ? それとアビスは迅速に帰ってこい。俺が今超ピンチだから。あ、ちょ、やばいって、やばいってやばいやばいやばいやばい死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!」
「死ねェッ!」
白刃が空を切り裂く。
鋒が描いた扇の斬撃がフードを掠った。
ドクターの体が竦み上がった──瞬間に落ち着きを取り戻して構えを取る。
「どっ、ドクター神拳!」
「猪口才なァ!!」
「猪口才なんて言葉を使っていいのはケルシーみたいな老人だけだッ!!」
繰り出されたドクターの手は緩慢であっても正確だ。
基礎体力だとかそういうものは不足していても、技術に関してドクターはある程度まで観察して模倣できる。
一歩下がって長物を往なし、もう一方の手から閃いた短剣の腹を手で打つ。
どうやらボクのサポートがなくても戦えるみたいだ。
「なあもう立ち直ってるよな!? 黙って見てないで助けてくれよ!!」
「ドクターなら大丈夫、もう少し頑張れるよ」
「おいいぃぃぃ!!」
ボクの目から見ても及第点をあげられる足捌きと適切な間合いの管理で攻撃を躱していく。
攻めているラユーシャはまだ新人だけど、それを避けられているのは素直に上手いと思う。
「小細工ばかり弄しやがってぇッ!」
「だからそれは──うおおぉッ!!?」
ラユーシャの目が真っ黒に染まる。
ドクターの冷静な観察力やギリギリまで引きつけられる豪胆さから、これ以上の剣戟を無駄だと思ったんだろう。
アーツが体を引き寄せ、ドクターは即座に重心を倒して踏み止まった。
うーん、対応が冷静かつ効果的。
初見殺しでさえドクターには効かない可能性がある。
とは言えそんな体勢でラユーシャの凶刃から逃れ得るわけもない。
今回に限ってはドクターの負けだ。
「はいはい、終わりだよ。ラユーシャ」
「あ、アビス……」
ドクターの前に割り込んで刃を止める。
ラユーシャ程度の力ならまだまだ無傷で止めることができる。
ドクターよりはずっと力も強いけど、総合力で言えばラユーシャの戦闘能力はそう高くない。
剣筋も荒削りだ。
「どうして止めるの? ドクターなんだし片目くらいならいいでしょ? アビスもそう思ってるよね?」
「一旦武器を仕舞おうか。人を話す時はそんな物騒な物を持つべきではないよ。あと、片目くらいならいいけど、完全に殺すつもりだったからね」
「よくないが? お前らの判断基準どうなってんの?」
ボクに庇われたままドクターが抗議する。
今、ボクがドクターを差し出せば、ラユーシャはどうするんだろう。
「離れないからな」
「あはは、離さないよ」
頭の中を透かしたドクターがボクの服を掴む。
それくらいやってのけるだろうって思ってたから心を読まれたくらいでは驚かないけど、それは煽ってるの?
「煽ってるって、何を……」
ガッ、と音がするくらいに強く。
ドクターの肩にラユーシャの手が食い込んだ。
ボクに対する殺意だったら反応できていたかもしれない。
でも素の状態では、今の瞬時に移動したラユーシャを捉えることが出来なかった。
「
ラユーシャは普段怒らない。
不機嫌な時とか、ボクに関することで起こってるように見えることはあるけど、あくまで言うだけ。
ボク以外に実害を与えるようなことはしない。
今さっきの攻撃だって戯れだ。
ボクがいて、止められるって分かってたからこそ本気で殺しにかかった。
それで、これがキレてる時。
「ぎゃあああああああ!!!!」
「
リラには聞かせられないくらいの汚い言葉遣いと共にドクターの体が吹っ飛んだ。
寸前でボクが体を引いてなかったら今ので意識が飛んでいてもおかしくない。
部屋のそこかしこに力場が発生して、あらゆるものがそれぞれの一点に吸い寄せられる。
ラユーシャのアーツは特殊だ。
特定の物質を集める力場を作ることができる。
それはたとえば服に使われる高分子有機化合物だったり、空気中の酸素分子であったり、カルボキシ基であったり。
本当にキレた時はなりふり構ってないだろうし、今のキレ度は十段階中で六ぐらいかな。
「ドクター、動ける?」
「……無理」
服と体が別方向に引っ張られて、ドクターの体が変な体勢になっている。
これはラユーシャの攻撃を避けることなんてできない。
かく言うボクだって体の自由はあっても、アーツの影響がないラユーシャより動くことはできない。
対処法は二つだけ。
一つはボクがアーツを使うこと。
これはドクターが背後に居るからできない。
もう一つは、やりたくないけど。
やるしかないか。
「ラユーシャ」
怒りに我を忘れてドクターへと突進する。
それになんとか割り込んで腕を広げる。
「おいで」
「……ふ、ふわぁ」
頭から突っ込んできたラユーシャを力の限り抱きしめる。
ここで少しでも力を抜くと簡単に抜けられるから注意が必要。
「大丈夫、ボクが居る」
「にゃっ!?」
ラユーシャの怒りは基本的に、その依存感情が高まってしまった場合にしか生まれない。
だからそれを鎮めてあげればちゃんと落ち着く。
「安心して。ボクを信じて」
「はうぁ」
よし、戦意はなくなった。
小さく抵抗を感じながらも引き剥がす。
「どうだろう、冷静になったかな。しっかり頭は働いてる? ボクのことはもう見えてるね。落ち着けて偉いよ、ラユーシャ」
「は、はい」
「今回はドクターも悪い。でも手を出すのはダメだよ、分かったね? 大丈夫、ボクはここにいる」
「……はい」
「君はちゃんと、ボクの大切な人だ」
「……」
ここまで言えば大丈夫だと思う。
部屋中に散らばっていた力場が霧散しているし、耳も垂れている。
ラユーシャの顔色を伺う。
どうして無言のままなんだろう。
言いすぎて胡散臭かったかな。
「お、お……お邪魔しましたぁぁぁ!!!」
「うわっ!?」
執務室を爆速で飛び出して行くのを見送った。
ドアの向こうで待機していたオペレーターたちが目を真ん丸にしている。
とんでもない速さだった。
どうして逃げたのかは疑問だけど、今は倒れているドクターが心配だ。
「ドクター、怪我はない?」
「私も言われたかった」
「はいはい大切大切」
手を貸して起き上がらせながら雑に対応する。
起き上がってすぐ、ドクターは大の字に寝転がった。
プラスチック製のボールペンだとか髪の毛だとかが床に散らばっているから、それを早くどうにかしないと。
「どうしてそう意地悪なんだ。君が与える幸せは、一歩踏み外せば同じだけの絶望を私に与える。それならもう、何も言ってくれるなよ……」
面倒な状態のドクターにはもう慣れた。
適当にあしらっておけばいいんだ。
未だに中へ入ってこないあの人たちが動き出せば、どのみち以前のドクターに戻るだろうし。
「アビス、これはどこに仕舞えばいいんだ」
「それならたしかそこのペン立てに……って、ナイン。いつのまに入ってきてたの? 手伝ってくれるのは嬉しいけど」
「今さっきだ。おいドクター、起きろ。起きろって。声小さくて何言ってんのか分かんねえよ。情けないって思わねえのか? おい。聞いてんだろ?」
「容赦ないなぁ」
ドクターが手刀でバシバシ叩かれてる。
ナインの言葉は相変わらず辛辣だ。
上司に言っていいフレーズじゃ絶対にない。
一応容態が安定したってことで歩き回ることは許可されているけど、発作の原因が解明されてない以上はいつ再発してもおかしくない。
ドクターはそのあたり把握してそうだから、というかボクよりずっと顔色を伺うことに──二つの意味で──長けてるから、丸ごと投げておこうか。
「用があんだよ。さっさと片付けんぞ」
「アビスに言ってくれ、俺はもう無理だ……」
「何発殴れば起きるか試してやるよ」
「暴力反対!」
「うるせえ!!」
中に入っていたボールペンが暴れたようで、吹っ飛んでいた引き出しを元通りに直した。
そうしているうちも喧嘩を続ける二人。
「やめなさい、二人とも。ナインは三下みたいな喋り方をやめて、ドクターはさっさと自分で起きなよ」
「さっさと起き上がらせたいなら起こせば解決するだろ。指咥えて見てるだけが正解じゃないんだぞ」
「もうお前がどうにかしろよ」
「ボクがどうしてドクターの世話を焼かなきゃいけないんだよ」
「なんだとー!? そんなに拒絶してると大の大人が泣き喚くぞ! それが見たいのかよ!」
「常日頃から泣いてるドクターがそんなこと言っても効力なんて無いんだよ!」
「うわ、マジかよ……引くわ……」
「は? 泣きそう」
勝手に泣いてなよ、バーカ。
ドクターのことなんてどうでもいいんだ。
ボクと同じように諦めたらしいナインと二人で部屋の片付けを進める。
ボクはドクターにとって都合がいいんだろう、それは知ってる。
それだったら別にラユーシャと同じだ。
だけどドクターはやり方が酷い。
手段を選ばないっていうか、何もかもを利用しそうなかんじがする。
──けど。
「ああ、もう。分かったよ」
本当に泣き出したドクターの手を取って起こす。
ボクを思い通りにしようとするのは正直気に入らないけど、その感情を出されたら、見せつけられたら、ボクだって動かないわけにはいかないんだ。
それを知ってるのはボクだけじゃなくたって、理解してあげられるのはきっとボクだけだから。
「私を、見捨てないでくれ……」
「見捨てないから引っ付かないで」
べりべり引き剥がせばすぐいつもの声に戻った。
やっぱり嘘泣きか。
ドクターは涙を自然に流すことなんてあるのかな。
少なくともボクに関してのそれは全部偽物なんだから。
……そう分かっていて助けてしまうのは、もう、仕方がないと割り切るしかないか。
切り替えるために、そういえば、とドアの方を見る。
あれほど居た観衆はどこかへ消えていた。
カッターの姿どころかドアの隙間が閉じられている。
ドクターが「私」口調にしたのも、どうせそれを冷静に確認したからだろう。
それで、ナインはどうするのか。
「オレは何も見てない。それにオレは男が男を好きになってもいいと思う。オレは何も見てない」
「私は女だ」
「……マジかよ」
素直に自白するドクター。
ああ、そうだ、昨日あたりに言ってた。
ボクという居場所を見つけたことで、もう好かれるために騙すなんてことはしなくてもいいらしい。
ただ、それを言うってことは当然ながら今まで騙していたことも自白することと同じ。
だから慎重にならないといけない。
ドクターはその足掛かりとしてナインを選んだのだろう。
ナインはロドスに来てまだ日が浅いから、オペレーターの方々よりはショックも小さいだろうし。
「意図は何だ?」
「舐められないためだとか、騙していた理由はその方面だな。明かした意図は、地盤が完成したことでそれが不必要になったからだ」
……恐怖は隠すのか。
「それで、コイツとはどんな関係だ」
「誤解を恐れずに言うのであれば、惚れているようなものだ。私は出来得る限りの時間をアビスと二人で過ごしたい。それこそ、寝食すら共にしたいと思っているのだが……」
「ボクにはリラが居るから……」
「無理だろ」
ナインの目が呆れたように細められる。
何だよ、別にボクがどうしようもないヤツってわけじゃないだろ。
ただリラが愛おしすぎるだけなんだ。
「ちなみに、リラはこんな感じの子ね」
リラ──違う、ナインか。
アーツがあの頃のリラを再現する。
鉱石病の進行に関係があるかもしれないアーツだからボクが頼むことは出来ないけど、こうして見ると、ずっとリラを見ていたい気持ちでいっぱいになる。
「ちょ、ちょっと、撫でないでってば」
「……ごめん」
抱きしめて、強く抱きしめて、目を瞑る。
リラが帰ってきたと強く叫び出す感覚に、ただの幻覚だと言ってそれを押しとどめる理性。
体が震えるほどに情動が乱高下する。
「もう、仕方ないなあ。ちょっとだけだよ?」
そう言って
鮮烈なまでに根付いたリラの思い出が五感の全てを圧倒して、目から涙が溢れそうだ。
絶対に守るって。
そう誓ったはずなのになぁ。
「はい、終わりっ!」
「あれ、ナイン。いや、ああ、そっか。そうだった。ごめんね、付き合わせちゃってさ」
「構わねえよ。オレだって痛いほど分かってるつもりだ。別段好きでもねえがな」
ナインは小さく笑った。
少し前に、ボクの執着を確認できることはナインにとって嬉しいんだってことを聞いた。
孤児院の日々を忘れられない仲間。
そう感じてくれているのかもしれない。
ナインの言葉を振り返っていると、今まで黙っていたドクターが突然ナインの肩を掴んだ。
「なあ、ナイン!」
「……んだよ」
「そのアーツを私にかけることは出来ないか!? お願いだ、どうか私をリラに変えてくれ!」
「嫌に決まってんだろうがカス」
「当然対価は払う」
「嫌に決まってんだろうがクズ」
ナインがドクターの手を振り払って睨む。
それは当然のことだ、ボクだって邪な目的で自分のアーツを使いたくなんかない。
ドクターは変な風に思い切りがいいから良識を信じることも出来ないし、バッサリ言ってしまえば、何を仕出かすかわからない。
それに。
「ドクター、ナインのアーツは負荷が大きいんだ。一つ一つが微々たるものだったとしても、油断を許さない今の状況からして、ナインにアーツを使わせることはできないよ」
「リラの姿を見たくないのか?」
「いつかの夢を見るくらいには見たいって思ってるよ。それでも我慢してるんだ。ナインはボクに残った最後の家族だから」
忌々しい祖母や従兄妹のことは知らない。
ナインだけがボクの家族なんだ。
だからボクはナインのことを大切にしたい。
優先順位は一番上ってほどでもないけど、大抵のことより、たとえばボクの醜い執着よりは上の方だ。
「ナインの鉱石病が治療できて、アーツでリラの幻を作ってもらって。そうやって過ごせるならきっと悪くないんだろうけど……」
ドクターを見る。
「それよりずっと先にボクが死ぬから」
紛い物とは言え、ナインが映し出すのはボクの記憶。
独りよがりで自己完結ばかりしているボクにはお似合いだ。
だけどそれまでこの生は続かない。
「諦められるのか?」
「ドクター、ボクがこの人生でどれだけ諦めてきたと思ってる? 答えは性根に諦観が染み付くくらいだよ。届かないものを眺める趣味も、手を伸ばしてみるほどの意欲だってもうないんだ」
諦めきれないことがあって、それを諦めなければいけないことなんて誰もが経験することだ。
それならまだ諦めもつく。
そういう世界に生まれてるんだ、仕方ない。
「それによくあることだろう、最後の最後で掴んだ希望がとっくのとうに手遅れだったことなんてさ」
陳腐極まりない結末だ。
いつまでも変われないテラでは、きっとそれ以上のハッピーエンドなんて用意されていない。
だから諦めるんだ。
これが普通で、最悪ではないんだって。
「リラが居ないこの世界に執念深く縋る必要もない。ボクはずっと前から……ああ、いや、ドクターには話してなかったね。とにかく、そういうことなんだ」
ドクターは何も言わない。
じっとボクの方を見つめているだけだ。
ナインは複雑そうな顔だった。
ボクはナインにとっても唯一の家族で、その繋がりを大事にしていると同時に先立とうとしているからだろう。
でも、ボクに止まる気はない。
ナインはロドスで働けばいいと思う。
それより先のことを保証なんてできないけど。
「さあ、さっさと片付けよう」
ラユーシャが散らかしたこの惨状をケルシー先生だとかに見られるのは面倒くさい。
それに今は顔を見たくない。
勘違いじゃなかったら、あの人ってボクのことを監視してるから。
毎日廊下ですれ違ってはあの人の方から声をかけてくる。
気付いたのは一昨日だけど、どれだけルートを変えても当たり前のように居たから回避不可能なイベントだって思うことにした。
多忙とは思えないあの人のことを考えながら書類を束ねて拾い上げると、ドクターがこちらを見ていることに気付いた。
「ドクター?」
何も答えない。
何の反応も見せなければ当然感情だって読み取れない。
ボクのこれはアーツじゃなくて、ただの勘に近いものだから。
「私は大丈夫だ。すまない、手を止めてしまって。少しだけぼうっとしていただけなんだ」
「フォリニックさんでも呼ぼうか?」
「そう笑いながら揶揄わないでくれ。勘違いしてしまうだろう、私が」
「……控えるよ」
ドクターは小さく笑って執務室に併設された休憩室の方に向かった。
冷蔵庫の中身が暴れ回っていただろうから、それはボクが後で手伝おう。
ドクターはボクに背を向けた。
小さくため息をついて、儘ならないものだと愚痴をこぼす。
ボクにその声は聞こえなかったけど。