【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
その世界には空間がなかった。
あるのはたった一つの意識と時間。
彼女は彼女の姿を
「ナインはまあまあ弱ってるかな。私との約束破ったんだから、あれくらい当然だよね」
青年から渡されたタオルで口を覆い、
「でも看病されてるんだね。……さっさと殺そうかなぁ?」
起爆剤のスイッチは持っている。
いつでも背中を押すことができる。
一度しか干渉していないのは、今この状態で青年が深く悲しむようなことがあれば、あの猫医者がすぐにつけ込むだろうと分かっているからだ。
粘りつくような殺意が滲む。
アーツで作り上げた世界を破壊されたのは別にいい。
苦労したが、苦労したところで、作り上げたものに愛着など湧かない。
失って怒るのは価値があるものだけだ。
自分にとって価値があるのはあの青年のみ。
それ以外の全ては塵芥に等しい。
「それにしても困るよ。猫医者は元からだけど、超常生物と不審者まで反対の立場に立つなんてさ」
意中の彼は魅力的が過ぎるようだ。
中立だった超常生物が、彼女の世界を斬り裂いてまで助けに動いた。
彼を応援していたはずの不審者は彼を唯一安心できる場所として色々動き始めている。
このままでは不味い。
彼が前を向いてしまう。
既に一石は投じている。
その波紋を皮切りに、今度からはもっと大きく干渉していくつもりだ。
「絶対振り切らせないから……」
「容赦ねえなあ、姐さん」
ふと、割り込んでくる存在があった。
意識の中で生まれたもう一つの意識。
「あ、トラ」
「ライオンだ」
もっと言うならアスランだ。
彼は不機嫌そうにする。
あくまで模倣品だが品質はそう悪くない。
記憶までコピーされているのだから、その労力に見合ってもらわなくては困るのだが。
「ライオンね、ごめんごめん。それで? 私のやり方に不満でもあるの?」
「不満なんて言ったら消すだろうが。まあ消されたところでって話だが、ともかくそんなつもりはねえよ」
一番槍は彼に任せた。
それは自分の死に対して一番納得していなかったからだ。
誰かの陰謀に巻き込まれて故郷を追われ、逃げた先でも尊敬する人を失い、良いように利用されて幕を閉じた。
その強い悔恨は青年の脳に刻みつけられるはずだ。
過去を見せるに十分な熱量を持っているだろう。
「あーあ、二人きりなら⬜︎⬜︎とが良かったな」
男の意識が少しの間沈黙する。
やがて口を開いた。
「リラ、愛して──」
「不快。その猿真似は二度としないで。私の、私だけの⬜︎⬜︎を二度と騙るな」
「すんません」
意識だけの世界なので声──正確には伝達された思念に付属するイメージ──はそのまま同じものを模倣できる。
それでも一欠片さえ喜色を見せなかったのは、彼に言われたという事実が大切だからか。
『大好きだ』
「うぐっ……」
『愛してる』
「う、ううぅ……」
この世界に招いた時、彼が言っていた言葉。
試しにと模倣ではなく再現してみたが上手くいったようだ。
彼に言われたことで動揺したのではなく、彼に言われたことを思い出して動揺しているのだろうが。
「私も愛してるよ……っ!」
少女は録音された音声に返事をしてしまう重い女だった。
それもかなりガチの返事である。
片思いを拗らせた者の末路だろう。
「無理矢理にでもキスしとけばよかったな、前回」
あの世界は本懐すら遂げることなく壊されてしまったが、青年だけは終始想定通りに動いていた。
こちらからの理解度で言えば青年も少女も超常生物も変わらない中で、だ。
彼以外を抑えてしまえば、全ては想定通りに上手くいく。
「……出てきたのは、あの傭兵か」
男のイメージしているものが少女に伝わる。
それは最近ロドスに入ってきた狐の傭兵だ。
「んー? ああ、その人ね。まあ、どっちに立つかで私の出方も変わるかな。龍女は上手く動けないし爆弾魔も牽制されてるし」
干渉の前提を満たしていない以上は様子見だ。
狐の傭兵は以前青年と話していた頃からかなり時間が経っているので、考え方が変化している可能性も高い。
「まあ、でも大丈夫じゃない?」
しかしそれを含めて無駄だと断じる。
その思念には仄かな安堵と優越感に満ちている。
「……過去に向き合おうとすらしてない人が私の⬜︎⬜︎を奪おうだなんて、絶対に無理だから」
アスランはそれに何も返さない。
迂闊に踏み込めば危険だと知っているからだ。
自分の意識がいつ掻き消えようとも構わないが、八つ当たりで彼らに被害が出るのは看過できない。
「だから本当に警戒すべきはこの兎」
『捕まえた。もう逃げないでよ?』
「あー、本当にイライラする。なんなの、私より気配ってもらってさ、馬鹿じゃないの? ……自分との約束蔑ろにされたくらいで、何もわかってなんかないくせにっ! 何も知らないくせに!」
「落ち着けよ、姐さん」
「私を差し置いてデートとか、ふざ、ふざけないでよ!? 私だってしたことないのにどうして兎ばっかり……っ!」
「腕輪のプレゼントは姐さんだけだ」
「そんなの分かんないじゃん! 今度仲直りした時にはもう分かんないよ、そんなの!」
激しい感情と共に何かが弾ける。
保管されていた兎のデータをどこかへ飛ばして、彼女は焦りと怒りに支配されていた。
暴走状態になりつつあったアーツが落ち着いてもそれが止むことはない。
男の意識が虚空を捉える。
「何もかも無駄なんだ、俺たちは。さっさと諦めた方が周りのためだぜ……?」
取り乱す少女の思念はいよいよ抑えきれない。
全ての制限を取り払ってしまえば、青年が身を置く環境は一瞬にして地獄と化すだろう。
理性を持っていても、人ではない。
それが彼女なのだから。
だからいつかケリを付けるべきだ。
それが、彼女に個を与えてしまった青年が唯一背負うことのできる責任なのだから。
「殺してやる殺してやる殺してやる……でも今ここで手を出すのは反則しないと勝てないって認めるみたいで嫌ぁ……!」
思念が響く。
彼女が全てを投げ出すまでの時間は、そう長くない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロドスから調理設備への不干渉を言い渡されたらしく、カッターは不貞腐れた様子で腕を組んでいた。
「練習したかったんだけどな」
「あはは、仕方ないよ。それに一度作ってもらったから約束は果たされたわけだし」
先日のことを思い出す。
まな板どころか調理設備すら傷つけながら切られた不恰好な野菜と、その場の思いつきで投げ入れられた正体不明の調味料。
例によって味見はしていなかったらしく、粘りつくような触感と料理の枠に収まらない鋭過ぎる刺激が舌の上で転がり回った。
食後に襲いかかったのは鉱石病由来の腹痛や吐き気だったが、それを料理のせいだと勘違いされるのも申し訳ない。
なんとか耐え抜いた矢先にケルシーからの呼び出しがあり、滔々と繰り出される説教の羅列。
不可侵の協定を結ぶに至った職員たちには盛大な拍手を送りたいほどにアビスは参っていた。
こうして話しているだけでもじっとりと背中に冷や汗が浮かんでくる。
「そういえば。ロドスにいるってことはそういうことなんだね?」
「何の話か分からないな」
「惚けないで。私と話したことは覚えてるでしょ?」
「……別に、誤魔化したいわけじゃない。まだ決められてないだけだよ。きっとすぐに忘れることはできないから」
「そう言って六年も経ったけど」
「六年しか経ってない。何十年もの未来を切り捨てる判断がそう簡単にひっくり返されると思う?」
カッターが押し黙った。
六年もの時を遡った頃に、アビスは言っていた。
アビスはそれを見てからからと笑う。
「ごめん、ちょっと性格悪いこと言ったね」
「少しは変わってると思ったのに、期待外れだ」
カッターの嘆息。
アビスは更に笑った。
「残念。期待の通りになんて生きてやらないよ」
妙に偏屈なままだ。
ずっと昔だとさえ思える六年の前から変わっていない。
変わっている部分もありはするが。
「笑うようになったんだね」
「まあ、ね」
「友人でもできた?」
「……ああ、そうだね。あの人たちのせいだ」
少しの驚きに呑まれる。
良い方向への変化だってどうやら小さくはないらしい。
あの人たち、と他人行儀な言い方をしていても、その言葉にどんな感情がこもっているのかは見ていて明らかだ。
死んでいないかすら心配だったと言うのに、どうやらそれは杞憂だったらしい。
少し頬が緩む。
「ロドスには慣れた?」
「うん、慣れたよ。とても良いところだと思う。特にロドスの理念が私には合ってる。現場の雰囲気はまだ見てないけど、分かるよ。きっと私はここを気に入る、って」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。ボクも一オペレーターとして鼻が高いね。けど気をつけた方がいい、ロドスのトップはちゃんと性格悪いから」
「……ケルシー先生と何かあったの?」
ロドスのトップという言葉が指すのは三人。
ノータイムで思い浮かべて、少しだけ躊躇いながらもカッターはその名前を口にした。
ケルシーは特に第一印象が悪い人間ではないが、ドクターやアーミヤと並べて見れば軋轢を生みやすい性質なのだろうということはすぐに分かる。
しかしカッターは何やら他に理由を見つけていたようだった。
「私がロドスに入るまでに作為的なものを感じたから。理由が分からなかったけど、今なら分かる。アビスに案内されるまでが異様に早かったし、採用契約の手続きも……」
「なるほどね。あの人のそういうところは嫌いだ」
凄まじく大きな氷山の一角を見て、アビスは本心からそう思った。
それは裏から回された手を汚いと思う故ではない。
ただ、
ケルシーの感情が長い時間によって複雑化していったように、アビスの感情もその道を辿っている。
無関心なアビスはケルシーを嫌い疎んでいる。
可能な限り避けようとしている。
それでもドクターと同じだ。
根底でケルシーのことがどれほど嫌いでも、その行動を評価する基準はあくまで自分に害があるかどうか。
三年もの年月は何の影響も与えず、特別扱いなどひとかけらだって見られない。
どんなことをしていてもアビスには関係がない。
だからこそ、ああまで捻じ曲がったのだろう。
「ところで、なんだけど」
「うん」
「その子は?」
「ああ、うん。後輩のオペレーターで、コードネームはデフラグレート。非感染者だから気をつけてね」
腰にひっついていたライサが顔を上げる。
不思議そうな様子のカッターと目が合った。
「私は、ライサ。よろしく」
すぐにまた顔を埋めた。
ライサが言うには、ドクターの秘書業務ばかりで話せていなかった分の補給をしているらしい。
今日はカッターの案内が午後に入っていて、午前中は例の如く缶詰状態だった。
一時的にではあるがドクターの独占から解放できた理由であるカッターに対しては多少感謝しているようだ。
「見れば分かると思うけど、感染者に対する差別意識はないよ。だから仲良くしてくれると嬉しい」
自分が死んだ後に向けて。
ライサは含められた意味を正しく感じ取った。
だから抱きつく腕に一層の力を込める。
まだ聞きたくないと、子どもらしく抵抗するために。
「分かってる、すぐに死ぬことはないよ。まだそれが見えてるだけだからさ」
ぐっ、と力がより強くなった。
疑問符を頭の上に置きながらライサを宥めるアビスに、心の底からため息をつく。
「あんたは昔から変わらないね。いつもちょっとだけ抜けてるところとか」
「そう? カッターほどじゃないと思うけどな。聞いたよ、入職する時の挨拶で思いっきり刀をドアにぶつけたって」
「……それは言わないで。恥ずかしいから」
ドクターはそれを笑うことなく竦み上がってたらしいけど。
あの人らしいね。
でもそういうのに託けて引っ付くのはやめてほしい。
最近調子に乗ってるから、今度会った時に少し脅かしてみようかな。
「じゃあ、私はこれから任務だから」
「ってことは輸送? それならラユーシャも連れて行ってよ。もうすぐだって言うのに離れてくれないんだ」
「……っ!」
ライサが力の限り、締め上げていると思われても仕方がないほど強くしがみついた。
べりべりべりべり。
「これは必要なことだよ、ラユーシャ」
「……わかった」
ライサはそれ以上の抵抗が難しいとわかったのだろう、物分かりよく頷いた。
「療養庭園と執務室だけには近付かないでね。ドクターを見たらすぐ逃げて」
「分かってる、せっかくの休みなんだから働こうなんて思ってないって」
「それなら、うん。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けるんだよ」
ライサとカッターが去っていく。
一方は何度も名残惜しそうに振り返ったが、足は止まることなく進められていった。
そうして二人が見えなくなったところで、アビスは懐から端末を取り出した。
二、三回の操作を終えて、アビスは端末を耳に当てる。
「もしもし、今どうしてる?」
任務の割り当てを見て知っている。
午後は彼女に仕事の予定がないことを。
「うん。早速だけどさ、今日は暇? ……今日って言うか、今夜。どうかな、大丈夫そう?」
ケルシーとドクターの間に何の違いもないように、アビスは友人と言える二人の優先順位をそう上には置いていない。
しかしだからと言って低いわけでもない。
ドクターの件は同情や恩を感じていたからこそ優先したのであって、他の無関係なオペレーターであれば次の機会へと先送りにしていただろう。
「そうだよ。約束を、守りたくて」
噛み締めるようにそう言った。
約束は守られるべきだ。
それを覆してしまえば、いつかの日、少女と交わした約束の意味さえも掠れてしまうだろうから。
「分かった。それじゃあ、また夜に」
アビスは通話を切った。
ポケットの中に端末を突っ込む。
どこか上機嫌な様子で、彼は予定までぽっかりと空いた時間を過ごすのだった。