【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
ひっくり返って動かなくなったドクターを、誰も心配していない。サリアはいつのまにか帰っていたから部屋の中には三人しか居なかったが、たった三人だとしても、その全員が何もしないというのは異常だろう。
だがしかし、これが正常だった。
アビスのアーツについて誰かが知っていて、その誰かとアビスが対面している。
その状況では致し方なかった。
さて、その当のアビスだが、視線をケルシーに向ける以外は何もしていなかった。
その視線はケルシーどころか空気のように扱われているワルファリンの目を以てしても重いように感じられたが、その纏っている雰囲気はただ只管に対峙した者へと圧迫感を与えるものだったが、それだけだ。
アーツを振るう準備はできている。
ちなみに、ケルシーがアウトだと判断された場合にはそのアーツを行使することも吝かではないのだが、ワルファリンも間違いなく効果範囲に入っている。
たぶん仕方ない。
「ロドスには感謝しているつもりです」
アビスが口を開いた。
「勿論ケルシー先生にも感謝しています」
「ああ、分かっている」
ケルシーの頬に冷や汗が流れた。
「しかし、回答次第によってはそれが反転する可能性があることを理解された上で、嘘偽り無く答えてください」
アビスは更に重圧のギアを上げた。
「どこまでボクのアーツについて知っていますか?」
それはただの度が過ぎた詰問であって、決して尋問の類ではないはずだった。アビスがケルシーに対して優位であるとは誰も思わないが、しかし容易く首を振ることができないまでにアビスの意志は強かった。
アビスはロドスに加入して三年弱経つ。ケルシーとの付き合いもそれに準ずるように長く、また、ほぼかかりつけの医療オペレーターであるために他より幾分か親密である。
アビスがこのテラでロドスのために活動した期間は、人生の六分の一。ロドスで過ごした時間はアビスにとって大切だったはずなのだ。
ケルシーとの仲も、きっと。
ワルファリンの心中では、アビスがただの愚か者になっている。
それも当然だろう。アビスは自分のアーツを研究されるどころか、知られているというだけで、ロドスという文字通り国境を跨いで活動する大企業のトップに害意を向けている。
それを愚かと言わずして何と呼ぶのか。
だがこのテラには、そんな愚かな判断も存在し得るのだ。他者には理解されずとも、また悉くがそれを愚行だと謗ったとしても、それを通さずにはいられない。
通すに足るほどの理由が、自分にしか理解できずとも、確かな熱を持って主張しているのだ。
アビスにとってのそれがアーツだったに過ぎない。
それはドクターが今のロドスを愛しているように、ケルシーが己の定めた価値観に則っているように、アビスにとって変えられない、変えてはいけないものだった。
だからアビスはケルシーに問う。
一切虚実を許すことはない。
一切情に絆されることはない。
一切手を緩めることはない。
アビスはずっと前からそう決めて生きてきた。
掠れた声がケルシーの口から出た。緊張がケルシーから声を奪ったのだろう、それをアビスが咎めることはしない。急かすこともない。
最後に嘘偽りのない答えさえ返って来ればそれでいい。
「私が知っているのは、アビス、お前のアーツがコードを送り出し、そしてそれを強制的に相手に受信させることができる、くらいのものだ」
ケルシーが膝の上で手を組む。
どうしてか、震えが止まらなかった。
「送り出されたコードは相手の神経を通り、内包する信号を然るべきニューロンへと送り届ける」
ケルシーは一度深呼吸をした。
ワルファリンはただソファに座ってケルシーの言葉を聞いている。自分が愚かとしか言いようがない状態に身を置いていることの自覚はないらしい。
「その信号は、私の観測した限りでは、恐怖。お前のアーツ適性からしてコードの発信のみであれば可能であると私は判断した。純粋な恐怖で殴りつけ──」
「もういいですよ」
ケルシーの簡潔な説明はもう終わっていた。これ以上話を続けても、アビスのアーツを用いた必勝の型は完璧に分析されていたことが分かるだけだろう。
ケルシーの言ったアーツの説明に関しては、間違っている部分が見当たらないほどに簡潔で完璧だった。
そしてアビスは。
「ケルシー先生がご存知である範囲は理解しました」
息を吐いて、立ち上がった。
「その程度であれば、問題ありません」
ケルシーが俯かせていた顔を上げた時には、既に退出した後だった。アビスの靴音も聞こえず、どうやら本当にもうケルシーには何も言うことがなかったらしい。
カタカタと、手は未だ震えている。
恐怖は未だ冷めやらず、ぼうっとする頭でケルシーは机に目を落とした。
アビスのアーツについての解析は終わっていた。終わりにしていた。特筆すべきものはなく、ただハイリスクハイリターンなのだと思い込み、それで終わらせてしまっていた。
アビスのアーツには、まだケルシーの知らない何かがある。
それが判明した今、しかしケルシーはそれを知りたくない。
長年の付き合いであるオペレーターに何故進んで命を狙われなければいけないのか。ケルシーは踏まなくても良い虎の尾を進んで踏む愚か者ではない。
だが知らずにはいられない。責任者として、アビスにとってはほとんど掛かり付けである医者なのだから、ケルシーにはむしろ知らなければいけないことだった。
常人より鉱石病と密接に関係しているあのアーツについて正確に把握するのは必要なことだった。
根源的な生への執着と、アビス並びに死への恐怖。
対するは理性的な医者の部分、上司としての情、医療従事者としての矜持、そして仄かな知的好奇心。
鬩ぎ合い、葛藤し、ケルシーは頭を抱えた。
隣に居るワルファリンのことすらも認識できなくなったまま、ケルシーはアビスについて答えの出ない問いを考え続けていた。
その感情が自分らしくないものだと分かっていて、しかしその不自然性に気付くことはなかった。
アビスが艦内を歩いていると、数日ぶりに見かけるコータスのオペレーターを発見した。後ろ姿に声をかけてみるが、その耳へと流れる音楽プレーヤーの音声が余程大きいのか反応はない。
接近しても反応はない。声をかけても反応はない。少しだけ漏れ出て聞こえる音楽はアップテンポの激しいものだが、明らかに効果はない。
「エイプリルさん?」
「はぁ……」
示し合わせたように、エイプリルの溜め息が返ってきた。廊下での移動中にまでそんなテンションだというのはどう考えてもよろしくない。
トン、と肩を叩いた。
「ん? あっ、アビス。もう体は大丈夫なの?」
「はい。ご迷惑をおかけしてしまったようで、申し訳ありませんでした」
「ううん、元々はあたしのせいだから」
憂いを帯びた顔で、エイプリルは目を細くして笑った。アビスの思っていたよりもエイプリルはダメージを受けていて、儚い笑顔が言い知れぬ不安を掻き立てた。
「提案なのですが、護衛任務の打ち上げでもしませんか? 今回の護衛はかなり難易度も高かったですから」
「うん、それも良いかもしれない」
ただ、と言ってエイプリルは弓手で弓の背をなぞる。照明に照らされて黒く光る弓が、どことなく寂し気に見えた。
「今は少し自分を鍛えたくて。ごめんなさい」
エイプリルはまた歩き出した。
ロドスのオペレーターたるもの、余程の者でなければ人を殺した経験はある。エイプリルにも、その矢で敵の脳天を貫いたことはあるのだ。
だが、味方を誤射した経験はない。最も留意すべき点であるからして、弓を使う者は十分な訓練を積んでからその武器を戦場に持っていく。
エイプリルが今回殺めそうになったのは、その味方二人だ。一度きりであっても仲間として任務に赴いたアビスと、ロドスの戦術指揮官たるドクター。
どれだけ自分を責めたのだろうか。どれだけ後悔したのだろうか。それをアビスは知ることができない。
追いかけることは、しなかった。
研究室の扉がノックされた。中で端末を弄っていたオペレーターがドアを方を向いて入室を促した。
眼鏡に手をやり、そして入ってきたのは──自身の今最も身近な嫌悪している相手だった。
「何の用?」
サイレンスの刺々しい声に、サリアの顔は変わらない。
「あの子には……」
突き放そうとした言葉が、途切れた。
黙り込んだサイレンスに、サリアが口を開く。
「少し、聞いてくれるか」
サリアの胸襟を占めるそれは何なのだろうか。得体の知れないその感情はサリアを動かし、そのサリアを見たサイレンスから言葉を奪った。
しかしその感情はサリアを動かしこそすれど、もしサリアの心中がそれのみに埋まっていたのであれば、口を開くことはなかっただろう。
一つ分かっているのは、サリアはサイレンスのことを心から嫌っている訳ではないということだ。
サリアの言葉を聞いて腰を上げたサイレンスは、しかし扉の方へと進むことはなく、コップを二つ机の上に置いた。
インスタントコーヒーの粉末を開けて、電気ポットの中にある湯を注ぐ。少しだけ面食らったようなサリアの前に手で押しやった。
サイレンスは何も言わずにコップへと口をつけた。
サリアも取っ手に指をかけて、口に含み、飲み込んだ。
「先程の騒動の概要を知っているか」
「簡単には。ワルファリンがオペレーターを研究しようとしてケルシー先生の手を煩わせたと、それだけ」
イフリータのことではないのか、とサイレンスは少し訝しんだ。なぜ自分のところに来てそんな話をするのか、と。
「そのオペレーターの話だ」
益々分からない。
だが最後まで聞き届けずに帰すのは何故だか気が引けた。イフリータのことは話さないのにそのオペレーターのことは話すサリアに何も感じない訳ではなかったが、それ以上にサリアの様子は変だった。
「そのオペレーター、アビスと言うのだが。彼はアーツによって源石融合率を2%以上も上げたらしい」
おかしなことではない。
感染者である術師がアーツユニットを使わずに出力を大きくした場合、融合率が上がるのは当たり前のことだ。馬鹿みたいな話だが、そのやり方に慣れてしまえば融合率の上昇は右肩上がりになる。
「だが。それはたった二日間の出来事だ」
それより更にアホらしい話だった。単純に考えて、もしその上昇を維持させてしまえば、半月で重体にまで症状が進行する。馬鹿馬鹿しい世迷言、非感染者の囀る戯言に決まっている。
そんな否定な言葉が出せたのであれば、むしろ救いだったのだが。
サイレンスはコーヒーを飲んだ。
飲み物を飲んでいる間は口を開けることはできない。それを言い訳のように頭の中で構えることで、冷静な思考をなんとか取り戻した。
飲み物を飲んでいる間は否定の言葉を出せず、ありえないと叫ぶことはできず、ただ冷静に頭の中を巡らせることができる。
「彼はそのアーツに関して、頑なに喋ろうとしなかった。どんなアーツであるのか、効果くらいしか掴めてはいない」
ようやくサイレンスがカップから口を離した。
半分より下に見えるコーヒーの水面を見つめるサイレンスの目は混乱の色に染まっている。
「そんなことが、本当に?」
「ああ」
ワルファリンがまた馬鹿をやったのだと思っていたが、それを間違いだったのかもしれない、とサイレンスは思う。
「ロドス所属、元鉱石臨床医のサイレンス。少し知恵を貸してほしい」
「何のために?」
「彼に纏わることが原因で、疎遠になることのないように」
「よく言う」
サリアの発言を鼻先で笑うと、サイレンスは足を組んでコーヒーに口をつけた。
「まずどんな仲なのか話して」
「……それは」
サリアとサイレンスの目が合う。
「つまり、そういうことか?」
「そう」
サイレンスは苦々し気に、途轍もなく気の進まなさそうな顔を作ってサリアに向けて、こう言った。
「手を貸さない訳にはいかないから」