【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
彼が私と目を合わせる。
昔からそうだった。
彼はいつだって、目を合わせて話してくれる。
彼女が幸せそうに笑っていた。
少しだけ、恥ずかしそうだったけど。
目が合うことが堪らなく嬉しいみたいだった。
ああ、そうだ。
彼が居る日々は幸せだった。
今では眩しいとさえ思えるくらいに。
食べられるものの量が増えた。
私たちの仕事が減った。
些細な積み重ねも私たちは見逃さなかった。
彼がいてくれて良かったんだって。
小さい私たちは素直にそう思った。
あの日のことは思い出したくない。
それでもずっと脳裏に刻まれている。
冬の只中、真夜中の襲撃。
雪が音を吸って静かだった。
私たちは蠍や蜥蜴の自切みたいにして生き残った。
一生懸命に逃げて、逃げて、逃げて。
飢えと寒さから身を隠して、必死に逃げた。
詳しくは覚えていないけど、いつの日か。
私には声が聞こえるようになった。
親愛なる片割れの声が。
助言をくれた。
警告をくれた。
私の手を取って、いつだって。
次第にそれが形を変えた。
耳だけではなく、目に映るものとして。
目だけではなく、手で触れられるものとして。
私だけではなく、みんなに。
彼は私を止めようとした。
私はそれを振り切って。
目が覚めた時には彼が居なかった。
今までずっとそばに居たのに。
それで、私は。
ああ、彼は死んじゃったんだなあ、って。
悲しくなって、絶望した。
せっかく生き延びてきたのに、私は容易くそれを放り投げようとした。
怒りが湧き上がって、最後まで私の元に来てくれなかった彼のことを思い出した。
八つ当たりする気力すらなかった。
全部零れて空になった缶をどれだけ傾けても一滴だって落ちてこないように。
私はずっと逃げていた。
生きるために、離れるために。
あの土地が呪縛のようにすら思えていた。
導かれるように北上して、力尽きた。
雪原で倒れた私を拾ったのは、誰だったか。
それからの記憶が随分と曖昧だ。
覚えているのは、あの孤児院を思い出させるような、暖かい毛布の感触だけだ。
いつのまにか私は刃を手にしていた。
煮えたぎる激情が心の中で燃えていた。
口からは一度だって口にしたことがなかったような罵声が次々と飛び出していって戻らなかった。
私の言葉が心の形を変えていった。
すっとして、ぎゅってなって、帰らない。
地べたに這いつくばって何も言わなくなっていた心臓が驚くほど簡単に彼の幻影を刺した。
何もなくなったはずの缶を振ると少しだけ残りが飛び出して、大きな大きな染みを作った。
私の動力はそれだけだった。
それから、私は倒れるまで何度だって生きた。
刃を研ぐ私は果たして狼だったのか、それとも使われるだけのナイフに過ぎなかったのか。
何れにしても関係ない。
あの動力が与えた惰性は私を一度も止めなかった。
いつしか、私と幻から境界が消えていた。
私の手に付着した闇色の怨嗟が彼と重なって、彼の手に導かれた私がナイフを振り下ろした。
私たちは罪と罰を共にしていた。
醜い逃避だって言われても構わない。
私たちのことは私たちが一番わかってる。
私はずっと前から2人だった。
それ以外に正解なんてものはない。
彼を前にして、片割れは何度も手を止めた。
ずっと私に聞いてくるんだ。
これでいいのかって。
振り下ろされたナイフがブレた。
普段なら避けている戦い方を選んだ。
だって当たり前だ。
私の半分が反対してるんだから。
残り少ない戦意が半分になって、それで私がおかしくならないはずなんてなかったんだ。
カインは、彼が好きだった。リラ姉が好きだった。孤児院が好きだった。あの木が好きだった。あの日々が好きだった。私のことが好きだった。
そんなカインが好きだった。
そんなカインを象徴する彼のことを傷つけることなんてしたくなかった。
でも耐えられなかった。
許せなくって仕方がなかった。
私の体を動かしていたあの感情なんてどうでもいい。
カインがそれを否定するなら、私はいつだってそれを放り投げられるから。
私が、耐えられなかったのは。
「──なぁ、幸せか?」
寝ている彼の首に手を添える。
寝苦しそうに身を捩っていて、いつ起きるかわからない。
それでも私の未成熟な心は止められない。
古い傷跡が走る首元を、両の親指で押した。
ぽすん、と彼の胸元に腰を下ろす。
「……ナイン?」
彼がとうとう目を覚ました。
「まだ朝じゃないよね。お腹でも空いた?」
ぐっと力を込める。
彼は少しだけ不思議そうな顔をした後、何も言わず私の手に任せている。
首を絞めているはずだった。
日常の一コマを切り取ったみたいに、彼の顔は変わらなかった。
「心配、させんなよ」
彼がいつも通りなのは、私が彼を殺そうとしたことが一度や二度の話じゃないからだった。
そのたびに彼は私の手を、ナイフを、全てを受け入れてどうでもよさそうに笑っている。
手から力が抜けていく。
「……また不安になったんだ?」
小さく頷いた。
「大丈夫だよ、ナイン。ボクは幸せなんかじゃない」
そう言った彼の尻尾が頬を撫でた。
変わらないそのざらざらとした感触が心の糸を切って、体が前に倒れ込んだ。
「ボクはずっとリラのことを覚えてる。ボクはずっと、幸せなんかになれないままだよ」
彼が世界に溶け込んだ時、私はきっと本当の意味で1人になってしまう。
カインすらをも失って何も出来ない。
ただ思い出で脳を侵して悦に浸るだけだ。
カインはそうならないことを望んだ。
それに、本能に近い何かが訴えてくるから。
私はそうなりたくなかった。
彼が背をさすってくれる。
泣き出した私を宥めてくれる。
私は2人だけじゃないんだって、彼と再会してからようやく知ることができた。
「お前が死ぬ時はオレも連れていってくれよ」
彼がいない世界になんて居られない。
「……それは無理だ」
彼は私のことをわかってくれている。
「
彼は私と同じなんだから。
何にだって気付いてくれている。
心地良くって、それまでが救われた気がして、選んだ道は間違ってなんかないよって言ってくれるような気がして、安堵が心を包むんだ。
私が改めた一人称の意味を理解してくれている。
本当の私を、知っている。
ライサが嫌いだ。
ドクターが嫌いだ。
エイプリルが嫌いだ。
彼は彼だけでいい。
私と同じように孤独でいい。
そうでなければ、私が要らないから。
ロドスが嫌いだ。
彼と私だけであるべきなんだ。
私の世界に居るのは3人だけでいい。
彼は私たちだけを見ていれば、それでいい。
彼のことが嫌いだ。
私が彼のことをまだ恨んでるだなんて勝手な勘違いをして、私に殺されてもいいだなんて、そう思ってる。
私が殺したいくらいに嫌ってるのは、彼以外なのに。
私は心が弱い。
だから彼のようにはなれない。
彼のようには生きられない。
それなのに私は私たち以外を受け入れられなかった。
カインに私が縋っている限り、私は彼しか頼れない。
だから私は彼の手を取った。
憎悪と敵意が繋いだバトンは信頼の手にある。
彼やカインを、世界を捨てて、選んだ。
……ねえ、カイン。
私はそれでいいんだよね?
『ナインがそう決めたならそれでいい。⬜︎⬜︎兄が居れば、きっと悪いことにはならねえからな』
カインの声が脳髄に痺れる。
そうだよね、私はこのままでいいんだ。
頭の中でようやく整理がついた。
彼の上から体を離す。
見方を変えれば押し倒していたようだった。
私や彼がそんな気を起こすことは絶対ないけど。
「……偉いね、ナイン」
彼が私の頭を撫でる。
泣きそうになるって言ってるのに。
そう思って我慢しようとした目からは、涙の気配が少しも感じられなかった。
どうしてだろう、普段なら。
普段なら涙がこぼれ落ちていくはずなのに。
「本当に偉いよ」
懐かしい撫で方だった。
いつもの彼とは違う懐かしさがあった。
だから私は泣かなかったんだと思う。
その手つきは、──とても落ち着くから。
どこかの何かが引っかかった。
小さな小さな、魚の小骨のように。
「でも、さ」
手が頭の上から滑り落ちる。
まるで立場が入れ替わったみたいに、今度は彼の手が私の首を弱い力で掴んでる。
どうして?
「
目の色が変わった。
慣用句じゃなくてそのままの意味で。
琥珀色の目。
敵意と害意と嫌悪と憎悪。
私の首を絞める両手。
ああ、なんだ。
「こっちに来てたんだな、リラ姉」
鉱石病の影響か、彼の力は弱い。
それでも一応は私より強いはずだけど。
体勢が悪い。
寝転がったままの、それも胸の上に私という重石がある状態では全力が出せないでいる。
苦しさがオレの喉を焼いて、どうにかそれを振り払う。
「死んでいいよ」
彼が、もといリラ姉がオレの腕を掴んで引き倒す。
オレの戦闘はアーツに頼ったものだ。
地力で勝負すれば勝てるわけがない。
体勢を立て直し、距離を取ろうにも掴んだ腕がそれを許さない。
ゆっくりとリラ姉が立ち上がった。
正直言って、この状態からやり合うのは無謀だ。
オレはこいつに勝てない。
リラ姉の技量でも正面からぶっ潰される。
それだけの力の差が存在する。
だからオレはアーツを使う。
リラ姉が引き寄せようとした瞬間、手が不自然に外れて、オレはリラ姉から逃れた。
いつのまにか外れていた手を少しの間不思議そうに見つめて、言った。
「とうとう体まで操れるようになったってことね」
オレのアーツは電気信号。
今までは脳や脊髄へと向かう感覚神経──つまり目や耳や皮膚に伝えられた情報を頭に運ぶ神経──を乗っ取ることで、五感の掌握を行っていた。
だがそれはアビスが真っ向から破った。
より強いアーツで、正常な信号のみを運ばせた。
これはその対抗策への対抗策だ。
脳から下された命令を筋肉に伝える運動神経、これを乗っ取ることで相手に気取られることなく体を操ることができる。
いくらアーツで対抗出来るとは言え、感じ取れない攻撃に対処することはできない。
難易度は以前の数百倍。
伝えることと伝えないことがある、ということは同じだが、送られてきた信号に対して適切な信号を送り返す必要がある。
つまりは、相手が手を握ろうとしたのなら、「手を握ろうとする信号」を途絶させ、「オレが通したい信号」を運動神経に、「手を握ったことで起きる信号」を感覚神経に流さなければいけない。
一工程増えることでオレの負担は跳ね上がる。
その代わりにオレは超接近戦においてはほぼ負けなくなった。
相手を操れるなんて負けようがない。
レユニオンのボスとかは例外だ。
たぶん完全にレジストされる。
アレはアレで人の皮被った化け物だろ。
同様に、オレがどんな原理で動いてるのか分からないヤツは操れない。
神経が通っていなければ論外だ。
「まぁ、それでも強いけどな」
リラ姉を組み伏せて床に叩きつける。
苦し紛れの特攻が刺さることはない。
少しの間もがいていたが、オレの拘束から抜けられないと悟って大人しくなった。
リラ姉にはまだまだオレを狙える機会がある。
何も今夜仕留めなければいけないってわけじゃねえからな。
今日のところは帰ってくれるはずだ。
「……ちっ、仕方ないな。次は絶対に殺してあげるから今のうちに遺書でも書いておきなよ」
「うっせえ、天国からもう降りてくんな」
アビスには悪いが、もうこっちくんな。
リラ姉は最後に一つオレを睨んで、消えていく。
棘のある雰囲気が鳴りを顰めると同時に目の色が琥珀から元に戻る。
何がどうなって色が変わってんだろうな。
目の色が変わると言えばライサだが、ライサの方は理論があるらしい。
なんとなくそれとは別だと思う。
死人に理論を求めるのは、なんか違うだろ。
特に興味のないことを考察する。
それなりの知識でそれなりの深さを。
それはオレにとってクセみたいなものだ。
興味がないことってのは自分の視野の外にあるってことで、それに注意することはオレの生存率を上げたからな。
ロドスに来てからも色々なものに目を向けた。
それなりに興味もあったけどな。
こうして鎮圧を終えてからもしばらくの間は押さえつけているのもクセだ。
負けたって事実が受け入れられないバカは意外とたくさんいる。
「……えっと、ナイン」
押し倒されて拘束されたままの状態。
僅かに上がっている息と少しだけ乱れた衣服。
アビスは最悪の想像を口にする。
「夜這い?」
瞬時に目が琥珀色に変わったのを見て、オレは自分のクセを強く恨むことになった。