【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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九十二 二人の約束

 

 

 部屋の扉を開くと花の香りが漂っていた。

 療養庭園とはまた違った爽やかな匂いがスッと鼻を抜けて、ノブを押す手が止まった。

 

 近未来チックな宿舎のドアが視界の中で唯一場違いなものだった。

 

 小物でそこかしこを飾られていて、けれども統一感を失わない彩りやグラデーション。

 殺風景なボクの部屋とは全く違って華やかな雰囲気だ。

 こういったセンスがあるのは知っていたけど、ここまで圧倒されるほどだとは思わなかった。

 

 世界が違う。

 そんな気さえした。

 

 一方そんな異世界の住人は椅子に腰掛けて、ヘッドフォンを押さえて左右に揺れていた。

 

 普段とは違って落ち着いた服装だ。

 そう思ってよく見ると、それはボクが龍門でエイプリルのために選んだ服だった。

 

 白いブラウスに黒いスカート。

 赤いイヤリングは強過ぎない主張を。

 ……ヘッドフォンが何か違うと思ったら、カバーが付いてるんだ。

 イヤリングが直接挟まれると痛いからかな。

 別に、外せばいいのに。

 

「邪魔するよ、エイプリル」

 

 声をかけて異世界に踏み出す。

 ドアの裏側さえ飾られているせいで、ボクだけがこの部屋で浮いているみたいだ。

 支給品のジャケットを脱げば少しくらいはインフォーマルになるかな。

 いや、ならないか。

 

「聞こえてる?」

 

「─── ♪ 」

 

 ノックの音が聞こえないくらいだった。

 ボクの声だって届くはずないか。

 

 端末のメッセージ機能を使ってみる。

 少し離れた場所からバイブレーションの音が聞こえてきた。

 そうだった、プレイヤーで流してるから端末は使ってないんだ。

 

 ああ、これが理由だったんだ。

 休日は返信が遅いのは、これのせいだ。

 職務中とか移動中は早くチェックしてくれるし意図的に遅らせるような人でもないからおかしいとは思ってたんだ。

 

 なんとなく胸の支えが一つ取れたような気分で肩を叩いた。

 緩慢な動作で振り向いた彼女の目が見開かれる。

 

「邪魔してるよ」

 

「……び、びっくりした。ちゃんとノックは──してるよね。それなら私が悪いか、ごめん」

 

「謝る必要なんてないよ。エイプリルが気付くまでボクは待たなかったから」

 

 予定があったとは言え、反応がないなら待つべきだった。

 彼女は少しの間迷ってから同意した。

 ボクにはデリカシーってやつが欠けているんだろう。

 

「ん? あれ、まだ時間じゃないよね? どうしたの、もしかして予定より早くあたしに会いたくなっちゃった?」

 

 すぐに切り替えてイタズラっぽく笑う。

 随分と久しぶりな気がして、ああ、こんな風だったなって納得した。

 

「そうだね、会いたかったよ」

 

「……適当に返してる?」

 

「あはは」

 

 曖昧に笑うボクを怪しそうに見る。

 苦笑しながら目を合わせていると、少し経って、ふいとそっぽを向いた。

 

「前のことはごめん。どうしても外せない用事が入ってさ、蔑ろにしてるつもりじゃなかったんだよ」

 

「別に怒ってないよ」

 

「そう?」

 

 それならどうしてこっちを見ないんだろう。

 やっぱり怒ってるんじゃないの?

 

「出直そうか」

 

「だから怒ってないってば! 飲み物出すから待ってて!」

 

 エイプリルはぷんすこしながら奥へと歩いて行った。

 取り残されたのは浮いているボク一人。

 

「やっぱり怒ってる……」

 

 

 

 出してくれたアイスコーヒーは美味しかった。

 少し苦味が強かったけど。

 

 隣で同じくブラックのコーヒーを淹れたらしきエイプリルが舌で少しずつ飲んでいる。

 しかめっ面だ、それは怒ってるからなのか、それともコーヒーが苦いからなのか。

 ボクにはわからない。

 

「ねえ、あたしの顔に何かついてる?」

 

「綺麗な顔って返しておくよ」

 

 しまった、少し眺めすぎた。

 

「……もう。怒ってないんだって。別にあたしのこと(おだ)てる必要なんてないから」

 

「それにしては棘があるように思うけど」

 

「そう思うからそう見えるの」

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

 絶対怒ってると思うんだけどな。

 全く目が合わないし。

 

 そんなことを考えていると、エイプリルがふいに窓の向こうを覗いた。

 空には薄い雲が広がっている。

 世界の隅に斜陽がかかって、今にもボクたちの世界を侵食しようとしているみたいだ。

 

「ちょっと早いかな」

 

「定刻まであと一時間くらい、だよね。やっぱり出直そうか?」

 

「いいから。どうせご飯食べるくらいしかやらなきゃいけないことなんてなかったし。何だったらアビスの分も作ってあげるよ」

 

 鉱石病の詳細を話したことはない。

 融合率あたりは知ってる、みたいなことを言っていた記憶はあるけど、それだけだ。

 普通の食事を摂ることができないだとか、普段から発熱や吐き気を感じていることは話してない。

 

 だって無駄だから。

 

 ボクがそれを話したところでエイプリルに出来ることはない。

 それだったら話さずに隠したままでいた方が、変にセンチメンタルな雰囲気を生むこともない。

 

 また怒られてしまうだろう。

 もしかすると泣いてくれるかもしれない。

 だから、絶対に話さない。

 

 そんなものは見たくないから。

 

「ボクは食堂で食べて来たよ。だから気なんて使わなくて大丈夫」

 

「えっ、アビスって食堂で済ませることあるの……? いつ誘っても断るのに一人の時は行くの? ふーん、そう。そんな人だったんだ」

 

 今日は気が立ってるように感じる。

 普段は誇張と本音が半分ずつなんだけど、今日は誇張が3で本音が7みたいな、そんな感覚。

 やっぱり怒ってる。

 

「ボクのことはどうでもいいから、今はエイプリルの夕飯についての話をしよう。たとえばボクが振る舞ってもいいよ」

 

 少し強引過ぎる転換。

 エイプリルの耳がぴくっと反応して、次に半信半疑と書かれた顔がボクに向いた。

 

「料理出来るの?」

 

「これでもラユーシャから勝てる気がしないって言われたくらいにはハマってるんだよ、料理。節約とか気にせず作るから趣味の領域かもしれないけどね」

 

 実用的価値は全くない。

 そういう意味で、ボクの料理は趣味だ。

 ただ心を潤すためだけの──いや、乾くことを防ぐためだけの趣味。

 ボクがかつてリラに振る舞ったスープを、カッターと食べた小さなパンケーキを忘れないためだけのもの。

 

「思ったんだけどアビスってラーヤちゃんのことかなり好きだよね。基本怒らないし」

 

「拒むなんて出来ないよ。ラユーシャはテロリズムの被災者で精神的に弱ってるんだ。ボクが多少なりとも責任を持って支えてやらないと」

 

「……その割には死のうとしてなかった?」

 

「嫌だな、死んだらやらなきゃいけないことなんて全部なくなるはずだよ。何も出来なくなるんだから」

 

 エイプリルの動きが冷えた。

 もっと適切な言い方があるとは思うけど、冷えたとしか言いようがない。

 見えていた感情の色が塗りつぶされていく。

 それは猜疑や疎意を怒りが埋め尽くしていく光景で、燃えるような感情があるはずなのに、どうしてか冷えているように感じた。

 

 口が固まった。

 

「無責任にも程があるよね」

 

 トゲが刺さっている。ボクの体に。

 エイプリルの視線に絡みついたトゲ、鼓膜を揺らすトゲ、脳内を伝わるトゲ。

 

 ボクの口は動き方を忘れたみたいだ。

 声が掠れて喉を飛び出す。

 

「ねえ、龍門で話したことと同じ内容の説教をしなきゃいけないの? まだ分からないの?」

 

 エイプリルの機嫌がハッキリと傾いたところで、ようやく硬直が消えた。

 

「──分かってる! 分かってるよ! あの時はそう思ってたってだけで、今はそうじゃない。だからここにいるんだ」

 

「……それならいいけどさ」

 

 猜疑心は消えない。

 反論が遅れたせいで行き場を失った勢いが惰性で残っている、というのもその原因の一つだと思う。

 

 どうして口が開かなかった?

 何か、いや、誰かに乗っ取られたみたいに口だけがボクの意思に逆らっていた。

 躊躇うような発言でもないはずだ。

 

 いやいや、ちょっと待って。

 誰かに乗っ取られていた、なんて。

 

 ボクは何を言ってるんだろう。

 疲れてるのかな。

 

 きっとそうだ。

 ドクターやケルシーに気力を奪われた。

 だからこんな風に考えてしまった。

 そうに違いない。

 

 

 ──微かに感じる雰囲気の残り香。

 

 

 引っかかって、抜け落ちて。

 頭が惑っているとよくわかる。

 

 ただの金縛りに『彼女』を感じるなんて。

 

 憤ってしまいそうなほどの侮辱だ。

 ボクのこの感覚が憎らしい。

 

 第一、分かるはずがないんだ。

 雰囲気は実体を持たないんだから。

 そんなの間違っているに決まってる。

 

「どうかしたの?」

 

 思考を引き戻す。

 埋没していた意識が前に向く。

 

 ……近くないかな。

 

「なんでもないよ」

 

「本当に?」

 

 ぴと、と額に手が当てられる。

 目と鼻の先に、エイプリルの目と鼻がある。

 

「あの時と同じだったよ。リラのことを話してくれた時と同じ、透き通ってるみたいな存在感だった」

 

「……そんなこと、ない」

 

 ありえないんだよ。

 死人は絶対に帰らないんだ。

 

「何を抱えてるのかは知らない。アビスが言ってくれないから、あたしは何も知らない。だから何もできない。何もしない」

 

 僕がこれを言う必要なんてない。

 世迷言以外の何でもないんだから。

 

 そうしてボクは壁を築く。

 エイプリルから近づかれることを拒む。

 

 だから。

 

「だからあたしは信じて待ってる。約束守ってくれるって信じてるから。勝手にいなくなったりせずに、いつかは話してくれることを信じてる」

 

 エイプリルの目は真っ直ぐだった。

 ひたむきにボクのことを信頼している、ある意味で澱んでいて、ある意味で透き通っている目。

 

 約束は守りたいと思ってるよ。

 信頼だって当然裏切りたくない。

 

 ああ、もう。

 頭がぐちゃぐちゃだ。

 こんな煩雑なこと考えたくない。

 

 ボクのことを信じてる。

 エイプリルはそう言った。

 頭の中をかき混ぜて、けれど心はそれを無抵抗に受け入れた。

 それが全てなんだ。

 ボクはただ複雑に考えて心臓を無視してるだけの馬鹿なんだ。

 

 分かったよ、本当は分かってるんだよ。

 でも頭が受け入れられないんだ。

 

 だから答えてほしい。

 

「一つだけ、聞いてもいいかな」

 

「うん、いいよ」

 

 エイプリルは笑みを浮かべる。

 それは普段浮かべている爛漫のような笑顔ではなく、また、少しだけ意地の悪いものでもなかった。

 

「無理に延期したこと怒ってる?」

 

「うん。すっごく」

 

 怒られるのは苦手だけど。

 怒られることは嫌で仕方ないけど。

 約束を守れなかったボクが怒られないままでいるっていうのは、ちょっと違うなって思うから。

 

 だからようやくエイプリルが頷いてくれて、ボクはほんの少しだけ、これがいいなって思ったんだ。

 ほんの少しだけ、受け入れられたんだ。

 

 

 

 エイプリルの食事が済んだ。

 思っていたより少食で、残った分をボクが食べてしまったけど──まあ、少しくらいなら構わないと思う。思いたい。既にちょっと痛い。

 それで、ここからが本題なんだけど。

 

「これってイケナイことじゃないの?」

 

「大丈夫だから、心配しないで」

 

 エイプリルの言葉は投げやりだった。

 これからボクはエイプリルとの仲を深める。

 エイプリルが言うには、少しだけボーダーラインに触れるとか言ってたけど、ボクには思いっきり踏み越えてるように見える。

 もし人に知られたら、と考えて体を縮める。

 

「本当にやるの? エイプリルってそんな人じゃなかったよね?」

 

「はいはい、何回同じこと言ったって変わんないよ。……って、ごたごた言ってる割には乗り気じゃん」

 

 期待する自分は、そりゃ居るけど。

 だからと言って何も言わないで、抵抗しないでいるっていうのは、義理が立たない。

 ボクはお願いを聞かなきゃいけない、って、そのスタンスじゃないと。

 だから、これは仕方ないことなんだ。

 それでいいだろ。

 

 ふふ、とエイプリルが蠱惑的に笑う。

 

「準備万端だね」

 

「……そうだね」

 

「それじゃあ、しよっか」

 

 エイプリルの手が伸びて、掴んだ。

 ああもう、分かったよ。

 後のことなんて考えないでいよう。

 

 

 ──かちん、とグラスが響いた。

 

 

「「乾杯」」

 

 喉を通るアルコールの感覚。

 ボクとエイプリルは低い度数の酒に酔う。

 少しでも長く語らえるように、少しでも多くを覚えていられるように、スローペースで、ゆっくりと飲む。

 

 早速エイプリルはソーセージに手をつけた。

 焼いたばかりで、パリッと割れるソーセージはさぞ美味しいことだろう。

 それにお酒がついてくるんだから尚更だ。

 

 これは龍門の夜の再現だ。

 あれはボクの部屋で、今はエイプリルの部屋だけど。

 お酒を飲んで話をするっていうことは何も変わらない。

 

 ああ、ケルシーにバレてしまったら。

 たぶんボクは死ぬまでケルシーの管理から離れられなくなるんだろう。

 自由に使えるお金もなく、ただ寿命だけが伸びていく。

 

 考えるのはやめにしよう。

 バレなければいい、それで終わり。

 失敗した時のことは考えないでおけばいい。

 

「ねえ、記憶がないって言ってたけどさ」

 

 頬を心なしか赤くしたエイプリルが言った。

 

「それってラーヤちゃんとのデートを忘れてるってことでいいの?」

 

「ラユーシャとのデート?」

 

 あー、えっと、うん。

 少しの間考えてようやく思い当たった。

 

「デートの記憶はないし、今この瞬間までその約束すら忘れてたよ」

 

「クズじゃない?」

 

 ぐさっと心に突き刺さる。

 リラとのことがあって、記憶のことがあって、ケルシーのことがあって、ドクターのことがあって──これは言い訳だけど、本当にそれを思い出すだけの余裕がなかったんだ。

 ラユーシャには本当に申し訳ないな。

 

「ああ、でも。エイプリルとデートするって約束は忘れてないけどね?」

 

「……今、思い出したんじゃないの?」

 

「心外だよ」

 

 まあその通りなんだけど。

 エイプリルにもそれが分かっているんだろう、胡散臭そうな視線を感じる。

 どう思っていたかなんて確かめようがない。

 認めなければ疑念は疑念のままだ。

 

「ほら、こっちも食べてみなよ」

 

 ウインナーにチーズを巻きつけたもの。

 正直言って美味しくないはずがない。

 

「そんなにハイペースで食べないから。あと誤魔化すならもっとちゃんとやった方がいいと思うよ」

 

 あはは、バレてる。

 

 バレたことは別にいいんだけどちょっと困る。

 フォークに刺したこのウインナー、ちょっと今のボクには食べられない。

 チーズ自体の消化は良いんだけどさっき食べたものの反動で吐き気が酷い。

 だから差し出した。

 

「えっ、だから食べないってば」

 

「あーん」

 

「ちょっと、アビス?」

 

 ボクとフォークで視線を行ったり来たりさせて見るからに戸惑っているエイプリル。

 うん、もう一押しかな。

 

「あーん」

 

「……あ、あーん」

 

 一口で全部持っていくことはなく、半分くらいのところで噛み切っていた。

 それはちょっと困るんだよ。

 

「うん、美味しいね」

 

「あーん」

 

「待ってまだ続くの!?」

 

「ほら、口開けて」

 

「いや自分で食べなよ」

 

「ほら」

 

 ずい、と更にフォークを差し出せば不承不承と言った様子で頷いた。

 食べ物を粗末にする気はないよ。

 

 もきゅもきゅと食べるエイプリル。

 

 リラとの思い出が想起される。

 リラの身体が着実に動かなくなっていって、食事すら満足に一人では摂れなくなって。

 

 それが視界と重なった。

 

 どうしてか満足そうにしているリラに真剣さを取り戻して欲しくて距離を置いてみれば、変な勘違いして謝ってきた。

 あの日々は辛くて苦しかったけど、同時に幸せだったんだ。

 リラと居ることが出来たから。

 

 コン、と机にグラスを置いた音。

 

「今くらい忘れればいいのに」

 

 アルコールが言葉を声にしてしまったのか。

 囁くような一言は、静かな室内ではかえって目立ってしまっていた。

 

「忘れたくないから忘れてないだけ。本当に忘れたくなったら忘れるんじゃないかな、きっと」

 

「今のは聞こえなかったことにするのが正解。さもないと怒らせるかもしれないよ」

 

 まだ随分と中身の残っているグラスが、荒々しく大きな音と共に立てられた。

 今日は少し失言が多いな。

 気が緩み過ぎている。

 

 

「信じてるから。ね?」

 

 

 エイプリルの言葉には抗いがたいほど強い圧が乗っていて、堪らずボクはぶんぶんと頭を振った。

 アルコールのほどよい酩酊感が頭に回る。

 

 今日もまた夜が更けていく。

 




危機契約楽しい
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