【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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九十三 信頼性エンジニア

 

 

 酔いが熱になって顔を暖める。

 それが少し鬱陶しくて冷やしたかった。

 そんな理由でボクは久しぶりの甲板に顔を出して月夜を眺めていた。

 

 エイプリルと飲むお酒は美味しかった。

 お腹の痛みはクラクラするほどのアルコールにかき消されてほとんど感じなかった。

 良い思い出になった。

 

 そんな折にこの人が来るとはツイてない。

 

「何か用ですか、クロージャ。今のボクはお金どころか財布すら持っていませんよ」

 

「あたしは別に守銭奴じゃないよ。何なら格安でサービスを提供してるくらいなんだから、人聞き悪いことはやめてほしいな?」

 

「はあ。そうですか」

 

 それなら何がしたいんだ。

 ドクター救出作戦の前からずっと、ボクが気不味そうに振る舞っていたのを分かってたから無駄な会話をせずに今までビスケットを渡してくれたんじゃないのか。

 

「月は見える?」

 

「ご自分で見上げてみたらいかがですか」

 

「塩だね。何か嫌なことでもあった?」

 

 揶揄い混じりに笑っている。

 その様子からは悪意が読み取れない。

 話すべきこともないのだから、その目的がどこにあるのかが分からない。

 

 感情の色は見えない。

 ボクが知っている悪感情ではないのか、それとも感情を持ち合わせていないのか。

 どちらでもいいか。

 ボクはため息を吐いた。

 

「帰るには早いんじゃない? 用件だって聞いてな……いや、それは聞いてたけど。答えてないじゃん」

 

「答えてないからそんなものはないって判断したんです。ないですよね、ないのでしょう。ですから帰らせていただきます」

 

「待った待った! ちょ〜大事な用件があるんだよ!それこそあたしが暇を見つけて購買部を離れるくらいには!」

 

 クロージャが何か喚いている。

 聞かなかったことにして屋上階のドアに手を伸ばせば、その腕が堅く掴まれた。

 決して痛みを与えるような強さではないのに不思議と動かない。

 

「ねえ。大事な話だからさ」

 

 視線は交わらない。

 それなのに異様なほど冷たい視線が、実態を伴って僕の体を縛り上げていた。

 

 怯えてしまいそうなほどだった。

 コーティングされていた感情は膨大且つ強烈だった。

 

 キレているだとか、怒っていると形容することは間違いだ。

 ただ素を見せただけ。

 被っている仮面を外しただけだった。

 顕になった顔が余りにも見せていた感情と乖離していて、それが本能的に恐ろしくなったんだ。

 

 冷視線はノブから手を離すまで続いた。

 ゆっくりと振り返れば普段と同じ笑みがそこにある。

 

 異質なものを感じ取ってしまったボクには、その笑みがどうにも深い意味を持つように思えてならなかった。

 

「そう急ぐつもりはなかったんだけど、そこまであたしと話すことが嫌ならさっさと済ませることにするよ」

 

 あの夜と同じようだった。

 トトン、と靴を弾ませてクロージャが離れる。

 濡羽色の髪が冷たい風に揺られて光る。

 反射した月光は目が眩むほどではないけれど、その黒を全く異なる色に見せた。

 

 不安が心に立ち込める。

 クロージャは完全なる未知だった。

 ロドスの過去を知る彼女とはかれこれ三年弱の付き合いになるだろうに、ボクは彼女を何も知らない。

 

「ドクターを……」

 

 口を止めて、首を振って。

 

「彼女を壊さないで」

 

 想定外ではなかった。

 彼女が未知だからこそ次に何を言おうと驚かないつもりで待っていたからだ。

 何人も人を殺している、なんて言われたって──ボクにそれを告げたこと自体には驚くだろうけど──動揺しないつもりだった。

 

 想定の範囲内にあった言葉で得心していたボクは、次の言葉でその余裕を打ち砕かれなければいけなかった。

 

「彼女は失敗する。彼女は醜態を晒して──着けている数多くの仮面を全て外してアビスくんに縋り付く」

 

 ボクの顔には、どうして、と文字が浮かんでいるはずだ。

 ドクターの能力に興味なんてカケラもなかったけど、信頼はしていたから、偽装が完璧でなかったことに驚いた。

 ありえるとしたらケルシーだと思っていた。

 接触する機会の少ない彼女が知っているのは本来ありえない状況のはずだった。

 

「どれだけ可能性が低かろうと、振り続けれてしまえばいつかは一の目が出る。それを彼女は分かってない。それに、彼女は自分自身の無知を知らない。驕り切ってる」

 

「待て。待って、ください。何を言ってるんですか、貴女は」

 

「一つ投げて一の目が出る確率は、十一投げてその全てで一の目が出ない確率と同じ。確率は収束するよ、きっとね」

 

 待ってくれよ、本当に。

 未だにドクターのことが露見していると知って混乱してるんだ。

 抽象的な話を畳み掛けてこないでくれ。

 

「具体的に、詳細に──何が起こると言うんですか? ドクターが失敗して、それが何を引き起こすと貴女は考えていますか?」

 

「最初に言った通りだよ。彼女は壊れる。失敗しないという失敗を積み重ねてしまった彼女に逃げる方法はないよ。同じように、あたしが彼女を救う方法だってどこを探したって見つからない」

 

 それらのどこが同じように、なんだよ。

 噛み砕いて説明することはいいけど、分かりにくくなってしまうまで細かく砕く必要なんてないだろう!

 

 まるでミキサーにかけられたスムージーみたいだ。

 どこを掬って飲んでも同じ味をしているけど、入れられた材料が多過ぎて、複雑過ぎて、そしてボクにとって未知過ぎていて、それが何の味と言えばいいのかわからない。

 ボクは研究所で働いた経験がないんだ。

 何を目指せと言う前に何をすればいいかしっかり指示してくれよ!

 

 それにこれは不得意分野だ。

 ボクは人を思いやることなんて出来ない。

 エイプリルと出会って分かったよ。

 ボクは言葉を選ぶ事ができなくって、人のために意見を曲げることが大嫌いで、つまりは頑固で偏屈で面倒臭いやつなんだって分かったんだ。

 

「ドクターやケルシーなら分かるけど、どうしてボクなんだよ。ドクターが壊れるなら、それがどんな形であってもケルシーに任せればいいはずだろう。ボクには到底不可能なんだよ」

 

「そうだね、ケルシーなら治せるかも! 追い詰められた彼女の心すら読めない、物知りで賢くて視野狭窄なケルシーなら治せるかもしれないね! 何回連続で六の目を出せばいいのかは全く想像も付かないけど!」

 

 クロージャがおどけてそう言った。

 ああ、どうしてボクがこの人の地雷を踏み抜いてしまったのか、今理解した。

 

 この人は感情を隠すことに長けている。

 

 それは商人の性なのか、それとも彼女自身の特徴なのかは知らない。

 そして押さえつけているのか、もしくはただ彼女の感情そのものが薄弱なのかも分からない。

 兎角、彼女の感情は見えないんだ。

 

 

「ところでさ。責任って言葉は知ってる?」

 

 

 薄く開かれた瞼の隙間から漏れている。

 昂ってどうしようもない怒りが知ってか知らずか薄く漏れてしまっている。

 恐怖ほどではないにしろ、怒りはボクにとって親友と呼べるほどに慣れたものだった。

 ボクが常日頃から抱えていた怒りはクロージャと同じくボク自身に向けられたもの。

 

 だから、分かったんだ。

 ボクに向けられた際限なき怒りを。

 

「責任、信頼。あたしは大事だと思うんだ、こういう言葉って。なんて言ったってあたしはロドスの信頼性エンジニアだからね!」

 

 否、だった。

 それは漏れてなんていなかった。

 ボクが気付くようにと促していたんだ。

 

 口にすることすら馬鹿馬鹿しい説教の言葉は、やはり笑えてしまって言えたものじゃない。

 だから直接的に告げることはしない。

 余りにも馬鹿馬鹿しくって、そんな現実に嫌気が刺して、ボクを害してしまいそうになる。

 そうなるのは嫌だったんだろう。

 

 何故なら、彼女の立場はロドスの『信頼』性エンジニアであり、それを背負っているから。

 

 ただ、それでも。

 

「ボクは望んで依存させたわけじゃない。今の状況を鬱陶しいとすら思ってるよ。そんなボクが責任なんて──」

 

「無関係な話で流さないでよ」

 

 ピリっと空気が弾けた。

 嫌だなー、あはは、なんて笑いながら言っている彼女の目にはとても楽しさなんて浮かんでない。

 

 ああ、やっぱり間違えた。

 今のは頷くべきだったんだ。

 「それでも」なんて言葉を返すことは許されていなかった。

 頑固で蒙昧な頭が嫌になってくる。

 

「可能な限りの配慮。ボクに責任があるとして、責任遂行能力は別の話だ、そうだろう? だからボクに出来ることはこれだけだと提示させてもらうよ」

 

 クロージャは目を瞑った。

 ボクはまた何かを間違えてしまっただろうか。

 胸中を埋め尽くす不安は遂に、遥か彼方、イベリアの南で広がる大海のように他の感情を駆逐する。

 

 しかし、ボクの不安とは裏腹に事態は好転した。

 彼女が再び開いた目の奥には、どれだけ分け入っても怒りなど見つけられそうになかった。

 

「それでいいよ。どうせならドクターの体に関する研究データが欲しいけど、そこまで求めるのは高望みってものだよね」

 

 笑っていい冗談なのかは分からなかった。

 一人分の笑い声だけが甲板を流れていった。

 

「おっと! 夜勤で眠くなる人があたしの購買部を尋ねる時間だ。それじゃあまたね、良い結果を期待してるよ」

 

 終始一貫して態度を崩さなかったクロージャがドアに手をかける。

 緊迫感が未だに残っている中、ボクにはどうしても聞かなければいけないことがあった。

 

「少しいいかな」

 

「ん〜? どうかしたの?」

 

「可能な限りと言ったけど、それは強請られてしまった場合、全ての要求を飲まなければいけないってこと?」

 

 首を傾げるクロージャ。

 ハテナマークが少しの間浮かんでいた。

 

 ようやく咀嚼を終えたクロージャの反応は劇的で、初めてボクは心からの笑いを見ることが出来た。

 

「あっははは! いいね、聞いてあげなよ! 可能な限りでね!」

 

 そう言ってクロージャは去っていった。

 どうやら明日からの業務は、随分と疲れることになるらしい。

 

 ボクは空を仰いだ。

 月が借り物の光で輝いていた。

 

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