【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
「本当にいいのか……?」
予想のど真ん中だ。
的中だとかそういう次元にない。
生きているものは全て死ぬといった法則のようなものと似通った何かだ。
ドクターは小さく袖を引いた。
どう見ても乗り気じゃないボクが引っ張られて、休憩室のベッドに倒れる。
責任を取るってことが何を指しているのか分からなかったわけじゃない。
だからこれはただの自罰だ。
今までほっぽり出していた罰を受けようという気になっただけ。
そうでないと、ボクはエイプリルに顔向けできないような気がしたから。
ただの自罰でただのエゴだ。
「な、なあ。何が狙いなんだ? お金ではないんだろう? 休暇を求めているのか?」
「何でもないよ。何度も応える気がないってことだけはあってるけど」
ドクターの綺麗な髪を梳く。
リラの髪が綺麗でよく触っていたから分かるんだ、どうすれば不快じゃないのかって。
昔を思い出して微笑むボクを見て、ドクターは思考を放り出して目を閉じた。
事の発端は業務中にまで遡る。
ああいや、誰もが予想する未来と全く同一の軌跡を辿っていたから、遡る必要なんてないのかもしれない。
「疲れた。結婚してくれ」
「ひょっとしてバカなのかな」
「朝から晩まで私の生活に付き添ってくれ。そして私の伴侶として愛してほしい。私は君を愛さないが、それ以外ならば何でも贈ることを約束しよう」
「ひょっとしなくてもバカなんだね」
ほとほと呆れる。
けど同時に、このまま実現不可能なことばかり言っているならどれだけ良いかと考える自分がいる。
クロージャの言葉は半ばふざけていただろうけど、責任を無視した自分への罰として捉えるなら、一度くらいは、と思ってしまった。
ボクだってエイプリルに散々言われて罪悪感くらい感じてるんだよ。
「それなら一緒に寝てくれよ」
「ああ、それならいいよ」
とは言えやりたくないのはやりたくないのでそのままぶっ飛んだことを言ってくれていれば良かったんだけど。
そうはいかないか、と思いつつ返す。
ドクターは一瞬手を止めた後、何でもないような様子を取り繕って、そして震えた声で言った。
「アビス、すまないが上手く聞き取れなかったみたいだ。もう一度言ってもらえるか?」
「それならいいよ」
『それならいいよ』
「録音しないでほしいんだけど」
「認識の入れ替え、もしくは聴覚を乗っ取るアーツか? 源石機器を用いていない以上は声そのものにかかっているとは言いがたい、となれば私かアビスが──いや、アビスだろう。アビスが既に何らかの術中にあり、それならば私を狙った内部犯か? アビスが受動的であれ私を害するわけがない、それならば命令だけを──それともナインが揶揄っている?」
どうやらボクが操られていると考えたらしい。
クロージャが裏で手を引いているから、その考えは九分九厘当たってる。
残りの一厘がボクの意思に当たる。
「ボクがただ受け入れたって可能性はないの?」
「今まで受け入れなかったアビスが突然対応を変えるならばそれに足る理由が必然的に生じているはずだ。そしてこの関係を知るのはナインだけで、ナインに頼まれたとて断るだろう。ならば別の人物が君を操っていると考えた方が合理的だ」
「じゃあ添い寝はナシでいいね」
「そうは言っていないだろう!? もし君が自身の考えでああ言ったのだとしても、証明は必要なんだ。安心してくれ、この音声データは四肢を捥がれようが決して手放さない、それくらいには重く捉えている」
「……もう面倒そうだからナシでいいよ。あとアーツで操られていた人を、操られていた時の言葉で脅すのはどうかしてると思う」
流石にその人の意思がないのに言質として扱うなんてことはしないだろうけど。
うぐっと呻いたこのドクターならほんの少しだけやりそうな気がしたから、一応ね。
「私自身の安全と君への信頼を天秤に取れと? そんな二者択一など私がどちらを選ぶかなど分かりきっていることだろう?」
そう思うならこの手を離してくれ。
ボクがナシって言い始めたあたりからずっと袖を引っ張ってるの自分で気付いてないのかな。
「あと、本当に操られてると思ってるならボクは秘書を明日以降辞めるけど」
「休憩室に行こうか」
その即断即決に苦笑する。
引っ張られて、椅子を立ち上がった。
ああ、今の発言は無責任じゃないよ。
ドクターならボクを取るって信頼があったから言えた、ただの冗談だから。
とまあそんなわけで。
現在ドクターは寝顔を晒している。
改めて眺めてみれば随分と整った顔だ。
可愛いと褒めるには些か綺麗に寄っていて、儚げといった風の感想が相応しいかもしれない。
愛嬌のあるラユーシャとは反対だ。
泣き顔がよく似合ってしまっていることは自覚した上でボクに縋っているんだろうか。
いや、絶対に自覚している事だろう。
どうせ計算通りのはずだ。
この人はそれでしか動けない人だから。
「……あびすぅ…………」
寝ているかどうかは喉を観察すれば分かる。
ボクの予想とは反対に、ドクターはしっかりと睡眠に入っているようだった。
リラが寝言でボクの名前を呼ぶ時は大抵寝ていなかったんだけどな。
無警戒に近付くと引き倒されて抱き枕にされてしまうんだ。
かわいかったな、リラは。
華奢な指がボクの服を引っ張る。
それはただ引っかかっていただけらしいけど、ボクは急かされたような気がした。
ドクターが望むことって何だろう。
頭でも撫でようかと手を伸ばして、ボクはそこで止まってしまった。
彼女は結局ボクに守ってもらいたいだけで好かれるというのはただのステップに過ぎない。
彼女を守れば喜ばれるんだろうけど、生憎ここは執務室に併設された休憩室という、指折りの安全地帯だ。
頭を抱えて唸った。
存外ボクは要求されていたことが少なかったらしい。
それなら、彼女が寝ている隙に仕事でも終わらせておけばいいのかもしれないけど、それでも機密書類はいかに秘書と言えど処理できない。
「ドクター。君は何を求めてる?」
小声で聞いた。
返事は当然ながらない。
「──壊れる、か」
思い出したのは昨夜のこと。
迂闊に触れると割れてしまいそうな感覚はあっても、彼女自身が壊れるという事態は想像できない。
彼女は『ドクター』の脳を持つ。
軽挙妄動を慎むだけの自制心がある。
ストレス耐性だって相当なものだ。
物理的な観点で見たとして、安全区画で生活するロドスの重役であり特別な日でなければ不可視の護衛が付いている。
第三者が害する可能性は低いと見ていい。
それならばあの発言か。
『彼女は失敗する』
『失敗しないという失敗を積み重ねて』
確かに、今までストレスこそ受けていても失敗の経験はないと見ていいと思う。
作戦はいつも大成功でケアレスミスなんて起こしたことがない。
彼女は戦術指揮官として何者にも劣らないだけの能力を持っている。
彼女は誰とでも打ち解けることができる仮面を作ることができる。
彼女は人身掌握術に長けていて、観察力やその他知略にかけてはかなりのものだ。
失敗しない失敗という発言は頷ける。
誰もが失敗して、それを糧に成長しているのだ。
逆説的に失敗しない者は成長せず、既に完成されているのだと見ることができる。
事実彼女の指揮は半ば完全だ。
そして彼女は自身の指揮を反省しない。
各オペレーターの能力を正確に把握し、作戦記録を適切に振り分けていて、頭打ちになった者には昇進という飴を与えるか、限界だと見限るか。
ミスが発生しない故に彼女は指揮を反省しない。
その必要がない。
──とにかく。
失敗しないことがその人の成長機会を奪い、慢心を形作るということには賛成だ。
ただ、問題がある。
彼女が失敗するビジョンが浮かばないんだ。
彼女が積み重ねてきた成功は目を疑うほどの難易度で、それに相応しいだけの砕心があったはずだ。
目覚めてからずっと続けてきた偽装は完璧。
彼女は失敗の経験がない。
いざ失敗した時に壊れてしまいそうだ。
その意見はごもっともだろう。
だけどそれは彼女が大事な場面で一つ以上のミスをすると確信しているからこそリスクに繋がっているものだ。
今現在一番彼女に近いボクをして、彼女が失敗をするとは──やはり全く思えなかった。
「クロージャには何が見えてるんだ……」
あの変人の言うことは適当に流せばいい。
そう思う自分は確かに存在する。
ただ、彼女は変人だけど天才だ。
もしかするとその変人性は天才的頭脳から生まれたものかもしれない。
そんな考えすら顔を出しているが、ボクはそれを否定することが出来ない。
ドクターに悟られないままにこの関係を看破してしまえるクロージャを低く見積もる気にはなれなかった。
クロージャが頭の中で笑っている。
クロージャは何を笑っているんだろうか。
ぐるぐると思考が渦を巻いて溶けていく。
答え合わせが出来ない問いについてあまり考え込んでも仕方がないとは分かっているけど。
そんな中で意識すら希薄になっていく。
気持ちの良い風が窓から入ってきた。
涼やかな気温とちょうどいい抱き枕を見つけたボクは、うっすら見えていた視界をとうとう闇に閉ざした。
暖かな海の上に浮いているような感覚が、少し経ってから変化した。
私の体が海の中に沈んでいったのだ。
普段ならば身の危険を察して一刻も早く陸地へ帰ろうと泳ぎ出していたことだろう。
しかし、そうしなかった。
私に恐怖はなかったからだ。
その海が伝える、噂に聞く家族のような暖かさは私にとってはむしろ歓迎したい類のものであった。
この安堵を迎えられるのなら私は何を放り出したっていい。
吸血鬼に魂を売り渡したとて構わない。
危険と共に生きなければ生を実感出来やしないほどの鈍感さを生憎と持ち合わせていないのだ。
何も考えずに暖かい海を揺らめいていることが私の本当に求めていたことであって──。
何かが違う。
水温が下がっていた。
海の暖かさはとうに姿を消していた。
燦然と輝いていた太陽が蜃気楼に揺られてかき消えた。
何故だ、どうしてなんだ。
安堵の代わりに不安が生まれる。
そうなれば一直線に下がり落ちてしまう。
この世界は夢の中に存在していた。
だから私は本来ありえない選択肢すら目の前に浮かばせることができる。
立ち込めて前が見えなくなるほどの不安を晴らしたのは、焼き尽くす炎で視界の全てを赤に変えてしまうような憤怒。
私から彼を奪ったのは一体誰だ。
居心地が良かったはずの世界は一瞬にして文字通りの冷遇を見せ、私はそれを認められやしなかった。
意識を無理矢理に離脱させる。
切り離した意識が浮上していくと、自分を剥離させていく感覚に似た何かが私の胸中を埋めた。
「許さない」と。
そう心に刻み込んだ私は瞼を開いた。
目に入ってくるのは──彼のような顔をした別人だった。
彼ではない誰かが私の目を覗き込んでいた。
「ああ、起きたんだ」
細かなイントネーションの違いが私の感覚を正しいと言ってのけた。
「私と彼の邪魔をしないでもらえるか」
「分かるんだね。それで邪魔、か」
ふうん、と彼女は言った。
水を飲んでいたらしい、コップをテーブルに置いて私が居るベッドに近付く。
見るからに不機嫌そうで何をやらかすか見当もつかない。
普段ならば胡麻を擂ってでも落ち着かせようとしていたが、今日に限っては違う。
私は怒りに燃えていた。
夢と現実が地続きのように思えていたからだ。
確定ではないのだが、事実として彼がそうなったから私の安眠が妨害されたのだ。
それに前回顔を合わせた時、彼女が私のことを害さなかったために調子に乗っていた。
だからそれを咎められたのだ。
「邪魔してるのはそっちでしょ」
いつのまにか吸った息が口より先に進めなくなっていた。
弱体化しているとは言え鍛えられたヴイーヴルの青年であるからして、脆弱で華奢な私程度片手一本で空中に吊り上げることができた。
「アビスに何度も求婚してバカじゃないの? 権力で縛り付けることしかアビスと接する手段がないなんて可哀想だと思うけどさ。それでも、こういうことするのは違うよね?」
「ぁ……な、せ……っ」
「今までならまだ許せたよ。仕事に付き合わせるとか、縋りついて泣き喚くとか、滑稽なくらいだった。子供みたいに、そばにいてくれって言うのは不快だったけど許せないほどじゃなかった」
息が出来ないことはどうでもいい。
この存在はアビスのことを決して軽視なんてしていないから、私に手を挙げる可能性は低い。
アビスが多少なりとも愛着を持っている私という存在を害することはない。
私は殺されない。
私を人を縛ることが得意だ。
そして人を縛ることで一時の安全を確保することができる。
だが私は人を縛り付けることは好まない。
その縛りが解けてしまった時、私の首が容易く落ちてしまうだろうと理解出来るからだ。
飼い犬に手を噛まれた時、その飼い犬が虎であったのなら。
そう思うと私は一時の安全などどのような意味があるのだろうかと思わずにはいられなかった。
とは言えこのような状況下では有効だ。
明確な敵意、もしかすると殺意さえ持たれていると言うのに私は殺されることがない。
首を締め上げられながらも睨み続ける私の顔を眺めて彼女はため息をついた。
「何言っても無駄か」
予想の通りに彼──彼女か?──は動いた。
舌打ちと共に投げ捨てられた体が床に打ち付けられ、小さな痛みを発している。
単純な行動原理は短絡的なバカでない限りはずっと読みやすい。
原理を覆い隠すために行動を複雑化して意図を読ませない──彼にはそのような頭が足りていない。
身体的な優位は意味を成さない。
言うなれば、彼女は私の遥か格下だ。
「私が、羨ましいか。彼と長い時間を共にして、それが許されている私のことが」
私の問いに動きが止まる。
ふむ、この反応はどのパターンだ?
瞬きや呼吸に関してはずっと不自然な挙動をしているために参考にならないのだが、それ以外から読み取れる情報はそれなりに多い。
視線の動きからして──嘲りか?
「面白いこと言うよね、
「……」
「
皮肉と分かっていても不愉快だった。
先ほどから余裕だった私のペースを崩したことが余程嬉しかったのか、声が喜悦に塗れている。
ああ、不快だ。
「そうだな、私は幸運そのものだろう。私がこうでなかったとしたら、いや、こうであったとしても──彼の隣に居たいなどと思える未来は、無数にある可能性のうちほんの僅かしかなかっただろうから」
「偶然だけで手にした今をそんなにありがたがってるだなんてね。少しは借り物じゃない自分の力で頑張ってみなよ」
「偶然だろうとそうでなかろうとどうでもいい。彼の隣を絶対的な安息の地だと思えている今がどれほどまでにありがたいものか、私は分かっているつもりだ」
彼が私にどれだけ興味がなかったとしても。
どんなに過去が彼を縛っていたとしても。
私は彼を見捨てない。
彼のことを絶対に諦めない。
私が
利用価値の高い立場に就いた有能な人間を見る目に色眼鏡がない人間などこの世にはいない。
居たとして、食い物にされるだけだろう。
そもそもそんな人間は奇妙過ぎて心の底から信じることが出来ない。
『ドクター』という存在に興味がないほど内向的で、人を救っても見返りを欲さない傲慢さ、更には私の仮面を剥がして奥底を読み取るだけの観察眼。
最低条件がこれだ。
二人目など到底無理な話だろう。
私の彼に対する姿勢は背水だ。
彼を失ってしまった私はもはや『ドクター』という人物に押しつぶされてしまうだろう。
性別などを含めた私の真実は、どれだけ鍵をかけてもいつかは人に見られてしまうのだ。
まだ見ぬ未来に怯えて生きるのは御免だ。
私が込めた感情をどれだけ正確に感じ取ったのかはわからないが、彼女は極めて不機嫌な様子だった。
「私を殺せないのだろう? 私を害せないのだろう? それならば私は遠慮なく彼の隣に居座ることにしよう。私は断言する──過去が現在より優先される道理などどこにもない」
彼女が目を見開いて手を振り上げた。
しかしそれが私の方へと下されることはない。
「お前にだけは渡さない」
平坦な声だった。
外見通りの中身であったのなら泣いて縋り付く必要が生じるくらいには起伏のない声だった。
彼の体が倒れ込んだ。
咄嗟に私が下敷きになる。
啖呵を切りはしたが、アレの存在を早期に彼が自覚することは私から見ても避けたい。
アレが何か問題を起こした時がベストなタイミングで、それは断じて今ではない。
だからこの状況で彼が起きて疑念を持つようなことは回避しておきたい。
どうにかして彼をベッドに寝かせた。
すやすやと眠りこけている彼の顔は幸せそうだ。
……疑念を持たせたくないのは、そうだ。
だがそれだけが目的ではない。
彼との昼寝をもう少し堪能していたいというのも、偽らざる本音であることは確かなのだった。