【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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九十五 猫医者抵抗作戦-フェイズ3

 

 

 凶器になりそうなほど硬いビスケットを噛み砕いて暖かな紅茶で流し込んだ。

 芳醇な香りに頬を緩める。

 

 紅茶は誰が淹れるかで全くの別物となる。

 たとえばドクターが技術の粋を集めて淹れたこの紅茶はボクが淹れたものより何千倍も香り高くて、体の奥へと染み渡っていくような素晴らしいものだ。

 

「上等だとは思うけどよ」

 

 ナインは妙な顔でそう言った。

 何か変なことでもあったのかな。

 

「どうして褒められてるドクターが地面に頭を擦りつけてんだ。ひょっとするとオレのせいか?」

 

「あはは、ナインは気にしなくていいよ。調子に乗って距離が近くなったから『金輪際触るな』って言ったらこうなっただけだから」

 

「……許してやれよ」

 

「ナインがそう言うなら。ドクター、顔上げてよ。うざったくて鬱陶しくてストレスだったけど、別に怒ってないから」

 

「許してやれって」

 

 突っ伏して震えているドクターはそれでも顔を上げなかった。

 床を舐める趣味でもあるのかな。

 

「それで、ナインはどうしてここに?」

 

 昼下がりの執務室。

 特段用もなく訪れてはドクターと話をするオペレーターは多いけど、ナインがそうした目的で足を運んだ記憶はない。

 まだ秘書になって一週間だからサンプルは少ないけど。

 

「オレはドクターに呼ばれて来たんだよ。そうじゃねえなら恨みを買うようなことをする気はねえからな」

 

「恨みを買う?」

 

「そこのドクターが恨むだろうが。女のそういう逆恨みはどんな場所でも面倒極まりねえからな……」

 

 レユニオン時代に何かあったんだろう、ナインはいやに擦り切れた表情で苦々しそうに言った。

 

 だけど恨みを買うという表現は不適切だ。

 ドクターは自分の状況の理不尽さを嘆いて、また他人に怯えているだけであって、オペレーターに怒っているわけではないからだ。

 この人の仮面は分厚くて、どんなに楽しそうな雰囲気であっても恐怖以外の感情を覚えている場面なんてそう見たことがない。

 

 余りにも恐怖が強すぎると感じた時にはどうにか話を遮ったりしているけど、そんな時でさえ仮面には一つのヒビすら入っていないんだ。

 彼女は恨みから程遠いし、万一持ったとして漏らすことはきっとないだろう。

 人に恨みをぶつけることはドクターの不利益になる可能性が高いから。

 

 そんなことを話しているうちにドクターが起き上がった。

 

「なあ、私に失望したか?」

 

「期待してないんだから失望だってあるわけないだろう。分かってて言ってるよね、ドクター?」

 

「それでこそだよ。私のアビス」

 

 ドクターが伸ばした手を払う。

 軽率に触ってくるのは不愉快だよ。

 許したとしても変わらない。

 

「受け入れては否定して、怯えては試して。なんつーか面倒なヤツらだな。オレもだけどよ」

 

「人は大体そんなものだと思うよ。あのエイプリルだってよく分からない部分に怒ってることがあるから。最近なんてシーが化粧しないことに怒ってたよ」

 

「あぁ、それもまた面倒そうだな……」

 

「明日足を運んでみようかな。シーの顔にはどんなに風光明媚な山川草木が顔に描かれていることだろう! 感動の嵐が口から吹き出しそうだよ」

 

 ナインは想像してぶるりと体を震わせた。

 どれだけテロリストの身に堕ちて人を殺していても、まだまだ化け物を怖がる年齢だ。 

 

「本題に入っていいか」

 

 ナインがドクターに顔を向ける。

 ボクにスキンシップを拒まれて意気消沈しているドクターにとってそれは救いとなったのか、気を取り直して姿勢を正した。

 

「ナイン、君にはいくつもの選択肢がある。それを変える権利は私たちが持っているはずもなく、これはただの提案だ。それを踏まえて──オペレーターにならないか?」

 

「その話か」

 

「まあ待ってくれ。君のアーツは潜入、政治、作戦、全ての対外活動において著しく強力だ。更にはその存在すら気取られていない上に、亡灵(アンデッド)という肩書きがいざという時の影武者となる」

 

「分かってる、オレとドクターが組めば相当な利益になるだろうってことはよ。そんで、それを考えるのはまだ先の話だって言ってんだろうが」

 

「話は最後まで聞くんだ。私は何としてでも君をオペレーターにしたいと思っている。いや、未来の私は確実に君をオペレーターにするだろう。だからその事前研修を終えておきたい」

 

 ドクターがここまで人を買うとは。

 ああ、いや、ドクターはオペレーターの強さに、怯えると同時に認めていたような。

 それでも、この文句は相当な価値をナインの中に見出しているみたいだ。

 

「そうか、そんなにか……」

 

 照れくさそうなナインのはにかみ顔はとてもかわいい。

 煽てられて、ということでもないだろうけどナインはようやく拒絶一辺倒をやめたみたいだった。

 

「事前研修の内容は? 演習でもやんのか?」

 

「いいや、秘書を体験してもらうだけだ。君のアーツはジョーカーとなるからな。ロドスの中においてすら、君のアーツが知られるのは避けたい」

 

 デスクを見ると処理を終えていない紙束がそれなりの高さで積み上がっていた。

 今朝言っていたのはそういうことだったのか。

 気の置けない会話がしたいと言っていたから、仕事の時間を引き伸ばしたいわけじゃないだろうと思っていたけどまさかナインに手伝わせるつもりだったとは。

 

「受けてくれるか?」

 

「そりゃ構わねえよ。オレはロドスに乗せてもらってる立場なんだから、研修なんて銘打つまでもなく手伝う。ただ、一つだけ言っておくがオレにそこの化け物みてえな仕事の速さを求めるのは馬鹿だからな」

 

「分かっている。こんな化け物が三人も居るなんて考えたくないさ」

 

 化け物化け物と連呼しながら二人の視線がボクを貫く。

 百歩譲ってナインはいいとしてもドクターは同類のはずだろう、どうしてそっち側なんだ。

 

「二人とも明日のご飯はパンだけだよ」

 

「別に要らねえって言ってんだろ」

 

「手早く済ませられるのであれば特には」

 

 ……味には自信あったんだけどな。

 

「ああ、それと。午後からアビスには別の仕事が入っている。詳しくは聞いていないが人事の方で何か問題が起きたらしいから、上手いことまとめて、終わり次第帰って来てくれ」

 

「分かったよ」

 

 あちこち行って回ることはそう珍しくない。

 特に何の感慨も抱かず指示に頷けば、ドクターはナインと話の続きに戻っていった。

 

 その覆面の下にどんな顔があったのか。

 軋んだ歯の音はその一切が漏れることなく、ボクはドクターの感情を読み取ることができなかった。

 

 

 事務室へと向かう道の途中。

 立ちはだかる影を見て、ボクは鬱屈した感情を心の奥底から追いやろうと精一杯大きくため息をついた。

 

 果たしてそれは無駄だった。

 それどころか、そんなことをしているうちにその影がボクの方へと近づいてきた。

 

「一般性という言葉は利便性に富んでいる。国家は一般的な国民を善良かつ正義であるものと規定して、悪感情の統制が効かない者を未熟者、もしくは悪人として規定している。ロドスの全職員に適用されている採用契約という法律もまた、その例に倣っている」

 

「それが何?」

 

 苛立ちは隠さなかった。

 この人は意図して長話にしているのか、それとも要約をするだけの能力がないのか。

 絶対に前者だ。

 ただの嫌がらせに決まってる。

 

「しかしながらその裏面にはいくつかのデメリットが存在している。国家は第一に善性ある国民を優遇することになるのだろうが、それ故に天秤の下へと落ちてしまうことが最たる例だ。国家は最善で最良の選択肢を選んだばかりに、過去を否定し、未来を狭めてしまう」

 

 何が言いたいのか理解ができない。

 

「嘘も方便ということだ」

 

 気取った雰囲気で適当なことを吐かすケルシーに腹が立つ。

 今この状況でそれを言うってことは、ボクがこうして執務室に外に出たことが目的であって、人事の問題なんて最初からなかったってことだろう。

 

 一歩背後に下がって睨みつける。

 ケルシーを前にして警戒を絶やすことはない。

 

 それなのにボクは一瞬の虚を突かれて腕を掴まれてしまった。

 全く、ふざけた技量だよ。

 

「離して。人事の話が嘘ならボクは今すぐに執務室に戻ってナインの助けになりたいんだ」

 

「許可は下りている。自分の発言をまさか忘れたのではないだろう、その嘘はあくまで執務室からお前を出すための嘘だ」

 

「……あの人が許可を?」

 

 不意を突かれて呆然としてしまう。

 引っ張られるままに足が医療区画の方を向く。

 

 許可というのは先日ボクがケルシーに提示した、ドクターと話をつけたら診察に付き合ってやってもいい、という話のことだろう。

 その許可が下りた、だって?

 

 ボクが心の底から拒否していたことにドクターが許可を出すなんてことはありえない。

 あの人はボクに嫌われることを一番に避ける。

 どれだけ頼まれたって断っているはずだ。

 生半可な圧では従わせられないだろう。

 

 それが、どうしてこんなことに。

 あの人の感情を読み違えたはずはない。

 ボクに気を許していたあの姿が演技だとするのは、不可能ではないが、不自然だ。

 演じるならばもっと他のやり方だった方がボクの好感度は稼げるだろうから。

 それともボクはすぐに死ぬだろうと見切りをつけていて、ナインを抱き込むために仮面を外しやすい下地を作ったのか?

 だったらどうしてボクを売るような真似を?

 

「Wが何をしているか知っているか?」

 

 突然、ケルシーがそう言った。

 

「残念だけどボクはWのことなんか何も知らないよ。あの人の考えていることは、よく分からないから」

 

「私が彼に話を通すことが出来たのは彼女によるものが大きい。彼女がラーヤに何やら吹き込んでいるようだったのを確認した彼は、私がその輪に入ることを警戒していたようだった」

 

 へえ、あのWがラユーシャに。

 何を吹き込んだのかは分からないけど、どうせロクなことではないだろう。

 負け犬やらクソガキやら呼び合っていた仲が何の意図もなく修復されるとは思わない。

 

 ケルシーのことは嫌いだ。

 だけど、ケルシーだけに責任があるわけでもないみたいだ。

 ラユーシャはボクの大切な人だから手を出されるとちょっとだけじゃなく腹が立つ。

 

 何がしたいのか、少なくともこれだけは絶対に問い詰めてやらないと気が済まない。

 

「懐疑は氷解したか」

 

「ああ、うん。一応はありがとうって言っておくよ。Wとは一度話す必要がありそうだ」

 

「そうか。それなら、いい」

 

 ケルシーは顔を歪めてそう言った。

 感情の色はよく見えなかった。

 

 

「ありがとう、か」

 

 

 

 

 

 

 

 今頃は上手くやっているだろうか。

 未来のオペレーターの作業を眺めながら私はそんなことを考えていた。

 

 ナインが拙いながらもロドスのデータベースから支出データの一部をサルベージして照らし合わせている。

 ハンコを押すだけの書類もいくつかあるのだが、それでは研修にならないだろう。

 厄介な事案にこそ当たってみての研修だ。

 

 それはそうと、アビスの話だ。

 ケルシーには使いやすいだろう方便を教えておいた。

 デフラグレートとWが接触しているのは確かな事実で、Wから接近したということも事実。

 嘘であるのは私が警戒したという一点のみ。

 

 Wのことは大体把握している。

 私はアビスと違って感覚的でない観察を主に据えて人を見ているのだから、アビスのことを話すその目に悪感情が写っていないことなどすぐに分かった。

 そしてWはそれを告げる気がない。

 

 それならば嫌われ役は押し付けてしまおう。

 短期的に見ればケルシーだけでも良かったんだが、あまり負荷をかけすぎてケルシーが壊れてしまえば私にとって大きな損失が出る。

 

 忙殺されて現状に窮しているWならデフラグレートに声をかけてくれるだろうと思っていた。

 念の為に勘違いさせるようなことを言った。

 アビスをそれなりの頻度で診察室に通わせられるようになったケルシーが爆発することもないだろう。

 

 全ては私の思い通りだ。

 筋書きに従って物語は進んでいる。

 

 しかし、何故だろうか。

 胸の奥に黒い靄が満ちているような気がする。

 何かを見落としているような──そんなことがあるはずもないのに、どうしてか私の頭はその可能性を隅の方に追いやることが出来なかった。

 

 

「……気のせい、だろう」

 

 

 ドクターは小さく呟いた。

 それが窮地への第一歩であることも知らずに。

 

 

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