【仮題】感情トランスポーター   作:Gensigert

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九十七 抵抗作戦対応指針-フェイズ1

 

 

 アビスが目を開く。

 アラームの音が遅れて鳴り出して、気怠い心情を隠そうともしない動作で起き上がった。

 欠伸をしながら寝床に侵入者(ライサ)が居ないことを確かめるとキッチンへと向かう。

 作るのはまだ眠っているナインの朝食だ。

 

 少し経てばナインは起きてくる。

 いつもいつもベッドから転がり落ちるように起床するのはどうかと思うのだが、アビスがその理由を探ったことはない。

 

 過去はその人だけのものだ。

 レユニオンに所属していたその過去をアビスは知らないし、知るべきではないと思っている。

 どんなに辛い過去であったとしても、本当の意味で共有出来ない限り、話すことはそれ以上の価値を持たない。

 誰かに話すことで楽になるとは言うが──そうであったとして、果たしてナインは楽になりたいと思っているのだろうか?

 

 

 彼は人の感情が分からない。

 彼にとって両親以外で初めて出会った好意的な他者はリラであり、彼女は感情をそのままに伝えるタイプだった。

 彼が好いてくれていると確信しているのはその三人と僅か二人の友人、そしてカッターだけだろう。

 

 他者からの好意を素直に受け取ることができない性質はドクターに限って言えば正解なのだろう。

 彼女は好意など抱いていない。

 敢えて悪く言うのなら、彼女は利用価値でしか人を判断出来ない人間だった。

 その中で価値が高いと思われているだけで好意などとは全く違う感情を覚えていることだろう。

 

 ライサに限ってしまえば節穴だ。

 馬鹿にも程がある。

 

 それがナインならどうだろうか?

 彼やリラと同じリンドヴルム孤児院に生まれ育った彼女の感情を読み取ることは可能だろうか。

 答えは否であり是であろう。

 その観察眼は壊滅的としか言えないが、しかし根底からその思考回路が捻じ曲がっているのではない。

 故に彼自身の経験と重なる部分は──言い換えれば彼とナインの共通点が作る思考は不気味なほどに同一だ。

 

 ナインはアビスと同様に過去を現在より重んじている。

 リンドヴルム孤児院に大切な人を残し、また遺され、このロドスという船に辿り着いた。

 些細な違いがあるにせよ二人は同郷の徒であり、同悲の徒であり、その点に限って言えば彼は他の誰よりも理解していると言えるだろう。

 

 

 着替えを済ませて端末を操作する。

 肺の傷がまだ深いナインに気を配りながら画面をスクロールして──アビスは怪訝な顔をした。

 

「何かあったのか?」

 

「ああ、うん。今日から秘書をやらなくてもいいんだってさ。ナインは前と同じように教育プログラムを受けてきて」

 

「へぇ。まさかアイツが失敗(しくじ)るとはな」

 

「何か意図があるものかもしれないけど、いややっぱり考えにくいか。どうなんだろう」

 

 ドクターはアビスを第一に考えて行動している。

 そしてアビスの価値は隣に居なければ無いと同じことであり、一時的でさえ隔離されることを嫌がっていた。

 

 ドクターが何か間違える可能性があるのは、と頭を巡らせると、引っかかったのは黒髪のサルカズと白髪のフェリーンだった。

 予定がなくなったついでにビスケットのストックを補充しようかと考える。

 

 だがその時面倒なものが彼の視界に入った。

 

「ああ、ごめん。ナイン、やっぱり教官の下には行かなくていいみたいだよ。その代わりに面倒で仕方ない人の相手をする必要があるみたいだけど」

 

「オレはあの人嫌いじゃねえよ」

 

「やめた方がいい」

 

「即答してやるなよ……」

 

「絶対にやめた方がいい」

 

「おう、わかった。分かったから一旦座っとけ」

 

 ナインは彼の頭がそれほど優れているわけでもないと知っていた。

 頑固で内向的で、身内に対してはキッチンカーで販売されているクレープのように吐くほど甘いのだが、対立者には容赦なく敵意を向けると知っていた。

 

 彼のそういうところが好きだった。

 『オレ』だって『私』だって好きだった。

 

 心根が弱いナインに彼の人生を左右することは恐らく出来ないのだろう。

 それでも、彼が自らを救って自分と共に歩いてくれることを願うことだけは止められなかった。

 彼女は最も彼と近い存在ながら、致命的な部分で彼とは違ってしまっているのだ。

 

 そこまでわかっていても特段何かを起こせるわけでもない彼女はやはり弱いのだろう。

 

 

 

 重い重いため息が出てしまった。

 いけないなと自戒して、アビスは気を使うような顔で窺ってきたナインの髪をくしゃくしゃにする。

 

 診察室の静寂が破られる。

 

「来たか。そこの椅子にかけてくれ」

 

 面倒くささがぶり返したようで、苦虫を噛み潰したような顔でケルシーと相対する。

 往生際の悪いアビスを小突きながらナインがそれに倣ってスツールへと腰掛ける。

 

「さて、調子はどうだ?」

 

「ボクは特に。ああいや、昨日包丁で指が切れたんだ。強度が他の人と同じくらいにまで落ちてるんだと思う。今まではなかったことだから」

 

「オレは少し辛い。息切れするような運動を控えてはいるが、それでもふとした瞬間に刺すような痛みがある」

 

「アビスの方は特段想定外でもないが、君は中々予測がつかない症状のようだな。新しい薬の用意はできている。少々高価だが使ってみるか?」

 

 ナインはアビスに目で聞いた。

 彼は何も言わず頭をポンポン叩く。

 

 嬉しくなってしまう自分が少し嫌だった。

 

「頼む」

 

 ケルシーはそれが分かっていたかのように、用意されていた薬袋をナインに手渡して用法などの説明を行う。

 

 一方アビスはしっかり者のナインにケルシーを任せて部屋の中に目を走らせていた。

 きっちり整頓されたファイルや布がかけられている機材、インスタントコーヒーの粉末が入っている瓶などなど。

 仕事以外の物品が排斥された正にケルシーの診察室だった。

 

「珍しい物は見つけたか?」

 

 ケルシーが尋ねる。

 

「そんなもの置いてないくせに。分かりきったこと聞くのは相変わらず得意だね」

 

「会話を拒絶する癖のあるお前のことだ、貴重な会話の種を拾わずにはいられないだろう。なあ、ナイン。君もそう思わないか?」

 

「癖とは、別に思わねえけど。ケルシー先生くらいじゃねえか?」

 

「そう、なのか?」

 

 少しショックを受けたようにケルシーが言う。

 アビスは交友関係こそ狭いがコミュニケーションを拒むのはケルシーくらいだ。少し前に怒られていたアーミヤに関しても拒んでいる意識はなかったのだ。

 

「用は何?」

 

 集中する視線に悪いことをしているような気分になったアビスが話を正しい流れに乗せる。

 気を取り直して、ケルシーは指を四つ立てた。

 

「まずは今渡した薬に関して一つ。次に秘書当番に関して一つ。そしてカッターのことで一つ。最後にナイン、君の所属について一つだ」

 

「多いね。外の空気吸ってきていい?」

 

「この部屋を出たところで室内であることに変わりないだろう。大人しく聞いてくれ」

 

「ああ、分かってるよ。言ってみただけ」

 

 アビスは心の底から長話にうんざりしていた。いや、この言い方は語弊を招くだろう。彼は()()()()()長話にうんざりしていた。

 それを分かっていながらケルシーは無視している。そういうところだろう。

 

「それではまず一つ目だ。アビス、お前には今後秘書としての業務を免除する。元々ドクターの裁量が介在していたものから完全なローテーション制とすることになり、そのローテーションにお前は含まれない」

 

 アビスは驚いた。ドクターのことだからそのあたりには根回しや印象の管理が済んでいると思っていたばかりに、予測の外だった。

 ケルシーを読み違えたか。ドクターのことは可哀想だと思うが、助けてやろうなどとは思わない。助けるための手を差し出せば一生離さないだろうことは十分に分からされていた。

 

 それともこの動きまで含めてドクターの策略か何かなのだろうか。それはないだろうと思いつつ、あの天才的なドクターなら、と可能性を捨てきれない自分がいた。

 

「ドクターが何言っても断っていい?」

 

「ああ。一刀両断してくれて構わない。それほどの執着を見せるとも思えないが」

 

「……ドクターが、だよ?」

 

「勿論その話だろう。彼はお前にいくらかの打診こそすれどそれきりだろう。特段深い仲でもない上に利用価値がお前自身にあるわけでもないのだからな」

 

「あはは、まあそんなものだよね」

 

 どうやらこの状況はドクターの思い通りらしい。自分をまさか遠ざけるとは思っていなかったが、ケルシーの大きすぎる見落としを思えば失敗しているのがどちらかなど明らかなことだ。

 そう言えばと、以前ケルシーが執務室を訪れた時にドクターは仮面を付けているように装っていたことを思い出した。あの時のままわざわざ伝えていないのだから作戦通りのはずだ。

 

「次はカッターのことだな。お前が使っていた宿舎は四人が上限であるにもかからず現在お前とナインしか使用していない。カッターの許可が取れたからには居住をそこに移させるつもりだ。異論はあるか?」

 

「調理設備が壊れてないから無理」

 

「……異論はないようで安心した。これは完全に独り言だが、味覚に異常を来してしまった場合には倉庫の積み下ろしという長期任務を用意することも可能だ。何かあれば私に連絡するといい」

 

「はいはい、分かったよ。正直一次予防に力割いて欲しかったけど、なんとかボクの方で手綱を持ってみる」

 

「何ならお前が振る舞ってもいいのだろう? 私は口にしたことなどないが、お前が料理を得意としていることは音に聞いている」

 

 アビスは一つ苦い顔をした。

 

「遠回しな催促のつもりならお断りだよ。ボクは人に食べさせるため腕を磨いてるわけじゃない」

 

「残念だな」

 

「作らなくていいって言ってんのにいつも朝飯作ってんのはどこの誰だよ」

 

「そう言いながら綺麗に食べてくれるのはどこの誰かな」

 

 ナインがぷいっと顔を背ける。トゲトゲしい態度が即ち照れ隠しであることにアビスは気付いていた。

 それはケルシーに対するアビスの態度にも言えることではあるのだが、生憎とそれは彼自身の自覚すらなかった。

 

「最後にナイン、君のことだ。回りくどい言い方を取り払うのであれば『S.W.E.E.P.』への加入を推奨する。観察と諜報などを務める裏方の部門だ」

 

「そんな部門があるなら確かにオレは適任だろうな。けどよ、オレはまだオペレーターになるなんて言った覚えはない。ケルシー先生が何考えてるのかは知らねえが従う義務もねえだろ」

 

 ナインは毅然とした態度を崩さなかった。

 それが予想通りであったのかはともかくとして、ケルシーは表情をピクリとも変えず口を開く。

 

「ナイン、君には価値がある。いや、訂正しよう。君のアーツには価値があり、それを手元に置くことができるならば多大なるアドバンテージになる。だがこれは裏を返せば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということでもある」

 

「分かってる。それがどうした」

 

「君はドクターから勧誘を受けなかったか?」

 

 頭の中で言いたいことの像が結ばれる。

 他の者を警戒しているから手に入れたいんだという発言と、ドクターが狙っているのではないかという発言。

 

 アビスへの態度からうんざりするほどイメージを壊されていたナインにはその言葉も納得がいくものだった。

 あのドクターならばやりかねないと。

 

「ドクターがそのようなことを考える輩に見えないのは分かっている。しかし君が見ている彼はただの一面に過ぎず、事態はそう易々と彼を信じさせてはくれないのだ」

 

 分かっている。分かっていた──が、ナインは口を噤んだ。ドクターの計画を狂わせてしまえばどんな報復が下されるのか全く予想がつかなかったからだ。

 勿論ナインという存在は貴重だが、アビスに優越するほどの価値は残念ながら持っていない。ドクターは平然と焼刃を向けるかもしれない。

 

 そう考えればケルシーの言葉に反駁する選択肢など存在していなかった。

 

「要するにオレがドクターの勧誘を断っておけばいいんだな? それなら安心しろよ、オレが自分から縛られに行くのはありえないからな」

 

「それを容易く信じることができるほど君のことを軽々には扱えない。しかしながら、不本意な流れに身を任せることが不安を掻き立てることは理解している」

 

 ケルシーは数枚の書類を取り出した。

 

「神経内科専門源石術医見習いとして有期雇用契約を結びたい。一ヶ月毎に契約の更新を行い、また君には解除権があるものとする。給料は歩合制とするが、多少の投資として一定の固定給を──」

 

「長い。ボクが読むよ」

 

 目を白黒させていたナインから労働条件通知書を受け取って目を通す。

 

「投資とか言ってたけど完全歩合制にして、出勤せずとも就業時間内は艦内に居るっていうこれもダメ。定期検診は原則として受ける権利であって、あと解除権に付随する全ての拘束を消して」

 

 アビスの言葉にケルシーがふむ、と顎に手を当てて考えるような素振りを見せる。再度引き出しから書類を手に取ってアビスの方に差し出した。

 

「全てを改善した採用契約書がこれだ」

 

「最初からそれを出してくれないかなぁ!?」

 

「秘書として高い能力を持つというお前の目を試してみたかっただけだ。他意はないから安心するといい」

 

「無理だよバカ」

 

 口ではそう言っていても新たに出された契約書に不備や改善点を見つけられず、アビスは不満そうな顔でナインへと渡した。

 

「最低限ナインが契約してもいい内容にはなってるよ。だけど無理に契約する必要なんてないからちゃんと考えて欲しい」

 

 ナインは迷いなくペンを紙に走らせる。

 

「これでいいか?」

 

「ああ、受け取った。君は今から──正しくは来月の頭から見習いの医療オペレーターだ。君の世界が広がることを願い、歓迎することを約束しよう」

 

「本当に良かったの?」

 

「信じてんだよ。悪いことにはならないって思ったからこの契約書をオレに渡した、そうだろ? 小難しい文字を追うのは苦手だしよ」

 

 全幅の信頼を置くナイン。

 彼は小さく笑って席を立つ。

 

「さあ、帰ろう。これで用は終わりなんだよね?」

 

「待て、今丁度ケトルで湯が沸いたところだ。一杯くらい飲んで行ったらどうだ」

 

「コーヒーなら待ってあげるよ」

 

 病状からしてコーヒーはよろしくない。

 そんなことは分かりきっていて、だからそれはただの拒否に他ならなかった。

 

「アビス、次の検診を忘れないように。来ないようであれば部屋を訪ねるからそのつもりで考えておけ」

 

「はいはい、分かってるよ」

 

「それとナインのことで連絡を取ることになるだろう、端末の通知を見逃さないよう──」

 

「分かってるって。またね」

 

 アビスがひらひらと手を振った。

 

「ああ。またな」

 

 その挨拶が、ケルシーは少しだけ嬉しかった。

 また会おうと言うアビスの姿が嬉しくて。

 

「随分と、都合の良い頭だな」

 

 嬉しくて、嬉しくて、胸の奥が締め付けられた。

 彼を叩き潰すために、彼の性根を捻じ曲げるために、ケルシーは彼を騙している。

 

 何も感じないとばかり思っていた。

 所詮はただの担当医、3年ばかりの付き合い、ケルシーにとってアビスは極めて小さな人物だった。

 だから感じないと思っていたんだ。

 

「ふふ。ふは、ははは」

 

 ケルシーは天井を仰ぎ、腕で眼を隠した。

 塞がれなかった口から笑いが漏れる。

 

「はは、ははははは」

 

 乾いた笑いが暫くの間収まりそうになかった。

 ケルシーの固く握られた拳は何かを傷つけることなく、況してや何かを動かすこともなく、ただ無為にぶら下がっていた。




ドクター(ケルシー視点)
人を避けておきながら何故かアビスを連日秘書にする
→裏工作員として優秀なナインと懇意にしている
→S.W.E.E.P.とは別の場所を作りケルシーに対抗することが本当の目的?

ケルシー(ドクター視点)
アビスへのアプローチに困っていた
→担当する患者であり強く執着しているアビスとの時間を提供する
→アビスの取り分けの妥協点に落ち着いていた
→満足して動かなくなる ×
→秘書のアビスを横取りする ○
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