【仮題】感情トランスポーター 作:Gensigert
どうして私ばかりがこんな目に遭わなくてはいけない? 放り出され、傷つけられ、打ちのめされながら必死に生きてきた。その私がどうして更に下へと落ちなければいけないんだ?
万年筆が軋む。
ドクターは荒々しく席を立ち、冷蔵庫から彼手製の洋菓子を取り出してすぐさま掻き込んだ。
ドクターの隣で手を動かしていたアーミヤはその様子をただ静かに見守っていた。
「アーミヤ。進捗は?」
「追加の仕事さえなければ日が暮れる前に終わります。既に各部署の責任者がチェックを終えている書類ばかりですから」
執務室に回される書類は基本的な責任者の認証を得た上で提出されている。それは膨大な書類を捌くドクターに対する最大限の配慮だろう。
チェックする書類のデータは最高権限所有者に共有されており、その一人であるドクターは執務室へと辿り着く前に突っ返す書類と通してよい書類を仕分けして、その後共有されているデータと食い違いがないか精査しつつ書類にサインする、というものが例外や追加の書類を除いた書類業務の流れだ。
追加された書類はそのようなデータ共有に間に合わなかったものであり、秘書は処理することができない。
教養のないアビスが有能である理由は、その作業が単純な答え合わせであるからだ。速読と速記が人外であれば大体同じような挙動が可能である。
しかし、アーミヤは人だった。
慣れているとは言え優秀程度であり、ドクターほどのペースで捌くことは出来ない。一刻も早く業務を終えてしまいたいドクターには枷のようにすら思える。実際、ケルシーの意図では監視という枷なのだろうが。
「余りにもあんまりな采配だ。ケルシーは私のことを敵対視でもしているのか? ……はは、ありえないな。彼が打ち明けるとも思えない。なんだ、どこで間違えたんだ」
ケルシーがアビスに思い入れがあるというのは確かなことだ。しかしドクターはアビスに高すぎる評価を付けてしまっていた。
今までの成功はフラットな考え方を元としている。主観が全て恐怖に囚われていたからこそ、彼女が見積もりを誤ることはなかった。
彼女にとって唯一大切な存在。彼を無意識のうちに特別扱いしてしまうのも無理はないことだった。
そんな彼女を見るアーミヤの目には、当然ながら心配の色がくっきりと映っていた。
「ドクター、私ではお力になれませんか? どうかアビスさんと何があったのか聞かせてください」
説得には冷視線が返された。
「時間の無駄だ。それに私は君にこの胸襟を理解されたくない。私が親しかったドクターじゃないことは君が一番に知っているだろう」
「それでも今のドクターは……」
「私を放っておくことが出来ないのは知っている。しかし、私は君のせいで強い恐怖を抱えることになる。私は君に助けられることなどないと知っていて、それならば私がそれを受け入れる道理なんてどこにもない」
早口で捲し立てるように言い放ってからドクターは気が付いた。
今のドクターはまるでケルシーのようではないかと。彼女が心底疎んでいる、そして今なお彼女を苦しめているケルシーのようではないかと。
「ドクター」
アーミヤが彼女の名前を呼ぶ。しかし彼女にとってそれは自分の名前などではなかったのだ。
「分かりました。私は何もしません。ですがこれ以上事態が悪化するようであれば、私は介入せざるを得ません」
「今更風見鶏が一羽現れた程度で揺らぐこともない。君がそうなりたいのであれば自由にしてくれて結構だ」
「ありがとうございます」
言葉のトゲなど気にせず謝辞を述べた。
その態度がドクターにとって気に食わなかったのだろう、また万年筆が軋んでいた。
一つの失敗に躓いたドクターは受け身すら取れなかった。差し出されたアーミヤの手は振り払われた。
頭の中がグツグツと煮えたぎっている。
想定外がどれだけ重なっても冷静だったその思考が、未だかつてないほど大きな見落としで崩されていく。
「くそ、くそっ、くそぉっ……!」
小さな小さな泣き声が漏れる。
アーミヤはそれに気付けないままで。
「許さない、絶対許さないからなっ……!」
屈辱と恐怖で彩られた感情が溶ける。
執務室に入ってから一番に強烈な感情を感知して、アーミヤはドクターを気遣った。
どうすることも出来ないまま時間が過ぎていく。
それ以上の会話が交わされないままに、ドクターとアーミヤの一日は終わりを迎える。
アビスに絆されてから初めて、ドクターは彼が居ない一日の苦痛を味わった。
「どうして私は立ち入り禁止なの?」
ぷく、と頬を膨らませたカッターが言った。
「まな板を切り刻んで鍋に放り込みそうな人を入れたくないから。あと調理設備を爆破しそうだから」
「そんなことしない。それに料理の経験くらいあるから心配しなくたっていい」
「一応聞くけど、それはレトルト?」
「そうだよ」
はぁ、とアビスが大きな溜息を吐く。
「何年か前にも言ったけどレトルトは料理じゃないから。食材を切ったり焼いたり煮込んだりして食べられるものを作ってから言って」
「わかった。それじゃあキッチン借りるね」
ずかずかと歩いていくカッターをなんとか押し留めて、アビスはより大きな溜息を吐いた。
ケルシーとの会話を終えて帰れば、既にカッターは部屋の中で待っていた。それどころかエプロン姿で二人を出迎えた。
その時点でアビスは深呼吸──主に息を吐く方の意味で──しそうになったのだが、既に完成しているらしき何かとまな板の残骸を見て引っ込んだ。
もはや溜息で片付けられる次元ではなく、ナインに被験体を押し付けて部屋で休んだ。
休んだおかげでアビスはなんとか元気を取り戻し、ぐったりしたナインの横でカッターに説得を重ねている。
「まず、えーっと、この鍋。何を煮込んでるの?」
「野菜」
「どうして青菜を纏めて煮込んで、それをスープにして出したの?」
「あんたも知ってると思うけど、スープは傭兵の基本料理。ヘルシーな野菜と合わせて作ってみたかった」
「調味料は?」
「辛いと体が暖まるから赤い粉と、あとはお腹が膨れるように甘い砂糖」
砂糖と呼びながら指差したのはバニラパウダー。
色々と言いたいことはあったがその全てを口の中に押し留めてキッチンに入っていく。
「スープに泡が浮かんでるね」
「うん。野菜から旨味? が出てるんだと思う」
「灰汁だよ」
「悪!?」
もうダメだった。アビスはカッターをキッチンから外に連行し、共用スペースの椅子にぐったりと倒れているナインの前に立つ。
「灰汁は野菜が持つ苦味とかエグ味で、カッターが指差した砂糖はバニラパウダーの瓶で、あと青菜はスープの出汁にならない。だからこんな犠牲者が生まれた」
「犠牲者……」
「考え方は別に間違ってないから、カッターは知識と経験が足りてない。それはもう致命的に」
「致命的……」
カッターはナインを見つめながら譫言のように呟いている。料理に対して意欲があるのなら、親身になって教える人さえ居ればどうにかなるのではないかというアビスの楽観だった。
実際にそれが的を射ているのかはやってみなければ分からないことだが。
「基本から少しずつ教えていくから、カッターはどうか自分一人で作ろうとしないで」
「分かった。そういえばあんたって結構料理できたんだったね。コツでもあるの?」
「隣に劇物を作る人が居れば自然とそうなるんじゃないかなあ」
カッターは「劇物?」と首を傾げている。アビスとカッターが同じ物を食べていたのはそれなりの期間で、何度死の境に連れて行かれたことか。
そういうわけでカッターによる攻撃を回避したアビスは人知れずガッツポーズを取った。
暫く経ってもぐったりとして動かないナインの容体を心配して、アビスは部屋の寝台に運んで様子を見ていた。
消化器ではなく循環器が傷ついているため、有害なスープを飲み込んだところで影響は無いと思っていたのだが。
「なあ」
ナインの手がするりと伸びる。
「カッターはただの傭兵で、それで何なんだよ。ただ少しくらい縁があるだけの他人じゃないのか?」
頬に手が添えられる。
目を瞑ったままナインが問いかける。
「まさかリラ姉を重ねてるわけじゃないだろうな」
アビスはナインの小さな手を包む。随分と脆くなった、大きいだけの手が覆っている。
「カッターはただの知り合いだよ。それ以上の人じゃない。それに、もしボクがカッターにリラを重ねてるとしたらきっと仲良くなれなかっただろうね。カッターはそういうの分かると思うからさ」
「……そうかよ」
「今思えば、リラを亡くしたボクが勢いで死ななかったのは、カッターの料理で死ぬのが嫌だったからかもしれないな。馬鹿みたいな話だけど」
そう笑い飛ばそうとして、アビスはナインに抱き付かれた。
「なあ、アイツはリラ姉との思い出より大切なのかよ。なあ、そんなこと、言わないでくれよ」
「誤解だよ」
「それでも聞きたくなかったんだ。オレはそんなセリフを聞きたくなかったんだよ」
アビスは震えるナインの背を摩った。
顔が見えなくとも、流れる雫があることを彼は分かっていた。
「ナイン、大丈夫だよ。ボクは君を見捨てない。リラのお迎えが来たら別だけど、そうでもない限り君を尊重する」
あやすように頭を撫でると、ナインの震えは徐々に落ち着いていく。
「もう少しだけ、このままでいていいか?」
アビスは小さく笑って頷いた。
涙のせいでナインの紅い瞳がより赤くなっているかもしれないなとくだらないことを考えて苦笑する。
残念ながらアビスの予想は的外れだ。
ナインの瞳は
まるで恋した相手に何年もの間執着するような、そんな危ない気配を宿した琥珀色に染まっていたのだから。
「すぅ、はぁ……えへへ……」