第11話
2005年3月
弥生賞を終えた藤山厩舎では、無事に馬が帰ってきたことを安堵しつつ、皐月賞への準備が始められていた。
「それにしても、うちの先生は、よく3戦だけで皐月賞に出ようと考えられましたね。賞金的に弥生賞で優先出走権を確保していなかったら出られなかったんじゃないんですかね」
用事で厩舎に訪れていた騎手の高森が、テンペストクェークの担当厩務員の秋山に問いかける。
ディープインパクトが勝利した第42回報知杯弥生賞では、テンペストクェークはハナ差で2着となった。2着から4着まで同タイムであり、僅差での勝利であった。
「それだけテンペストに期待していたってことでしょうね。新馬戦の後は、オープン戦や共同通信杯や京成杯のような重賞にも出す予定だったみたいです。ただ、騎手の指示に従わないという状態だったから、セントポーリア賞に変えたみたいです」
「そうなんですね。でも、トライアルレースは他にもありますし、ディープインパクトと当たる弥生賞に行かなくてもよかったのでは?」
トライアルレースはスプリングカップや若葉ステークスなどがある。わざわざ弥生賞というリスクある決断をする必要があったのかが気になっていた。もちろん他のトライアルレースにも強豪はいるので絶対に安全というわけではない。
「そうなんですよね。ただその辺りは自分にはよくわかりませんでした。馬の成長のためとしか言わないもので……オーナーの方が納得しているみたいなので、問題はないかと思いますけどね」
「馬のため、ですか……そういえばテンペストの調子はどうですか?」
弥生賞が終わり、美浦トレセンに戻ったテンペストクェークは、疲れをいやしながら、次のレースに向けた調整を行っていた。
「体調や疲労は回復したようですね。調教も始めてますし、皐月賞も大丈夫だと思います。ただ……」
「やっぱり落ち込んでいますか」
「はい。彼は結構大食いなんですけど、しばらく食べようともしませんでしたからね」
弥生賞が終わった後はずっと馬房の隅でいじけていたし、しばらくご飯を食べようともしなかったらしく、大柄で立派な馬体は見事にガレてしまっていた。
ただ、数日後にはよく食べるようになり、体つきは元に戻りつつあるので安心であった。
また、馬体が大きいので、脚部へのダメージも細心の注意が払われていたが、特に問題はなかったようである。
「まあプライドの高い馬でしたからね。初めて負けたみたいなものですし」
「馬ってそんなに勝ち負け意識してましたっけ?」
勝つのも負けるのも人間の理論である。最後尾を走ってもケロッとしている馬もいるし、一番に駆け抜けても疲れたから早く帰りたいと駄々をこねる馬もいる。ご褒美をもらいたいがゆえに頑張る現金な馬もいたりするので、馬の性格によるともいえる。ただ、負け続けると負け癖が付く馬もいるし、一頭の馬に負け続けると、走る気をなくしてしまう馬もいる。併せ馬や出走するレースを考える際に意外と相性なども考えている。
ただ、負けを意識し、人間のようにはっきりと落ち込むという馬はあまり聞いたことがなかった。やはりかなり賢い馬だとこういうこともあるのだろうかと考えていた。
「聞けば、彼は生まれた牧場でも育成牧場でも基本的にちやほやされて甘やかされて育ったみたいですからね。馴致も早く、同世代よりも早い。それに基本的には人に従順で真面目。そりゃあ可愛がられますよ。実際うちの厩舎でも調教のとき以外は、蝶よ花よと可愛がられてますし」
「なんというか感性が人間らしいというか。賢いところもそうだけど、どことなく人間っぽいところがあるんだよなあ……」
「中に人間でも入っているんじゃないですか?」
高森たちは冗談を言いながら笑っていた。
テンペストには人間の魂がインストールされているので彼の指摘は間違いではない。
二人が馬房の近くによると、見慣れた鹿毛の馬がこちらを見ていた。
「元気にしているか~」
首元を撫でてやると、嬉しそうに嘶く。
こういうところは可愛いんだよなあと思いながら、彼の馬体を自分の目でもチェックする。
「負けていじけるなんて可愛いところもあるじゃないか~」
そういってすりすりと撫でると、耳が絞られ、不機嫌になった。
その瞬間、高森の服にかじりついたのである。
「……やっぱこいつ人間の言葉わかってません?」
「どうなんでしょうね……」
ごめんごめんと謝りながら撫でてやると服を放して、馬房の奥に引っ込んでいった。
二人はしばらく彼の話題で盛り上がっていた。
「皐月賞はディープ一択って雰囲気ですね」
「新聞を見ればよくわかるさ。それにしてもJRAがやけに張り切っているな」
東京のとある個室料理屋で藤山と西崎が話していた。こうして馬主とコミュニケーションをとるのも調教師の仕事の一つである。
広げられた新聞にはディープインパクトの記事が一面に記載されていた。
「テンペストの様子はどうですか?」
「今のところは順調ですね。弥生賞の疲労も抜けましたし、脚部等にダメージもありませんでした。これならしっかりと走れると思います」
「それならよかったです。初めての馬がG1レースに出れるなんて本当にありがたいです」
そういえばオーナーはテンペストクェークが初めての所有馬だったんだなと思いながら話していた。血統も微妙、写真を見たが、見栄えも微妙、生産牧場も大手ではない。そんな馬を初めてでよく買ったなと思っていた。
安い馬や血統が魅力的ではない馬が名馬になった事は普通にある。しかし、あくまで例外であって、価格が高い馬や良血統の馬の方が、走ってくれる可能性は高いのである(数億の馬が走らないというのもざらにあるのが競馬の恐ろしくも面白いところではある)。
「聞いていませんでしたが、テンペストを買おうって決めた根拠はあるんですか」
「直感ですね。とりあえず一頭いい馬はいないかなと探していて、父がお世話になっていた島本牧場に行ってみたんですよ。そうしたら楽しそうに走ったりジャンプしたりしている彼がいたんですよね。それで、この馬がいいと思って、気が付いたら買ってました」
「なんというかオカルトチックですねえ」
「まあ、こういうのはこれっきりにしたいと思いますね」
馬主としては順風満帆なスタートを切った西崎だが、父のこともあり、厳しい世界であることも自覚していた。
「それで、テンペストは皐月賞を勝てますか?」
「直球ですねえ……正直に話しますと、かなり難しいですね。ディープインパクトが強すぎます」
「そうですか……弥生賞だと結構肉薄はしていたと思いますが……」
「それなんですけど、最後のスパートで一回も鞭を入れてないんですよね。終わった後もケロリとしてましたし」
さすがに皐月賞では本気で走ってくるだろうから、それを加味しておかなければらないと考えていた。
「スパートが掛かると、まったく失速しないですし、そのまま延々に加速していくような気がします。スタミナもありそうなので、ハイペースな展開でも容赦なく上がり3F最速をたたき出せると思います。追込なので、マークや包囲はできませんし、勝ち方がわからないです。」
「なんか勝てるビジョンがますます見えないのですが……」
「テンペストもいい末脚を持っていると思いますが、実戦で見せたことがないので未知数です。ただ、勝ちにはいきます。それに彼も本気になったみたいなので......」
「本気になった、というと?」
意味深なことをつぶやく藤山に西崎が食いつく。
「調教を終えたがらなくなったんですよね。もちろんケガが怖いので、スパルタ特訓のような調教はしていませんが。走らせろ、走らせろと催促してくるみたいでね。苦手だったプール調教も嫌な顔せずに行ってますし、負けたことが相当悔しかったみたいですね」
こういう負けん気の強さを持っていたのは幸いであった。
藤山は、テンペストクェークは賢いし、人の言うことは聞く真面目な性格であることは認めていた。ただ、レースになると騎手の指示を全く聞かないため、プライドが高い性格であるとも思っていた。バカだから指示に従うのではなく、賢すぎるから指示に従わないのではと考えていた。
実際は、彼は、自分のことは自分が一番理解しているという傲慢さがゆえに騎手の指示に従わないのである。なぜ、この道20年近く騎手をやっている人間よりうまくレースができると思うのだろうか。なぜ、何十年も馬を見続けてきた調教師より自分の脚質や能力がわかると思うのだろうか。ある意味愚か者である。
「このままいけばかなりいい仕上がりになりそうです。少なくとも惨敗という結果にはならないと思います」
自信ありげに話す藤山であった。
[皐月賞]
日本ダービー、菊花賞と合わせた3歳場限定の「三冠レース」の初戦である。中山競馬場2000メートルで行われるレースであり、イギリス2000ギニーをモデルに作られたレースである。「もっとも速い馬が勝つ」といわれるレースである。
2005年4月17日開催の第65回皐月賞では、ディープインパクトが圧倒的な人気を獲得していた。二番人気以下が二桁倍率になるほどであった。
テンペストクェークも弥生賞2着が評価され、3番人気に位置していた。パドックでは、彼の父親のヤマニンゼファーのファンだった人が作った横断幕「ゼファー魂」が掲げられていた。
「そよ風から暴風へ」そんな横断幕も掲げられていた。
それを見た島本哲司は、ゼファーを種付けしてよかったと心から思っていたのであった。
パドックで自分の生産した馬が落ち着いて歩いていた。
「今日も大丈夫そうだ。せめて入着はしてくれよ~」
故郷の牧場やオーナーも含めた、関係者が彼の激走を応援していのである。
皐月賞2000メートルが始まる。
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俺は馬である。
やってきたぜ競馬場。
ここは前に走った場所と同じ競馬場だと思う。
そして、グルグル回っていると、俺が負けた小柄な馬がいた。他にも前一緒に走った馬も何頭かいた。
あの馬には絶対に負けない。そのために俺は鍛えなおしてきた。
苦手なプールだって頑張った。
ただ、勝てる気があまりしないのはなぜだろうか。
俺が息も絶え絶えになっているのに、あいつは平然としていた。
これが生まれ持った才能の違いというものなのか。
わからない。
ただ、負けっぱなしは性に合わないのも事実だ。
あと俺よりちやほやされているのはなんか気に喰わない。
だって人間がみーんなあいつの方を見ているんだもの。
なんでわかるかって?意外と目線でわかるものだぞ。
お前らの買った馬券を紙くずにしてやる。絶対にだ。
ただ、どうやって走ったら勝てるかわからない。わからない……
そんな気持ちで騎手を乗せ、芝のコースへ歩いていく。
「あれ?今日はちょっと元気ないのか?大丈夫かな……」
どうしようか。
走りながらも考えていた。
そして気が付くと俺はゲートに入っていた。
ガシャンという音と共に、ゲートが開いたのを俺はボケッと見ていた。
「アッ……」
【アッ……】
テンペストクェーク、痛恨の出遅れである。
そして隣の馬も躓いたらしく、出遅れていた。
上位人気馬の同時出遅れであった。
しまったぁぁぁぁ