10月23日、京都競馬場には多くの人が集まっていた。数百人近い徹夜組を含め、1万人以上が開門前から競馬場に押し寄せていた。
目的はディープインパクトの三冠達成を目に焼き付けるためである。
最終的には13万人以上が押し寄せたようである。
単勝支持率79%、単勝オッズは1.0倍。元返しになってしまうほどの人気であった。
結果はディープインパクトの圧勝であった。先行抜け出しを図ったアドマイヤジャパンを直線で抜き去り、2馬身差をつけてゴールした。3000メートルの上がり3Fは33.3という驚異的なタイムであった。
ナリタブライアン以来の三冠馬、そしてシンボリルドルフ以来の無敗の三冠馬の誕生であった。
騎手は3本の指を高々と示した。この日、競馬に絶対があった。
『無敗三冠、ディープインパクト』
『新しき皇帝 無敗三冠ディープインパクト』
競馬新聞だけでなく、スポーツ新聞も菊花賞の様子を大々的に伝えていた。
世はまさにディープインパクトフィーバーであった。
「やっぱ強いなあ。3000のラストで33.3ってなんだよ。テンペストの毎日王冠のときが32.3だから末脚では勝ってるな」
秋山はテンペストクェークの馬房を掃除しながら今日の新聞の一面を思い出していた。
1800メートルと3000メートルを一緒にするようなものではないと思いながらも、自分の担当馬の方が強いと無駄に主張していた。
「まあ、2000メートル以下の舞台に来ればうちのテンペストのほうが強いな」
な~テンペスト~と話しかけると、「なんだよ」といった感じで嘶き返す。
「来週は天皇賞。ここで勝てばお前もスターホースの仲間入りだ。しっかりと走ってきてくれよ~」
厩務員にも賞金の一部が入ってくる。馬主や騎手に比べると雀の涙ほどではあるが、賞金額が大きいレースであるほど、自分のお小遣いが増えるのである。
ただ、彼らの一番の願いは、レースで勝って、無事に帰ってくることである。
「秋山くん、彼の調子はどうかな。明日は最終追い切りなので、もう一度確認しておきたくてね」
調教師の藤山が馬房を訪れて、彼らの調子を確認する。
「今のところは問題ないですね。体調は万全です。脚部に問題もないです。それにこいつは賢いので、自分で食いの量を調整してレースに備えるようになってます」
本人曰く、自分のトレーニングを支えている人間の動きや表情で緊張感が大体わかるらしい。なので、レース前は、暴飲暴食を控えたり、体のキレを確認するように走ったりしているようである。
「毎日王冠の走りができれば、優勝は確実に狙える。2000メートルの天皇賞秋を3歳馬が優勝したのはバブルガムフェローとシンボリクリスエスだけだが、そこにテンペストクェークの名前をぜひ乗せてやりたい」
「高森さんなんかはもう獲る気満々らしいですけどね。オーナーに宣言までしてしまってますし」
「久しぶりの重賞制覇で気持ちが高ぶってたらしいな。不味いこと言ったって後で青い顔していたよ。まあ、ただのお世辞でもホラでもない事を示してもらわないとな」
藤山調教師はテンペストクェークを撫でると、厩舎から出ていった。
「さて、掃除終わり。寝藁を汚さないから楽だわ~」
一方、馬房から出ていった藤山調教師は、心の底では結構な不安に襲われていた。
「出走メンバーはかなり豪華になったな。これで勝てるのか……」
テンペストクェークというかなりの素質馬を管理することが出来ている。春までは同期の怪物や折り合いの面でタイトルを獲ることが出来なかった。
しかし秋になってテンペストクェークは馬体も精神的にも完全に覚醒の時期を迎えている。
これだけの馬を勝たせることが出来なかったら……と考えるとかなりのプレッシャーであった。
「タップダンスシチー、スイープトウショウにゼンノロブロイ、それに重賞馬だらけだ」
日本ダービーの敗戦は距離が原因と世間ではみなされていた。
毎日王冠で彼は本物なのではと騒がれた。
天皇賞は彼が正真正銘のもう一頭の怪物であることを知らしめるチャンスであった。
「贅沢な悩みだ……」
彼のつぶやきは美浦トレセンの喧騒に消えていった。
数日後、週末の天皇賞・秋に向けた最終追い切りが美浦トレセンで行われていた。
美浦トレセンで最終追い切りを取材していた報道陣は、調教師、騎手から並々ならぬプレッシャーが放たれているのに気が付いていた。
調教のタイムは良好であり、順調そのものであることを示していた。
「同期が三冠馬になりましたからね。こっちも負けていられませんよ」
インタビューに応えた高森騎手の顔と声には、確かな自信があった。
これはあるかもしれん。
取材陣の一部は熱をもったまま、テンペストクェークの記事をまとめるのであった。
2005年10月30日
三冠馬の誕生の熱も冷めやらぬ中、古馬王道路線の開幕を知らせるG1競争が東京競馬場で行われようとしていた。
昨年の覇者、ゼンノロブロイの連覇か、それともエアグルーヴ以来の牝馬の制覇か、それともハーツクライの悲願か。3歳馬はストーミーカフェとキングストレイル、テンペストクェークの3頭のみであった。
その中で、テンペストクェークは、毎日王冠の勝ち方、そして調教の調子の良さも買われ、4番人気に支持されていた。
第10Rを走る馬たちのパドックでは、多くの観客に囲まれて、馬たちが周回していた。
「今日は前回みたいに気持ちが前に前に行こうとしていませんね。でも、足取りはしっかりしていて、集中できていますよ」
引綱をもっている秋山が、高森にテンペストクェークの様子を話す。
高森にとって今日のレースで注意すべき相手は多数いた。
まずテンペストと最近、併せ馬をさせてもらっているゼンノロブロイ。昨年の覇者であり、秋古馬三冠を達成した猛者である。前走のインターナショナルステークスもなれない芝を走りながらも2着と好走をしていた。
次は牝馬で宝塚記念を制したスイープトウショウ。気性が激しいとのことだが、今日は割と普通に見える。斤量は同じでも、注意が必要である。
ハーツクライも警戒対象の一頭である。G1タイトルには縁がないが、実力を付けつつある一頭であると聞いている。
他にも逃げ馬のタップダンスシチーやヴィクトリアマイル制覇のダンスインザムードも油断してはいけない相手である。
「ヘヴンリーロマンス……」
札幌記念を勝利した馬である。そこまで目立つ存在ではないが、前走がフロックではない可能性もあるため、頭には入れておこうと考えていた。
「逃げ馬がいる以上、ペース確認が重要だな」
破滅的大逃げと見せかけて、実はスローペースで前残りなんてことになったら目も当てられない。
「さあ、行こうか。お前の栄光の場所へ」
―――――――――――――――
俺は馬である。
俺はいま、ゲートに入るため、順番待ちをしていた。
【よう】
【え、はい】
黒い馬も今日は走るようで、気合が入った様子でゲートインを待っていた。
【勝つ】
そうかい。お前強そうだしな。でも、俺も負けられない。
【俺が勝つ】
そして俺はゲートの中に入っていった。
さあ、集中、集中。
おかしいなあ、ちょっと時間がたちすぎるような……
というか長くない?なんで?
【やだ!】
「あ~スイープトウショウが駄々こねちゃってるね。テンペストはああじゃないから助かるよ」
どうやら俺の隣に入る予定だった馬がなかなか入らないようである。
まあ馬だし仕方ないよな……
「頼む、入ってくれ……」
【やだ】
騎手や係員の人間たちが必死になっている。
さすがにこれ以上はいい感じで高まっていた集中力が欠けてきてしまうよ。
【おい、黒いやつ】
俺の隣にいる黒い馬を呼ぶ。
【なんだ、話しかけるな】
【あの馬、わがまま】
【だから?】
【入るように呼ぶ】
さすがにこれ以上は騎手君の集中力にも影響があるし、さっさと始めたい。
【わかった】
よし、じゃあ行くぞ……
【さっさとはいってくれ】
【入れ】
駄々をこねてた馬を呼んだ。
「ちょっとイライラしているのかな?落ち着いてね~」
どうも怒っていると思われたようで、首元をすりすりとされて、宥められた。
勘違いさせて申し訳ねえ。
ちょっとすると、隣の馬もゲートに入っていき、そのまま他の馬もゲートに入ったようである。
ゲートが開いた音とともに、俺は走り出した。
「行くぞ!」
ああ、行こう。
―――――――――――――――
スタートでスイープトウショウがぐずついていたため、テンペストと隣のゼンノロブロイがイライラしていたのがわかった。
ただ、すぐに落ち着いたので、よかった。
ゲートが開くと同時にテンペストもスタートする。スタートが上手であるのも彼の強みでもある。
俺は、スタートと共に、周りの馬を妨害しないようにスピードを上げていった。
予想通りタップダンスシチーが先頭に立って逃げ始めていた。そしてテンペストの同期でもあるストーミーカフェもどんどんと前に行っているのが見えた。
2コーナーではいきなりインには入らず、外からの競馬を進めていた。
「ちょうど中団にゼンノロブロイがいるな」
テンペストが、いつも追っているあの黒い馬の後ろにつくようにスピードを調整する。
そうすると、彼はそれに従って、ゼンノロブロイに半馬身ほど後ろで走り続けていた。
身体の大きさが近いからか、スピードを合わせるのはそこまで苦ではないと判断して、併せて走らせていた。
そのまま直線を走り切り、第3コーナーを越えていく。
コーナリングもうまいので、減速や消耗もなく走れるのは強いな。
第4コーナーを過ぎたあたりで、ややペースが遅いと判断した俺は、テンペストにスピードを上げるように指示する。
「さあ、行くぞ」
前には膨らんで直線で並んでいる先行馬たちがいるので、彼に外ラチの方に向かうように指示をする。
先行していたダンスインザムードやアサクサデンエンが加速していくのがみえた。
「行くぞ、テンペスト!」
俺は前に一頭の馬もいない大外に来たことを確認して、一発の鞭を入れる。
「任せろ!」といわんばかりに一気に加速していくのがわかった。
残り400を過ぎたあたりで、横からゼンノロブロイが上がってくるのが見えた。
「もっとだ、もっと」
気が付くと、先頭にはどの馬もいない。
あと100メートルほどであった。少し首を内ラチ側に向けると、逃げ馬をとらえて猛追する数頭の馬が見えた。もうどの馬か判断する暇はなかった。
「気を抜くな!テンペスト」
その言葉と共に、軽く鞭を打つ。
その瞬間、テンペストはさらに加速していくのがわかった。
このまま、このままだ。
そして、俺たちはゴール板を通過していた。
すぐにゆっくりと減速していく指示を出しつつ、周りを見ると、近くにゼンノロブロイ、それにヘヴンリーロマンス、ダンスインザムードが走っていた。
「結構危なかった。最後少しでも緩めたら間違いなく2頭に持っていかれてた……」
馬の視界は後ろの方も見えるので、後続が想像以上の速さで迫っているのが見えたのかもしれない。
「ありがとうテンペスト。これでお前もG1ホースだ」
集中していて気が付かなかったが、大歓声が競馬場内に響き渡っていた。
「高森さん、おめでとうございます」
クールダウンで走らせていると、他の馬に乗っていた騎手が俺を讃えてくれた。
そうだ、俺はG1ジョッキーになれたんだ。
勝つ自信はあった。テンペストの強さを信頼できたから、想定通りの競馬をすることができた。
長かった、長かったよ……
よく考えたら全員後輩なんだよなあ……
―――――――――――――――
『それでは、テンペストクェーク高森騎手です。おめでとうございます』
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
『鞍上でも涙が隠せない様子でしたね』
「はは、そうですね。テンペストクェークが勝つことが出来てよかったって思いました。その後に後輩たちからおめでとうございますって言われて、その時にG1を初めて勝てたんだと実感しました」
『最後は大外一気で決めました。この勝ち方は想定通りで』
「はい、最後の400メートルならだれにも負けないと自信がありました。あとは位置取りが心配なだけでした。でも、しっかり指示に従ってくれました」
『苦節28年の道のりでした。初G1の感触はいかがでしょうか』
「本当にうれしいです。でも、私ではなくテンペストをほめてください。彼が私に勝ちをくれました」
『……それでは最後に一言お願いします』
「これからもテンペストは勝ち続けます。応援よろしくお願いします」
「俺勝ったぞ!勝ったぞ!」