アイルランドのレパーズタウン競馬場は、歓声に包まれていた。
アイルランドダービーを制したディラントーマスを内ラチ強襲で一気に差し切ったテンペストクェークに対する驚愕の歓声であった。
『なんであの状況から差し切れるんだ』
『ラスト2ハロンの加速は何だったんだ……』
「万歳!これでGⅠ6連勝だ!」
藤山と西崎は大歓声を上げて喜んでいた。
日本からのファンが水色の横断幕とのぼりを振り回していた。
『すごい馬だ。本当に素晴らしい強さだ』
周りで待機していた他の調教師や馬主たちから西崎や藤山が囲まれる。
一体どうやってこんな馬を見つけてきたのか、どのような調教をしていたのか。
西崎には種牡馬の話や移籍の話が大量に舞い込んでいた。
彼らの目には、もう東洋人だから、競馬後進国だからという侮りはなかった。
テンペストクェークの表彰が終了すると、スタッフたちはテンペストの馬体のチェックや世話に戻る。西崎は他の馬主たちに連れていかれてどこかに消えていった。
『テンペストクェーク。とてもすごい馬でした。まさか内から来るとは』
『ありがとうございます。ちょうど内が空いていたので、そこを突かせていただきました』
『ウィジャボードとの競り合いに集中しすぎて、内を塞ぐことが出来なかったのは私のミスでしたね』
『もし内が開いていなかったら、別のところを突破していたと思いますよ。いいレースをありがとうございました』
握手をして藤山のところに向かう高森騎手を見ながら、欧州の騎手が話す。
『彼、昨年の秋に初めてGⅠを勝利した騎手らしいな。普段の騎乗はそうでもないが、あの馬に乗っていると、すごい騎乗をするようだな』
『日本の宝塚記念というGⅠの奴だな。あのレースは本当にすごいレースだった。スペースを見つけてそこに馬を導く能力は飛びぬけて高いのかもしれないな』
彼らは日本から来訪した馬と騎手の話題で盛り上がった。そして、自分の馬が勝てなかったことへの反省を行っていた。
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9月10日、フランスロンシャン競馬場。GⅡフォワ賞。
2006年のフォワ賞は6頭立てとなっている。ただ、出走するメンツは豪華な面々であった。
1番のプライドは昨年のフォワ賞、そして今年6月のサンクルー大賞を勝利している。2番は昨年の凱旋門賞の覇者、ハリケーンラン。
4番はドイツのダービー馬で昨年のBCターフ、今年のコロネーションCを勝ったシロッコ。
5番は日本の無敗の三冠馬、ディープインパクト。
凱旋門賞に向けた叩きのレースという意味合いが強いフォワ賞であったが、なかなかのメンツが揃っていたため、注目を集めていた。
日本のファンは、ディープインパクトが当然勝つと思っていた。
『2006年フォワ賞。今スタートしました……』
『ディープインパクトは好スタート。そして、前の方に上がってきています……』
スタートが良すぎたのか、ディープインパクトは先頭2番手で走っていた。
『ペースメーカーのニアオナーが先頭を走る。そこから数馬身離れてディープインパクト。内にハリケーンラン、外にシロッコがいます……』
ロンシャンの坂を上がっていくと、シロッコが2番手になり、ディープインパクトは3番手になる。
『カーブを切りながら、先頭のニアオナーが先頭。シロッコとディープインパクトが2番手争い。その後ろにハリケーンランがいます……』
カーブが終わり、フォルスストレートが始まる。
『フォルスストレートに入りました。順位の変動はなし。依然として先頭はニアオナーであります。ディープインパクトはシロッコの内側で併走している。ハリケーンランはその後ろにぴったりと付けている』
『最後の直線に入った。各馬スパートをかけていく。ディープインパクトも鞭が入ったがなかなか引き離せない。シロッコ、ハリケーンランも伸びてくる』
『シロッコが先頭になった。内からディープインパクト、外からはハリケーンラン。残り200を切った。ディープインパクト苦しい、これは大丈夫なのか』
『ハリケーンランが差してくるがシロッコが粘る。ディープインパクトも伸びてくる。ディープインパクト差し切れるか。これは接戦だ。前3頭がゴールイン。これは接戦になりました』
テレビ中継では3頭が同時にゴールしたように見えていた。
『ディープインパクトがやや優勢か……』
3頭の入線時の映像が流れる。
そしてしばらくして、ディープインパクトが1着、シロッコ2着、ハリケーンラン3着が告げられた。
ギリギリの勝利だったこともあり、あのディープでも海外のGⅡだとここまで苦戦するのかと競馬ファンは思っていた。
『普通の走りをしてしまいました。これが本番だったらと思うとぞっとします。ただ、いろいろな課題点を見つけることが出来たので、叩きのレースとしては最適だったと思います』
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ディープインパクトのフォワ賞の勝利に日本の競馬ファンが盛り上がっているころ、テンペストクェークはアイルランドからイギリスのニューマーケットの厩舎に戻った。
愛チャンピオンステークスの疲労は想定通りであるとはいえ、次のレースは9月23日である。このレース間隔も2週間しかなかった。
専属の医者による検査や調教師たちのチェックでも特に故障や不調は見当たらなかった。
彼は相変わらず食っては寝て、そして運動を繰り返していた。
「テンペストの休む時間が増えているな」
生活習慣はいつも通りだが、運動前にストレッチのような行動をよく見せるようになった。彼なりに環境に適応して、この激戦を乗り越えようとしていた。
中2週間しかないため、騎手の高森はイギリスに入国したままである。
テンペストの様子を鞍上の感覚でチェックしていた。
「高森君、みんな。集まってくれ。クイーンエリザベスⅡ世ステークスの出走メンバーが確定した」
藤山厩舎のメンバーが集まる。
「次のレースだが、欧州勢が本腰入れてテンペストを止めに来たぞ」
出走予定の馬とその勝ち鞍が書かれた書類をスタッフたちが読み込む。
クイーンエリザベスⅡ世ステークスには欧州のマイル戦線を戦ってきた馬たちが集結したのである。
ジョージワシントン:2歳時にGⅠを2勝、3歳となった今年は英2000ギニーを勝利している。愛2000ギニーも2着と好走しており、有力な3歳馬である。
アラーファ:ジョージワシントンと激闘を繰り広げてきた3歳馬。愛2000ギニーとSt.ジェームズパレスステークスを2連勝している。
コートマスターピース:サセックスSでソビエトソングを破った6歳馬。5歳で初めてGⅠフォレ賞を勝利した遅咲きの馬である。
プロクラメーション:2005年のサセックスSを勝利した4歳馬。今年はまだ勝利がないが、GⅠ2勝目を狙って参戦する。
リブレティスト:2006年のジャック・ル・マロワ賞、ムーラン・ド・ロンシャン賞を連勝した4歳馬。3歳では1戦もできなかった馬でもある。
ソビエトソング:6歳の牝馬。すでに旬は過ぎたといわれているが、マイルGⅠを4勝し、カルティエ賞最優秀古馬を受賞したマイルの女王である。
マンデュロ:2006年にドイツからフランスに転厩したドイツ出身の馬。GⅠ勝利こそないが、常に2着か3着を確保している4歳馬。何かのきっかけで覚醒すれば相当強い馬になりそうな雰囲気を感じている。ドラール賞に向かう予定だったが、ムーラン・ド・ロンシャン賞からの連戦で参戦する。
ナンニナ:コロネーションSとフィリーズマイルを勝利している3歳牝馬である。
ここに天皇賞・秋、マイルCS、ドバイDF、宝塚記念、英国際S、愛チャンピオンSの6つのGⅠを連勝している、マイル~中距離の怪物、テンペストクェークが出走予定である。
このほかにもキリーベッグス、リヴァーティバー、イワンデニソヴィッチが初GⅠ勝利を目指して参戦予定である。
合計12頭が出走を宣言していた。内GⅠ馬は9頭である。3歳馬から6歳馬のマイルの有力馬が集結した。その中で一番人気はテンペストクェークであった。
本来の予定ではクイーンエリザベスⅡ世ステークスに出走計画を立てていない馬もいたが、対テンペストクェークを目指して参戦を宣言した。10ハロン路線で欧州の馬たちが惨敗してきた中、現時点で考えられる最高のマイラーでテンペストを迎え撃つという布陣であった。
そして、テンペストに勝利すれば、それだけで種牡馬としての価値が跳ね上がるという金銭的なことを考えている陣営もいた。
「前のレースも実績のある強い馬は多かったですけど、今回は数も多いですね。場合によってはテイエムオペラオーのような状況になりかねませんよ」
テンペストは基本的には差し、追込が得意な馬である(先行も特に問題なくこなせるが)。そのため、ラストでスパートをブロックされればさすがのテンペストでも勝利は難しい。
「高森君。かなり厳しいレースになると思います」
「ええ、前のレースも前と外を塞がれて危なかったですからね。12頭となればさらにブロックや妨害も露骨になってくるでしょう」
次のアスコットでのレースはさらに厳しい展開になりそうな予感がしていた。
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俺は馬である。
前のレースはちょっと難しい展開だった。
それでも騎手君と俺がコースを見つけて、一気にそこを通り抜けることが出来た。
ちょっと騎手君の脚が柵に当たっていて痛くないか心配だったけど、気にした様子がなかったので安心。
レースが終わって、こっちに来てから世話になっているトレーニング場で、俺は走っている。前のレースの疲労も完全には回復しきっていないが、あと数日で元通りになるだろう。
兄ちゃんたちがせわしなく動いているから、また同じくらいの間隔でレースがあるのだと思う。疲労回復と、肉体の維持を同時に行わないといけないが、そこはまあ努力だな。
それにしても今日は人が多い。
おっちゃんや兄ちゃんだけでなく、見知らぬ人達がいるな。
あれはビデオカメラか。外国人のカメラマンだな。
ということは俺、海外デビューですか。そうですか。
【俺の身体をピカピカにしてな~。あと帽子】
「はいはい、ちょっと待ってな」
兄ちゃんが俺の鬣や身体をブラッシングしてくれる。そして俺の頭に帽子。
完璧。
このイケメン顔をしっかり映してな。
『今日は日本からやってきたスーパーホースの取材にやってまいりました。インターナショナルステークス、アイリッシュチャンピオンステークスを勝利したテンペストクェークです。こちらはトレーナーの藤山順平さんです。本日は取材を受けていただきありがとうございます』
『イギリスの競馬ファンの方々も、テンペストクェークがどんな馬なのか気になっているでしょうから。何でも聞いてください。こっちに来てからは、馬や厩舎スタッフのことを考えて慣れるまでは取材は全て断っていましたが、これからは取材は解禁しますので、よろしくお願いします』
こっちに来てから初めての取材だな~
それがまさか海外テレビとは。
『帽子を被っていますがこれは……』
『ああ、気にしないでください。こういった外部の見知らぬ人間が来ると帽子を被らせろとうるさいものでね。変なことを覚えたようです。ただ、彼もうちの厩舎の一員なので』
『なるほど、面白い性格をしているようですね』
『よく言われますよ』
何言ってんだかわかればなあ……
いやわかったらそれはそれで怖いけど。
『それでは、始めて行こうと思います。まず、イギリス遠征に来ようと思った経緯についてお願いします。様々なリスクを負ってまでもこの国に来た理由はありますか』
『単純に、テンペストが挑戦可能な大レースが多かったこと。あとは本場のイギリスでGⅠを獲ってほしいと考えたからですね。テンペストが得意とする距離はマイル~10ハロンなので、英国際Sをはじめ、テンペストに勝ち目のあるGⅠレースがあったことがイギリスに来た最大の理由ですね。日本人として、近代競馬発祥の地でGⅠを獲っている姿が見たいという気持ちもありました』
『日本の馬もレベルが高いことは承知していますが、やはり芝を含めた競馬の違いなどもあり難しいと思います。それでも勝つ自信があったのでしょうか』
『正直に言いますと、ありました。彼は日本でパワーが必要な馬場状態でも問題なく走れていました。そのため、こちらの競馬場の芝にも対応できると考えていました。それに、輸送にも強く、適応能力が桁違いに高く、イギリスの環境にもすぐに適応できると考えていました。実際に彼は数日でニューマーケットを自分の庭のように受け入れていました。彼はもうこの厩舎の長として受け入れられていますよ』
『確かに馬がリラックスしているように見えますね。藤山トレーナーの話から考えるに、イギリスやアイルランドの芝に適応できたのも計算の内だったということなのですね。一部のファンからは、彼の4代前のハビタットが大きく影響しているのではないかと聞かれていますが、これも計算の内だったのでしょうか』
『いえ、血統についてはそこまで意識はしていませんでした。それを言ってしまうと日本の馬は4代前にさかのぼると大体が欧州かアメリカの馬になってしまいますからね。ただ、マイル~10ハロンに強いところは代々受け継いでいるのだと思います。彼の父系では唯一のGⅠ馬ですから、危うく日本でハビタット血統は消えるところだったのだと思います』
『ありがとうございます。イギリスでもハビタット系は衰退しつつありますので、彼の子供たちが走るのが楽しみです』
『オーナーの判断なので、どこで種牡馬になるかはわかりませんが、いつかこの地で彼の子供が走ってほしいですね』
『続いて、レースについて聞いていきたいと思います。まず、初戦のインターナショナルステークスからです。12馬身差の圧勝劇でした。これは狙っていましたか』
『いえ、そうではないですね。馬がどんどん前に行ってしまったとのことで、最初は連戦のことを忘れてないかと思ったのですが、存外テンペストが疲れていませんでした。余力を残してあれだけの走りをしたのかと戦慄しましたね』
『あれで余力があったんですね……その2週間後にはアイルランドでアイリッシュチャンピオンステークスに出走しました。このレース間隔はあまり日本馬にはなじみがないと思いますが……』
『そうですね。実際、疲労が抜けきらなかったり、不調が続くようなら出走はしない予定でした。ただ、テンペストは普通に万全の状態になったので、当初の予定通り出走しました。それで勝つことが出来たので、本当に強くてタフな馬です』
『インコースからの末脚は本当に素晴らしいものがありました。高森騎手の騎乗も光りました』
『そうですね。テンペストと一番信頼関係を結べているのは高森騎手です。日本の皐月賞というレースのときから彼らは人馬一体になったと思います。これからも彼が乗り続けますよ』
『高森騎手の騎乗にも注目が集まりそうです。続いて……』
うーん。
今日は真面目な取材みたいなので、あまり俺の出番がなさそうだな……
というかおっちゃんこの国の言葉をしゃべれないんだな。
多分となりに立っている人が通訳しているように見える。
『……テンペストは本当に賢いですよ。自分の名前を認識していますし、自分が負けた馬も覚えています。テンペスト、こっち向いて』
何やおっちゃん。
『本当ですね。強く賢く、それでいてタフ。本当にスーパーホースですね』
『それに結構かわいいところもあるんですよ。テンペスト、お前の好物だぞ』
あれは、メロン。メロンではないか。
まあどうせ安物なんだろう?そうなんだろう?
【うまい!うまい!うまい!】
『すごい勢いで食べますね。好物なんですか?』
『ええ。日本の最高級のメロンです。やっと輸入することが出来ましたよ。これが大好きなんだよな~』
【うまい。もっともっと】
俺はすぐに食べ終えた。
もっとちょうだい。
俺はおっちゃんの服の裾を引っ張る。
『はい、これでお終いだよ。お終い』
【やだ】
『こういうところも可愛いんですけどね』
『はは、可愛さも兼ね備えた馬のようですね』
その後も取材は続くが、結局メロンはもらえなかった。
ちくせう。
次のレースもがんばってもっとたくさんもらうことにしよう。
『次はクイーンエリザベスⅡ世ステークスですが、出走メンバーには豪華なメンツが揃っています。自信はありますでしょうか』
『ええ、ありますよ。マイルのスペシャリストたちが相手ですが、彼なら勝ってくれます。皆さんが驚愕する走りが出来たらと思います』
そろそろ終わりかな。
また来てな~
【また来いよ~】
『テンペストが我々に挨拶してくれたところで取材を終わりにしたいと思います』
番組は数日後に放送され、ファンの人数が増えた……らしい。