欧州遠征を終えたテンペストクェークは、日本へと帰国した。そして、検疫を終えた後、美浦の藤山厩舎の馬房に約4ヶ月ぶりに戻った。
日本馬で初めて女王陛下を背中に乗せたテンペストクェークは当然日本でも大きく報道された。帰国する際に使用した飛行機が日本に到着した際には多くのメディア関係者やファンがその到着を歓迎した。
また、騎手の高森もテンペストクェークとのコンビで海外GⅠを5勝しており、世界の高森などと呼ばれていた。藤山調教師も海外GⅠを通算で5勝しており、歴代トップの記録を更新していた。そしてオーナーの西崎も初の所有馬がテンペストクェークという幸運を通り越した豪運の持ち主であり、欧州遠征を実行するという本当に新人馬主かと疑うような豪胆な馬主だと思われていた。ただ、本人があまり社交界関係に出てこないため(ディープの馬主やヤマニン、サクラの馬主に誘われたら出てくることがある)、割と謎の存在として扱われていた。本人曰く、胃が痛い。とのことである。
久しぶりの故郷に戻り、新しい戦いに向けて調教を積んでいる11月末。美浦トレセンは冬の寒さが到来し始めていた。
「テンペストが帰ってきたら他の馬たちが騒がしいですな」
「うちの厩舎の問題児たちも急に大人しくなったって話題ですよ」
すでに美浦全体を統括する大親分となっていたテンペストだったが、4カ月ほど留守にしていたため、彼の不在中にいろいろとオイタをしようとした馬もいたようである。しかし、そういった馬はダイワメジャーを中心とした別のボス格の馬にわからされていた。
因みに、彼はニューマーケットでも厩舎だけでなく近隣の馬たちのボスに君臨していた。彼がイギリスの地を離れるときは、他の馬たちが寂しそうにしていたという。
今日は、調教助手の本村と共に調教場に向かっている途中である。美浦では、テンペストに道を譲る馬しかいないので、大名行列の気分を味わっていた。
ただ、他の馬が怖がっている様子はなく、
【元気?】
【久しぶり!】
といった感じで軽く挨拶をしているように見えていた。
「本当に変わったなあ……」
若駒時代の彼の威圧的な態度を思い出しながら今後の予定を思い出す。
「次は香港カップか……」
テンペストクェークの次走は香港国際競走で施行されるレースの内の一つである香港カップに出走することが決まった。欧州遠征の疲労も回復してきたこともあり、これならしっかりと走れると判断しての出走宣言であった。出走予定の馬も地元香港を中心に欧州や日本と、多国籍なメンバーが揃いつつあった。
「日本からはアドマイヤムーンとディアデラノヴィアが出走するのか。あとはプライドにアレキサンダーゴールドランとウィジャボードの牝馬組。あとはエレクトロキューショニストも参戦か。見慣れたメンバーが多いな」
忘れがちだが、テンペストは日本の馬である。とったGⅠの内、5勝が海外であるため、海外馬扱いされている節がある。
「どの馬が勝つか、ではなくどうやってテンペストが勝つかになっているようですよ。先日のジャパンカップのディープインパクトのように」
本村の独り言に応えたのは、別の馬の調教を手伝っていた高森騎手であった。
つい先日に行われたジャパンカップ。ディープインパクトは史上初の日本馬の凱旋門賞馬としてジャパンカップに出走した。そして当然のように勝利した。もはやおなじみとなった単勝1倍台の人気に応えていた。
「ディープも有馬記念で引退か……」
「種牡馬になるなら早い方がいいですからね。噂によるとかなりの額のシンジケートが組まれるらしいですよ」
「本人の強さは勿論、血統も最高峰だからなあ。当然と言えば当然でしょうね」
「テンペストは、強さ自体は間違いなく本物なんだけど、血統が微妙だからな。そこまですごいシンジケートは組まれないだろうな」
「もしかしたらイギリスやアイルランドに行くかもしれませんね。まだ先の話ですが」
テンペストクェークは来年も走ることを宣言している。
父がなしえなかった3階級GⅠ競走制覇と、親子3代安田記念制覇が目標である。藤山と西崎は何か企んでいるようだが、そのことは他のスタッフは知らなかった。
一部の関係者からは頼むから早く引退してくれと泣かれたという噂があるが、真偽は不明であった。
「まだまだ元気いっぱいなので来年も活躍はできると思いますね。まずは香港が最優先ですが」
「4歳シーズンの無敗がかかっていますからね。それにここで勝ったら年度代表馬もより近くなるでしょうね」
「そうだな。しかし相当揉めるだろうなあ……」
JRAのお偉いさんが頭を悩ませる様子が思い浮かんでいた。
11月中旬に決定されたカルティエ賞では、テンペストクェークが年度代表馬と最優秀古馬を受賞した。日本馬として初めての栄光であった。
ただ、テンペストクェークは日本では宝塚記念と中山記念しか走っていない。99年の年度代表馬論争以上に混迷を極めるだろうと思われている。
「香港も勝って、もっと悩ませてやるかな」
別に恨みはないが、個人的に好きな馬(騎乗など一度もしていないが)のスペシャルウィークが年度代表馬に選ばれなかったことを持ち出す高森であった。
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俺は馬である。
いつものトレーニング場所に戻ったと思ったら、またよくわからない国に来たでござる。
馬使いが荒いよ~全く。
これはあれが欲しくなりますな。
「……レースに勝ったらあげるよ」
まあレースに勝ったら貰えると思うので頑張りたい。
おっといけない。欲望をむき出しにし過ぎたな。
日の丸、そしてみんなの期待を背負っていることを自覚しておかなければな。
こっちに来てから数日後にはレースである。
今俺は他の馬と一緒に歩いている。
当然俺が一番視線を集めていた。
【またあったね】
【そうだな】
どうやら前のレースで一緒に走った馬がいるようだ。前にいる雌の馬だ。
【今日こそ勝つわ】
【なら俺に勝ってみろ】
すると、その前を歩いていた馬も俺を挑発してきた。
【勝つ。負けないよ】
そういえばこの馬とも走ったな。なんか顔なじみばかり。
取り敢えず、挑発し返しておこう。
【いや~雌の君では厳しいのでは?】
【うるさい。ぶちのめす】
闘争心の高いお姉さま方だこと。
いや~、年上のお姉さんと話すのはいいなあ~
【先輩!僕は速いですよ!ねえ先輩!】
そんな至福のひと時を邪魔するのはいつも男である。
飛行機で一緒だった年下の馬にすり寄られた。飛行機やこっちで生活する建物で一緒だったからか、やけに俺に懐いてきていた。
彼を引き連れていた人間が慌てている。
「ん?アドマイヤムーンとも仲がいいのか。最近は牝馬からモテていると思ったけど、相変わらず牡馬からもモテるな」
【はいはい。そういうのは俺に勝ってから言ってな】
【絶対に勝ちます!】
年下のこいつにも負けられないな。
それにしても調子がいいな。気分も高揚してきたぜ~
更に俺への目線が集まる。
ふむ、俺の仕上がり具合に皆注目しているんだな。
……あの、なんか笑われているんですけど。
【あ!】
「……テンペスト。お前は……」
兄ちゃんがあきれた声を出す。
高揚した気分が一気に冷静になる。
【申し訳ねえ……】
俺の息子が暴れん坊で申し訳ねえ……
「別に他の牝馬がフケているわけでもないし、何に興奮したんだお前……」
いや、気分が高揚していただけなんよ。
あ~恥ずかしい。
今日のレースって結構な規模の競走だよな。めちゃくちゃ人いるし。しかも日本人だけじゃなくて欧米人も結構いるし。
俺の醜態が世界中に流れたってことかよ……
「まあ、すぐに落ち着いたからいいけど」
すでにクールになった俺と俺の息子。
だが一度やらかした記憶は消すことはできない。
レース直前に俺に乗りに来た騎手君も苦笑いしていた。
「何に興奮していたんだ。年上の牝馬に誑かされたのかな?」
【違う……】
俺はそんな童貞ムーブをかましたわけではないのだ。あ、でも俺童貞だった。
その何とも言えない目で俺を見ないでくれ……
【絶対に負けられねえ】
これで負けたら雌馬に興奮して負けたというずっと笑われる黒歴史を作ってしまう。
「まあ、今は落ち着いているからいいかな。さて、今日も勝ちに行くぞ」
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「馬っけを出したときはどうなるかと思ったが、すぐに落ち着きましたね」
「テンペスト、パドックに来る前から妙にテンションが上がっていましたね。それが原因ですかね。フケとか関係なく出るのですね……」
西崎と藤山が本馬場に入ったテンペストを見ながら、パドックでの醜態を思い出す。
観客が少ないレースでならまだいいが、国際GⅠであれをやられるととんでもなく恥ずかしい。
テンペストは勝てば帳消しになると考えているようだが、ピルサドスキーの例を見ると、永遠にネタにされることが確定している。
ただ、それでも人気を見ると圧倒的一番人気であった。すぐに落ち着いたのが功を奏したようである。
「テンペストは勝てますかね……」
「パドックでの行動はそこまでマイナスに作用はしないでしょうね。高森騎手が乗り込むころにはいつも通りに戻っていました。調教も完璧ではありませんが、前回のチャンピオンステークスよりは調子がいい状態には持ってこれました」
「そうですか……それでも心配になってしまいますね」
「テンペストは勝ちますよ。安心してください」
藤山の言葉には確信があった。
最強の王者につけられた名前は、‘天災地変’。
世界を駆け抜けた大嵐と大地震が香港を襲う。
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香港は、日本に近いため、多くの日本人が香港の沙田競馬場を訪れていた。
日本の民放やケーブルテレビ関係の報道関係者も香港入りして、報道を行っていた。
『沙田競馬場ですが、多くの日本の競馬ファンが訪れています。今年も数多くの日本馬が出走を表明しております』
香港スプリントにシーイズトウショウとメイショウボーラー。香港マイルにダンスインザムード。香港カップにアドマイヤムーンとディアデラノヴィア、テンペストクェーク。香港ヴァースにソングオブウインドとアドマイヤメイン。以上の8頭が出走予定である。
特に香港カップに出走するテンペストクェークは日本、現地ですでに大本命の単勝1倍台になっていた。
香港に応援に来ている競馬ファンも多数おり、彼ら彼女らにインタビューをしていた。
そして今まで話しかけるか否か迷っている珍集団もいた。
青色の幟と横断幕を持った集団がおり、異様な雰囲気を醸し出していた。別に大声を上げるわけでもなく、礼儀正しく振舞っているので、特に害はないが、目立ってはいた。
「とりあえず話だけ聞いてみましょうか」
クルーの決定でインタビューに向かうことになったようである。
『すいません。日本の方ですか?』
『ええ、そうですよ。日本のテレビですか?』
『○○テレビの○○という番組の中継をしておりまして、今日の香港カップに来た観客の方にインタビューをしているのです。もしよろしければご協力していただけますか?』
『ええ、勿論構いませんよ』
珍集団の代表としてインタビューを受けたのは、一人の男性であった。
『そちらの幟や横断幕は自作のモノですか?』
『そうですね。元々ゼファー魂という競馬ファンなら一度は見たことがある横断幕がありまして。それを模倣してテンペスト魂というものを作って応援しようじゃないかと思いましてね。今ではゼファー魂とテンペスト魂でこうやって応援している次第ですよ。あ、ちゃんと許可は取ってますのでご安心を』
『……もしかしてイギリスやアイルランドに行ってましたか?』
『いましたとも。当然です。おかげで無職になりましたが、テンペストクェークのお陰で生活は成り立っていますよ』
ヤバい奴の話を聞いてしまったと少し後悔した一同であった。
『テンペストクェークですが、どのようなところに魅力を感じていますか?』
『その圧倒的な強さもそうなんですが、賢く、気性も素晴らしいところですね。見ていて楽しい馬というのはそうそういませんよ』
『なるほど。こうやって多くの人も魅了するのもテンペストクェークの魅力の一つなのですね』
『その通りだと思います』
こうして、一般人?のインタビューが終わり、香港国際競走の出走時間が刻一刻と迫ってきていた。
香港ヴァースや香港スプリント、香港マイルが終わり、日本馬は残念ながら勝利することはできなかった。このため、テンペストクェークら3頭にかかる期待も大きくなりつつあった。
『……他の馬には申し訳ないですが、テンペストクェーク一択ですね。彼が負ける姿が想像できない。プライドやアドマイヤムーンも強い馬ですけど、格が違いますね。ほかにも調子がよさそうな馬もいますが、この距離でテンペストクェーク相手に勝つのはかなり難しいと言わざるを得ませんね。パドックで少し興奮した様子でしたが、本馬場に入るころには落ち着いていましたし、それで弱くなるような馬とは思えませんね』
4歳になって7戦7勝。
彼は絶対王者である。
競馬に絶対はない。だが、今の彼には絶対があった。
『……出走13頭。今スタートしました。内枠ハイインテリジェントが飛び出した。テンペストクェークもいいスタートを切った……』
2006年香港カップは、ハイインテリジェント、グロールが先頭になり、馬群を引っ張っていく形となった。
有力な逃げ馬がいなかったこともあり、ペースはややスローであった。
そんななか、テンペストクェークと高森騎手は先行策を選択した。
『……注目のテンペストクェークは前方4番手。ヴィヴァパタカと併走しながら先頭集団で競馬を進めています。中団にウィジャボードにエレクトロキューショニスト。アドマイヤムーンとプライドは後方におります……』
沙田競馬場のバックストレートを先頭から4頭目で走っていた。
彼は何度か先行策で競馬を進めていたこともあるため、熱心なファンは特に心配もなくレースを観戦していた。
ペースはややスローペースとなっていた。
『……第3コーナーから第4コーナーに入ります。各馬ペースが上がってきた。ヴェンジェンスオブレインが先頭になる。後方のプライド、アドマイヤムーンもどんどん上がってくる……』
最後のコーナーを曲がると、後方にいた馬たちが外を回りながら、直線でのスパート態勢に入っていた。
『ラスト400メートルを切った。各馬鞭が入っている。テンペストクェークが内から出て、一気に先頭に立つ。それを追うようにウィジャボードとエレクトロキューショニストも伸びてくる。外からプライドだ。プライドも上がってきたぞ。さらにアドマイヤムーンも上がってきた!』
『残り200メートルでテンペストクェークが先頭。その後ろにエレクトロキューショニストだ。ウィジャボードは苦しいか。プライドが差を縮めてくる。テンペストを差し切るか。後方からさらにアドマイヤムーンだ。先頭との差が縮まる縮まる!』
『100メートルを切った。先頭のテンペスト粘る。プライドが伸びてくる。そしてアドマイヤムーンも来た。これはどうだ!』
先に仕掛けて、先頭に立ったテンペストクェークを、残り100メートル付近で差し切ろうとしているプライドがいた。最内からは、テンペストクェークを差し切ろうと、エレクトロキューショニストも伸びてきていた。更に外から猛烈な加速で2頭を一気に抜かそうとしているアドマイヤムーンがいた。勝負はこの4頭だと観客は直感で判断していた。
もしかしたらチャンピオンステークスのような鼻差の勝負になると思った。
『しかし抜けない、抜けない。テンペストクェークが1馬身リード。先頭テンペストだ!3頭は間に合わない!先頭はテンペストクェークだ!』
猛追を見せるプライドに1馬身差をつけたままテンペストクェークはゴール板を駆け抜けた。アドマイヤムーンも驚異的な末脚で先頭を捉えようとしていたが、プライドと同時に入線するのが精いっぱいであった。エレクトロキューショニストも最後の最後でプライドとアドマイヤムーンに差し切られ、アタマ差で4着であった。ウィジャボードも最後に伸びを欠き、そのまま5着入線であった。
『テンペストクェーク、GⅠを9勝目。強い、強すぎる。これが世界の頂か。これが世界最強か。挑戦者をすべてなぎ倒しての勝利です!』
『大捲りからの大外一気、中団待機からの差し、そして先行策からの好位抜出。逃げ以外の脚質が自在なのも恐ろしいところですね』
地元の香港の競馬ファンに世界最強の強さを見せつけたテンペストクェーク。
この香港カップの勝利でGⅠ競走を9勝。重賞競走は11連勝。GⅠ競走に限定しただけでも7連勝となった。
テイエムオペラオーとは異なった形の無敗の成績で4歳の競走生活を終えた。
『おおっとテンペストクェークに近づこうとする馬がいますね。これは......アドマイヤムーンとエレクトロキューショニストですかね』
喧嘩をしているわけでもなく、戯れあっているようにも見えた。
牡馬に囲まれて死んだ目をしているテンペストを、クールダウンを終えて装鞍所に戻ろうとしていた他の馬たちが興味ありげに見つめていた。
【君たちもこっちにきたら?】
テンペストの嗎が響くと、他の馬がテンペストの周りに集まっていた。
沙田のターフ上でちょっとしたサラブレッドの群れができた。
流石に迷惑だと騎手の高森に解散するように言われたため、サラブレッドの集会はすぐに終了した。
ちなみにテンペストは最後までプライドやウィジャボードの方を見ていた。アドマイヤムーンに絡まれて邪魔されていたが。
ルンルン気分で表彰式を終え馬房に戻ってきたテンペストに、「色気付きやがって......馬っ気出していたくせに」とボソリと呟いた秋山は、テンペストによって服を破かれたという。
テンペストクェーク 欧州遠征+香港遠征成績
8月22日 インターナショナルステークス:1 GⅠ(ヨーク・芝10F88Y) 298,095ポンド(レート220円で計算。65,580,900円)
9月9日 アイリッシュチャンピオンステークス:1 GⅠ(レパーズタウン・芝10F) 599,000ユーロ(レート148.5円で計算。88,951,500)
9月23日 クイーンエリザベスⅡ世ステークス:1 GⅠ(アスコット・芝8F) 141,950ポンド(レート221円で計算。31,370,950円)
10月14日 チャンピオンステークス:1 GⅠ(ニューマーケット競馬場・芝10F) 198,730ポンド(レート222円で計算。44,118,060円)
12月8日 香港カップ:1 GⅠ(沙田競馬場・芝2000メートル) 12,000,000 HK$(レート15円で計算。180,000,000円)
合計:4億1002万1410円
総賞金:13億5235万6410円
※インターナショナルステークスとアイリッシュチャンピオンステークスは2006年の賞金額がわからなかったため、2007年の賞金額を代用しました。
ディープを香港ヴァースに出走させるか悩んだんですが、JCから期間が短すぎることと、有馬記念に日本最強馬がいないのは少し寂しいと思ったので、有馬記念に出走してもらうことになりました。