北海道の冬は厳しい。マイナス十度を軽く下回る日も多く、試される大地といわれる過酷な土地である。
馬は寒さには強いため、人間に比べたら北海道の冬はましに感じているのかもしれない。
「それにしてもお前はあったかそうだな」
目の前にボケーッと立っている鹿毛の馬に対して哲也が呟く。
新年を迎えて1歳になった鹿毛の仔馬は、生まれたときよりはるかに大きくなっていた。そして、冬毛に生え変わったことで、全体的にもっさりとした感じになっていた。
「相変わらず何考えてんだかわからんなあ……」
冬の始まりから明らかになった彼の奇行。何度かやめるようにやさしく注意してはいる。しかし、注意してしばらくは奇行を止めるが、スタッフが見てないところで行っているため、哲也もどうしようかと悩んでいた。
「土を掘ったり埋めたりするのは雪が降ってからやらなくなったからいいけど、木や柵をジャンプして越えようとしているのは不味いよなあ」
ケガでもしたら、大変なことである。ちょっとした傷から病原菌が入って病気で亡くなることだって考えられる。脚の骨を折れば、競走馬としての命どころか、「馬」としての命も失われかねない。
さすがに冬になってからこういった奇行はしなくなっていたが、春になったら再発する可能性がないとは言えなかった。
「また、みんなと相談しないとなあ……」
本性を現し始めたなあと感じ始めた島本牧場であった。
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俺は馬である。
冬になったようで、さすがの馬でも寒く感じることがある。ここってどこなんだろうか。サラブレッドってたしか北海道で生まれることが多いって聞いたことがあるけど。
まあ別にいいや。
冬になって穴掘りも走高跳もできなくなった(あと普通に監視の目が厳しくなってできなくなった)。ちくせう。
ただ、定期的に脱走していることは知られていないらしい。まあクマや車とか怖いから柵のすぐ外でキャッキャしているだけだけどね。このスリルがいいのよね。
それはそうと今俺はいろんな人に囲まれている。
というかなんか眠いようなそうでないようなボーっとした不思議な気分である。
なんか脚に変な機械を押し当てられるし、よくわからん。
って鼻になんか入れてきた!やめてくれ!
別に痛いわけじゃないけど(感覚ないし)、なんか嫌だ!
さすがの俺も怒っちゃうぞ!
【やめてくれ……】
「お~し、いいこだぞ~。これで健康診断は終わりだな。骨の状態もいいし、大丈夫そうだ」
「めっちゃ耳絞ってますけど……」
「鎮静剤が効いているとはいえ、サラブレッドですからね。それにしても体重は400㎏以上あるのか。結構大きくなりそうだな」
「まだまだ成長すると思いますし、経過を見守りましょう」
鼻にあんな変なものいれるとか鬼かこいつら。
二度とごめんだぜ……
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冬が過ぎ、厳しい寒さの北海道にも春が訪れる。
この年、2002年に誕生した仔馬たちは全員、すくすくと成長していた。
そして、2003年に生まれた仔馬たちも母親と共に春の訪れを感じていた。
「ボー。おまえにも弟が生まれたぞ~」
セオドライトの2003が3月終わりごろに誕生し、問題なく育っていた。育児放棄が心配されたが、昨年のことが嘘のように、当たり前のように生まれたばかりの仔馬を育てていた。
「なんでボーは見放されちゃったんだろうなあ……」
まだまだ馬のことはわからないなあとつぶやきながら、馬房で寝ている鹿毛の馬を見つめる。
相変わらず貧乏くさいというかもっさりとした印象を受ける外見の1歳馬は、春になり、哲也たちが忘れかけていた奇行をまた始めていたのである。
「さて、そろそろ外に出すか。ボーいくぞ~」
哲也の声に反応して、軽く嘶き、彼の下に近寄ってくる。
「名前を認識できているあたり、賢いんだろうけどな」
放牧地に入ろうとすると、外にいた父親に止められる。
「今日は先にこっちに来てくれ」
それに従い、父親の後ろをついていく。少し歩くと、乗馬用の広場があった。島本牧場は乗馬や簡単な馬術もやっているので、乗馬自体は珍しい事ではない。
「ここにある障害コースで走らせてやればいいと思ってな。もちろん高さは低いし、安全面にも配慮するが。変な木や柵でやられるより何倍もましだ」
「確かにここならボーもストレス発散できそうだな」
狙い通り、ボーは小さな障害を越えたりして遊び始めた。初めてなのにやけに上手であった。
「いや、障害競走馬を育てているわけじゃないんだけどなあ……」
「確かにボーの父の血統は短い距離のほうが得意だし、障害競走は無理だと思うけど、バネが鍛えられたなら普通の競走でも役に立つさ。一応何か起きないように見張っておいてくれ」
父親は厩舎のほうに戻っていった。
「それにしても楽しそうにしてるなあ。これでよかったのかもしれんな」
そんなほのぼのとした日々は、長いようで早く過ぎ去っていった。
そして、彼のターニングポイントが訪れようとしていた。
それは夏も近づき始めたある日のことである。
「哲也~ちょっとこっちに来てくれ」
父親に呼ばれたため、掃除を中断して声の方へ向かう。そこには若い男と父親が談笑していたのだった。
「こちらは西崎さん。うちの馬を見に来てくださった馬主さんで、彼の父親はよくうちの馬を買ってくださった恩人みたいな人だったよ」
馬主と聞いて、哲也は態度を改めて歓迎した。
「これは、ようこそお越しいただきました」
「いやいや、そんなにかしこまらなくてもいいですよ」
自分と同じ年かちょっと上くらいかと思い、馬主ってすげえなと心の中で思っていた。
「1歳馬を見せてもらいましたけど、やっぱり自分にはよくわからないですね。やっぱりいるんですか?この馬が次のダービー馬だ!って言っちゃう人とかって」
「さすがにこの牧場の馬を見てそう言ってくださった人はいませんね。調教師の方が見に来ていただけることもあるんですけど、よくて重賞を獲れそうだ、とかそのレベルですね」
「やっぱりそういうものなんですね……ってそれはそうと、あと1頭見てない馬がいるとかで彼を呼んでもらったんですよね」
「あー、そうだそうだ。彼にボーを見せてやってくれ。これからあそこに行くだろう」
本来の目的を思い出したかのように、哲也に指示を送った。ストレス発散も兼ねたボーの運動は他の馬と違って特徴的といえば特徴的である。
「わかりました。これから案内しますので少々お待ちください」
ボーを連れて歩いていき、いつもの場所につくと、嬉しそうにボーは走り回っていった。
「これって乗馬?馬術?で見たことがあるんですけど、こういうトレーニングって行うものなんですか?」
「いや、普通はしないと思います。少なくともここでは。ただ、彼は勝手に柵や低木でジャンプしてしまうので、安全面に配慮してここで運動させています」
「うまいものですねえ……それに楽しそうです」
ボーは普段は眠そうにしていることが多い。しかし食べるときと遊ぶときは楽しそうにしている。
しばらく彼の「遊び」を眺めていると、唐突に馬主の男から言葉が発せられた。
「決めました。この馬にします。私の初めての馬は彼に決めました!」
「えぇ……」
こうして、セオドライトの2002は、馬主が決まったのであった。
その価格は意外にも高く、750万円ほどであった。
曰く、こんなに面白そうな馬を見せてくれたお礼も兼ねた金額であった。
種付け料や1年間の維持費等を込みにしても黒字であったうえ、昨年からいちばん気にしていた馬を選んでもらえたことに安堵していたのである。
北海道……ではなく、北海道から東京行きの飛行機の中で一人の男が笑っていた。
「いい出会いに巡り合えました」
島本牧場で鹿毛の牡馬を購入宣言したばかりの男であった。さすがにすぐに購入! とはいかず、しかるべく手続きを行う必要があるため、いったん東京に戻ることになったのである。
そもそも彼は、馬主というものにそこまで興味があるわけではなかった。父親が馬主をしていた事もあり、馬そのものには愛着があったが、競馬には興味は向いていなかった。
事実、亡くなった父親の会社を継いだあとも、馬のことは忘れていたぐらいである。
ただ、馬主のネットワークというものは結構大きなものであるという話を聞いたので、とりあえず馬主の資格を取り(幸い条件はクリアできていた)、父親とつながりのあった牧場に赴いたのであった。
「厳しい世界だって聞いているけど、少しくらい期待してもいいですよね」
こうして、ボーは東京の馬主(初心者)、西崎浩平に買われたのであった。
よかったね。
西崎浩平の父は、経営者としては一流だったが、馬主としては二流でした。
彼の年齢は30代中盤くらいだと思ってください。若く見られるが嬉しいわけではないとのこと。