6月中旬の北海道。
本土に比べると梅雨がないため、比較的過ごしやすい季節である。
サラブレッドの生産が盛んな北海道のとある地区に、島本牧場があった。
小規模牧場の島本牧場には、少し前では考えられないほど注目が集まっていた。
GⅠ競走を12勝している世界最強のサラブレッドのテンペストクェークを生んだ牧場であるからだ。
現在、そこには多くの報道陣や一般人が詰め寄せていた。
「ボーの奴が帰ってくるってだけでここまで人が集まるとはな」
牧場長の島本哲司は報道陣を見ながら呟く。
「あなた、テンペストグッズがどんどん売れていますよ。今のうちに稼ぎましょう」
哲司の妻はテンペストグッズを報道陣やファンに押し売っており、商魂の逞しさが垣間見える。
地元の役場も全力で乗っかっており、テンペストクェーク展を実施していたりするくらいである。
テンペストが勝利した競走のトロフィーや優勝カップ、賞状、優勝レイなどがオーナーから提供されていた。特に英国を中心とした海外GⅠ関係のものは、日本ではこの展示だけしか見られないということもあり、多くの競馬ファンが押しかけていた。
また、テンペストは8月以降、長期のアメリカ遠征に行くことを表明しており、競走馬としてのテンペストを日本で見ることができる機会が今後は少なくなると考えられたため、テンペストの放牧に多くの人が駆けつけていた。
「あ~そこに入るなって言っているでしょう。頼むから変なことはしないでくれよ~」
息子の哲也は報道陣や観客を誘導するので精いっぱいであった。
一応役所の支援もあり、警備関係の人員を提供してもらっているためか大きなトラブルは起きていなかった。
「テンペストの弟妹たちがいい値段で売れたおかげで、放牧地も拡張できたし、そっちにテンペストを入れるから大丈夫だとは思うけどな」
テンペストの放牧地は、乗馬コースなどがある場所の近くであるため、現役の繁殖牝馬や仔馬たちがいるところとは離れた場所である。刺激を与えるようなことにはならないだろうと考えたため、今回の短期放牧を受け入れたのであった。
しばらくすると、JRAの文字が書かれた馬運車が牧場に入り、観衆がどよめく。
「テンペストだ!」
馬運車から係員に引かれて降りてきた鹿毛のサラブレッド。彼こそ、世界最強の競走馬であるテンペストクェークであった。
眼を細めながら、トテトテと歩いており、周りに大勢の人がいる事も全く気にならない様子でスタッフに曳かれて歩いていた。
「相変わらず図太いなあ……」
こうやって人が集まることを許可しているのも、テンペストがサラブレッドとは思えないほどの図太さを持っているからだ。実際のレースではズブさとは全く縁がないが。
「あ、こら!フラッシュは禁止だ!」
どこかのバカがフラッシュ撮影をしてしまい、もろにその光をテンペストに浴びせてしまった。
ヤバいと思ったのか撮影者は謝っていたが、周りから白い目で見られていた。
肝心のテンペストは立ち止まったものの、特に驚いた様子は見せていなかった。
しかし、カメラマンに近づくと、手にしていたカメラを奪い取り、そのまま持って行ってしまった。
「……また変なことをしている」
他の人間も茫然としながらも、ルールを破った奴に対する報いであるとして考えるのを止めた。
こうして、テンペストの短い休養が始まった。
「はあ、どうすっかねえ」
牧場長、島本哲司は悩んでいた。
セオドライトの次の種付け相手である。
これまでの種付けの相手は以下のとおりである。
セオドライトの2002(牡):父ヤマニンゼファー
セオドライトの2003(牡):父トウカイテイオー
セオドライトの2004(牝):父ヤマニンゼファー
セオドライトの2005(牡):父アグネスデジタル
セオドライトの2006(牡):父フジキセキ
セオドライトの2007(牝):父グラスワンダー
そして今年はハーツクライを種付けしており、受胎も確認されている。
テンペストクェークはGⅠを12勝した怪物となり、父トウカイテイオーの牡馬も先日地方競馬で重賞を勝利している。ヤマニンシュトルムも今年の牝馬戦線を賑わせている一頭である。
父アグネスデジタルの牡馬も近々栗東の厩舎に入厩予定で、無事に競走馬としてデビューが出来そうだといわれている。
また、牧場にいる2頭の仔馬も特に問題なく成長している。
「来年は奮発してディープインパクトを……」
テンペストのライバルであるディープインパクトは今年から種牡馬入りしており、一年目から目が飛び出るほどの種付け料であった。
しかし、彼の産駒成績が上がれば上がるほど、種付け料は上昇していくことも考えられる為、2,3年目くらいが狙い時であるとも考えていた。
セオドライトとはノーザンダンサーの5×5のクロスがあるだけなので、特に問題もない。
「大野君は身の丈に合わない投資は考え物といっていたが、勝負することも必要だろうな」
普通に成長さえしてくれれば、ディープという良血統とセオドライトの実績が重なって、大きな金額で取引できるだろうとも考えていた。これを捕らぬ狸の皮算用ともいう。
哲司の机にはテンペストクェーク関係で連絡を取ってきた人々の名刺などがまとめられている。
日本最大級の馬産グループを筆頭に、有名クラブの代表者、有名馬主たちである。
ちなみに、セオドライトの2005はセリでディープの馬主に購入されており、いい馬を買うことが出来ましたと声を掛けられたこともある。
もっと厄介なのは、海外の超大物の馬主たちの日本での連絡先もあることで、こちらから連絡することすら躊躇うようなメンツばかりであった。
そもそも島本牧場は地方を中心に細々と馬を送り出す小規模牧場である。零細というほど弱くはないが、大手に比べることもできないほどの規模である。
そんな小規模の牧場が所有する牝馬に父ヤマニンゼファーを種付けしたのも、父ヤマニンゼファーの馬が徐々に消えつつある状況に寂しさを覚えたからという超個人的な理由があったからだ。
その個人的な理由で種付けした馬が、GⅠを12勝し、17億円を稼ぎ、そして世界の名立たる競走馬たちの仲間入りをするとは全く予想できなかった。
日本のGⅠだけならまだ許容範囲内であった。しかし海外、それも本場の欧州で無敵の強さを見せつけて勝ちまくったのである。
生産者として表彰を受けたこともあったが、何が何だか全く分からなかった。
そのうえ、テンペストという馬を超えたUMAのような生物が、女王陛下を乗せたという意味不明なことをやらかしたこともあり、外務省を通じて英国王室とのやり取りをするという、大変胃が痛むことも行われていた。
「まさかとは思うけど、皇室関係者は介入してこないよね……」
ここから連絡が来たら、流石に胃が痛むどころの話ではないため、絶対に波風を立てないでくれよと思っていた。
藤山調教師も西崎オーナーも、良い意味でも悪い意味でもアクティブな人達であるため、何をしでかすかわからなかった。
その証拠にテンペストはこの短期放牧を終えると、すぐにアメリカに飛び立つことになっている。長期のアメリカ遠征であり、本気でダート王国に殴り込みに行く予定である。
「本当にすごい馬になっちゃったなあ……」
いろいろな意味も込めて感慨にふけっていると、息子の大声が聞こえてくる。
「父さん!栗東の調教師の先生から連絡が来ているよ」
「なんだってこんな時に」
この電話のせいで、島本牧場のスタッフに更なる負担が生まれるとは、この時は思いもしていなかった。
―――――――――――――――
俺は馬である。
今、俺は休養中である。
ちょっと前のレースに勝利した俺は、この生まれ故郷である牧場に連れてこられたのである。
どうやら今までの激戦の疲れを癒すために、この懐かしく、そしてのんびりした場所に送られたようだ。
最近いろいろと疲れていたので、助かる。
「ボー!運動するぞ」
食っちゃ寝をしていると身体のキレも落ちるので、定期的に俺の上に人が乗って運動はすることになっている。
俺の世話をしてくれるのは、若い男だ。トレーニング場でお世話をしてくれる兄ちゃんより若いな。
しばらくゆっくり歩いていると、見慣れた場所を発見した。
「ボー、そっちは乗馬用だから、ってそういえば昔ここで遊ばせていたんだよな」
懐かしき我が子供時代。あの時は調子に乗っていたが、それでも懐かしい場所だ。
久しぶりに行きたい。
「仕方がないか、ケガしないように気を付けるんだぞ」
上に乗った人間がおりて、俺を柵や障害物がある場所に入れてくれた。
【うーん、こういうのもまた一興】
俺がケガをしないように作られているためか柵や障害物はかなり低い。
まあ、俺も誰かに迷惑はかけたくないので無理はしない。
しばらく俺が遊んでいると、若い兄ちゃんがなにやら俺をじっと見つめてくる。
いやん、そんな目で見ないで。
「テンペストは馬術もできそうな気がするなあ……ちょっと教えてみるか」
何やら怪しい顔をしておりますなあ。
どうやら俺の上に乗りたいとのことなので、大人しく指示に従う。
俺の上に乗れるのは騎手君を含めた限られた人だけなのだから、もっと楽しみたまえよ。
「テンペスト、ちょっと俺の指示に従ってくれるかな?」
なんだ?走るのか?なんでもいいや。
【何するの?】
上に乗った彼は何やらリズムよく俺に指示を出してくる。
ふむ、どうやらこのリズムの通りに歩けってことだな。
ふふ、俺は完璧な馬だからな。
「そうそう、うまいうまい!」
【どんなもんよ】
普段の走りとはまた違って面白いな。
これはこれで楽しい。
「これでいざとなったら馬術馬になれるな」
うん、いい運動になった。
―――――――――――――――
「うまいぞ~」
乗馬コースできれいな常歩を披露している馬がいた。
早朝一番ということもあり、島本牧場の乗馬コースには人はほとんどいなかった。まだ日が昇ったばかりであったが、テンペストや馬産関係者にとってはそこまで早い時間ではなかった。
「さて、そろそろ終わるかな」
良い運動ができたと上機嫌になったテンペストを連れて哲也は馬房へと向かったのであった。
「すいません。朝早くに乗馬のコースにいた馬は、こちらの乗馬クラブの馬ですか?」
馬の世話もいち段落付き、哲也は応援のために乗馬関係の仕事を手伝っていた。
しばらく仕事をしていると老齢の男性から声を掛けられた。
「ボーのことですか?鹿毛で大柄の?あの時間帯に?」
「敷地の外からでしたが、あなたとの呼吸もあっており、綺麗な常歩、早歩だったので印象に残っておりましてね」
確かに遠目からだと馬の種類はわからないなと思いながら、自分が乗っていた馬について紹介する。
「あの馬はテンペストクェークという現役の競走馬ですよ。ちょっと運動もかねて歩かせていただけです」
「えぇ……あれが現役の競走馬なのですか……それにテンペストクェークといえばGⅠを勝っている馬ですよね。牧場の方にいるのかと思いました」
「ええ、ここが彼の生まれ故郷なんですよ。てっきりご存知だと思っていました」
老紳士が言うには、島本牧場の近くに自分の知り合いがいるらしく、初めてこの場所に来たとのことである。
朝、散歩がてら近くに乗馬をやっている牧場に来たら、テンペストクェークに乗っている哲也のことを見かけたようである。
テンペストクェークが島本牧場にいることは知っていたが、乗馬施設がある方にいるとは思わなかったらしい。
ある意味では当然である。
「ずいぶん昔ではありますが、乗馬を嗜んでいたこともありましてね。それにしても現役の競走馬があそこまで大人しいとは思いませんでした。引退した馬が乗馬になることはありますが、訓練する必要があると聞きますからね」
「テンペストクェークは本当に人に従順なんですよ。多分訓練をすれば馬術関係の競技にもすぐに出場できるくらいには賢くて気性がいいですよ」
「なるほど。引退後は馬術馬になっても面白そうですな」
「そうですね。ただ、彼は種牡馬になると思うので、難しいと思いますよ。さすがのテンペストでも種牡馬生活を送りながら馬術の練習はできないと思いますので」
「それは少し残念ですなあ……」
こうして老紳士との会話は終わった。
この短い期間で、島本哲也は簡単な馬術をテンペストに教えた。このことが、のちのち厄介な出来事につながることを、この時は誰も知らなかった。
―――――――――――――――
俺は馬である。
なんか2回目だなこれ。
いや、気のせいか。
俺は今、大変な目に遭っている。
俺は生まれ故郷に来てしばらくは一人で悠々と暮らしていた。
しかしつい先日から、俺の隣の場所で新しく暮らすようになった馬がいる。
多分年下の雌の馬だ。
まあ、別に雌だから興味があるとかではない。
【何見てんだ。殺すぞ】
道路と柵があるから大丈夫だけど、あちらさんの殺気がヤバい。
というか基本「殺す」「潰す」の言葉しか聞こえないのが怖すぎる。
【あんちゃん、こいつ、めっちゃ怖いよ】
「ごめんなボー、お前の妹がここまで気性が悪いとは思わなかったよ」
というか雌の馬を隣にしない方がいいと思うのだけど。
俺は気にしないけど。
【……フン】
何があったんだよ……。
ということで俺は激ヤバな馬の面倒を見ることになったようである。
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「なんでうちの牧場で預かることになったんですか……」
島本牧場には現役の競走馬が2頭放牧で繋養されている。
1頭はテンペストクェークで、人に従順で賢いため、全く問題はなかった。
問題があるのはもう1頭の方であった。
ヤマニンシュトルムという名前の3歳牝馬であり、GⅠ戦線を賑わせていた実力馬である。
そして彼女はテンペストクェークの全妹であり、島本牧場出身の馬である。
「仕方がないだろ。気性が悪すぎてどこの育成牧場も放牧先として断られたんだから」
「本当になんで競走馬になれているのか不思議なレベルですよ」
面倒見のいいテンペストクェークの隣の放牧地で繋養しているが、すでに彼にも喧嘩を売っており、癖馬に強い彼でも手を焼いているようである。
「スタートがよく、基本大逃げでなおかつ大外を走るから接触事故とかは起こしたことはないのが救いだな。ただ、調教も満足にできないし、騎手の指示もガン無視しているので、競馬らしい競馬ができないとのことだ。一応、レースに出ないと世話をしてもらえないことがわかっているのか、「レース」は走ってくれるらしい」
桜花賞が終わり、手ごろなレースがないことや、馬体がまだ完成されていないこともあり、夏まで休養することとなっていた。しかし、日常生活での気性が悪すぎた結果、どこの放牧先にも受け入れを断られたようである。すでに厩務員を筆頭に数人の関係者を負傷させていることが原因である。
「狂乱の暴風娘と呼ばれてファンもいるようですが、現場からしてみればたまったものではないですね」
騎手が必死になって抑えようとするが、首を獅子舞のように振り回しながら爆速で大逃げをするさまは見ているファンからは面白がられていた。しかもそれで掲示板に入着する能力があるため、覚醒したらどれだけ強くなるのかという期待もあった。
「せめて、もう少しだけ大人しくなってくれればなあ……」
「まともに調教できていないうえ、馬体もまだ完成していないのにGⅠで入着できるのか。ある意味凄いな」
現在は、生まれ故郷の牧場に来たおかげか、激烈な気性の悪さは今のところは見せていなかった。
「何とかならないものかねえ……」
妹の面倒を見ることになった島本牧場一同とテンペストクェークの明日はいかに……
因みに妹ちゃんはサンデーサイレンス以上、ヘイロー、セントサイモン以下くらいの気性です。プラスαとしてフル装備と取っ払ったメイケイエールのような走りをしています。