7月中旬から行われるテンペストクェークのアメリカ遠征は、当初は1頭だけで殴り込みに行く予定であった。
しかし、テンペストクェークと縁のある2頭の馬がアメリカ遠征に参加すると表明したのであった。
「ダイワメジャーにアドマイヤムーンの2頭がアメリカ遠征に参加するのか……」
アメリカへ同行する予定だった秋山も安田記念が終わった後にこの話を聞かされており、有力馬によるアメリカへの総攻撃を行う遠征になると感じていた。
ダイワメジャーは、安田記念を2着の後、出走予定であった宝塚記念は疲労のため回避して短期放牧に出されていた。宝塚記念でGⅠ2勝目を勝ち取ったアドマイヤムーンは、栗東トレセンで疲労を抜いている最中である。
「昨年の流れで海外遠征への心理的なハードルが下がりましたからね。メイショウサムソンは凱旋門賞、デルタブルースはメルボルンカップを目指すそうですよ」
調教助手としてアメリカ遠征に参加する本村も今年海外遠征を計画している馬たちの情報を振り返る。
ダイワメジャーはブリーダーズカップ・マイルを、アドマイヤムーンはブリーダーズカップ・ターフを目標にしている。
アメリカの競馬はダートが主流であるというのが共通認識である。悪い言い方をすると、芝は二軍に近い扱いともいえる。近年は芝のレースの注目度も高まっているので、完全な二軍扱いというわけではないが、アメリカ競馬を代表する名馬たちは、基本的にはダートの王道を走った馬である。
ただ、そんな芝路線でも、ブリーダーズカップで施行される芝の国際GⅠは、格が低いレースではない。特にBCターフはデイラミやファンタスティックライトを筆頭に、欧州の有力馬が参加したりするため、確実に勝利できる甘いレースなどではない。また、BCマイルもマイルの有力馬が集まることが多く、レベルの高いレースになることも多い。
「なんか他の2頭が帯同馬でテンペストが本命って感じですけど、帯同馬なのは実質テンペストのような気が……」
テンペストは1頭でも遠征先で特に問題なく過ごせる。しかし本来馬というものは繊細で臆病な性質を持っており、気性が荒いような馬でも環境が変わると元気がなくなってしまうようなことは珍しい事ではないのである。
その点、テンペストは2頭と仲が良く、お互いを高め合うことが出来るライバルでもあるため、よい相乗効果が生まれると考えていた。
また人間にも同じことは言える。
テンペスト陣営の遠征スタッフは初のアメリカであるが、海外遠征そのものの経験は、国内屈指のレベルで豊富である。そこに他の2頭の陣営もあやかるということである。グループでいたほうが落ち着くし、安心するというのは馬も人間も変わらないのかもしれない。
「ダイワメジャーもアドマイヤムーンも個人馬主という点も大きかったな」
馬主初心者の西崎オーナーが積極的に海外遠征をして、結果を出している姿に、ダイワメジャーの馬主やアドマイヤムーンの馬主(共同名義であるが)がアメリカ遠征に賛同する形での参加となっていた。
遠征の費用は決して安い金額ではない。ただ、2頭とも海外GⅠを勝利しており、勝算は十分に計算できると判断してテンペスト陣営の計画に乗ったのである。
因みにダイワスカーレットも連れて行こうかと考えたようだが、流石に止めたようである。
「ダイワメジャーもアドマイヤムーンも勝算はあるんでしょうかねえ。そりゃあなかったら遠征なんかしませんが」
「米国の芝は比較的日本に近いようですし、競馬場も小回りである点以外は日本の競馬場と同じような形状なので、戦いにはなると思いますよ」
今年のブリーダーズカップが施行されるモンマスパーク競馬場は、外側のメインのトラックがダートで、内側がターフである。日本の競馬場とは正反対である。そのため、小回りのコースになってしまうのである。
「むしろ心配されるのはテンペストの方ですよ。芝からダートに行くんですから」
「トレセンのダートは普通に走っているので、ダートには苦手意識はないと思いますが……」
「アメリカのダートは日本のものとは違いますからね。ただ、スピードもパワーもあるテンペストならうまく適応してくれると思いますよ。そのための3ヶ月ですからね」
3ヶ月の遠征でどこまで対応できるのか。そこがBCクラシックを勝利するキーポイントであった。テンペストクェークは馬場状態、芝の違いによる悪影響をほとんど受けない能力を有しているので、多分大丈夫だという楽観論も現場では存在してた。
そもそも無理なら大人しく欧州遠征をしていたので、そこはかとない自信が陣営にはあった。
「二人とも、ちょっと来てくれるかな。テンペストの件でね」
二人が海外遠征について話し合っているところに、調教師の藤山が現れる。
「……あいつはいったい何をやっているんだ」
生まれ故郷で疲れを癒しているはずのテンペストが、同じく島本牧場で繋養されている全妹のヤマニンシュトルムと大喧嘩をしたとの話だった。
お互いにケガがなかったので一安心するが、この大事な時期に問題は起こさないでくれとも思っていた。
「それでなんだが……」
その後、北海道で本格的な兄妹喧嘩の仲介をすることになり、海外遠征前にスタッフの気苦労が増えたのであった。
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俺は馬である。
今、俺は飛行機に乗っている。
そう、またなんだ。また海外に行くようだ。
そして今回は俺だけではなく、2頭の馬が同じ飛行機に乗っている。どうも彼らも俺と同じ場所に行くようだ。そして彼らは俺と顔見知りである。
まず、俺のライバルであり、いつも俺に絡んでくる大柄な馬。
【狭い!気持ち悪い!】
そして、眠そうにしている年下の馬。
【またこれか……狭いなあ……】
大柄な馬に関しては説明不要だろう。
俺とよく走っているし、俺と同じトレーニング場で日々過ごしている。どうやら俺と同じように海外に行くようである。
そしてもう一頭の馬は俺たちに比べると小柄な馬だ。あと多分年下。
ちょっと前の海外で一緒に走った馬だな。
俺のことを結構慕ってくれる可愛い奴だ。まあ、レースのときの闘争心は目を見張るものがあるが。
それにしても2頭とも飛行機は苦手なのかな。ちょっと調子が悪そうだ。
いや、これだけの爆音や浮遊感、狭さがあると確かに普通の馬にとっては辛いところがあるのかもしれないな。
【おい、お前ら】
【なんだ!】
【なに?】
【もっと楽しく】
【無理!】
【疲れる】
ノリが悪いな。
こういう時は誰かの悪口に限る。
【強い雌の馬がいた】
【詳しく!】
【強い?】
【殺されかけた】
馬にもわかるようにあの凶暴な娘のことを伝える。こいつらも雌の話には興味があるのか。
【怖い】
【大きくて、怖い雌……】
【お前知っているのか】
【あいつ怖い、嫌い!】
あの雌馬、彼に一体何をしたのだろうか……
いや、全方位でケンカを売りまくっているのか。
【俺は勝った!】
【なに!なら俺も勝つ】
【凄い……!】
いつもの調子が出てきたようだな。
さて、長いフライトを楽しもうじゃないか。
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7月中旬、テンペストクェーク以下2頭のアメリカ遠征軍は無事にフライトを終え、アメリカの大地に降り立った。
モンマスパーク競馬場で入国検疫が行われ、特に問題なく、現地の厩舎に入厩した。3頭仲良く同じ厩舎に入厩して、準備万端といったところである。
日本、英国、アイルランド、UAE、香港の5か国のGⅠレースを勝利し、現役の競走馬では世界最強である馬がダート王国であるアメリカ競馬に殴り込みに来たと話題になっていた。
芝では世界最強かもしれないが、ダートではアメリカの馬たちが負けるわけがないと思っている人が大半であった。
その一方で、3カ月近い遠征と前哨戦まで使うテンペスト陣営に、本気で戦いに来ていることは感じ取っていた。
競馬場に入厩して数日は調教を行わず、新しい環境に慣らしていくことから始まった。そして、想定通り、テンペストは数日で新天地の環境に慣れたようで、外で走らせろと煩くしていた。
「ダイワメジャーもアドマイヤムーンも少しずつ慣れ始めているようですね。軽めの調教を始めてみてもいいかもしれません」
「相変わらず元気だなあ……」
すでに現地のアメリカ馬たちから一目置かれているようで、彼が嘶くと、他の馬たちも何かしらの反応をしている。
今日は藤山調教師もテンペストの様子の確認もかねて訪米していた。
「テンペストたちの出走計画は決定したんですか?」
アメリカ遠征が決まったときに、出走計画は策定したが、確定していたわけでなかったので、改めてスタッフたちと確認する。
「とりあえずはこのような計画を立てている」
配布された資料には、スケジュールと出走する予定のレースの概要などが記載されていた。
基本的に東海岸の主要なレースが前哨戦として考えられていた。基本的にはGⅠレースが選出されていた。
・8月19日 パシフィッククラシックS GⅠ(AW10ハロン・デルマー競馬場)
西海岸のデルマー競馬場で行われるレース。西海岸の馬たちがBCクラシックに向かう際の前哨戦として出走する場合が多い。ただし、AWの馬場であることや、西海岸のデルマー競馬場のレースであることは留意しておく必要がある。
9月1日 ウッドワードS GⅠ(ダート9ハロン・サラトガ競馬場)
サラトガ競馬場にて施行されるレースで近年の年度代表馬(03年マインシャフト、04年ゴーストザッパー、05年セイントリアム)がこのレースを制しており、重要度が非常に高い。また、BCクラシックとのレース間隔も中2ヶ月と程よいため、優先度は高い。
9月30日 ジョッキークラブGCS GⅠ(ダート10ハロン・ベルモントパーク競馬場)
ベルモント競馬場にて施行されるG1 レースである。BCクラシックが創設する前は、こちらのレースがシーズン最後の大一番として扱われていた。数多くの名馬がこのレースを勝利しているが、スキップアウェイ以降、当レースとBCクラシックを連勝した馬が出ていない。レース間隔も中1ヶ月弱であるため、前哨戦で力を使い果たしてしまうことが考えられる。
「今のところ計画しているのは以上の3レースです。ただ、パシフィッククラシックSは西海岸のレースである上、今年はAWでの施行なので優先度は低いですね」
「シガーはウッドワードS→ジョッキークラブGCS→BCクラシックを3連勝していますが、テンペストにも可能でしょうか……?」
「去年の欧州遠征を鑑みれば不可能ではないと思いますが、あまり負担はかけたくないですね。そうなるとウッドワードS→BCクラシックが理想的だと考えますが……」
「ただ、テンペストの場合はレース間隔が中1ヶ月もあれば疲労、ダメージも回復しますので、この計画にはそこまでこだわりがあるわけではないです。ただ、3戦連続はやめた方がいいと思いますが……」
前哨戦の本命の二つのレースにはどちらも登録して、その時の調子やレースの相手次第で決めることとなった。
「次にBCクラシックに出走可能性が高い有力馬です」
資料には、調教師や騎手、勝ち鞍、血統などが記載されていた。
「まず3歳勢ですが、今年は有力馬が多いですね。絶対的な王者はいませんが、かなりハイレベルな強さを持った馬がいます」
・ストリートセンス
今年のケンタッキーダービーを制した3歳牡馬である。勝利を逃したレースでも2着か3着を確保しており、安定的な実力を有している。ただし、8月のトラバースSを目標にしているためか、前哨戦でぶつかる可能性は低い。
・カーリン
今年のプリークネスSを制した3歳牡馬である。ケンタッキーダービー3着、ベルモントステークス2着と惜しい競馬が多い印象である。ただ、過酷な日程を難なく走っており、予定している前哨戦を使ってくる可能性が非常に高い馬である。
・ハードスパン
GⅠ勝利はないものの、米国三冠路線を2着、3着、4着と堅実に走っており、確かな実力は有している。こちらもケガの情報はないため、前哨戦でぶつかる可能性が高い。
・ラグズトゥリッチーズ
ケンタッキーオークス、ベルモントSを勝利した3歳牝馬である。牝馬ながらベルモントSでカーリンを破っており、男勝りな女傑である。
「現時点での3歳の有力馬はこのあたりです。アメリカは夏にもGⅠレースが多数開催されているので、そこで覚醒する3歳馬もいるかもしれません。そのため、油断はできません。少なくとも三冠路線を走って好成績の馬はマークしておく必要があります」
「続いて古馬ですが、現在、有力な古馬はそこまでいません。ただ、絶対王者に等しい能力を持つ怪物が一頭います」
・インヴァソール
元々はウルグアイの馬で、現地の三冠レースを圧勝した後米国に渡り、UAEダービーで4着になって以降は無敗でBCクラシック、ドバイWCに勝利している。現時点で米国最強の古馬と評価されている。ただ、ドバイWC後に故障が見つかったようで、8~9月頃までは休養して、回復してからBCクラシック連覇を狙うとのことである。
・ラヴァーマン
昨年GⅠを4連勝するなど、調子の良さを見せていた5歳牡馬である。ただ、遠征が苦手なのか、ホームグラウンドの西海岸から離れると調子を落としているように見える。実力は高いため警戒が必要である。
「インヴァソールの動向次第ですね。軽度なケガのようで、そこまで長引かないとの情報が入っていますので、油断はできません。そのほかの古馬に関しては、夏のGⅠ戦線の成績を見極める必要がありますね。こちらも覚醒する馬がいるかもしれませんので」
「インヴァソールは当然として、3歳勢がなかなか強いなあ……」
「こっちも牝馬が牡馬クラシックで勝っているみたいですね。わざわざ牡馬と戦っているということはディスタフの方にはいかないですよね……」
「牝馬がクラシックディスタンスで強くなり始めているのは世界共通か……」
「あとは、騎手については全戦を高森騎手に任せる予定です」
「そうでしょうね。テンペストの相棒は彼だけですので」
テンペストに乗りたいという外国人の騎手は非常に多い。特に欧州の名騎手たちは彼の走りを間近で見ており、その気持ちが強い。なお、他の日本人の騎手はテンペストと高森騎手の間に入り込む余地がないとして、諦めている。
「とりあえず、これからダートに適応できるようにゆっくりと調教を積んでいこうと思います」
こうして、テンペストクェークのアメリカでの戦いが始まった。
エスポワールシチーの一口馬主をやっている人のブログを見たのですが、BCクラシックへの遠征で約4500万したそうです。それに加えて登録料で25万ドルも掛かったそうです。
3ヶ月の遠征をおこなうテンペストはどのくらいかかるのでしょうかねえ。